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ツブヤキすれっど
1 名前: チョンガー 投稿日: 2001/01/11(木) 01:01
何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!

2 名前: チョンガー 投稿日: 2001/01/11(木) 02:14
最近、生活に刺激がないんだよな・・・。

3 名前: nb 投稿日: 2001/01/11(木) 17:25
最近インターネットにもあんまり面白いところないですね。
どこか面白いページありませんでしょうか。

この掲示板も結構これから面白くなって欲しいものです。

この掲示板あんまり今のところ見る人少ないみたいですが、宣伝してないんですか。

私も生活にあんまり刺激がありませんね。

4 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/01/11(木) 17:36
最初、日蓮正宗関連HPリンク集の構想を抱いたのは、インターネットをはじめた三年前
ごろでした。日蓮正宗についてしらみつぶしに、各サイトを覗いていた時に、この関連
サイトを網羅したリンクサイトがあれば重宝するのになあ、と思ったのが始まりです。
リンクは確かにそれぞれのHPごとに充実したのが造られてはいるのですが、それぞれの
所属する団体の関連サイトがどうしても中心です。全部網羅したものがほしいなあと
思っていましたが、そんなのがありません。ないなら造っちゃえ、と作りました。
最初はURL未公開で自分の検索のためだけに使っていましたが、とにかく便利なので、
使う人があるかも知れないから、いっそのこと、公開しちゃえ、と検索エンジンに登録
してしまいました。そうしたら、なにか、日蓮正宗を取り巻く状況、および日蓮正宗
の状況が、雲行きが怪しく思えてきました。そして、本気でこういうサイトが必要な
状況になってきたのではないかと思うようになりました。誰か、手助けしてくれる人が
いると、もっと充実したサイトに出来るだろうなあ、と思っていたら、チョンガー
さんが名乗りをあげてくれました。ありがたや、ありがたや。賛同する方、一緒に
富士門ネット運動を始めませんか。

5 名前: チョンガー 投稿日: 2001/01/17(水) 20:13
ネットサーフィンも、厭きますね。

6 名前: チョンガー 投稿日: 2001/01/30(火) 15:19
うどん食いすぎた・・・。

7 名前: 置時計 投稿日: 2001/02/05(月) 03:57
3000、げっとしました、はい。

8 名前: 定吉 投稿日: 2001/02/13(火) 21:21
うーむ もともと たいした頭ではないけれど
このごろますます、実感している、あー情けない。

9 名前: 置時計 投稿日: 2001/02/14(水) 02:24
4000、げっとしました、はい。

10 名前: チョンガー 投稿日: 2001/02/15(木) 05:53
何か、置時計さん、ゲット続きで、福運があるな。

ああ、わしは議論嫌いだからな。
特に、感情的に反論されると、もう不愉快なんてもんじゃないな。
相手の感情に付合うのキライだもんな、わし。
相手が悪意持ってるの感じただけで、もう応酬する時間がもったいなくなるもん。
応酬しないと、理論負けした事にされるけど、わしは応酬しないな。
逃げたと思われても応酬しない。時間の無駄だからな。

しかし、定さんは素直だな。
意地をはったり、噛みついたりしないもんな。
わしは、キレる人間では決して無いからな。
それでも、意地を張って、偉そうな事を言ったりする事が多いんだよね。
それは「キレてる」が近いな。
反省しなきゃいかん。
問答さんは、懐が深くて、よくわしの暴論をしのいでくれてるな。
敬服します。

今後は、凡人は、凡人なりに、謙虚に「考え」を話そう。
わかったような事を言うまい。
定さんのような素直さと、問答さんような深い懐を目指そう!











定さんは、もっとも、まじめな学会員だからな。

11 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/02/15(木) 17:05
チョンガー 様
あんまり反省ばかりしていると、大事なことを見落としてしまう場合があります。
謙虚は大いに結構ですが、わたしは、チョンガー様の、大胆な発言が気に入っています。
間違っているところや、不適切な表現がもしあったら、誰かが修正してくれる、
ぐらいに鷹揚に構えて、どんどん書き込んでください。もちろん、書き込みが
詰まってしまったら、またよく考えて出直せば良いですよね。そのときは
『沈黙は金』で行けば良いじゃないですか。

ああ、それから置時計さんの『ゲット』はこの掲示板のアクセス数を
記録して下さっているのではないですかねえ。私はそう理解していましたが。

12 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/02/28(水) 08:40
掲示板開設からちょうど二ヶ月経ちました。5500以上のアクセス 大変な数だなあ。

13 名前: チョンガー 投稿日: 2001/02/28(水) 21:35
今日はちょっと、うまいカレーをつくりすぎたなあ・・・。
また太りそう(汗)

14 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/03/04(日) 21:19
今日、6000ゲットしました。

15 名前: nb 投稿日: 2001/03/08(木) 00:29
私の掲示板、面白くないせいか全然書き込みがありません。
何でも気楽に書き込んでください。

正信掲示板

http://bbs4.otd.co.jp/401307/bbs_plain

ご質問有りましたら、必ず御返事します。

愚者迷者談義
http://bbs3.otd.co.jp/308130/bbs_plain

こちらの方には本尊観についてこれから書き込みしていこうと思います。

本尊とは、ここ数十年の間、「戒壇本尊に決まっている。」と即断的に考えて、それ以上「本尊とは』などと深く考えてなかったからこそ、現在の混乱が発生してきたのではないかと思います。

これから少しずつ考えていきたいと思います。

16 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/03/08(木) 01:12

nb様 こんばんは。
いろいろとお聞きしたいことがあります。順次、お邪魔してお聞きいたしますのでよろしくお願いいたします。

17 名前: アネモネ 投稿日: 2001/03/08(木) 03:33
ちょっと、一息、いいですねこのスレッド。
ここ数日間、はりきって書込みをしたので、ちょっと息切れしてきたかもしれません。うん、どれもこれも興味深い問題で、読み進めているうちに、知識不足の私は消化不良寸前かも。でも、なんか楽しいです。

18 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/03/08(木) 09:08
また、御住職と少しお話をさせていただきました。進展なし。『時の猊下に信伏随従』というのは、とてもおかしな考え方なんだけれども、いかにも、まことしやかで、しかも、かなりガードが固い。もっと大聖人様のお心に叶った信仰原理でないと、富士門流の本当の進展はないのでは。いかに、今の状況には都合が良くても、これが大聖人様、日興上人様のご真意であるとは、私にはとても思えないのです。当分、このことで頭が一杯。

19 名前: チョンガー 投稿日: 2001/03/09(金) 00:24
『時の猊下に信伏随従』なんて、千歩譲って、仮に、蓮祖が言った言葉でも、この民主国家では、あっては
ならない事なのではないでしょうか?

20 名前: NM 投稿日: 2001/03/09(金) 03:34
問答迷人さん、チョンガーさん。

私の掲示板でのお二人へのご返事、遅れていまして、申し訳ありません。

ご返事するに足りる内容が出てきません(^^;)。

いましばらく(この言葉もあまりあてになりませんが)、お待ちくださいますよう、お願いいたします。

※個人的な書き込み、ご容赦くださいませ。

21 名前: nb 投稿日: 2001/03/09(金) 23:40
6666ゲットしました。四回ほど更新ボタンを押しました。

22 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/03/10(土) 00:56
たくさん、いろんな方々が書き込んで戴いて、本当にありがたいです。書き込みを見せていただくのに、わくわくしながら、パソコンのスイッチを入れています。この掲示板が、少しでも皆さんの信心の糧になってくれるなら、本当にありがたいことです。私自身は、御本尊様を拝する姿勢が、とっても変ってきています。ありがたや、ありがたや。

23 名前: 置時計 投稿日: 2001/03/10(土) 02:38
えーっと、ぎりぎりですが、ご案内です(汗)。

3月10日土曜日、東京芝大神宮において、島思想研究家でもある
菅田正昭さんの、法華神道についての講演があります。

当日は、神職養成古神道講座のひとこまとして、午後1時ころから
芝大神宮祈祷殿で話されます。

本来は講座受講者のみの参加なのですが、飛び込みでも許してもら
えると思います。
ただし、5000円ていどの講演参加費は必要かもしれません。
(いらないかも、しれません)

土壇場でのご案内になりましたが、関心のある方はどうぞ。 合掌

24 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/03/12(月) 11:19
7000ゲットしました。

25 名前: 独歩 投稿日: 2001/03/12(月) 23:15

何だか、あちらこちらに、たくさん書き込んで幅を取って済みません。

26 名前: 興門派研究室 投稿日: 2001/03/13(火) 03:39
興門派研究室 正統的日興門流の研究と考察
http://www69.tcup.com/6908/0105.html

27 名前: 如来蔵思想 「三吉」掲示板 投稿日: 2001/03/14(水) 21:29
みなさまはじめまして 投稿者:Libra  投稿日:06月14日(水)09時30分27秒

 みなさまはじめまして.Libraと申します.創価学会3世で,関西創価中学・高校出身者です.

 僕も一応HPを開設しています.松本史朗氏の「如来蔵思想批判」を批判した「如来蔵思想批判の批判的検討」という論文をアップしたりしています.掲示板もあります.

 僕は自分では「興門派」の一員だと思っていますが,日寛教学の「久遠本仏論」を乗り越えようと努力されている松戸行雄さんの主張に賛成の立場です.掲示板では,そういう立場から日蓮宗の御僧侶の方々や日蓮正宗の方々等と議論をさせて頂いています.

  NOTHING TO YOU
  http://www.kcat.zaq.ne.jp/aaagv601/Libra/Index.html

 最近は,親鸞思想にお詳しい三吉さんという方と議論させて頂いたりもしています.
 
 「三吉」掲示板
  http://www.aaacafe.ne.jp/free/sankichi/main.bbs

 僕のような考え方は「興門派」として間違っているのでしょうか?ご批判頂ければ幸いです.

28 名前: 大御本尊問題 投稿日: 2001/03/14(水) 21:32
「大御本尊」について 投稿者:華子侍  投稿日: 7月22日(土)05時05分56秒

カキコがないので、ちょっと書いてみます。
>Libra<さんあたりと議論したいけど、ご覧かしら。
「興門派」について語るなら、大石寺のいわゆる「大御本尊」について語らないわけにはいかないでしょう。創価学会は、日蓮正宗(いわゆる「日顕宗」)攻撃という戦術的目的のため、旧来の「大御本尊」絶対説に戻ってしまいましたが、最終的にはどの辺に落ち着くのでしょうか。

「大御本尊問題」ですか 投稿者:置時計  投稿日: 7月30日(日)19時45分48秒

華子侍 様
御無沙汰しておりますが、お元気でしょうか。

たしかに、創価学会は、いわゆる「河辺メモ」の発覚まで、ゆるやかに「大御本尊」からフェイド・アウトしているようでありました。
ところが、学会が完全にフェイド・アウトする前に、阿部氏の「大御本尊偽作説」が発覚したために、急遽、方向を転換せざるを得なかったわけです。

ところで、小生は、「大御本尊問題」を論じるためには、「大御本尊」とはなにを指しているのかを、整理した方が良いように思います。

ここでの「大御本尊」とは、奉安殿の「板御本尊」に限定したものとの理解でよいでしょうか。

従来の日蓮正宗教学とそれを踏襲した創価学会教学においては、本尊論と戒壇論は密接に関連しており、不可分ともいうべきものでありました。
つまり、本尊は、
弘安二年十月十二日の日付のある出世の本懐の大御本尊
であり、それは、
楠の板に彫刻された板漫荼羅
であり、さらに、
本門戒壇の大御本尊
と称されるところの本尊、ということになります。
そして、この本尊の安置されているところが本門の戒壇である、と。

創価学会は、破門以降、河辺メモの発覚までは、寛師の本尊を独自に下付するなどしてどちらかといえば、日蓮宗などでいうところの「即是道場」の立場を採っていたものと思われます。
おそらくは、先に述べたように、学会としては、「大御本尊」の真偽問題には触れることのないまま、ゆるやかに「大御本尊」からフェイド・アウトするつもりだったのではないかと思えます。

しかしながら、「河辺メモ」により、学会は「大御本尊真作」の立場にシフトすることになりましたから、ここで、日蓮正宗との関係を完全に断つことが不可能になってしまうという、一種のジレンマを生じることになりました。

先例としては、日蓮実宗蓮華寺、妙信講(顕正会)、正信会、がありますが、創価学会としては、どのような解釈でどような道を選択しようというのか、小生としても、非常に興味深く注目しています。
みなさまの御意見を伺えればと思います。 合掌

29 名前: 大御本尊問題 投稿日: 2001/03/14(水) 21:37
板御本尊はどうなるか 投稿者:華子侍  投稿日: 8月 1日(火)01時11分03秒

>置時計<さんの仰有るとおり、創価学会的には一種のジレンマに陥っていると思います。ただ、これまでの例から考えるに、何事もなかったかのように、「板御本尊=出世の本懐(当然、真筆)=戒壇の大御本尊」という立場から、さくっとフェイドアウトしていくかも知れません。古くからの会員はいざ知らず、或る程度の年齢以下の人々には抵抗なく受け入れられるような気がします。

日蓮正宗の方からすると、どうなるのでしょう。あくまで「板御本尊=出世の本懐=戒壇の大御本尊」説で押し通すのでしょうか、それとも折を見て見解の修正を行うのでしょうか(後者はちょっと考えにくいことですが)。

大石寺に大災害でも起こって、板御本尊そのものが所在不明になる、というのが、結果として誰にも迷惑のかからない平和的解決なのかも知れません。

戒壇の大御本尊 投稿者:NM  投稿日: 8月 2日(水)01時52分49秒

こんばんは。
学会のNMと申します。初めて書き込みさせていただきます。

華子侍さん、置時計さんのお二人の中では、もし河辺メモが発覚しなければ、学会は次第に戒壇の大御本尊から離れていくシナリオだったとの趣旨と思われますが、その落ち着く先はどのような状態が在り得るとお考えでしょうか。

そして、それが日蓮−日興という思想の系譜の中で、意義付け、つまり文証等との整合性は可能なのでありましょうか。

以上、お手数でなければ、ご教示のほどお願いいたします。

板御本尊の意義は 投稿者:華子侍  投稿日: 8月 4日(金)01時37分53秒

宗門問題がなかったとしても、学会としては「板御本尊=出世の本懐(当然、真筆)」という主張からは離れざるを得なかったと思います。歴史学の成果などを受け入れて現代化していく上では、まともに主張するのが限界に来ていたと思います。
その上で、「(真筆ではないけれど)板御本尊=戒壇の大御本尊」という主張は一応成り立ちますが、宗門問題以後の(潜在的には、それよりも前からの)学会の理論構築では、事壇の必要性は薄れているので、従来説との整合性は何とかなるでしょう(従来説との整合性が今さら必要だとして)。後世から振り返れば、或る意味で、正本堂を立てたことで伝統教学に対する義理は果たした、ということになるかも知れません。

「大御本尊」の問題諸説 投稿者:置時計  投稿日: 8月 4日(金)05時55分44秒

大御本尊については、日蓮正宗だけではなく、他のところからも諸説が主張されいますね。ランダムに記すと以下のようなものでしょうか。

1.日蓮正宗 弘安二年十月十二日に建立された楠板の漫荼羅こそ日蓮出世の本懐であり、本門戒壇大御本尊と称される。
2.日蓮実宗蓮華寺 上記1.を閉眼し法魂を移した紙幅の漫荼羅こそが大御本尊でる。
3.久保川法章 現存しないが、『日興跡条々事』に記された「弘安二年十月十二日の大御本尊」を法本尊として信仰する。
4.保田妙本寺 文永十一年十二月の「万年救護の大御本尊」が出世の本懐の本尊でる。

つまり、1.は板本尊説。2.は板本尊脱魂紙幅本尊入魂説。3.は曾存弘安二年十月十二日本尊説。4.は万年救護本尊説。とでも言えるでしょう。

1.について戦後の法華講大檀那河合隆徳氏は、相貌蓮祖筆年号興師筆とし、興師身延離山時は紙幅、大石寺もしくは重須において板に彫刻したとしており、堀日亨師も同様の考えであったと述べています。
2.については、同寺格護の同紙幅本尊添え書きを文証として主張しています。
3.は、故川澄勲氏の説と共通点がありますが、非唯物説とでも言えるでしょうか。
4.については、『日興跡条々事』に記された「弘安二年の大御本尊」とは、蓮祖が興師に万年救護本尊を授与した日付である、という説明もなされています。

また、「大御本尊」の意義付けですが、「出世の本懐本尊」と「戒壇本尊」が同一であるか否かという論議もあります。

創価学会は、これらの諸説について、どのような見解を有しているのでしょうか。
これらについて整理した上で、華子侍さんがおっしゃるように、事檀説か理檀説かが、問題として浮上してくるものと思われます。

小生は、創価学会は河辺メモにおける偽作説を批判はしても、明確に真筆説を主張することはないのではないかと推測しているのですが、いかがでしょうか。 合掌

30 名前: 独歩 投稿日: 2001/03/14(水) 22:24

?? [29][30]って、どこかの掲示板のやり取りの連続転載ですか?
「呟き」にしては重いですねえ(笑)

31 名前: 独歩 投稿日: 2001/03/14(水) 22:27

あ、間違えました。[28][29]でした。しかし、まあ
「大石寺に大災害でも起こって、板御本尊そのものが所在不明になる、というのが、結果として誰にも迷惑のかからない平和的解決なのかも知れません」
とは私は思いません。ちっとも。こういう尊敬(そんぎょう)対象を揶揄した発言はいただけません。

33 名前: チョンガー 投稿日: 2001/03/15(木) 02:50
わしが、創価学会員の、「大御本尊観」について、意識調査しようと思って、「大御本尊」というタイトルで、
スレッドを起こしたものがあります。
まだ、つくったばかりなので、書き込みは少ないですが、少しづつ、書き込みが溜まってくると思います。
ぜひ、見て下さい。(ちょっと、重いページですが、覚悟して下さい)

http://communities.jp.msn.com/139372/1.msnw?action=get_threads

34 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/03/15(木) 23:51

昨日、富士門ネットの規約が決まりました。入会の窓口も作ります。どんどん会員が増えて、どんどん富士門ネット運動が盛んになることを願っています。

35 名前: 置時計 投稿日: 2001/03/16(金) 04:14
ようやく、峻峰会要綱、拝見しました。
現時点ではおそらく過不足の少ない素晴らしいものだと思います。
しばらくロムが続くと思いますが、勉強させていただきたいと思っています。 合掌

36 名前: チョンガー 投稿日: 2001/03/16(金) 14:50
峻峰会は、わし個人の勉強会です。
アウトロー学会員が中心でやってます。
面白い動きが出て来たら、
こちらのみなさんにも御紹介します。

37 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/03/19(月) 16:56
8000 ゲットしました。

38 名前: アネモネ 投稿日: 2001/03/20(火) 00:06
書き込みすぎてすみません。
そして
独歩様
舌足らずな議論をぶつけてしまうようなことになり、大変申し訳なく思っています。どうしても、一言だけ独歩様にこのスレッドで申し上げておきたいことは、独歩様の教学と研究と、そして独歩様の歩んでこられたこれまでの道のりについて、この掲示板で拝見させて頂いた限りではありますが、私、心から敬意を表しております。どうか、これからも私の疑問や私見にお付き合い願います。

39 名前: 独歩 投稿日: 2001/03/20(火) 00:20

アネモネ さま:

なんだかそんなに気にしないでください。いろんな考えがあり、意見を交換しあう、そういう自由な気風を問答迷人さまが用意してくださった。異論・反論、大いにけっこう。お互いに納得の行くまで話し合い、「はあ、そういう資料があるんだ。そんな考え方もあるのか。そんな事実もあったのか。とすれば、あれ、オレ、間違っていた」そう、思ったら、さっさとゴメンと言って考えを改める柔軟さ、こんな潔さが私は好きだし、そうやって生きてきました。自分の考えに固執するのって愚かでしょう。固執すべきは事実であればよいわけです。だから、舌っ足らずの議論も大いに歓迎です。
わたしもアネモネさまからたくさんの学びをいただいております。こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします。

40 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/03/20(火) 00:35

独歩 様
アネモネ 様

独歩 様がおっしゃること、改めてそうだと思います。少々おかしなところがあった方が、かえって見ている人にはわかりやすい場合が多いですよね。岡目八目です。とことん、意見交換して、やっと見えてくるものがありますよね。長たらしい議論みたいだけれど、それが本当は、どうしても必要だった、ということも多いと思います。伝教大師は法相宗の徳一と五年の長きに亘って論争されています。時間はまだいくらでもあります。議論も、意見交換も、体験発表も、どんどんお願いいたします。富士門ネット一同、大歓迎します。

41 名前: アネモネ 投稿日: 2001/03/20(火) 20:18
独歩様
問答迷人様
ありがとうございます。あー、良かった。とっても気が楽になりました。
お言葉に甘えて、またハッスルして続けて書き込みいたします。
皆様よろしくお願いいたします。

43 名前: チョンガー 投稿日: 2001/03/21(水) 04:17
ヤフーで「富士門」で検索すると、一番目に、この掲示板が表示されるようです。

44 名前: アネモネ 投稿日: 2001/03/23(金) 03:02
明日から、2〜3日私事の所要で留守のため掲示板の書き込みをお休みいたします。
皆さん、活発に書き込みして下さいね。後日、楽しみに読みます。

45 名前: 置時計 投稿日: 2001/03/26(月) 06:55
8888ゲットしました、やった!

46 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/03/26(月) 21:54
9000ゲットしました。

47 名前: チョンガー 投稿日: 2001/03/27(火) 01:08
9032ゲットしました・・・・・。

48 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/03/31(土) 15:20
9504 ゲットしました。

49 名前: nepia 投稿日: 2001/04/03(火) 20:19
ひさびさに、観れば、シラケテマスね!

50 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/04/03(火) 20:37
9843 ゲットしました。確かにシラケテ見えますね。だけど、人間、風邪ひく時もありますから、長い目で見たいですね。

51 名前: nepia 投稿日: 2001/04/03(火) 23:18
ごもっとも!!

52 名前: アネモネ 投稿日: 2001/04/05(木) 01:26
人からの頼まれごとに時間をとられ、書き込みができないです。

53 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/04/05(木) 11:52
10,000 ゲットしました。掲示板開設から95日目です。いよいよ第二段階です。

54 名前: 独歩 投稿日: 2001/04/07(土) 02:47

◆ご存じの方、いらっしゃいましたら

私の関係者の1人に以下のようなメールが届いたとのこと

「はじめまして、谷沢茂樹 と申します。
突然、失礼かと思いましたが一度だけのメールと言うことで、どうかお許し下さい。
実は、私たちは、創価学会員です。一緒に南無妙法蓮華経を唱えて、もらいたいもの
でメールしました。
南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経
と、沢山唱えれば唱えるほど幸せになりますよ。」

これって、本当に創価学会員の人なんでしょうか。勝手に送りつけメールで、この内容、これって、学会員の人も困ってしまうんじゃないでしょうか(笑)
このメールについて、情報をお持ちの方っていますか…?

55 名前: 日蓮 投稿日: 2001/04/12(木) 00:49
くだらんゾ

56 名前: 置時計 投稿日: 2001/04/12(木) 16:45
10500げっとしました。

57 名前: 置時計 投稿日: 2001/04/16(月) 13:33
10888げっとしました、やったね。

58 名前: 置時計 投稿日: 2001/04/17(火) 14:15
11000げっとです。

59 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/04/22(日) 12:52
11500ゲットです。

60 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/04/26(木) 16:51
12000ゲットです。

61 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/05/01(火) 07:04
12500ゲットしました。

62 名前: 独歩 投稿日: 2001/05/03(木) 12:23

「仏教再考」と題し、掲示板を立ち上げました。
みなさまのご訪問をお待ちいたします。

http://green.jbbs.net/study/553/doppo.html

64 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/05/05(土) 19:46
13000ゲットしました。

65 名前: アネモネ 投稿日: 2001/05/12(土) 12:57
最近は、自分の時間がなかなか持てず、掲示板を読むのが精一杯です。本当はたくさん書きたいことがあるのですが‥。書き込みたくてウズウズしながら急いで読んでいます。

プチライス様

独歩様の掲示板での書き込みを拝見いたしました。とても重要なことが書かれていたと思います。また、私の書き込みも読んでくださっていたようで、有難うございます。
これからも末永くよろしくお願い申し上げます。この場をお借りして一言お礼方々ご挨拶まで。

67 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/05/12(土) 14:23
13500ゲットしました。

68 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/05/18(金) 21:41
14000ゲットしました。

69 名前: nb 投稿日: 2001/05/21(月) 00:47
五月二十日に行われた、正信会法華講全国大会の現況報告、議長挨拶要旨アップしました。

タイピング練習がてらに打ってみました。

http://bbs4.otd.co.jp/401307/bbs_thread
にあります。

経の奈良は暑かったです。

これから日蓮聖人展全国の主要都市で開催されますので、是非見に行ってやって下さい。

70 名前: ちびあや 投稿日: 2001/06/02(土) 23:51
うちの女子部は20代が少なすぎる…。
わたしにばっかり期待しても困る。BY19歳

71 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/06/08(金) 20:40
15000ゲットしました。

72 名前: ゆきぞ 投稿日: 2001/06/09(土) 12:26
問答迷人様、メールありがとうございました。
いろいろ考えましたが、やはり、公然と始めようと思います。
それで破門されれば、それだけのところだったということです。
重ねて、メール本当にありがとうございました。

73 名前: nb 投稿日: 2001/06/10(日) 02:21
ゆきぞ様久しぶりです。

やはり自分の思うところを、はっきりと主張すべきだと思います。

正信会の御僧侶方は、日蓮大聖人の言われるとしんずるところをはっきりと主張して、擯斥処分となったのです。

74 名前: ゆきぞ 投稿日: 2001/06/24(日) 14:41
nbさま、ありがとうございます。

もっとも、私の場合は、「主張」というレベルではなく、「疑問」の段階ですが。

メールアドレス取得しました。

75 名前: ゆきぞ 投稿日: 2001/06/26(火) 23:09
問答迷人様、nb様、こんにちは。

家族から聞きました。
私は、破門されました。

HPの開設、Yahoo!掲示板の書き込みが原因のようですが、
私自身へは一切説明がなされていませんので、詳細はわかりません。

残念というよりも、今はスッキリしています。
問題は家族です。

76 名前: ちびあや 投稿日: 2001/06/26(火) 23:32
え? 破門?
「青空」のHPで出ていらしたので、宗門の方ではない?
と、ずっと思っておりました。
宗門の方でしたか?

それにしても理由を聞かされてない、ということは?

ちゃんと理由を告げてほしいものです。

77 名前: 菊水護国 投稿日: 2001/06/28(木) 01:23
すいません。私は顕正会除名処分で、現在法華講員です。でも今でも、浅井会長の意思とは思ってません。

78 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/07/01(日) 09:31

ゆきぞ 様

ごめんなさい。少し掲示板から遠ざかっていた間に、とんでもない事が起こってしまったのですね。破門と言うのは、誰がそういったのでしょうか、正式に言い渡されたのなら、破門理由は宗制宗規の第何条によって破門になったのは、明確に御聞きになられると良いです。確か、弁訴の機会が与えられるはずですが、そのようなことはなかったですか。もしなかったのなら、その破門は無効である可能性が高いです。勝手に御住職が言っているだけかも知れません。御住職は宗制宗規に疎い人が多いですから。

79 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/07/03(火) 23:40

17000 ゲットしました。

80 名前: nb 投稿日: 2001/07/04(水) 07:04
17101番目ゲット

問答迷人様が、17000番目なら、この掲示板夜中に沢山の人が見てるんですね。

81 名前: ちびあや 投稿日: 2001/07/04(水) 22:15
すみません。MLのメンバーの方。自分のPHSに転送するつもりがMLに転送してしまいました。
すみません。特に、学会の方。気を悪くさせてしまいました。

82 名前: 独歩 投稿日: 2001/07/18(水) 13:05

暑中お見舞い申し上げます。
その節は種々書き込みをさせていただきまして、有り難うございました。

さて、この度、反・現石山系の資料を中心に集めたホームページを開設いたしました。
もとより石山批判を目的とするものではありません。信頼できる資料を通じて、
日蓮聖人、日興上人の本来の仏教はどのようなものであったのかを探る試みです。

ご高覧を賜れれば幸甚です。

仏教再考−犀角独歩
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/
ttn3fjm25k@mx3.ttcn.ne.jp

83 名前: 懐疑論者 投稿日: 2001/07/25(水) 03:04
ところで、日蓮正宗の公式サイトに、血液型による性格の違いが存在するかのような、トンデモな記述がありますが、日蓮系では血液型についてどう考えているのでしょうか。

84 名前: 管理者 投稿日: 2001/08/05(日) 12:23

約、一週間、掲示板がダウンしていました。掲示板主宰者のご努力により、復旧していただけて、大変ありがたく存じます。今後ともよろしくお願い致します。

85 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/08/05(日) 15:59
18962ゲットしました。

86 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/08/06(月) 05:43

19000ゲットしました。

87 名前: 。。。 投稿日: 2001/08/08(水) 01:45
復活、おめでとうございます。今後も楽しく読ませてもらいます。

88 名前: 元、ちびあや 投稿日: 2001/08/12(日) 14:38
>ところで、日蓮正宗の公式サイトに、血液型による性格の違いが存在するかのような、トンデモな記述がありますが、日蓮系では血液型についてどう考えているのでしょうか。

え? うっそー。早速確認してみます。

89 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/08/21(火) 18:42

20000ゲットしました。平成十三年一月一日に掲示板を設置してから、233日目です。一日のアクセス数は、約86回です。

90 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/09/04(火) 12:14

21000 ゲットしました。

91 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/09/12(水) 21:18

21500 ゲットしました。

92 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/09/21(金) 21:57

22000 ゲットしました。

93 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/09/29(土) 21:41

22500 ゲットしました。

94 名前: 三瓶川 徹 投稿日: 2001/10/04(木) 11:25
ゲストブックに相談の書込みが有りますが、個別に対応されておられるのでしょうか?
ROM専ですが、ちょっと気になりましたので。(^_^;)

96 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/10/04(木) 14:57

三瓶川 徹 様

もとより、信仰上のご相談に応じる立場ではありません。本来のあり方からすれば、法華経の心を知った御僧侶方にご相談になられるのが筋道であろうと思います。しかしながら、そうしたくない、という方で、私達に相談される方がいらっしゃれば、本来の筋道に復帰される事を願いつつ、お話させていただくべきであろうかと考えております。

97 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/10/05(金) 12:57

23000 ゲットしました。

98 名前: 三瓶川 徹 投稿日: 2001/10/05(金) 13:29
問答迷人さんの言われる事がちょっと理解出来ません。ここはツブヤキスレッドですから呟かせていただきます。

>もとより、信仰上のご相談に応じる立場ではありません。

どおゆうことなのかなぁ。私達大聖人に連なる信徒は、宗祖よりの大慈大悲の心により「悩み苦しむ衆生」に対して同苦し共に解決を目指し励むものでは無いのかなぁ。

>本来のあり方からすれば、法華経の心を知った御僧侶方にご相談になられるのが筋道であろうと思います。
>しかしながら、そうしたくない、という方で、私達に相談される方がいらっしゃれば、本来の筋道に復帰される事を願いつつ、>お話させていただくべきであろうかと考えております。

御僧侶って、本来御僧侶同士がやらねばならない事をこの掲示板で議論している様な気がするんだなぁ。我々信徒の為さねばならない事って何だろうか。悩み苦しむ人達に、御僧侶の元へ行けとはどうなんだろうか。

之は、あくまでも私の独り言です。ですからレスは必要ありません。お気に触ったら削除してください。三瓶川 徹

99 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/10/05(金) 15:24

三瓶川 徹 様

私も独り言です。残念ながら、私の知っている範囲では、法華経の心を知った御僧侶にお目にかかれそうもない現況なので、三瓶川様のおっしゃる事はもっともだと思います。同行の善知識として、お互いに切磋琢磨してゆくしかないと思っています。しかし、信仰上の相談に応ずるべき本来の立場の人は、御僧侶なのだという事は明確にしておきたかったのです。

>悩み苦しむ人達に、御僧侶の元へ行けとはどうなんだろうか。

そこまでは申し上げてはいません。ご相談をされた方には、出来るかぎり誠意を持って対応させて戴く所存です。

100 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/10/11(木) 15:13

23500 ゲットしました。

101 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/10/14(日) 13:02

24000 ゲットしました。

102 名前: 独歩 投稿日: 2001/10/18(木) 00:55

問答迷人さまと、私の人徳の差でしょうか。私とて、HPを持ち、掲示板を擁しているのです。しかし、書き込みも訪問者も少ない。比して、こちらの盛況ぶりは如何でしょう。
まったく問答迷人さまの人徳に拠るところと拝します。

103 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/10/18(木) 06:16

大盛況、本当に感謝、感謝です。皆さんの書きこみを読んで理解するだけでも大変です。本当に御参加ありがとうございます。
今回の大盛況は、日誠様がいらっしゃってくださって、当、茶店のオヤジ、私、問答迷人が応対していましたら、御参加の菊水護国様が、『別の部屋を用意したら』とご提案があって始まったものです。そこに独歩様がお越し下さって、今回の大盛況となっています。私なんぞは、恥ずかしながら、始めは、生意気に、日誠様に応対していましたが、早々と馬脚を顕わし、甚だ失礼ながら、自ら脱落致しました。法門研鑚の浅さを自身恥じております。
以前、御参加の方から、『ここは、みんなが集まって、ワイワイと議論する茶店であるべきだ、問答迷人さんは、茶店のオヤジに徹すると良いですよ』とアドバイス戴いたことがあります。それ以来、そういう精神でやってまいりました。『どうぞみなさん、気楽にお入りください。そして、ご自由に議論してください』という茶店を心がけてまいりました。これからも、その精神で、やってまいりたいと思っております。御参加の皆様、今後とも、よろしくお願い致します。

105 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/10/18(木) 09:59

24500 ゲットしました。

106 名前: 独歩 投稿日: 2001/10/18(木) 19:02

24600 ゲットしました。ぴったりははじめてです。でも600ですが(笑)

107 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/10/20(土) 22:28

25000 ゲットしました。

108 名前: アネモネ 投稿日: 2001/10/21(日) 04:12
独歩様
「お帰りなさい」と申し上げさせて頂きたく存じます。といっても、私も「ただいま」と言ったほうがいいくらいレスする回数が減っておりました。
また、本仏論のスレッドでは、独歩様の信仰を記して頂きまして有難うございました。

109 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/10/24(水) 07:53

25500 ゲットしました。

110 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/10/27(土) 11:04

26000 ゲットしました。

111 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/10/29(月) 22:32

26500 ゲットしました。

112 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/11/01(木) 23:01

27000 ゲットしました。

113 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/11/04(日) 19:36

27500 ゲットしました。

114 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/11/07(水) 17:33

28000 ゲットしました。

115 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/11/11(日) 10:15

28500 ゲットしました。

116 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/11/13(火) 21:57

28888 ゲットしました。

117 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/11/14(水) 20:04

29000 ゲットしました。

118 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/11/18(日) 21:33

29500 ゲットしました。

119 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/11/22(木) 05:51

30000 ゲットしました。

121 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/11/24(土) 21:06

30500 ゲットしました。

122 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/11/27(火) 15:35

31000 ゲットしました。

123 名前: 素人です 投稿日: 2001/11/28(水) 22:11
仏教という字。
この文字を以前は、漠然と「仏の教え」というふうに思っていました。
でも、ある日、誰かさんが言いました。
仏教とは、「仏に至る為の教え」と読むんだ。と。

それまでは、日本の伝統仏教に権威のようなものを感じていましたが、
仏教を見る目が変わったような気がしました。
インドやら、チベットやら、新興宗教やら、ナンヤカンヤと受け入れらるようになった気がします。
この教えは、仏に至るどの過程についての教えだろうか?と見るようになりました。

以前、密教のお寺に遊びに行った事がありました。
そこの坊さん曰く、
一つの宗派に、所属すると、どうしても、「重箱の隅をつっつくような事になる」
(あ〜でもない、こ〜でもない、と、いつまでも、うだうだ、)
つまり、「仏に至る教え」と読むことによって、
わりと、自由に思考でき、視野が広がるんじゃないでしょうか?

124 名前: 独歩 投稿日: 2001/11/28(水) 23:39

信心の介さま:

賛成です

125 名前: 信心の介 投稿日: 2001/11/29(木) 05:57
独歩様:

123は、信心の介が書いたんじゃないよ、間違えないで、、、

126 名前: 独歩 投稿日: 2001/11/29(木) 09:21

信心の介さま:

あ、ごめんなさい。失礼しました。

127 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/11/30(金) 20:06

31500 ゲットしました。

128 名前: いちりん 投稿日: 2001/12/01(土) 14:23
「仏教」って、たしかに
「ほとけの教え」という捉え方と、
「ほとけになる教え」という捉え方がありますよね。

そおして、その「ほとけ」というものが、よくわからない。
そして、その「ほとけ」が、どうも、釈迦さまだけじゃないらしい。
ほかに、「ほとけ」とってもたくさんいる(ある)ようだ。

そおして、「聖書」や「コーラン」のように統一共通テキストがあるともいえなくて。
ものすごい量の聖典がありすぎて。
なおかつ、偽書のようなものが、めちゃ多くて。

いったい、なんなのだ。
そこが、とてもわかりにくいのが、仏教ともいえなくもない。
まあ、イデオロギーじゃないですからね。体系でもない。思想体系でもないと思います。

お医者さんが、病人が来たら、その人に合わせて、「早く寝ろ。休め」「運動しろ」「暖かくしろ」「冷やせ」「たくさん食べろ」「節制しろ」などなど、いろんな処方箋を出す。

やがて、じかに聞いた人、あるいは伝え聞いた人の話がまとめられ、
そのうち、自分の考えや、自分たちに都合のいい考えなども、織り込んだり、創作されたり。
そおして、膨大な経典群ができあがり。
それが、海外で翻訳されて、翻訳者の意思が混じり、その国の価値観が入り込み、、。

だから、おもしろいです。

129 名前: 独歩 投稿日: 2001/12/01(土) 14:33

いちりんさま:

> だから、おもしろいです。

最後のこの一言が生きていますね。お人柄が彷彿としています。

130 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/03(月) 21:31

32000 ゲットしました。

131 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/07(金) 07:45

32500 ゲットしました。

132 名前: 素人です 投稿日: 2001/12/09(日) 05:03
仏の教えと読むことによって、
日本では、奈良・平安・鎌倉時代の先達を開祖として、成り立っている宗派が多いようだ。
彼らを仏と(仏のステージだ。と)、位置付けてたら。百花繚乱。
すっきりしない。迷妄からの脱出が困難になるような気がする。
もし、お釈迦様を仏のステージだとしたら、かなりすっきりするだろうけど。
別に、彼にこだわる必要も無いでしょうし。
だから、面白くないのです。

仏に至る教えと読むだけで、
仏や菩薩の定義を目的地をハッキリさせ、そこへ至る道を具体的に示せば。
後は、それに、触れた人がどれに賭けるかを選択をすれば良い。
こんな単純な話はないと思うけど。

複雑にしている原因は、仏の定義も目的地も至る方法も具体性もなく、
曖昧にして、(宗派の内部には有るのかもしれないけど、外部には伝わってこない)
誰かの仏教的な解釈を人生を、「あーでもない。こうでもない。」
と、一生やっているうちに、人生が終わる。
勿体無い。

133 名前: 素人です 投稿日: 2001/12/09(日) 19:50
直接、過去の人の境地が伝わるならまだいいね。
でも、過去の文章の解釈・漢字の解釈。歴史の確認。証明。
やっぱり、
時間が足りない。
本題に入る前に、人生が終わる。

135 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/10(月) 14:21

33000 ゲットしました。

136 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/13(木) 15:49

33500 ゲットしました。

137 名前: ブツブツ独り言 投稿日: 2001/12/14(金) 20:41
真珠湾攻撃とニューヨーク攻撃
ニューヨークへの攻撃が、テロで、真珠湾への攻撃は開戦で、でも、
同じ事のような気がするなぁー!

世界的に「テロは悪い事だ」と、の合意が出来上がっている(合意を作り上げて)。
その暗黙の合意を楯に、アメリカは、自分たちは善でビンラーディンは悪だ。と言っている。
一見すると、「そうかもしれない」と思えるけど、実は、

真珠湾のとき、アメリカは、攻撃を知っていて、情報をハワイには知らせていない。
攻撃されるの待っていた。攻撃された事を、正当な理由として、日本を叩いた。
結果として、現在日本国内に、多くの米軍基地が存在している。つまり、日本は
アメリカの属国だ。

日本は、天皇の名のもとに、負ける戦争を何故仕掛けたんだ?それなりの理由があったんだろうね。?
アルカイダも、それなりの理由があったんだと思うけど。報道されない。

アルカイダがテロリストで悪人なら、天皇も日本人も悪人だね。
勝てば官軍。負ければ賊軍。アルカイダが可哀想だ。

138 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/16(日) 17:37

34000 ゲットしました。

139 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/19(水) 13:18

34500 ゲットしました。

140 名前: 日誠 投稿日: 2001/12/21(金) 12:53
平和神軍と名のる団体をご存じの方、いらっしゃったら教えていただきたく
存じます。

141 名前: 日誠 投稿日: 2001/12/21(金) 16:50
140、訂正願います
「平和神軍」→「日本平和神軍」

142 名前: いちりん 投稿日: 2001/12/21(金) 17:13
こちらのサイトは、ご存じですよね。
かなり、イッてしまっておられますね。

http://www.jade.dti.ne.jp/~shingun/

143 名前: 日誠 投稿日: 2001/12/21(金) 17:34
いちりんさん
有り難うございます。
私のPCからは「検索」できず、教えて頂いて、見ることができました。
どうゆう団体か、ちょっと調べてみようと思います。
相当、宗教団体への批判をしているようですね。

144 名前: いちりん 投稿日: 2001/12/21(金) 17:58
中杉弘という方が主宰しています。もともとは、創価学会におりました。
石田次男さんという、池田さんライバルであった方の本などを出したりもしています。
ラーメンのチェーン店も経営していますし、催眠術の大学とか、まあいろいろと、かわったことをしています。

145 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/22(土) 20:32

35000 ゲットしました。

146 名前: いちりん 投稿日: 2001/12/23(日) 13:34
う〜ん。こちらは、蘊蓄もすごいし穏やかで紳士的なやりとりで、感心しきり。。
そのうち問答迷人さんと独歩さんとの共著で、これらのやりとりを本にしたらいかがですか。

147 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/25(火) 23:24

35500 ゲットしました。

148 名前: 菊水護国 投稿日: 2001/12/28(金) 19:41
平和神軍の前身は、「正理研究会」だったと思います。
例の、安永氏の板本尊偽作論を再販した方ですね。
中杉さん自身、学会に籍を置いていた過去もあったかと存じます。
なお、ラーメンチェーンは「もんじゃラーメン」で有名な「K」ですが、
中杉さん本人と云うより、御子息の経営ですね。

149 名前: 独歩 投稿日: 2001/12/29(土) 01:50

菊水護国さま:

さすが、お詳しい。
ついで石田次男さんとの関係も記してされてもよろしかったのに、その点は情状酌量されたのでしょうか?

150 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/29(土) 23:43

36000 ゲットしました。

151 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/31(月) 23:10

36206 ゲットしました。

本年年頭からこの掲示板を立ち上げました。ほぼ、一日当り、100件のアクセスを戴いたことになります。誠にありがとうございました。

152 名前: 富士桜(富永) 投稿日: 2002/01/02(水) 22:13
新年明けましておめでとうございます。あまりにもお話が深すぎてROM専門ですが拝見させて頂いています。
2年目の元朝勤行は国立の大宣寺で無事済まさせていただき、4日初登山させていただきます。
昨年末にも御開扉の後、奉安堂の見学へ行かせて頂いたのですがリフトアップされた高さ55メートルの屋根と富士山を見上げた時「いよいよ宗旨建立750年の年がやってくるのだな」と彼女と話していました。諸先輩方の賛否両論はあろうかとは思うのですが、自分は日蓮正宗とご縁をさせていただき本当に良かったです。
澄んだ空気、澄んだ流れる水の音、どこからともなく聞えてくる唱題にあわせた太鼓の音。ライトアップされた御身影堂、山門や大客殿や六壷。静かな御山を歩いていると殺伐とした自分がゆっくり深呼吸をする事を思い出させてくれます。
もちろんそれだけでは到底信心とは言えませんので、今後も教学研磨に励みたいと思います。
余計なお話になっちゃいましたが、本年もよろしくお願いします。

153 名前: 独歩 投稿日: 2002/01/02(水) 23:53

富士桜さま:

はじめまして。152の書き込みを拝見し、感動、慰安を引き出しているものは、石山の佇まいであり、聖人ではないのだろうとつくづく思いました。

聖人は、仏閣・堂塔伽藍、寺院の佇まいに心を安らかに思われたことがあったのでしょうか。

私は堂塔伽藍を通じて、聖人を感じることはありません。生涯、寺院を拒否し、最後の身延の草庵の余りの狭隘さを思うからです。

思えば、聖人は大石寺の名前も知ることはなかったのです。聖人を開祖に仰ぐけれど、あの地を寺院として聖人は踏んだこともなかったのでした。そこに聖人を感じ、石山信徒でよかったと感じられるとすれば、それは聖人がまったく預かり知らないことである、少なくてもそれぐらいの歴史的な事実を受け入れてからお考えになられるべきではないでしょうか。

どうすれば、正しく聖人を感じることができるのか、それを真剣に考える時機に来ているのであると思います。奉安堂なる建物を、もし聖人がご覧になったら、本当に聖人はそれをお褒めになられるでしょうか。

私どもが信仰するのは仏教でしょう。それは仏教“教団”への信仰でも、堂塔伽藍への信仰でもないでしょう。堂塔伽藍を通じてしか仏教を汲み取れないとしたら、それこそ、聖人がもっとも忌避した人々の信仰心ではなかったと私は思います。

まことに失礼ながら、『立正安国論』の

仏閣甍を連ね経蔵軒を並べ僧は竹葦の如く侶は稲麻に似たり崇重年旧り尊貴日に新たなり、 但し法師は諂曲にして人倫を迷惑し王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し

の一節を思い出さずにはおれません。真偽未決の書ながら『四菩薩造立抄』の

日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富る者なり

私は、この聖人に真実の仏教をみる思いがします。けっして堂塔伽藍をもって聖人の御立の法門を推し量るべきではないと、敢えて申し上げるものです。

杉本苑子氏は『西国巡拝記』に以下のように記しています。

日本の寺々にはともすると、草創の古さ、寺格の高さ、皇室はじめ過去の権力者にどれほどの庇護や帰依をうけたかを、とくとくと語り、あたかもそれを寺の誇りとするごとき傾向をまま見かける。しかしそんなことが、寺の名誉でも威信でもないことはあきらかである。もし寺院が、それなりに矜持(きんじ)を持つとすれば、仏の智、仏の愛を、どれだけ積極的に民衆のなかに弘通し、彼らの悩みを救ったかという一点にしぼられるはずである。過去はもちろん、現在も未来も、立派にそのつとめを果たし得る自信、そしてその実績――。寺院の誇りはこの一事に尽きる。伝統や寺歴を、問題外にするのではないが、そういうものはあくまで第二義のはずと思うのだ。かたちはでんとかまえているが、ひっくり返してみたら下のほうが腐りかけていた南瓜……。そういう哀しい存在に、寺院が成り下がることを、日本の民衆は一人として望んでいないのである。…


「もちろんそれだけでは到底信心とは言えませんので、今後も教学研磨に励みたい」とのお心こそ、尊いと思うものです。ご賢察を期待いたします。

154 名前: いちりん 投稿日: 2002/01/03(木) 11:09
> 富士桜さん
わたしは、創価学会も法華講義にもどんな教団にも属していませんが、唱題はいたします。
たまに大宣寺で唱題することがあります。国立に住んでいるものですから。
だだっぴろい本堂に、ほとんど誰もいないものですから、朗々と唱題させてもらっています。

たまに住職とお話しさせてもらっていますが、
「あれ? あんたは法華講でも学会でもないの? そりゃ、困ったなあ……」
と、ひょうひょうとした感じで、そんなに排他的じゃなくて、なかなか居心地はよいのです。

大石寺は、塔中にさあーーっと水が流れているのが、なかなかよろしいですね。
明け方など、灯籠の灯と水の音、朝靄と、なかなかよいですね。

売店がほとんど閉鎖されて、汚れたビニールの幕が破れて垂れ下がり、大講堂は残ってはいても、観葉植物が枯れ果てていたり。なかなかそおいう光景を見ると、宗教の栄枯盛衰、人間のエゴのドラマなど、いろいろリアリティをもって考えさせられます。

155 名前: 元、ちびあや 投稿日: 2002/01/03(木) 20:56
超スーパー横レス失礼します。

あまりネットしなくなったのでご意見の方はメールしてください。
但し、返事が遅くなるかもしれません、3000文字までなら見えれますが、
グリーディングカードは見れません。

それと追加!
1月1日午前2時前、大石寺塔中で大声を出しながらマウンテンバイクで
暴れていた創価学会の子供達!
あなたたちのしていることは犯罪です。敵である宗門の境内も立派な宗教施設です、
そこでの宗教活動を邪魔する行為は犯罪です。ちゃんと法律にありますよ。
それと近所のおじさんにも聞きましたが、車をボコボコにしたそうですね。
これも立派な犯罪です、こんな犯罪で自分達の未来を無駄にしないでください。

156 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/03(木) 21:15

36500 ゲットしました。

157 名前: 富士桜(富永) 投稿日: 2002/01/03(木) 22:01
独歩さま
ご丁寧にお返事をありがとうございました。

>感動、慰安を引き出しているものは、石山の佇まいであり、聖人ではないのだろうとつくづく思いました。

言われてみれば確かにその通りだと思います。自分も今の今まで(31歳なんですが・・)このように仏法を真剣に学んでいきたいと思ったのは初めての事でした。そのきっかけが日蓮正宗にあった事だと思います。
自分は葬儀関係の仕事をしています。毎日毎日、来る日も来る日もほとけさん(業界ではご遺体をこう呼びますので深い意味はありません)に接し、悲しみの葬家の方々に触れ、色んな宗派のお坊さんと打ち合わせをしたりしていく中で、「神も仏もあったもんじゃねえ!」と宗教に自ら否定を繰り返し、どんな宗教も信じられませんでした。感情論になるかとは思うんですが、おじいちゃん、おばあちゃんなどの葬儀は、まだどこかほのぼのとした空気も流れますが、殺人事件、自殺、交通事故死、孤独に死んで何ヶ月も放置したままの方。警察に業務上入っているせいか、本当に様々な人の「死」に直面する事がいつの間にか「仕事」となって感情すら薄れていく自分に怖くなる事もありました。それに付け加え、葬儀ですからお金も絡みます。どんなに可愛そうな死に方をしても、お金がなければお経を読んでくれないお坊さん、風俗店に接待しなければいけないお坊さん、メールが来てお経を一回やめてしまうお坊さん。もちろんみんながみんなではないですが、おおよそその裏事情を知ってしまうと絶句してしまうような事を抱え込んでは繰り返し、現在でも続けては居ます。法華講員ですが学会葬もやるんですよ、これでも。(笑)
身の上話はこの辺にしますが、こうして仏法に心から出会うまでは自分は29年間かかりました。ようやく手をあわせることが、仕事でもなく、演技でもなく、御本尊様に向かって真剣に出来るようになりました。そこに日蓮大聖人様の御心を察するなどとは、まだまだ時間がかかりそうに感じます。(笑)自分が大石寺でそのような安らぎを感じる事は、今の段階では大切に感じます。

>そういう哀しい存在に、寺院が成り下がることを、日本の民衆は一人として望んでいないのである。…

本当にそうですよね。自分もそう思いたいです。ただし、現状はどこの寺院も開祖に徹底されつくした宗派も寺院も残念ながら自分も見当たりません。大石寺には少なからずともそう言った意味では短いようで長い今までの自分の経験上では、厳格さを感じております。

生意気な事を調子に乗って書き込んでしまいましたが、なんだかんだ言っても所詮ひよっこの法華講員です。ちょっと緊張します。ぜひとも今後とも訳の分からない問答になってしまうかも知れないので、なるべくROMに徹するつもりなのですが、今後ともよろしくお願いします。
いつかは、独歩さま、問答迷人さま、菊水護国さま、の会話に入れるように精進させていただきます。なんだか毎度「自分なんかひよっこ」と言って逃げているかも知れません。
すいません・・・なんかまとまらなくなってきたのですが、ここで終わります。明日は初登山なので行ってきます。失礼します。

158 名前: 富士桜(富永) 投稿日: 2002/01/03(木) 22:09
いちりんさま
始めまして・・・と言っても、もしかして学会のサイトで「おむすび」さんとして出ていらっしゃった方でしょうか。
そうですか、国立にお住まいなのですか!なんか嬉しいです。自分は仕事上で会社の近くに住んでいるので国立ではないのですが、実家は国立です。いつかお会いしたいですね!大宣寺で一緒にお題目唱えられるといいですね。
それと、もし「おむすび」さまでしたら、いつかの宿題・・・覚えていらっしゃるでしょうか。3っつ出されたのですが、人違いだったらすいません。明日が早いので今日はここまでにします。失礼します。

159 名前: 独歩 投稿日: 2002/01/04(金) 01:47

富士桜さま:

葬儀関係の仕事をなさってお出でなのですか。『納棺夫日記』(文春文庫)という本をご存知ですか。著者は青木新門先生。何度かメールのやり取りもしたことがあるのです。この方も葬儀社に勤務され、その経験から記されたのが、この書でした。

このなかに、こんな一節があります。

ある家で納棺した時のことだった。
始めようとしたら、そこに集まっていた全員でお題目を唱え始めた。
その死体はひどく硬直していた。特に腕の硬直がひどく、私はかけ蒲団の下で、腕の硬直を和らげるのに悪戦苦闘していた。指を曲げたり、腕の関節を曲げたり伸ばしたりしながら、やっとの思いで動くようにして、仏衣の袖に手を通そうとした時だった。
「あれ、見てみなされ、あんなに硬直していたのに、お題目をあげたらあんなに柔らかくなって」と一人が叫んだ。するとお題目が一斉に止んで、
「ほんとだ、ほんとだ、お題目をあげたらあんなに柔らかくなって」と言いながら全員が、私の手元を覗き込むように見ていた。
私はあきれてしまった。
あの時ほど、宗教というものに不信感を抱いたことはなかった。あれは決してお題目を唱えたから柔らかくなったのではない。
宗教の熱心な信者は、往々にしてこうした事象を己の信じる宗教の功徳にしてしまう。(177頁)

毎日毎日、死者ばかりを見ていると、死者は静かで美しく見えてくる。
それに反して、死を恐れ、恐る恐る覗き込む生者たちの醜悪さばかりが気になるようになってきた。…死者の顔を気にしながら、死者と毎日接しているうちに、死者の顔のほとんどが安らかな顔をしているのに気づいた。
生きている間に、どのような悪や善を行なったか知らないが、そんなことはあまり関係がなさそうだ。信仰が篤いとか薄いとか、宗教が何派だとか、宗教そのものに関心があるとか無いとか、そんなことに関係なく、死者の顔が安らかな顔をしているように思えてならない。(72頁)

私はこの方が書く「光の世界」が好きです。巷間、真宗門徒の如く著者を扱うのですが、この方は、もはや、親鸞聖人も、阿弥陀如来も通り越し、遥か高い地平から「光」そのものの世界を垣間見ていると感じます。富士門流信徒の掲示板で浄土門の話題を書こうとしているのではないのです。この方が死者と接して書かれた事実を披露することは、ある意味、重要な意味があると思ったからです。

富士桜さま、もし、お読みになられたら、ぜひ感想をお聞かせください。

160 名前: いちりん 投稿日: 2002/01/04(金) 10:34
『納棺夫日記』(文春文庫)
いい本ですね。わたしも呼んでみます。

161 名前: 独歩 投稿日: 2002/01/05(土) 01:42

いちりんさま:


ぜひ『納棺夫日記』の感想をお聞かせください。
寒い季節が日本の宗教を作ったと記す著者です。極寒のいまの季節にお読みいただくのがいちばん、よろしいかと存じます。

162 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/06(日) 19:19

37000 ゲットしました。

163 名前: 富士桜(富永) 投稿日: 2002/01/06(日) 21:31
独歩さま

『納棺夫日記』ぜひ読んでみたいと思います。そうなんです、葬儀の仕事なんです。
自分も様々なご遺体と対面してきましたが、独歩さまの出して頂いた一節は大変興味が湧きました。葬儀関係の業者の方が書かれている本、いらっしゃらないのかと思ってました。
つぶやきスレッドなので・・・ちょっとだけ自分が体験した笑える裏話を書かせていただきます。
何年か前の話なのですが、ご自宅での葬儀で祭壇を飾ったりして準備してた時です。このご時世で自宅で葬儀をあげられるような大きな家でした。自分が飾ったつもりの故人の写真が、入り込んできた風か何かの拍子で「ばたん!」と大きな音を立てて祭壇から転げ落ちてしまったんです。写真は無事だったのですが、そばにいた家族の方々が「ぎゃ〜!おじいちゃんの霊だ〜!」って半狂乱になって騒ぎ出し、一斉に家族の人たちがその宗派の本尊そっちのけで「ごめんなさい、ごめんなさいおじいちゃん」と小さい声で手をあわせて言い出したのです。自分は業者なので「ごめんなさい、しっかり止めておきますから。こちらのミスなので」と言ってなんとか収めました。
当初の葬儀の見積もりのお話の時や、故人と接する態度なんかは穏やかで「おじいちゃん、おばあちゃんのところに行くんだよ〜」とか話し掛けていたので、ああ、暖かい葬儀が出来そうだなぁ・・・と思ってお話もとんとん拍子で進んでいたのです。
ところが、息子さんから聞いた話なのですが、おじいちゃんは晩年はボケちゃって、家族揃ってひどい事を言ったり、意地悪をしてたらしいんです。よっぽどおじいちゃんに後ろめたい気持ちが家族揃ってあったのでしょうね。その写真はおじいちゃんが怒っているのかも・・・と言う観念に最後までとらわれてしまっていたようです。
その独歩さまの書き込んでいただいた一節を読みながら、その時の事を思い出していました。
その後、後檀を下げる時に暫くしてお邪魔したのですが、お線香の鉢がいっぱいになっていたんです。あまりにも普通の家より多いので聞いてみると、出かける時、朝起きた時、学校行く時、49日法要の納骨まで、ちゃんとお線香を毎日たいて、家族揃って手をあわせていたそうです。
生きているうちから、そういう感じでおじいちゃんに接してあげさせたかったなぁ、と思いました。以上、つぶやきでした。本、探して読ませていただきます。ありがとうございます。

164 名前: 独歩 投稿日: 2002/01/07(月) 01:55

富士桜さま:

ぜひ、ご感想をお聞かせください。
記された“つぶやき”笑んで読ませていただきましたが、内実、笑えない日本の宗教事情を物語るエピソードであると思ったものです。

165 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/08(火) 22:55

37500 ゲットしました。

166 名前: いちりん 投稿日: 2002/01/08(火) 23:38
富士桜さん
ところで、お相撲さんにこういう名前の人がいましたっけ。けっこう、明るくて感じのいい力士でした。(笑
某掲示板で、「おむすび」のハンドルを使ったことがあります。
たしか、富士桜さんには、御遺文の読み方は、内容よりも音読してそのリズムやエネルギーを体感するところから始めるといいよとか、日蓮正宗史を学ぶなら、まずは「富士日興上人詳伝」を読むといいよとか、そんな話をしたですよね。
わたしは、おもにこちら↓の掲示板で動いています。
http://www.ream.ais.ne.jp/~flower/
「菩提樹」とか「日蓮と法華」あたりとか、気軽に参加できるかもしれません。

167 名前: 富士桜(富永) 投稿日: 2002/01/10(木) 00:50
いちりんさま
あ〜、やっぱりそうでいらっしゃったんですね!「おむすび」さんでしたよね。あの時はあーだこーだ言われていた中で、いちりんさまの御書の読み方の事。そして3っつの宿題って言われてたのが凄く印象に残っています。
さきほどそちらの方へ行ってROMさせていただきました。はい、そうですね。ああいった感じでしたら気楽に書き込めるかもしれません。ただ、このPCが会社からなので自宅にもう少ししたらネットが出来るようになりますので、ここと、いちりんさまの所と、ゆっくり参加したいと思います。
登録の方はそれからさせていただきますので、そのせつにはよろしくお願いします。

168 名前: いちりん 投稿日: 2002/01/10(木) 10:11
富士桜(富永)さん
国立の大宣寺によくおいでなら、いちどお会いしましょう。
わたしは、もう国立には10年も住んでいます。
今年か来年には、信州に引っ越したいなあと思っているのですが。毎年も、言うてますがね。
わたしのアドレスです。 art@ayus.net

170 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/11(金) 11:30

38000 ゲットしました。

171 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/13(日) 12:41

38500 ゲットしました。

172 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/15(火) 11:39

39000 ゲットしました。

175 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/17(木) 07:34

39500 ゲットしました。

176 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/19(土) 15:10

40000 ゲットしました。

177 名前: きすけ 投稿日: 2002/01/19(土) 21:58

きりばんを 問答迷人 ゲットする なんど押したか あのリロード♪

おやすみなさい

178 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/19(土) 22:34

数のため リロードするとは 淋しいな 一度も押さず 思いも拠らず

179 名前: きすけ 投稿日: 2002/01/20(日) 10:23

問答迷人様

そうでしたか。それにしてはピッタリなもので。失礼しました。

180 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/20(日) 10:34

きすけ 様

ごめんなさい。誤解を招いたようです。500を単位として、開いたとき、超えていたら、その基準点を超えた、という意味で書いていました。それでは、これからは、正確に端数も書く事と致しましょう。

181 名前: いちりん 投稿日: 2002/01/20(日) 13:28
しかし、こちらの掲示板は、中身が濃ゆいですねぇ。まこと。
そして、なんとも落ち着いて論議ができていて。
ほんと。ありがたいなあと思います。

182 名前: きすけ 投稿日: 2002/01/20(日) 21:35

問答迷人 様

いえ、こちらこそ不躾で失礼いたしました。

解釈というのは読む人の数だけあるのでしょうね。法門もまた同じかなと思います。
どんなに言葉や道理を尽くしても、その入り口に引っ張っていけるだけで。
あとは一人で発見しなければならないのかもしれません。
そんな気がします。

183 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/21(月) 12:06

40503 ゲットしました。

184 名前: 花郎 投稿日: 2002/01/22(火) 19:36
やったあ,40800ジャストですわ。
最近,お邪魔しています花郎です。

185 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/23(水) 18:18

41033 ゲットしました。

186 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/26(土) 07:03

41585 ゲットしました。

187 名前: きすけ 投稿日: 2002/01/26(土) 09:03

大石寺の信仰をする上で「人の振舞」ということがとても大事なキーワードに思えます。

188 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/01/27(日) 20:44
私のHPは宗教メインじゃなくなりました。がまだ残っています。
http://gatecity.gaiax.com/home/can_you_hear
エトセトラ掲示板はまだ閉鎖しておりません。

モモ様がHPをとりあえずつくりました。
掲示板はその中に残しております。

http://kigaru.gaiax.com/home/ummomo2

そうですよね。きすけ様の言う通りですよね。
最近の講員は信仰の名のもとに、迷惑な常識はずれの折伏、家庭訪問が絶えない。
たとえば、折伏のためのチラシなのにセールスまがいの文章だったり、
深夜2時まで訪問する人とか。

189 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/28(月) 08:13

42024 ゲットしました。

190 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/29(火) 23:35

42504 ゲットしました。

191 名前: 独歩 投稿日: 2002/01/31(木) 00:32

はじめてピッタリになりました。42800です。(43000でないとピッタリとはいわないかもしれません)

192 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/01/31(木) 22:01

43012 ゲットしました。

193 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/01(金) 16:11

東京高裁の和解条項の件、

第二項の4 訴訟費用及び和解費用は、第1、第2審を通じ、各自弁とする。(以上)

というのは、とっても変な和解ですね。一審は学会勝訴だったわけです。裁判費用は全て宗門側が負担すべきものです。高裁で逆転宗門側勝訴になったのなら、一審も含めて、全て学会が負担するべきものです。今回は、宗門側の控訴取り下げですから、大抵は、一審の費用は、宗門側が負担し、控訴審についても、和解条件として、費用を全て宗門が負担するのが普通だと思います。ところが、一審に遡って、費用の各自支弁ということは、取り様によっては、一審も二審も、いずれも、そういう係争はなかった事にしよう、という話し合いが付いたという印象を与えてしまいます。宗門は、信徒に対して、恐らく、そういう説明をするでしょうし、片や,学会は、一審判決は動かないのだと説明するでしょう。変ですね。なぜ、創価学会はこんな和解案を呑んだのでしょうか。普通では絶対考えられない事だと思います。

そもそも、宗門は、この控訴審で新証拠と言えるようなものは、何ら提出していません。しかも、「真実の証明」などという本を書いて出版し、場外乱闘を始めてしまいました。裁判の進行中は、普通は、コメントも差し控えるものです。裁判所の心証は限りなく悪くなっているはずです。私は、この裁判は100パーセント、敗訴だと思っていました。和解にこぎつける事が出来たのですから、宗門にとっては大勝利だと思います。なぜ、創価学会は、こんな、へんてこな和解を呑んだのでしょう。

答えは一つしかないと思います。裁判の裏側で、宗門と学会の間で取引が成立したと言う事です。ここからは、全くの私の想像に過ぎません。間違っていたらごめんなさい。軽い気持ちで読んで下さい。

【私の想像】

〇 日顕上人の退座  
〇 創価学会に対する破門処分の取り消し 
〇 この二点を宗門かが呑む事を条件に和解に応ずる。

こんな話し合いが成立したのではないかと思っています。伝え聞くところに拠れば、創価学会は、三日間連続して同時テレビ放映を予定しているそうで、三日間連続というのは、あまり例がないそうです。また、宗門も、本山に法華講支部役員と末寺僧侶を招集して指導会が持たれるそうです。

194 名前: くらくら 投稿日: 2002/02/01(金) 16:25
 和解というものは、訴訟費用は各自持ちというのが普通でしょう。

 創価としては、すでに日顕氏イコール買春法主というすり込みを
末端まで徹底できたので、妥協したと思います。

 あとは、裁判所は創価学会日蓮正宗ともどもに対して「下卑た
言い合い」をするより宗教団体として使命があるじゃろと諭して
和解を勧告したものと存じます。

 聖教新聞でも今日以降は日顕さんの本件に関する悪口は掲載
しないと思います。

195 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/01(金) 19:17

この件、知り合いの弁護士さんに聞いてみました。そしたら、和解では、訴訟費用については、各自持ちにするか、どうするか。一審の分も含めるか、含めないか、等々、色々と双方の主張を出し合って、折り合いをつけるのだそうです。普通は、裁判の経過の有利、不利が、その和解条件に反映されるのだとのことでした。

私の想像は、少し想像し過ぎであったかもしれません。近々には、真相がはっきりしてくることと思います。『つぶやき』の声が大きすぎたようで、お騒がせして済みませんでした。

196 名前: くらくら 投稿日: 2002/02/01(金) 19:44
 とんでもありません(笑)。

 わたしも高等裁判所から和解勧告を受けた身ですので・・・。
普通の裁判は勝訴した場合は訴訟費用に敗訴した側に負担し
てもらうことが多いですね。

 たぶん、本件は高裁で双方を呼んで進行手続き協議を
した中から裁判官が和解の話し合いをしていくことを提案し、
それに沿った話し合いが何度もされたことでしょう。

 で、
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 判決

 原告の主張を認める。

1 被告は賠償金10万円を支払え。
2 訴訟費用は被告負担とする。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こ〜いう判決があっても、実務上は訴訟費用を相手方に請求
することは少ないです。たいていの場合は10万円の支払いで
お終いです。というのも訴訟費用の「金額」までは裁判所で決
定してくれないので、原告はあらたに訴訟費用額確定の裁判を
起こす必要があります。たとえば、出頭の日当とか訴状の書記
料やら印紙代・切手代も裁判所に請求書を添付して申し立てる
んですが・・・。

 だから、今回の訴訟費用を痛み分けにしたのは普通だと感じ
ます。何しろ日蓮正宗と創価学会がそれぞれ譲歩するカタチの
「和解」なのですからね。

 いつまでもつまらんことやらずに、まともな布教活動しなさ
いと。裁判官は「強く和解を勧告」したようですが、この
「強い」というところに裁判官の心証を感じます。

197 名前: アネモネ 投稿日: 2002/02/01(金) 19:56
それにしても、やる方もやられる方も、みっともない裁判だったという印象を受けます。
裁判を煽る教団側はいずれも、これがいの裁判がいかにも法の正邪を決めるかのように触れ込んで、そのための唱題会も何度もありましたが、必死で取り組んだ方にしてみると、内心では、あれはなんだったんだろうって感じでしょうね。
本当に仏法を下げているのは、一体ぜんたんい誰なんだろうって思いたくなる裁判です。

198 名前: NM 投稿日: 2002/02/01(金) 19:57
問答迷人さん

ご無沙汰しております。

>伝え聞くところに拠れば、創価学会は、三日間連続して同時テレビ放映を
>予定しているそうで、三日間連続というのは、あまり例がないそうです。

学会では毎月、本部幹部会の衛星同時中継を全国の会館で放映しています。
今月は4日〜6日の三日間です。
そこで弁護士から何らかの話しがあると思いますが、基本的に本日の聖教新聞の
談話を超えるものはないだろうと思います。

※今回の和解条項、私も納得できない部分があります(^^;)

199 名前: アネモネ 投稿日: 2002/02/01(金) 19:59
197の訂正です

誤)これがいの裁判がいかにも

正)この裁判がいかにも

200 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/02(土) 08:56

NM 様

書きこみありがとう御座います。御参加戴き、嬉しいです。これからもよろしくお願い致します。

>今回の和解条項、私も納得できない部分があります

そうですか。私も、創価学会が、なんでこんな条件で和解に同意したんだろうって、腑に落ちないんですよ。何か裏があるんじゃなかろうかって。現に、聖教新聞は、きょうは『日顕上人に日達上人は相承していた筈がない』という論調です。クロウ(シアトル)裁判のことはもう言わないが、次ぎは相承問題だ、と言わんばかりです。

201 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/02(土) 15:09

43507 ゲットしました。

202 名前: NM 投稿日: 2002/02/02(土) 17:29
問答迷人さん

まず先に書いた本部幹部会の同中は今日(2日)から3日間開催されますと訂正いたします。
4〜6日は来月(3月)でした。

さて、今回の和解条項を一読したら、なんだか痛み分けのような印象を受けてしまいますね。
ただ、事の発端を思い浮かべますと、平成4年にクロウ夫人の証言を創価新報に掲載したことに対して、宗門側が名誉毀損の損害賠償請求の訴訟を起こしたというのがこの裁判の始まりです。
今回、宗門側が告訴を取り下げたということは、その名誉毀損の損害賠償請求を放棄する(つまりこの裁判はなかった)ということになるわけでして、学会側としてはそれで納得しているのではないかと思います。
ま、私としては和解条項には一部納得のいかない部分もありますが、もう終ったことですので、これ以上、私も触れないようにしていきます。

相承問題ですね。どうなるのでしょう(^^;)

203 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/02(土) 22:06

NM 様

了解です。今後の成り行きを見守りながら、時々、『つぶやく』ことに致します。今後とも、よろしく御願い致します。

204 名前: くらくら 投稿日: 2002/02/02(土) 23:11
>>平成4年にクロウ夫人の証言を創価新報に掲載したことに対して、
>>宗門側が名誉毀損の損害賠償請求の訴訟を起こしたというのがこの
>>裁判の始まりです。

そもそもアメリカで若いころに買春したとか不行状したとかを
創価学会がアナウンスしたから日蓮正宗は名誉毀損で訴えたので
しょう。

 で、今回の和解でその因となった「アナウンス」を創価も自粛し
ましょうといういわば紳士協定的な和解条項がありますので、日蓮
正宗側の顔がたつ内容だったともいえましょう。

205 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/02(土) 23:41

くららさま:

> …日蓮正宗側の顔がたつ内容だったともいえましょう。

ほお!

206 名前: NM 投稿日: 2002/02/03(日) 00:57
くらくらさん

>日蓮正宗側の顔がたつ内容だったともいえましょう。

院達(院第3380号 平成14年1月31日)を読むと、
うーん、顔が立ったともとれる・・・ようですね(笑)。
ま、この話題は今後、自主規制します。

207 名前: くらくら 投稿日: 2002/02/03(日) 06:26
 顔が立つ内容がなければ、日蓮正宗側も和解に応じなかった
でしょう。今回は、裁判官が強い和解をそうほうに勧告し、自
らが和解内容についても粘り強く交渉させたのでしょう。

 この辺は高等裁判所に控訴されてから、ずっと和解前提で
コトが進んだのか或いは数度の口頭弁論を経て和解の勧告と
なったのかはでわたしの認識も違ってまいりますが(笑)。

208 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/04(月) 00:35

44091 ゲットしました。

209 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/05(火) 05:55

44502 ゲットしました。

210 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/02/06(水) 18:29
教学について、勉強したいのですが、私は勉強が大の苦手です。
学んだことが定着せず、すぐに忘れてしまい、覚えられません。
定着する勉強法を教えてください。

211 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/06(水) 20:30
みなみつくしさま

ところで、いまは、具体的に、どのようなものを学んでいるのでしょうか?
どんなふうにして、「勉強」されているのですか?

212 名前: 無徳民 投稿日: 2002/02/07(木) 02:56
各スレッドが硬くなったように感じます。一度読んでも解らない事が多くなった。(本当は、二度以上読んでも解っていない私です。でもまた勉強して、書き込みます。)
もちろん教学は難しいもであり、また正邪の基本なのですが、もっと手軽に書き込めるスレッドもほしい気がします。

1、 どうしたら学会と、顕正会と、宗門と、正信会、(とりあえず50音順)は、また一つになれるのでしょうか?
2、 どうしたら宗門の僧侶が、率先して折伏をするだろうか?(私は法華講なので、正信会の僧侶のことは、解りません)
3、 性格の悪い僧侶に対して、また遊戯雑談ばかりしている僧侶に対して、注意したら謗法ですか?
4、 法華講の私が、学会の拠点、顕正会の拠点、正信会の寺院、で唱題したら、謗法ですか?

やっぱり難しい内容になりそうですが、率直な御意見が聞きたいのですが、いかがでしょうか?

213 名前: 管理者 投稿日: 2002/02/07(木) 10:42

有徳民 様

ご提案の件、次ぎの様に考えますが、如何でしょうか。

1、 どうしたら学会と、顕正会と、宗門と、正信会、(とりあえず50音順)は、また一つになれるのでしょうか?

この点については、すでに、「この門流が本来の姿になるシナリオ」というスレッドがあります。ほぼ、同趣旨であると思いますが如何でしょうか。


2、 どうしたら宗門の僧侶が、率先して折伏をするだろうか?(私は法華講なので、正信会の僧侶のことは、解りません)
3、 性格の悪い僧侶に対して、また遊戯雑談ばかりしている僧侶に対して、注意したら謗法ですか?

この二点については、「僧俗一致について」というテーマでスレッドを立ち上げたいと思いますが、それでよろしいでしょうか。


4、 法華講の私が、学会の拠点、顕正会の拠点、正信会の寺院、で唱題したら、謗法ですか?

この問題については、3とも関連しますので、「謗法とは」というテーマのスレッドを立ち上げたいと思いますが、如何でしょう。


以上、御検討戴きたいと存じます。

214 名前: 無徳民 投稿日: 2002/02/07(木) 11:57
管理人さま 宜しくお願いします。

215 名前: 無徳民 投稿日: 2002/02/07(木) 12:15
私は他のスレッドを良く見ないで、書き込んでいました。(ゴメンナサイ)
ほとんど似たような御意見があったのですね。
でも、教学的なものでなく、もっと身近な問題を考えていきたかったのです。
うまく表現できませんが、井戸端会議みたいな書き込みができる場所がほしいです。
管理人さん、宜しくお願いします。

216 名前: 管理者 投稿日: 2002/02/07(木) 12:39

有徳民 様

『井戸端スレッド三門前』というスレッドもあります。元々、そこは、井戸端会議スレッドなんです。いまは、あまり使われていませんが、そこら辺りから、書き込んで戴いて、話しが弾み出したら、その話題を新しいスレッドに独立させる、という方向が無理が無いのではと思います。先ず、問答迷人が書き込むそうです。

217 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/07(木) 14:03

45166 ゲットしました。

218 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/08(金) 19:25

45521 ゲットしました。

219 名前: 無徳民 投稿日: 2002/02/08(金) 23:02
問答名人さま

無知な私に教えてください。
よく見かける「ゲットしました。」って何ですか?

220 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/09(土) 00:22

有徳民 様

「ゲット」はgetです。この掲示板のTopにあるカウンターの数です。総アクセス数です。何日で500アクセス増加するか記録しています。はじめ、置き時計さまが記録していて下さいましたので、それを引き継いでいます。

221 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/09(土) 20:12

45968 ゲットしました。

222 名前: 板東 投稿日: 2002/02/10(日) 20:36

管理人さん
独歩さん

ちょっと、言葉づかいが乱暴だったこと,お詫びします.
ま,そんな悪気はなかったんで,勘弁してください.

と,反省したついでに,記しちゃうけど,オレ,たしかに坊さんの責任ていうのは,デカいと思う.
けど,だからと言って信者側に責任がないなんてことは言っちゃいけないし,思われちゃいけないと思うんだ.
宗門の責任を追及するのは当然だけど,その宗門の無責任を許した法華講にも,責任はあるし,創価学会(員)にだってある.
坊さんが坊さんの責任問題を言うのはわかるんだけど,信者が自分のことを棚上げにして,坊さんの責任ばっかいうのはどうなのかな.
あと,創価学会のこと,問題にすべきだと思うよ.「あーだこーだ」なんてことじゃないよ,いちばん,デカい日本の宗教問題だよ.風化させるべきじゃないしょ.

いやとにかく,感情的な書き込みをしたことは誤ります.ども.

223 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/10(日) 21:11

板東 様

了解です。よろしくお願い申し上げます。感情的になると、大事な議論の中身が、何処かへ飛んでいってしまうような気がします。


>信者側に責任がないなんてことは言っちゃいけないし,思われちゃいけないと思うんだ.

私もそう思います。おかしな事を見、聞きしたら、その場で質問し、間違っていると思ったら、はっきり間違っている、と指摘する責任が信者にあると思います。勿論、間違いをはっきり指摘すると、疎まれ、「破門!」なんて事も現実にありますが、やはり、恐れず、ダメなことはダメと言うのが信徒の責任だと思います。法華講員の意識がそんな風に変われば、僧侶もうかうかしておれなくなると思います。僧侶に直接言わずに、陰口をいくら叩いていても、何の進展もないと思います。


>創価学会のこと,問題にすべきだと思うよ

正直言って、創価学会が今どうなっているのか、何を目指しているのか、どんな問題があるのか、私なんかは、脱会して長いので、もう良く分からなくなっています。そんな事じゃいけないと思って、聖教新聞と創価新報は毎日、くまなく読んでいますが、やはり、本当のところは解らないですね。内部告発がないと、解らないのではないでしょうか。板東様、詳しい事情を御存知だったら、披露してもらえませんでしょうか。

224 名前: 板東 投稿日: 2002/02/10(日) 21:25

問答迷人さま

要するに公明党が政権与党になっている点,マスコミを抑えてしまった点,有り余る財産で銀行を掌握してしまった点,また,金にモノを言わせて,嫌がらせ裁判をたくさん起こして反対勢力を弾圧している点,完全に日本を支配している,これは問題ではないんですか.

たとえば,問答迷人さんは,祖道の恢復が大事だと,こう書いているけど,実際,創価学会が支配している日本で,そんなこと,言ったって空手形でしょ.大反対の創価学会がガンバっているんだから.こういう点に問題意識はないわけですか?

あと,ついでに聞きますけど,ここって,ほんとに創価学会の宗門批判の偽装掲示板じゃないですよね.こんな質問,「違います」って答えるに決まっているけど.不思議なんだな,この危機感の希薄さがねえ.

225 名前: 板東 投稿日: 2002/02/10(日) 21:28

おっと,オレ,創価学会員じゃないからね.

226 名前: アネモネ 投稿日: 2002/02/10(日) 21:34
思い切って、「創価学会の功罪を考える」(仮題)といったようなスレッドを立ち上げてみてはどうでしょうか。
私も、宗門サイドの半ば偏重的なアナウンスではない正しい認識として、過去も含めた事実を知っておきたいです。

227 名前: 板東 投稿日: 2002/02/10(日) 21:47

功罪か,そうだよね.どんな組織もいいところ,魅力もあるんだよな.
勧誘されて入って,すごく歓迎されていい気分になって,拝んだら,功徳があって,組織の人はやさしくしてくれて,いままで人を尊敬したことなんかなかったのに,先生とか言って尊敬できる人が出来て,一生懸命になれることが出来て,どんどん,深みにはまって,折伏して,ふつうの友達はみんないなくなって‥役職もらって,いい気になって,ちょっと気に入らない幹部に疑問に思ったこと,言った瞬間に降格されて,そんで先生の疑問を言ったら,謗法扱い,そこで気がつくんだ,なんか変だぞってね.
これって,どこの組織でもいっしょだよな.

いっしょなのは,間違っていると思う人間に対する態度の悪さ,あ,オレも態度悪いか(笑)

228 名前: 板東 投稿日: 2002/02/10(日) 21:57

46400,ゲット,満足,出かけてきます!

229 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/10(日) 22:02
「創価学会の功罪を考える」っておもしろそうですね。
きっと活発な論議になるとは思いますが、たぶん荒れる可能性もありましょうね。
でも、やってみないとわからないか。。

230 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/10(日) 22:04

板東 様
アネモネ 様

>創価学会の宗門批判の偽装掲示板

そんな風に見えますか。本掲示板は、創価学会のヒモは、たとえ1μのヒモだって、一本もついていません。お疑いだったら、どうぞ、隅すら隅までお探しになってみてください。


>不思議なんだな,この危機感の希薄さがねえ.

私は、その点に付いては、強い危機感を持っています。私は、だからこそ、祖道の恢復が最重要課題だと思っているのです。なぜなら、創価学会のバックボーンは、やはり、良くも悪くも、日蓮正宗の教学だと考えています。彼らの天下取りを理論的に合理化し、バックアップしているのは、突き詰めるところ、日寛上人の教学なのだと思います。その原点に立ちかえって正さない限り、創価学会の暴走を止めることは出来ないと私は考えているのです。


>思い切って、「創価学会の功罪を考える」(仮題)といったようなスレッドを立ち上げてみてはどうでしょうか。

賛成です。そう致しましょう。

231 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/11(月) 00:35

坂東さん:

あなた、なにを言っているんでしょうか、まったく。
問答名人さまにそんな嫌疑をかける人がいますか。
創価学会を問題にしないのではないですよ。ロムしているのでしょうか?

232 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/11(月) 06:55

46522 ゲットしました。

233 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/11(月) 22:36
こちらは、賑わってきましたよね。
発言される方が、増えているので、活気がありますよね。
落ち着いた論議にはなりにくいかもしれませんけど。
でも、いろんな可能性が出てくるような気がします。
遊ばせてもらってありがたいなーと思います。

234 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/02/11(月) 22:49
210 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/02/06(水) 18:29

教学について、勉強したいのですが、私は勉強が大の苦手です。
学んだことが定着せず、すぐに忘れてしまい、覚えられません。
定着する勉強法を教えてください。


211 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/06(水) 20:30

みなみつくしさま

ところで、いまは、具体的に、どのようなものを学んでいるのでしょうか?
どんなふうにして、「勉強」されているのですか

やっとレスできました、遅れてすみません、仕事自体不規則でネットカフェ
利用していますから。
あまり時間は取れていないのですが、アトランダムなやり方ですが、
主に宗門関係の機関紙から「勉強」しております。
特に中部月報と妙教を利用しています。
御書は古文を理解できる頭を持っておりませんのである知人がいるときに
解説付きで教えてもらっております。
が、どこからどう勉強していったらいいのかわからないのです。
(ちなみに、その「ある知人」とは同じ宗門内で違う支部の方ですが、
正体は秘密です。たまに、この掲示板に登場します。)
とりあえず、これからは夏期講習会のテキストの復習でも、と思っておりますが。

235 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/11(月) 22:49

いちりん 様

書きこみありがとう御座います。いちりん様の御参加、大変嬉しく思っています。いちりん様のさりげない一言、いつも心に響いて来ます。これからも、どうぞよろしくお願い致します。

236 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/11(月) 22:53

みなみつくし 様

最近、何か、溌剌としていらっしゃいますね。私も、みなみつくしさまの若さに負けないように頑張らなくっちゃ。

237 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/02/11(月) 22:53
今あと4ヶ月で21歳です。それまでは学生生活に浸りすぎて(?)
いわれるがまま青年部の活動ばかりで教学については見向きもしなかったのです。
教学について考えるようになったのは実はつい最近のことです、
富士門流にいるのに恥ずかしいことです。

238 名前: アネモネ 投稿日: 2002/02/11(月) 23:31
私も、本山に参詣したときには、中部月報をまとめて買って帰って読んでます。
なかなか読みごたえありますね。

239 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/02/12(火) 00:13
私の場合、お寺でタダでもらっています。無料配布なので。

240 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/02/12(火) 00:14
それでは、明日早いのでLOGOFFします。西葛西に7:45なので。

241 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/12(火) 13:51

47017 ゲットしました。

242 名前: 板東 投稿日: 2002/02/12(火) 16:45

はああ‥

243 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/12(火) 20:45

坂東さん:

なんだか、私の弁明を書き込んでいただいているようですが、私も反省すべき点はたくさんありますから皆さんの意見は意見として、もちろん、私も言いたいことはありますが、ルールの言い出しっぺなので、まあ、自粛ということです。
それと、あなたも「問答名人さん」と記されていますが、HNはあくまで、問答迷人さまです。私は敬意を表して、名人さまと記しているわけです。その点、よろしく、ご理解ください。

…頭痛がするんですが(笑)

244 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/13(水) 17:45

47503 ゲットしました。

245 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/14(木) 11:56
「概念」と「イメージ」ということがあります。
宗教って、この二つの側面から、やりとりができるともいえましょうか。

「概念」は、明確だけれども、力がない。
概念は、頭で語られる。論理で伝えられる。
分類したり、分析したり、体系づけて明確にしていくのだけれども、それを行うほどに、じつは発動力が落ちていくこともある。

「イメージ」は、明確でないけれども、力がある。
イメージは、体験で語られる。感性、ハートで語られる。

この二つのバランスが取れていると、これなかなか魅力的なものになりますね。
日蓮さんの御遺文でも、「概念」が強いものと、「イメージ」が強いものとがありますね。

富士門流の教学というのは、「概念」のやりとりになりやすい。
イメージの力が弱くて、概念で、論理で進めていくので、腹にすとーんと落ちてこない。
腹にすとーんと落ちてこないと、日常のなかで、変化が起きてこない。
つまり、心の成長につながらないので、難しい理屈を言う分だけ、人生がややこしくなる。

日蓮さんの魅力は、イメージを喚起させるところ。ハートに響くところ。そのように、わたしはとらえています。

まあ、偽書だと思いつつも、「御義口伝」「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」あたりも魅力ですね。

お経などは、これまったく、イメージの力と思ったりしますね。

246 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/15(金) 08:32

48010 ゲットしました。

247 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/15(金) 08:42

いちりん さん

>富士門流の教学というのは、「概念」のやりとりになりやすい。
>イメージの力が弱くて、概念で、論理で進めていくので、腹にすとーんと落ちてこない。
>腹にすとーんと落ちてこないと、日常のなかで、変化が起きてこない。
>つまり、心の成長につながらないので、難しい理屈を言う分だけ、人生がややこしくなる。

納得です。このいちりんさんのお話、「腹にすとーんと落ちて」きました。私は、教学は、絵が描けることが大事だ、と前々から思っていましたが、聖人の御書は、読んでいると、生き生きとした情景が浮かんできますね。それは、その世界に聖人が実際に身を置いて書いておられるからなんでしょうね。論理は、そこでは、その光景を表現するための道具になっているのだと思います。

248 名前: アネモネ 投稿日: 2002/02/15(金) 11:01
いちりんさんと問答迷人さんのレスで、ある本のあとがきに書かれていた文章を思い出しました。以下、ご紹介させて頂きます。

「今日残されている日蓮の『ことば』は、日蓮遺文と言われていて、また「祖言」「御書」「御妙判」という名称で呼ぶのが習わしとなっている。遺文の内容を大別すると著述と書簡があり、他に自筆の写本、要文抄録、図表があり、自筆の「書かれたもの」の多さでは、他宗の祖師の中でも随一であろう。
 文章は力強くリズミカルで、声を出して読むことに快感があり、記憶しやすく、かつ主張の要点がはっきりしていて、論旨に伴う感情が生き生きと伝わってくるのであり、創造的才能をそなえた天才であることが伝わってくる。日蓮は祈祷を重視しているのであるが、それは人々のために、共に仏に祈ってやろうという気概と親切心に満ちていることがわかる。」(『日蓮に学ぶ、明日を生きる智恵』北川紘洋著 小田晋監修 はまの出版刊より)

249 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/15(金) 13:43
御遺文は、音読するとすばらしさがわかりますね。
とくに、日蓮さんのものは、そうですよね。

わたしの場合には、御遺文内容は、まあ二の次で、
日蓮さんの心というか、波動というか、エネルギーみたいなものが、身体に振動してくることをポイントにしていました。
その心身に脈動してくる、エネルギーの心地よさを味わうといいましょうか。

なんでもそうでしょうが、とくに宗教は、自分身体を使わないと、わかりにくい。
呼吸とか、声とか、身体所作とか。
なかでも、声の響き、声の振動というのは、大きな要素だと思います。

250 名前: 無徳 投稿日: 2002/02/15(金) 15:13
 イメージ(受け取る人の主観)も大切、論理(教学)も大切、しかし、もっとも
大切なものは、「信」つまり日蓮御坊の言々句々とそのお振る舞いを通して、今を
生きる我々がそこから何を受け取り何を信ずるかが大切と思います。

 「末法」という概念にはインド応誕の釈迦仏法の隠没という意味合いもあります
が、それよりも「今」という時代(時・空)に生きる我々が仏法という法の末を生
きる、つまりは仏が説かれた「法」を実践修行する最終ランナーとしての自覚に立
つことではないかと私は考えています。

 それを言い換えると「久遠即末法」ともなるし、<久遠を今に移す>と言う意味
合いにもなるのではないかと考えています。

 日蓮御坊も鎌倉時代を選んで仏法実践の最終ランナーを演じられたのであり、そ
の弟子を任ずる我々は現代という時代(時・空)における仏法実践の最終ランナー
であり、当然次を担うランナーにそれを手渡す責任があると自覚します。それこそ
が「広宣流布」の方程式と言えるのではないかと思います。   無徳

251 名前: 板東 投稿日: 2002/02/15(金) 18:11

大聖人に御書は「音だけ味わって内容は二の次」て言ったら怒るだろうねえ.
「破門!」なんてね(爆)
むずかしいことを言っているとこちら側が思っても,話してるほうは「ん,どこが?」て,ホントにわからないだよね.
それにそういう考えで頭が回っていると人を間近に見てると,エネルギーが落ちているどころか,満ち満ちているよね.
汗だくで題目を唱えてるより,禅に入って観念観法している人って動きはないけれど,すごいパワーが周囲にみなぎっているんだよな.
まあ,批判するわけじゃないけどね,「自分がわかる,わからない」を基準にするのはどうなのかね.

ここで御義口伝,無作三身なんていうの気が引けるけど

昼夜常精進 為求仏道故
此の文は一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。

ていう一節,オレは好きだったけどね.

252 名前: 無徳 投稿日: 2002/02/15(金) 19:34
板東さん今日は

>昼夜常精進 為求仏道故
>此の文は一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法
>蓮華経は精進行なり。

 そうですね日蓮仏法においては、はっきりした修行の形は唱題行のみと言っても
差し支えないんじゃないでしょうか?

 もちろん勤行においては法華経の方便品と寿量品を読誦しますが、主は唱題行で
あり後の方便品と寿量品の読誦は傍といえます。

 ですから<昼夜常精進 為求仏道故>とは基本的には、ひたすら唱題行に励むと
言うことに尽きるのかも知れません。

 しかし<一念に億劫の辛労を尽くす>ことは凡夫たる我々には大変な事ですね、
でも、億劫の辛労をもし徹底的に悩む事と解釈するので有れば我々にも可能かも知
れません。

 自己の至らなさを自覚し、自己変革のために徹底的に悩み抜くことができ得れば
自然に唱題行に励み本来(無作)の自己を呼び戻すことが可能かも知れません。

 そもそも<一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙
法蓮華経は精進行なり>の文は御本仏(日蓮御坊)の能作であり所作であるとされ
ていますが、なにも日蓮仏法を我々凡夫に実践不可能なものに仕立て上げる必要は
ありません。

 したがって、何か悩みや問題が生じたり願い事がある時は、ひたすら唱題に励み
御本尊に祈り切ることによって、その悩みや問題が解決し願い事も叶うことは信仰
実践にとっては当然の事柄であり、凡夫たる我々の能作であり所作であろうと思い
ます。

 あまりに信仰実践を難しくしてしまったり、ワケワカメにしてしまうことは本末
転倒とさえ言えると思います。日蓮正宗の宗門教学を学ぶにつけてもこの辺を気を
つける必要がありますね。  無徳

253 名前: 板東 投稿日: 2002/02/15(金) 19:51

無徳さん

無作って,本来って意味かな.あと,能作,所作ってなんですか?

オレは信仰実践をむずかしくしているのは,むずかしい教学を学ぶことではなく,組織の都合で教義でも,実践でもないものも「功徳だ.謗法だ」といって人を操る仕組みのほうにあると思うね.
要するに,この掲示板で問題にされている日蓮大聖人の教えでもないものを,教えだと偽って,金を貢がせ,労働力(活動)を強要する仕組みが「むずかしくしている」んだろうと思う.
その意味からは,日蓮正宗の教学は学ぶ内容はおそろしく幼稚にして,実践ばっか,むずかしくしている.
いもしない30万人,集めろといったり,建物どんどん建て直して金集めたり,伝統行事以外に講独自の会合まで作って忙しくしたり,ゆっくり,題目なんか唱えて暇,ないもんね.御書は考えることを否定して,言われたままの丸暗記,覚えたとおりの鸚鵡返し.あんなもんが修行だっていうなら,家に寝ているほうがましだと思うよ.

254 名前: 無徳 投稿日: 2002/02/15(金) 23:40
板東さん今晩は、

 <無作>とは<働かず繕わず元のまま>との意味とされていますから、そうです
ね例えて言うなら人の精神が赤ん坊の時のように無垢のままの状態と言えましょう
か?

 人間がまだ人間と名付けられていない時、つまり人間が自然と一体ないしは全く
共生でき得た時と言い換えても良いと思います。現代思想的に言えば人間が未だに
自然から<疎外体>となっていない時とも言えます。

 人間はだんだん自然と共生できなくなる程その数を増やし、やがて自然にあるも
のを加工したり、変容させなければ生きられなくなってしまいます。そして、他の
人間や部族または種族間とのコミュニケーションの手段としての言語を生み出し、

 また、同一の部族や種族において組織化が進むにつれ、自然の驚異や病気さら
には部族間や種族間の勢力争といった現実的驚異から逃れるために、共同幻想と
も言うべき呪術的な原始宗教を生み出したものと思われます。

 そのようにして、人間は個人としても集団としても赤子のように自然に身を任
せてはいられなくなってしまい、仏教的に言えば<無作>ではすまなくなってし
まったとも言えます。

 ですから人間は本来的には<無作>であるべきなのかも知れませんが、言語を生
み出し宗教を必要とする程に、人間の心的領域は複雑で厄介な存在と化してしまい
ました。

 ましてや、現代社会の複雑さや厄介さは原始宗教の時代とは比較になりません。
ですから矛盾していますが意識的に<無作>に近づく努力をせざるを得ないとも言
えます。現代人が宗教を求める根元的欲求は其処にあるのかも知れません。

 このように<無作>とは本来的という語と同義であると言って良いと思います。

 それから、<能作>と<所作>については長くなりますので稿を改めたいと思い
ます。   無徳

255 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/16(土) 10:29

無徳さま:

横レス恐縮です。
「無作」という成句は聖人は一度たりとも使われていません。つまり、それに付帯する後代の教学も聖人に由来するとはいえないでしょう。

私は正信会ではありませんが、以下の分析は優れたものであると思います。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ssk_sandaihiho_001.html

また、

> <無作>とは<働かず繕わず元のまま>との意味

というのは、就註法華経口伝

御義口伝に云はく、此の品の所詮は久遠実成なり。久遠とははたらかさず、つくろはず、もとの儘と云ふ義なり。無作の三身なれば初めて成ぜず、是動かさゞるなり。三十二相八十種好を具足せず、是繕はざるなり。本有常住の仏なれば本の儘なり。是を久遠と云ふなり。久遠とは南無妙法蓮華経なり。実成(まことにひらけたり)、無作と開けたるなり云云。

からで、久遠の説明を冠して仰るところでしょうね。
いわゆる御義口伝については、以下の文章を参考にしていただければと存じます。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_002.html

256 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/16(土) 13:08

一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。

この文は、なかなか言葉の響きがよいので、意味もよく分からなくても、好きなのですが。
しかし、意味がよく分からないのですが、この機会に確認したいなーと思います。

まず、「一念に億劫の辛労を尽す」
この意味が、わかりにくいですね。

「一念」は、「念ずれば花開く」みたいな念なのか。あるいは、「一瞬のいのち、一瞬のこころ」なのか。まあ、どちらも指すのか。

「億劫の辛労」は、「無量億劫」という無限の過去(あるいは無限の未来も指すか)でしょうか。その「辛労」というのが、よくわからないけど。無限の過去から累積した、カルマのようなことを言うのか。そして、無限の未来に、続いていく。

「尽す」というのが、わからない。
「断じ尽す。なくなる」という意味で言っているのか。
「充たす」という意味合いなのか。

わたしなりの解釈というか、つぶやきでありますが。
(御義口伝などは、ひとつの詩みたいなものだと思いますので、感性で捉えていくほうがおもしろいわけです)

この瞬間(いまこの瞬間のいのち・わたし)は、無限の過去からの結果としてのわたしである。
わたしが、いまここにあるというのは、その源泉をたぐれば、えんえんと過去があり、無限の過去がある。
そしてまた、わたしがいまここにあるが故に、無限の過去があるともいえるし、無限の未来があるともいえる。

そうして、この瞬間に徹するということ。瞬間瞬間に徹するということ。
過去を追わない、未来を案じない、いまに生きる、切(せつ)に生きる。ありありと生きる。
それが、辛労を尽くすことになる。

瞬間瞬間において、過去の辛労、過去からの結果が完了しているというあり方。
つまり、瞬間瞬間に置いて、いまからの発信、いまが源泉、いまが久遠元初というあり方。
それが、一念に億劫の辛労を尽す。

その、瞬間瞬間において、覚醒しているあり方が、仏という。
つまりは、無作の三身である。

では、それは、瞬間に生ききるとは、実践としては、どうしたらよいのか。
それは、南無妙法蓮華経と唱えることである。
南無妙法蓮華経におまかせすることである。
南無妙法蓮華経として生きることである。
それが、すなわち精進行である。

……と書いても、ほとんど、実感がないもんなあ。
実感のないことを、いくら積み上げても、意味がないともいえるけど。
宗教は、「実感だ」と、つくづく思うですよ。
まあ、こんなふうにとらえているという意味合いだけでも。。。

257 名前: 無徳 投稿日: 2002/02/16(土) 23:02
独歩さん今晩は、

私は真偽未決とされる御書類の真偽論争にはあまりコミットしない立場を採って
います。何故かならば真偽共に決定的な根拠や論拠の判定基準が無いからです。

「三大秘法禀承事」の真偽論争は特に有名ですが、「諸法実相抄」や「当体義抄」
または「御義口伝」等のいわゆる天台本覚論的要素のある御書類を、悉く偽書と決
めつけたのは浅井要麟氏の悪しき影響と言わざるを得ません。

>「無作」という成句は聖人は一度たりとも使われていません。つまり、それに付
>帯する後代の教学も聖人に由来するとはいえないでしょう。

とのことですが、<無作>という語彙は日蓮大聖人の講述を日興上人が筆録された
とされる「御義口伝」にあるばかりでなく、日向記とされる「御講聞書」にも使わ
れています。それからすると<それに付帯する後代の教学も聖人に由来するとはい
えないでしょう>とは思えません。

 それに、<無作>は漢訳語としての<無為>の異訳(岩波の仏教辞典)とされて
います。<無作>と<無為>はほとんど同義とも言えますが、天台智が<無作>
なる語彙を使用したかどうかは私には判りませんが、<無為>は中国仏教において
もさかんに使われ、日蓮大聖人も「開目抄」や「報恩抄」にて<無為>の語を使用
されています。

 日本の天台仏教においては本覚論がらみで<無作の三身>として<無作>が使用
されるようになったとされています。どちらにしても天台宗では<無作>は<久遠
の義>をはらみつつ一切の善悪の諸法は自然の法のしからしむるもので、造作され
ざるものとの意を内在しているとされてます。

 日蓮大聖人も比叡山にて天台本覚論の影響を受けられたことは間違いないことで
あり、私は日蓮仏法は天台本覚論的理解が不可欠であろうと考えています。

 特に浅井要麟氏が本覚論的であるとして偽書と決めつけた「三世諸仏総勘文教相
廃立」などは本覚論的なんてもんじゃなく本覚論そのものであり、本覚論としての
すばらしく立体感のある文々句々に溢れ、読む者をして深淵ともいえる仏教の奥義
へと誘う大変な御書と思います。 無徳

258 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/17(日) 01:26

無徳さま:

私は要麟師に別段、賛同するものではありません。
しかし、あなたの述べるところは、まったく賛同しかねます。
無作と無為が同義という、たかだか岩波の辞典を通じて談じられることには驚きを禁じ得ません。

> 日蓮大聖人も比叡山にて天台本覚論の影響を受けられたことは間違いない

この根拠を是非、ご提示ください。

259 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/17(日) 01:33

ついでに、もう一つ、おたずねしますか。

御義口伝が興師の記述であるとは、どのような根拠によるのでしょうか。

もう、一つ。

> 真偽共に決定的な根拠や論拠の判定基準が無いからです

決定的な証拠、基準がないものを、どうして、真書ということができるのですか。
あなたは、毒か、薬かわからない決定的な証拠をないものを薬として、人に勧めるのですか。
決定的な証拠がないのであれば、ひとまず未決として人に勧めないのが善意とは考えませんか。
それとも毒とも薬ともわからないものを杯をあおりますか?

260 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/17(日) 02:38

天台本覚論かぁ。。

本棚の奥から、岩波の「日本思想体系」を引っ張ってきて、再び読んでみようかな。

「三十四箇事事」あたりを読んでみると、「御義口伝」によう似ておりますね。
いや、「御義口伝」のほうが、はるかに名文でエネルギーがすきっと通っていますけど。

 
「三十四箇事事」より。。

本地無作三身の事 
久遠と云へるは、実には衆生の心なり。心は無始無終なり。ここを久遠と云ふなり。

元初一念の事

元初の一念とは、常住不変の念なり。
大海のナミは、昨日の波も、今日の波も、全く体一なるがごとく、三世の念は、ただ一念なり。


それにしても、本覚論の研究をされていた田村芳朗先生が、早く亡くなられたのは、残念でありました。街角で出会ったときに、中公新書の著書にサインしてもらったことがありましたが。

261 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/17(日) 02:49

入力ミス「三十四箇事事」→「三十四箇事書」

田村先生は、1250年ころの成立というておりますが。
この頃に、出そろった本覚論を整理して体系化された時期と。

しかしまあ、天台やら源信やらに仮託した偽書が多いですね。

262 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/17(日) 11:09

48511 ゲットしました。

263 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/17(日) 12:58

私も天台本覚論…うーんと思います。
1250年といえば建長元年、聖人が宗旨を建立されるに至る数ヵ年前。聖人がそれを知っておられたでしょうかね。

昨日、とある方とお話をしていたのですが、聖人の記述にはなぜか親鸞については触れておられない。同じく道元についても出てきません。同時代を生き、同じようにいまに伝わる立役者のように見えながら、その脈絡は見えないわけです。現代のような情報化社会とは比べ物にならない情報伝達の差異があるということでしょうか。それとも、私たちが現代、鎌倉新仏教などといって、その時代の人が誰もその名前を知らないと思っているよう人物も、当時はそれほど、知られていなかったということでしょうか。

同じように、比叡山に異を唱え、宗旨を立ててしまう聖人が、現在に伝わる、当時、ようやくとまとまってきたとされる一部高僧しか知る由もないものを掌握することができたでしょうか。それよりなにより、本当に13世紀に成立していたのかという点であっても確定とは言えないであろうと考えるべきだと思います。

あと、御義口伝、もし本当に興師の記述であれば、あの謹厳実直な師のこと、なんらかの譲り状なりなんらかを遺したのでのではないでしょうか。また、重須教学に、その残滓が見られないはずも有り得ないでしょうね。まあ、たしかに魅惑的な書であり、心に突き刺さるような記述であるというのは事実ですが。

しかし、カルト問題などを見ていても、わかりやすく、魅力的で、インスタントで、すぐに実践できる仕立てのものって、たいがい、偽者であるというのが私の経験則です。

いまは詳細に論ずるのは面倒ですが、同じ相伝書とされる本因妙抄、百六箇抄なども興師に由来するとされますが、それぞれに厳格な意味で思想的な相違を感じます。つまり、成立が異なっているのでしょう。

264 名前: 無徳 投稿日: 2002/02/17(日) 14:00
独歩さん今日は、

 貴方は根拠がお好きみたいですね幾人かの方に根拠を示せ根拠を示せと言われて
いますよね、しかし、根拠根拠とばかり仰るとその根拠とやらに足を掬われかねま
せんでしょうか?

 まあ冗談はそのくらいにして、日蓮大聖人が天台本覚論の影響を受けたことの根
拠を私の能力の許す限り述べてみたいと思います。

 田村芳郎氏の「本覚思想論」(358p)に<日蓮の最初の著作である『戒体即
身成仏義』をみると、あきらかに、天台開会・本覚思想を表示したものであること
をしる>として、<日蓮は、17歳のとき、天台本覚思想の初期の作品とみなされ
る『円多羅義集』を書写している>とも述べ、さらには、<建長三年には、覚鑁の
『五輪九字秘釈』を書写しており>として、天台本覚論との接点を明らかにしてい
ます。

 ただし、遺文とされているものの中には天台本覚思想の爛熟記とも言われている、
南北・室町期にその影響を受けた門下の偽作と考えられるものも有るとしています。

 これは私の考えでもありますが、日蓮大聖人に先行した鎌倉仏教の祖師とも言わ
れる道元や親鸞にも天台本覚思想の影響が見られることからしても、日蓮大聖人が
天台本覚思想の影響下にあっても不思議はなく、ある人(niftyでの知り合い)に
よれば日蓮御坊は天台本覚思想を乗り越え止揚されたとさえ述べています。
 それから、
>無作と無為が同義という、たかだか岩波の辞典を通じて談じられることには驚き
>を禁じ得ません。
とのことですが、何故たかだか岩波の辞典なのか、また、それを引用して論じるこ
とが、何故驚きなのかその根拠を示してください。

 また、『御義口伝』が興師が日蓮大聖人の講述を筆録されたことは日蓮正宗内では
定説とされていますし、それを覆す論拠や根拠を私は持ち合わせておりません。
 
 独歩さんが興師の筆録でないとするはっきりした根拠をお持ちでしたらご教示下
さい。

 それと、
>決定的な証拠、基準がないものを、どうして、真書ということができるので
>すか。あなたは、毒か、薬かわからない決定的な証拠をないものを薬として、
>人に勧めるのですか。決定的な証拠がないのであれば、ひとまず未決として
>人に勧めないのが善意とは考えませんか。それとも毒とも薬ともわからない
>ものを杯をあおりますか?

この比喩的言辞は穏やかならない表現と感じます。私に論戦を挑むおつもりで
しょうか?お望みならおつきあいしますよ。

265 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/17(日) 14:01

しかし、宗教って、とくに仏教は「偽書」だらけですね。
まあ、「偽書」というと語弊がありますが、偉大な人に「仮託」して自分あるいは自分たちのの思想を述べると。

だいたい、かの膨大な仏典、とくに大乗経典のすべては、釈迦に仮託して創作されたわけだし。
まあ、密教の基本書となるような龍樹のものは、偽書が多いし。
さらには「大乗起信論」のような仏教史に枢要な書にしても、馬鳴とはいいがたいでしょう。

そうして、日本においては、最澄に仮託して書かれたものが多い。
日蓮さんも親鸞さんも、大切に引用している「末法灯明記」あたりは、偽書ですよね。

そうして、円珍や円仁の偽書もすごく多いです。
修験道あたりの文献をいちどざっと調べましたが、もうは偽書だらけでした。

空海や道元の偽書というのは、そんなには知らない。親鸞も少ないと思うけど。
かなり独特な文体、思想的な深淵さから、偽書が作りにくかつたのか、あるいはイデオロギー論争などする必要がなかったから、偽書も作る必要がなかったのか。

日蓮思想においては、いちばん厄介なのが偽書ですよね。
日蓮思想の中核かもしれないというようなものに偽書が多かったりする。
とくに富士門流の基本書となるものは、偽書でしょうね。

どうして偽書ができるのかなあと思うのは、
やはり「理屈」で論争していくのが好きな天台系、そしてとくに日蓮系は、自分たちに都合のよいように偽書をでっち上げるわけかなあ。。

266 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/17(日) 14:26

偽書というと、かなり否定的な意味合いですが、
現代風にいうと「チャネリング」のような形で、思想が述べられたかもしれない。

経典あたりは、自分の考えというよりも、ブッダの声が聞こえて書き留めたとか。
ブッダが自身のうちに入ってきて、あるいは「ブッダ・スピリット」みたいなものと共振して、語り始めたとか、書き始めたとか。そういうことがあるかもしれない。

瞑想が深まることで、ブッダのような存在の声を聞いたのかもしれない。

おなじように、日蓮さんの偽書ということも、あるいは「日蓮スピリット」とでもいいましょうか、「日蓮さんの魂に共振」して、あるいは声を聞いて書き留めた人もいたかもしれない。

そういう次元のものと違って、まったく「自分たちに都合のよいように偽書を作る」ということもありましょうね。そのあたりが、混在していますね。

まあ、そんなこんなを考えると、文献学の深みに入って、ワケがわからなくなるですね。
そうして、釈迦がどう言ったとか、日蓮さんがどう言ったとか、じつは、大したこともないのかもしれない。

イエスであろうが、ブッダであろうが、ソクラテスであろうが、八百屋のおっちゃんであろうが、お大家のお婆さんであろうが、まあなんでもいいとはいわないが、自分で「いいな、これだ」と感じたものを大切にしていって、そして「自分自身を磨いて」いけばよい。まあ、そんなふうにも思うわけです。

偽書だの真筆だのという論争をしていると、まあ人生がもったいないかもしれないと。

267 名前: 独歩様、無明様 投稿日: 2002/02/17(日) 14:42
こんにちは独歩様、無明様、皆様。

いつもROMさせて頂いております。依法不依人と申します。
私は以前ハンドルネーム「無明」で書き込みしたこと※がございますが
無明様がいらっしゃったのでご挨拶申し上げたいと思いました。
 ※
 『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
 http://green.jbbs.net/study/bbs/read.cgi?BBS=168&KEY=1001669748
 244 名前: 無明 投稿日: 2001/12/16(日) 22:40

つかぬことをお伺いしますが、
無明様は以前置時計通信に書き込まれていた無明様と同じ方でしょうか。
(もし間違いでしたらすみません)

私は学会員で昨年秋Libra様と長時間議論した結果(議論と言っても私は
浅学であり議論という言い方は甚だお恥ずかしい限りですが)、
今までの教学を捨て一から学び直すつもりでやっております。
(教学の再考に関してLibra様には多大なご支援頂いております)
昨年秋から独歩様のホームページを拝見しておりました。
(執行海秀師の著述は大変参考となりました)
今年にはいってからは「富士門流信徒の掲示板」を興味深く拝見
させて頂いております。
昨年は「富士門流信徒の掲示板」をとても冷静に読める精神状態では
ございませんでした。皆様のお力で酔いのようなものが醒めた感じで
隔世の感がごございます。

よろしくお願いいたします。

268 名前: 依法不依人 投稿日: 2002/02/17(日) 14:52
いちりん様、こんにちは。

面白いご意見拝見させて頂いております。
ブッダや日蓮聖人は「チャネリング」していたのでしょうか。
密教では「チャネリング」しているように思います。
私は、ブッダや日蓮聖人はその時代の背景の中で合理的にふるまった
ように思っております。
私はいちりん様とは考えが異なると思います。
不躾な書き込みお許しください。

269 名前: いちりん 投稿日: 2002/02/17(日) 15:00
依法不依人さま

ブッダや日蓮さんは「チャネリング」って感じはしませんね。
たた、いろんな仏典や論書をあらわした人の中には、それっぽい人がいたかもしれませんね。
あるいは、深い禅定から、ある種のエネルギー体(いわゆる神々)と対話したようなもの。
まあ、その意味では、ブッダや日蓮さんは、そういうことをされていたのかもしれない。

270 名前: 依法不依人 投稿日: 2002/02/17(日) 15:23
>深い禅定から、ある種のエネルギー体(いわゆる神々)と対話したようなもの。

いちりん様はいくつかの掲示板で拝見させて頂いておりましたが、
インドに旅行されたり、インドのような広大さを感じさせるような、
また信仰の喜びを持ってらっしゃる方だと思いました。

ある種のエネルギー体がどこかに実在するか、いわゆる神々(あるいは仏)
は仮に和合して存する人間の心(精神)上に存するのか興味は尽きない
ですね。私は(浅学で恥ずかしながら)後者の考え方です。

271 名前: tokumei 投稿日: 2002/02/17(日) 16:46
チャネリングとはまた卑近なたとえですが当たらずとも遠からずと思うのは謗法でしょうか。
観相は諸仏の相好を一つ一つ眼前に思い浮かべることですが、他門ではア字観・月輪観・観仏三昧があります。
天台大師は自身の各状態を妙法ととらえました。
この方法が難しいので事の一念三千として曼陀羅があらわされました。
この曼陀羅相好を直に一念三千と拝するのが直達正観の観法と理解しておりますが、
理論上間違いないと思うのですが富士一般の教説ではこのように直裁的に記述がないように思います。

272 名前: 管理者 投稿日: 2002/02/17(日) 17:19

独歩 さん
無徳 さん

天台本覚思想をめぐって、論争の兆し、ですね。ただ、このスレッドはTopに次の様に書かれています。

『このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!』

さらにこの点、議論されるようでしたら、新しいスレッドを立てさせていただきます。管理者に御請求下さい。このスレッドでは、論争なさらないで戴きたいと存じます。よろしくお願い申し上げます。なお、スレッドを立てられるのであれば、「スレッドテーマ提案用」スレッドに書きこんで戴きたいと存じます。

273 名前: 無徳 投稿日: 2002/02/17(日) 18:53
管理人さんどうもです、

いえいえ私は論争しようなどとは思っておりません。

それほどの力量もありませんし、ただ、独歩さんの言説に少々棘を感じたものです
から、あのような言い方になってしまいました。

天台本覚論についてまともに論ずるのは大変なエネルギーと識知を要求されること
でしょうから別スレッドを立てることは望みません。

この件に関しましてはお開きにしたいと存じます。 無徳

274 名前: 管理者 投稿日: 2002/02/17(日) 19:49

無徳さん

了解致しました。今後とも、活発な議論をお願い申し上げます。

275 名前: tokumei 投稿日: 2002/02/18(月) 02:04
案外「0」にこだわりを持つ人が多いようです。0信仰とでも言うのでしょうか。
0のもつ危険性をちょっと。・・・
0とは有るのか、無いのか非常に不明確な数字です。Y軸上に0と並列に存在する虚数の問題もあります。
0とは非常に破壊力を持った、扱いに気を遣う数字です。
何かに0をかけると全て0になってしまいます。
ここに「Z」という数があるとして、0をつかうと、とたんにZは消滅してしまいます。
ところが、Zは有るはずなのです。机上の空論でこの数は消えてしまいました。

ここに、真心の御供養をした人がいたとします。でも、金額は0でした。
はたして、真心はあるのでしょうか?功徳はあるのでしょうか?

煩悩即菩提、下種即脱といいますが、「即」の時点で0とすり替わることはないだろうか?
自問自答の日々です。・・・つぶやきでした。

276 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/18(月) 03:19

無徳さん:

> この件に関しましてはお開きにしたいと存じます

と記されておりますが、その前に

> 私に論戦を挑むおつもりでしょうか?お望みならおつきあいしますよ。

という頼もしい発言がありますので、是非とも「おつきあい」いただきたいと思います。
なお、このスレッドは「議論禁止」ということなので、264の応答は『天台本覚思想』のスレッドに載せます。

277 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/18(月) 03:30

依法不依人さま:

はじめまして。私のサイトをご覧いただいていたとのこと、有り難うございます。
また、掲載してあります執行海秀師の論考をお読みいただいたとのこと、うれしく存じます。富士門流として、実はこの方の論考は避けて通るべきものではないと私は考えております。「富士義最勝」との思い込みも、ほとんど瓦解させる大きな問題定義を40年も前にいくつも行っていらっしゃるからです。その意味でご高覧を通じて「大変に参考になった」というご感想は最もであろうかと存じます。

また、Libraさまと議論をされていらしたとのこと、これまた、有意義なことであられたことでしょう。私もLibraさまとの議論は当掲示板、またメールでも現在進行形です。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

仏教再考―犀角独歩
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/

ここから、2002年2月19日以降の、復旧された掲示板のログです。
 
 
1 名前: バックアップ 投稿日: 2002/02/19(火) 21:18

1 名前: チョンガー 投稿日: 2001/01/11(木) 01:01

何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!
2 名前: バックアップ 投稿日: 2002/02/19(火) 21:18

271 名前: tokumei 投稿日: 2002/02/17(日) 16:46

チャネリングとはまた卑近なたとえですが当たらずとも遠からずと思うのは謗法でしょうか。
観相は諸仏の相好を一つ一つ眼前に思い浮かべることですが、他門ではア字観・月輪観・観仏三昧があります。
天台大師は自身の各状態を妙法ととらえました。
この方法が難しいので事の一念三千として曼陀羅があらわされました。
この曼陀羅相好を直に一念三千と拝するのが直達正観の観法と理解しておりますが、
理論上間違いないと思うのですが富士一般の教説ではこのように直裁的に記述がないように思います。

3 名前: バックアップ 投稿日: 2002/02/19(火) 21:19

272 名前: 管理者 投稿日: 2002/02/17(日) 17:19

独歩 さん
無徳 さん

天台本覚思想をめぐって、論争の兆し、ですね。ただ、このスレッドはTopに次の様に書かれています。

『このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!』

さらにこの点、議論されるようでしたら、新しいスレッドを立てさせていただきます。管理者に御請求下さい。このスレッドでは、論争なさらないで戴きたいと存じます。よろしくお願い申し上げます。なお、スレッドを立てられるのであれば、「スレッドテーマ提案用」スレッドに書きこんで戴きたいと存じます。

4 名前: バックアップ 投稿日: 2002/02/19(火) 21:19

273 名前: 無徳 投稿日: 2002/02/17(日) 18:53

管理人さんどうもです、

いえいえ私は論争しようなどとは思っておりません。

それほどの力量もありませんし、ただ、独歩さんの言説に少々棘を感じたものです
から、あのような言い方になってしまいました。

天台本覚論についてまともに論ずるのは大変なエネルギーと識知を要求されること
でしょうから別スレッドを立てることは望みません。

この件に関しましてはお開きにしたいと存じます。 無徳

5 名前: バックアップ 投稿日: 2002/02/19(火) 21:20

274 名前: 管理者 投稿日: 2002/02/17(日) 19:49

無徳さん

了解致しました。今後とも、活発な議論をお願い申し上げます。

6 名前: バックアップ 投稿日: 2002/02/19(火) 21:21

275 名前: tokumei 投稿日: 2002/02/18(月) 02:04

案外「0」にこだわりを持つ人が多いようです。0信仰とでも言うのでしょうか。
0のもつ危険性をちょっと。・・・
0とは有るのか、無いのか非常に不明確な数字です。Y軸上に0と並列に存在する虚数の問題もあります。
0とは非常に破壊力を持った、扱いに気を遣う数字です。
何かに0をかけると全て0になってしまいます。
ここに「Z」という数があるとして、0をつかうと、とたんにZは消滅してしまいます。
ところが、Zは有るはずなのです。机上の空論でこの数は消えてしまいました。

ここに、真心の御供養をした人がいたとします。でも、金額は0でした。
はたして、真心はあるのでしょうか?功徳はあるのでしょうか?

煩悩即菩提、下種即脱といいますが、「即」の時点で0とすり替わることはないだろうか?
自問自答の日々です。・・・つぶやきでした。

7 名前: バックアップ 投稿日: 2002/02/19(火) 21:21

276 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/18(月) 03:19

無徳さん:

> この件に関しましてはお開きにしたいと存じます

と記されておりますが、その前に

> 私に論戦を挑むおつもりでしょうか?お望みならおつきあいしますよ。

という頼もしい発言がありますので、是非とも「おつきあい」いただきたいと思います。
なお、このスレッドは「議論禁止」ということなので、264の応答は『天台本覚思想』のスレッドに載せます。

8 名前: バックアップ 投稿日: 2002/02/19(火) 21:22

277 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/18(月) 03:30

依法不依人さま:

はじめまして。私のサイトをご覧いただいていたとのこと、有り難うございます。
また、掲載してあります執行海秀師の論考をお読みいただいたとのこと、うれしく存じます。富士門流として、実はこの方の論考は避けて通るべきものではないと私は考えております。「富士義最勝」との思い込みも、ほとんど瓦解させる大きな問題定義を40年も前にいくつも行っていらっしゃるからです。その意味でご高覧を通じて「大変に参考になった」というご感想は最もであろうかと存じます。

また、Libraさまと議論をされていらしたとのこと、これまた、有意義なことであられたことでしょう。私もLibraさまとの議論は当掲示板、またメールでも現在進行形です。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

仏教再考―犀角独歩
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/

11 名前: 管理者 投稿日: 2002/02/19(火) 22:18

掲示板御参加の皆様

バックアップを取ってあったので、何とか管理者の面目が保てます。と言っても、昨日の夕方以降のレスは、バックアップが取ってなかったので、消えています。書きこんでくださった方、申し訳ありません。お許し下さい。
結局、このJBBS掲示板というのは、よくダウンするのです。サーバーダウンですから、かなりの数の掲示板が同時につかえなくなってしまうわけです。この掲示板は、同じJBBS掲示板でも、サーバーが違うのです。だから、今回は問題が出ていません。

以上、管理者のつぶやきでした。

12 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/20(水) 13:35

御義口伝への疑義がそのまま、天台本覚思想の聖人への影響となってしまうのは短絡的な展開という個人的な気持ちはありますが、まあ、いまのところ、スレッドを分かつほどでもないでしょうね。
緊急事態の最中ですし、ややこしくせず、シンプルにいくほうがよいでしょう。

それにしても問答名人さんの容易周到さ、また、このような臨時サイトを立ち上げるご苦労には改めて頭が下がります。

14 名前: 板東 投稿日: 2002/02/20(水) 17:40

問答迷人さん

御難でしたね.独歩さんに緊急アドレス,聞いてやってきました.
たいへんでしたね,おみまい?申し上げます

15 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/20(水) 17:44

独歩さん

いやいや、面食らいました。毎日、バックアップを取ると決めているのですが、こんな酷い目にあうのは、なんとも、堪りません。たまたま、別のことで、掲示板を最近立ち上げのお手伝いしていたのです。そしたら、その掲示板は、なんとも無いのですよ。アドレスを見たら、サーバーが違っていました。これだ、と思い、早速、メールアドレスをフリーメールで取得して、掲示板を立ち上げたと言う次第です。過去ログに付いては、構想はあったのですが、一日伸ばしで、UP出来ずにいましたが、追い詰められて作らざるを得なくなりました。だけど、ひやひや物でした。御迷惑をお掛けしました。

16 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/20(水) 17:46

板東さん

お見舞い、ありがとう御座います。多分、しばらくしたら、復旧すると思います。よろしくお願い致します。

17 名前: 板東 投稿日: 2002/02/20(水) 18:26

問答迷人さん

復旧してほしいよね.オレみたいなチャランポランが見てたって,ほんと,価値ある掲示板だと思うもの.

18 名前: 花郎(ファラン) 投稿日: 2002/02/20(水) 20:17

問答迷人さま

たいへんでしたね。独歩さんから聞きました
でもガンバってくださいね。

19 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/20(水) 21:52

板東さん
花郎(ファラン)さん

ありがとう御座います。元の掲示板は、復旧不能、という連絡ですので、富士門ネットで保存してあった過去ログ(2002.2.18の夕方の分まで)を利用して、この掲示板に合計60スレッドを復旧させる事にしました。また、この掲示板の上部から、保存してあった過去にリンクを張りましたので、全て、何時でも閲覧できる様に致しました。覗いてみてください。

21 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/20(水) 23:38

49046 ゲットしました。

18日と19日のアクセス数はゼロとして設定しました。

22 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/21(木) 00:02

うーん、50,000直前だったんですね。
我が事のように悔しく思います。

23 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/21(木) 07:49

49100、ゲットしました

24 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/02/21(木) 20:04
小田急線で携帯から久しぶり見ます。先日、言葉遣いの苦情レスで事が済んだのに蒸し返すことになって大変失礼しました。
日と時間前後れすを見落としていたのです。
この度新しく買ったDoCoMoのアイモードからお邪魔させていただきます。
たまにはネットカフェからきちんと読みます。
今後ともよろしくお願いします。

だいびゃくほう号外見出しの件やりすぎだと思います。
苦労裁判なのに。
熱さ喉元過ぎるでしょうか。

25 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/21(木) 23:54

みなみつくし さん

あの和解は望むところですが、何か変ですね。それに、大白法号外は、まともな神経の人は、あんなこととは書かないでしょうね。不思議な号外でした。

26 名前: 一講員 投稿日: 2002/02/22(金) 08:47

みなさん 今日は。

突然、掲示板が消えちゃったので、どうなったのかと思っていたら、とんでもないことになっていたのですね。やっと、たどり着きました。管理人さん、お疲れさんでした。

27 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/02/22(金) 12:05
>25
そのとおりですよね。あのタイトルは。これじゃあ創価新報やえみょう(とまではいかないが)
と同レベルですよね。

今日は関内のマンガ喫茶からです。
はじめて行ったので、行き方が、わ関内かったです。

28 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/23(土) 15:03

49512 ゲットしました。以前の掲示板では、一日半で500のアクセスを頂戴していましたが、今は、二日半で500アクセスにへっています。サーバーダウンがもろに響いている様です。それでも、そんなにアクセス数が思ったほどは減らなかったのは、御参加の皆様が、手分けして、御連絡していただいたからなんだと、深く感謝致しております。

29 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/02/23(土) 19:53
もうすぐカウンターが50000ですね。頑張ってください。

私のところにもすぐ連絡が届きました。

前の掲示板で、「教学の勉強の仕方教えてください」と質問レスをしました。
そのスレが見つからないのですが、あれから、本山でなんとか入門を購入しました。
電車の中などで読みふけっていますが、分りやすかったです。
みなさん、答え見れてません、すみません。ありがとうございました。

でも、宗門で手ごろな値段の仏教用語辞典があったら、なんて思っています。
(関内から。)

30 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/02/23(土) 19:54
49550GET!!

31 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/23(土) 20:42

過去ログを調べてください。つぶやきスレッド240の辺りです。過去ログは、この掲示板の一番TOPから入れます。

32 名前: nb 投稿日: 2002/02/25(月) 01:06
久しぶりです。

ところで皆さん、色々勉強なされているようですが。
自分にとって勉強になったという本ではどのようなものがあるのでしょうか。

私まだまだ判らないことだらけで、これから勉強していく上で参考になるものあったらぜひお願いいたします。

33 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/25(月) 17:29

nbさん

みなが参考にしている資料を有するサイトを運営しているnbさんならではの、謙虚なお言葉ですね。

私が今後の自分の勉強のために、いちばん注目しているのは御書検索システムですよ。

34 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/25(月) 18:02

nbさん
独歩さん

私もそうです。正信会の興風談書の御書システムです。先日、日蓮聖人展で、使い方を習ってきました。大分使えるようになりました。重宝しています。

35 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/25(月) 18:59

訂正です。失礼しました。

興風談書⇒興風談所

36 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/25(月) 22:59

問答名人さん:

もう、御書検索システムはお持ちなんですか?
それはうらやましい。

37 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/26(火) 08:17

独歩さん

そうなんです。ある方から、コピーしない事を条件に分けていただきました。立宗記念日から、一般に配布すると聞いています。ただ、今のところ、この御書システムを使うには、「管理工学研究所」の「桐」というソフトが必要なんですが、大変高価です。(定価が五万円ぐらいします。)

38 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/02/26(火) 12:53

50005 ゲットしました。

39 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/01(金) 18:39

50503 ゲットしました。三日で500アクセスのペースです。

40 名前: いちりん 投稿日: 2002/03/02(土) 23:47
うーーん。
どうも発言が、止まりましたよね。
サーバーがダウンする前は、かなりいい感じで、盛り上がっていたと思いましたが。
いろいろ、うまくいかないもんですよね。
でもまあ、また、盛り上がると思うし。

41 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/03(日) 00:24

いちりんさん

ありがとう御座います。これまで、この掲示板に書きこんで戴いた方に、まだ、掲示板アドレス変更通知が出来ていないんです。今日は、それに取り組もうと思っています。

42 名前: ワラシナ 投稿日: 2002/03/03(日) 21:31
0、最近しみじみ痛感しました。「福田、創刊号」って不思議でしたよね。

1、今から、平成2、3年頃を振り返った時、何もか「福田、創刊号」は、今日有
るのを御見通しだったのだ、と。その当時は気が付かなかったんですが、「福田、創
刊号」はのっけから、本尊論特集とでも言えるような内容だったんです。

2、私はこの背景を考えようともしませんでしたから、只学会の「偽御形木本尊乱
発事件」の暴露だけが、「福田1創刊号」発刊の焦点だとしか読めなかった。
だけども、そうだとしたら、何故、他の頁に細井精道師「悪書板御本尊偽作論を粉
砕す」の紹介や、冒頭の某副会長談話中の池田発言が出てたり、S’58年東京ス
ポーツ連載の菊池氏連載記事コピー「学会日蓮真筆本尊三筆時価数億で入手」など
が同時に出ている必要があったのか、考えが及ばなかったのです。

3、不思議な事にたかが小部数のこのミニコミ誌発刊が訴訟になっていましたし。

43 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/03(日) 23:29

ワラシナさん

福田(ふくでん)の事は、すっかり、忘れていました。御存知ない方も多く見えるでしょうから、参考のために、福田の内容に触れているページを探してみましたら、一つだけ見つかりました。

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/03/103.html

本当は、もっと、詳しいのがあれば、良いけど…。

44 名前: いちりん 投稿日: 2002/03/04(月) 01:57
↑のサイトをみました。
「地涌からの通信」が報恩社のサイトに載っていますね。
北林芳典氏は、大幹部の道も、公明党議員の道もあったと思いますが、
山友氏のもとで活躍していたために、いろいろ苦労されていたのでしょうね。
しか、いまは報恩社の社長ということで、実力のほどを示しているのでしょうか。
なかなか大したものですよね。

45 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/04(月) 08:31

いちりんさん

納得です。アドレスに≪houonsha≫と入っていました。ちなみに、「地涌からの通信」のアドレスは

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/index.html

それにしても、当時の人達は、みなさん、大変苦労されて来たのだと思いました。

46 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/05(火) 07:09

51005 ゲットしました。サーバーダウン以降、以前レスとの連続性が失われたのが、使いにくさになっています。今、確定申告の準備で、忙しくしています。確定申告が終わったら、本格復旧させます。よろしくお願い致します。

47 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/08(金) 13:47

51506 ゲットしました。三日で500アクセスのペースが安定してきています。

49 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/10(日) 14:38

52010 ゲットしました。

50 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/13(水) 08:16

52531 ゲットしました。

51 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/16(土) 08:40

53000 ゲットしました。今回は、まともに丁度です。

52 名前: いちりん 投稿日: 2002/03/16(土) 23:56

春ですねーー。まったく。

桜の樹も、ツボミが紅くなってきました。
隣の家のケヤキの大木には、カラスが巣を作り始めています。
庭には、シジュウカラ、セキレイ、ヒヨドリ、カケス、ウグイスがやってきています。

ところで、こちらではオフ会とか、しないのでしょーか。
問答迷人さん、独歩さんが、どちらにお住まいか知りませんけど、もしも、東京あたりに出てくるときがあったら、いちどオフ会を開いてみたらどうでしょうか。

やはり、いちどじかに出会うと、いろいろさらに、啓発がすすむなあと思いまして。
まあ、流れによっては、オフ会など、春のうちにいかがでしょうか?

53 名前: 独歩 投稿日: 2002/03/17(日) 00:03

いちりんさん:

オフ会の件、私は賛成です。ちなみに住まいは東京です。

54 名前: いちりん 投稿日: 2002/03/17(日) 00:06
ええーーーー! 独歩さんは、東京でしたか。
そんなら、いちど、四月あたりにどうでしょうか。
会場とか、めんどうなのことは、わたしのほうで段取りしますけど。。
問答迷人さんは、いかがでしょうか。

55 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/17(日) 07:39

いちりんさん
独歩さん

ありがとう御座います。私は、地方なので、東京に出るのに、約三時間掛かります。日曜日なら参加できます。(4月なら、14日はすでに予定が入っています)
いちりんさんに御無理言えるなら、ありがたいです。よろしくお願い致します。

56 名前: 独歩 投稿日: 2002/03/17(日) 08:29

いちりんさん:
問答名人さん:

私は、大きなところでは、4月は18、27、29日は東京を離れております。あとは東京、もしくは周辺におります。
よろしくお願い申し上げます。

57 名前: いちりん 投稿日: 2002/03/17(日) 23:52

問答迷人さん
独歩さん

そうしますと、4月の日曜日がいいですよね。
問答迷人さんは、14日は都合がよくなくて、独歩さんは4月は18、27、29日はダメと。
すると、4月の7日、21日、28日あたりですね。

28日あたりは、連休で、混みそうな気もするから、4月21日あたりはいかがでしょうか。

わたしのイメージする、オフ会の感じとしては、

A案)新宿御苑あたりで、緑の中で芝生でのんびりしながら。
一品持ち寄りで、缶ビールとかも売っていますし、適当に食事しながら。
あとは、新宿あたりで、飲み会というコース。

B案)阿佐ヶ谷あたりの区民センターの会議室で、軽く研究発表とか勉強会をしながら。
そのあとは、近くで飲み会というコース。

ま、わたしとしては、B案)がいいなあと思いますが。
問答迷人さん、独歩さんが、なにか研究成果を発表していただくとか。

あるいは、なにかテーマを絞って、みんなで論議するのがいいかも。
「板曼荼羅」「身延離山」「日蓮本仏論」とか、なにかテーマを設けて、それで二時間くらい論議して、あとは、雑談会のような。。

いかがでしょうか?

58 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/18(月) 08:03

いちりんさん

B案)阿佐ヶ谷あたりの区民センターの会議室で、軽く研究発表とか勉強会をしながら。
そのあとは、近くで飲み会というコース。

私としては、このB案に賛成します。日程は4月21日でOKです。

>問答迷人さん、独歩さんが、なにか研究成果を発表していただくとか。

独歩さんには、何か研究発表を御願いしたいなぁ、と思いますが、私に関しては、発表出きるような事柄は、もうみんな掲示板にむ書きこんでしまいましたから、テーマを絞っての議論を歓迎します。テーマはやはり、大石寺本門戒壇大御本尊様の偽作説でしょうか。

59 名前: 独歩 投稿日: 2002/03/18(月) 08:29

いちりんさん:
問答名人さん:

4月21日でけっこうです。

まあ、研究発表なんて堅苦しいことより、雑談がいいですねえ。雑談では言葉が悪ければ、ブレーンストーミング。

テーマとしては問答名人さんが仰る戒壇之本尊もいいでしょうし、あと、本門戒壇建立地・伝説的な出来上がりなんていうのも、おもしろい気がします。また、私は「法華経に記述される差別表現の超克」なんていうのも、一つのテーマとしてあってもいいかなと。

いちおう、答えが出ていることより、ぜんぜん、答えが出ていないようなこと、まるでお手上げみたいなテーマを挙げて、みんな、「なんだかんだ」と自由発想で放言し合うなんていうのも楽しいですね。

取りあえず、研究発表は勘弁してください。実は29日は、講演というか、まとまった話をしなければいけないので、その原稿を書かなければいけないもので。

60 名前: いちりん 投稿日: 2002/03/18(月) 10:15

問答迷人さん
独歩さん

わかりました。4月21日ということで。

場所は、中央線の阿佐ヶ谷駅徒歩2分に、「阿佐ヶ谷区民センター」があります。
そこの会議室が使いやすいと思います。
20人くらいが入れるところがいいですね。
一ヶ月前の予約なので、3月21日に、申し込みます。

会場費は、2千円くらいなので、参加者のワリカン。一人200円くらいですね。

研究発表というよりは、「なんだかんだ」と自由発想で放言し合う」という進め方がよいですね。

1時から4時半くらいまで、フリートーク。
そのあと、近くに軽く飲みながらか、夕食という感じでしょうか。

61 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/18(月) 12:18

いちりんさん

それでは。お手数をおかけ致しますが、よろしくお願い致します。なお、会場地図をUPしておきました。御覧下さい。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_27.htm

62 名前: 独歩 投稿日: 2002/03/18(月) 15:05

いちりんさん:

了解しました。よろしくお願いします。

63 名前: 板東 投稿日: 2002/03/18(月) 18:33

おお,独歩さん,オフ会デビューですか.
オレも参加させてください.

64 名前: いちりん 投稿日: 2002/03/18(月) 22:55

わいやわいやと、楽しげにたくさんの方が集まるのもよいし、
ぽつりぽつりと、地味に少ない人が集まるのも、それぞれよろしいですよね。

65 名前: モモ 投稿日: 2002/03/19(火) 15:08
私もぜひとも参加したいです。お寺の御講と重ならなければ。

66 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/19(火) 15:41

53503 ゲットしました。

オフ会、御参加を希望される方、書きこんでください。よろしくお願い致します。

67 名前: いちりん 投稿日: 2002/03/19(火) 23:00
問答迷人さん

21日に、予定の会場が取れましたら、あらためてきちんと案内させてもらおうと思います。
そのときには、あたらしくスレッドをお願いします。

68 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/03/20(水) 07:41
もしも夕方以降だったら参加したい。

69 名前: いちりん 投稿日: 2002/03/20(水) 09:53

いま、考えているのは、1時から5時までがフリートーク。
会議室で、渋いお茶でも飲みながら。
そのあとは、食事しながら、あるいは飲みながらという感じでしょうか。

70 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/22(金) 22:25

54012 ゲットしました。

71 名前: いちりん 投稿日: 2002/03/22(金) 23:51
明日、阿佐ヶ谷の区民センターに出かけて、オフ会の会場を予約してきます。

72 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/22(金) 23:53

いちりん さん

お手数おかけ致します。ありがとう御座います。感謝。感謝。

73 名前: いちりん 投稿日: 2002/03/23(土) 14:25

オフ会の会場のことですが、阿佐ヶ谷区民センターは、すでに予約が一杯。
それで、「セシオン杉並」という施設の予約を入れました。

場所は、地下鉄丸の内線・東高円寺駅から徒歩5分です。
会議室は、定員26名。
時間は、おもいきって、午後1時から午後8時まで借りました。
会場費は、2,150円です。(10人の参加者なら、一人215円ということですね)

ところで、始まりは、何時からにしましょうか。

早めに来たい人は、1時くらいからのんびりと集まって、1時半から開始というのはどうでしょうか。1時半から6時までというのは、どうでしょうか。

まあ、いくらなんでも8時まで話し込むことはないとは思いますが、白熱したらわかりませんよね。
施設内には、レストランもありますし、近くに食べるところはありますので、夕食を挟んで、また話し込んでもいいと思うし。

74 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/23(土) 16:58

いちりんさん

オフ会の会場確保、本当にありがとう御座いました。オフ会専用スレッドを別に立てました。会場地図もUPし直しました。御覧下さい。

75 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/25(月) 08:47

54530 げっとしました。

76 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/03/28(木) 07:14

55005 ゲットしました。

77 名前: 管理者 投稿日: 2002/03/31(日) 17:15

55541ゲットしました。

78 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/03(水) 07:53

56031 ゲットしました。

79 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/05(金) 16:56

56502 ゲットしました。

80 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/07(日) 21:46

57004 ゲットしました。

81 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/10(水) 09:09

57517 ゲットしました。

82 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/12(金) 22:22

58001 ゲットしました。

83 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/15(月) 13:43

58527 ゲットしました。

84 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/15(月) 20:19

いやはや、ひどい目に会いました。ADSLの調子が今ひとつだったので、ADSLのスピードが出るというソフトを買ってきました。インストールしたら、大変調子がよくなり、サクサクとご機嫌でした。一緒に付属している、パソコンの加速ソフトもインストールしてみました。そしたら、なんと、一変におかしくなってしまいました。恐らく、ウイルスソフトや、CDRのソフトと喧嘩してしまったようでした。あとで、取り扱い説明を読んだら、同時インストールは競合するとか、何とか、小さな字で書いてありました。後の祭りです。いろいろとやってみましたが、復旧しません。遂に、諦めて、ハードディスクのリカバー。すべて設定をやり直す羽目になりました。ハードディスクのバックアップファイルは一応、取ってありましたが、約一年前のもので、結局使い物にならず。

掲示板のバックアップファイルとかは、外付けのハードディスクに入れていますので、無傷でした。

この間、約三日。何処かの銀行の苦しみが自分の事の様に判る気がしていました(笑)。

85 名前: いちりん 投稿日: 2002/04/17(水) 21:11

しばし、信州に出かけておりました。
安曇野も、穂高あたり。。
じつは、古民家などがあったら借りて住みたいなあと思いまして。
そろそろ東京脱出を考えています。

信州は、梅と桜と桃の花が咲いていました。桜は、ちょうど満開。
レンギョウやら菜の花やらスイセンやら、花盛りでした。

86 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/17(水) 23:02

59021 ゲットしました。

87 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/20(土) 14:09

59500 ゲットしました。

88 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/04/22(月) 08:54
60000まであと250ですね。

89 名前: モモ 投稿日: 2002/04/23(火) 20:39
60001ゲットしました。おしい。

90 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/23(火) 20:53

みなみつくしさんのお母様

新宿まで送っていただきまして、本当にありがとう御座いました。お陰で、最終電車にギリギリで間に合いました。地下鉄線を使っていたら、間に合いませんでした。助かりました。感謝、感謝です。


モモさん

さっきから、60000を私も狙っていたのです。残念至極です(笑)。

60004 ゲットしました。

91 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/04/24(水) 04:22
初めまして。
ドプチェクと申します。
私は普段、こちらに登場される事もあります、チョンガーさんの「創価学会員独立会議」(現在は完全登録制になっております)と「日蓮仏法ファンクラブ」(書き込み登録制です)で主に書き込みをさせていただき、また、こちらの常連さんであられます、いちりんさんの「日蓮と法華」にも時折、登場させてもらっていて、それから、「創価学会応援隊」にも多少関っている者でございます。小生、所属は創価学会ですが、現在、独自の道を模索している状態のはみ出し者なのであります。
こちらの掲示板は、参考の為、よく拝見させていただいております。
初めての書き込みであるにも関らず、いきなり他人様の家に土足で上り込むような真似をしてしまいますけれど、誠に勝手ながら、こちらで掲示板のPRをさせていただきます。

☆管理人様☆
もしも、私の書き込みが、こちらの掲示板に不適切なものであると思われましたなら、削除なさって下さいませ。
大変身勝手な事を述べさせていただきまして、申し訳ございません。m(__)m

『日蓮仏法ファンクラブ』
http://text.hokuto.ac/html/nichiren/

チョンガーさんが管理されています、書き込み登録制のこの掲示板は、昨年11月に開設されたわけなのですが、まだ参加者(登録者)が少なく、現在、細々と運営されている状態にあります。チョンガーさんは、富士門流の単独信徒という立場を執られていらっしゃいますけれども、この掲示板は、基本的に特定の宗派・教団といった枠組に囚われない比較的緩やかな形で以って、日蓮仏法に関する事を語って行こうという方針なのです。ですから、どちらの宗派・教団に所属されている方であられようとも、あるいは、単独信者の方であられようとも、構わないのでございます。
どなたか、もしよろしければ、ご参加なさって下さいますよう、
よろしくお願い申し上げます。m(__)m

初めてでありながら、いきなりの無礼な振る舞い、何卒お許し下さいませ。m(__)m
それでは、これにて失礼させていただきます。

92 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/24(水) 08:38

ドプチェクさん はじめまして。

ご存知無いかもしれませんが、そもそも、この富士門掲示板は、チョンガーさんの発案で始まったのです。結局、論争を認めるか、認めないか、という方針が折り合わず、やむなくチョンガーさんとは、別の路線を進んでいます。ただ、分裂した富士門の統合を目指す点では、基本的には同じ目的であると思います。『日蓮仏法ファンクラブ』の御活躍を期待いたしております。チョンガーさんによろしくお伝えください。

93 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/04/25(木) 01:26
問答迷人さん

初めまして。早々のレス、ありがとうございました。
昨日は、いきなり勝手な書き込みをさせていただきまして、大変失礼致しました。

そういう事であられたのでしたか。私が昨年秋、旧「独立会議」に参加し始めた最初の
頃には、実はこちらの掲示板もチョンガーさんが管理されているのかな?と、思ってみ
たりした事もあったのです(スイマセン)。私は、この半年間、チョンガーさんの考え
にかなり大きな影響を受けて来たと思っています。
それでも私の場合、正直に申しますと、ここ最近、否、もっと前からなのかもしれませ
んが、自分の中では、門流というものに対する拘りがかなり希薄になってしまっている
のです(もはや、“ほとんど”と言うべきであるのかもしれません)。まぁ、一つには
私自身の勉強不足から来ている、“怖いもの知らず”の感覚といったものとも、似たよ
うなところがあるのかもしれませんけれど。私も学会経由で日蓮仏法に縁したわけなの
ですから、基本的には富士門流系の人間という事になるのでしょうし、無論、富士門流
を否定したりなど致しませんので、こちらの掲示板も、よく拝見させていただいている
のでございます。こちらは、相当に奥深くて難しい教義的な内容の書き込みが多い為、
私のような者には、到底お話について行けそうもありませんが、これからも色々とご参
考にさせていただきます。

取るに足らぬ自らのお話ばかりをしてしまいまして、すいませんでした。
問答迷人さん、並びにその他大勢の方々が、今後ともますますご活躍なさいます事を期
待致しております。
チョンガーさんにも、またお伝えしておきます。
それでは、これにて失礼させていただきます。

94 名前: 独歩 投稿日: 2002/04/26(金) 12:04

ここで行われているような、やや難しい考証を行っていると、読んでわからない人、反感を懐く人、自己肯定化をしようとする人が言うことは決まっています。
「理屈より実践が大事なんだ」(笑)

ところが、その実践が大事だという人に、どんな実践をしているか聞くと、朝晩の勤行、唱題、会(講)の活動、これらを最高の実践だと思い込んでいるわけです。忘れられているのは学も仏教の修行であり、実践であるということです。第一、勤行・唱題の練磨なくして、真剣な学など生まれるはずはないわけです。真剣に学ぶ人は必ず、それに比した修行に裏付けられていることは当然のことなのです。実生活があって、そのなかから学に相当な時間を当てる動機は常に修行に裏付けられるものであるのは当然のことだと私は思います。多くの信者は重要な学という修行から逃げるために活動に没頭します。実践活動といって、学を怠りながら、学を軽蔑します。そのために、さらに教学の事実から遠ざかり、いいように組織の道具とされてしまうのです。また、学が組織に縛り付けるのに都合のよいように悪用され続けていくのです。

服従すること、信伏随従と言い替えてもよいでしょう。信伏随従は仏と日蓮に示すべきものです。会の権威者、指導者、組織そのものに示すものではありません。

以下の社会心理学の分析を味読してみてください。

『服従の心理』ミルグラム

・居心地のわるい事態を避けるためには、まだしも服従の方が耐えやすいと多く(略)が思うのである。

・【自発的】服従を得るには、イデオロギーによる正当化が必要不可欠である。それがなければ、個人は自分の行動が望ましい目的に役立っていると考えることができないからである。そのように思いこませたときにのみ、たやすく服従を獲得することができる。

・服従しつづけるのは何のためであろうか?第一に……その場に釘付けにする拘束要因がある。礼儀を重んずる気持ち……手助けをするとの最初の約束を守りたい気持ち、途中で投げ出すみっともなさ、など。第二に、一連の思考調整が行われ、権威と決裂しようとする……決心をにぶらせる

◎【忠節】、【義務】、【規律】といった個人的価値は、ヒエラルキーの技術的必要からきている。個人はそれらを高度に人格的な道徳規範のように感じているが、体制の水準では、それらは、大きな組織を維持するための技術的前提条件に過ぎない。

◎われわれが個人においてかくも高く評価している忠節、規律、自己犠牲などの美徳が、戦争の破壊的組織の道具であり、人間を邪悪な権威組織に結びつける特性そのものであるというのは、皮肉なことである。

・人間がつくった組織を、あたかも人間の力を越えたところに存在し、人間の気分や感情ではどうにもならないものであるかのように扱う人たちがいる。組織や制度の背後にある人間的要素は否認される。

◎普通の市民が他の人間を殺すよう命令されて従うのは、命令に従うことが義務であると思っているからである。したがって、権威への服従は、長いあいだ美徳とされてきたが、邪悪な目的のために使われるとすれば、見直されなければならない。それは、美徳どころか、憎むべき罪となった。でないとすれば、何であろうか?

などなど。750年というこの時期に以上のような社会心理学的に分析された心理的要因を実に巧妙に使い、信者は運営の道具とされています。
正しい信仰が忠実に会の打ち出しに従い、労働力を提供することであるかのように摩り替えられています。その仕組みに気づかせないために、信者に事実を学ばせないように躍起になっているのです。賢明な日蓮聖人の信者は、この仕組まれた虚構にまず気づかない限り、永遠に実相を見ることは出来ないのです。そのために事実を知ることこそ、もっとも重要な課題となってくると私は改めて思い直しています。

95 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/26(金) 15:44

昨日、お客さんで、創価学会の婦人部の方が見えました。私の知り合いの、法華講の婦人部の人が、近々、その学会員さんを訪問することになっている、と話してくださいました。そして、もの来訪目的は、創価学会員に対する再折伏なのだそうです。「日顕上人の悪口を言うと、地獄に落ちるよ」が口癖だとか。その学会員さんは、「あなたこそ、池田先生の悪口を言うと、地獄に落ちるわよ」と言い返してやるのだと意気込んでおられました。

実に不毛の対話としか、言い様がありません。私は、その創価学会の婦人部の方に、「その人に、『なぜ日顕上人の悪口を言うと地獄に落ちるのか』、その理由をよくお聞きになって、今度御出でになられるときに、教えて戴けませんか」とお願いしました。私が、法華講員であることをよくご存知のその方は、怪訝な表情をされ、「あなたも、同じことを言うのかと思っていましたが、違うのですか」と聞き返されました。「私は、かなり際どく、日顕上人の批判をしています。御住職に対しても、『日顕上人に、ここはおかしい』、と伝えてください、などと言って来ました。だけどぜんぜん罰も当たりません。それに、地獄がどんな所かも知りません。過去世の事は何にも分からないので、地獄も分かりません。だから、日顕上人の悪口を言うとどうなるのか、全然わかりません。」と答えました。

その創価学会の方は、ニコニコしながら、「それでは、しっかりと聞いて、今度、お話します」と意って帰られました。今、私は、ひょっとしたら、意義のある対話が行われるかもしれない、と期待しています。

96 名前: 独歩 投稿日: 2002/04/27(土) 08:57

明日は、いよいよ4月28日、みなさん、お忙しいんでしょうね(笑)

97 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/04/27(土) 09:22
なんでしたけ? 明日は何でしょう? 何があるのですか?
私はいつもどおり仕事ですけど…。(爆)

問答迷人様の、その対話の「結果」を楽しみにしております、
最近の法華講も学会も、自分の指導者の悪口を言うと地獄に落ちるというお話、
私も周囲でよく聞かれます(爆)

98 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/04/27(土) 09:26
それから、いちりん様? かと思われる方に、昨日夕方、荻窪駅北口でホットペッパー
の配布の仕事のときに配りましたが…いちりん様でしょうか? 挨拶もできなかったのですが。
もしご本人様でしたら、すみませんでした…。

99 名前: いちりん 投稿日: 2002/04/27(土) 11:11
いえ、それはわたしではありません。
たまに、ラーメン食べに、荻窪に寄ることはありますけど。
さて、きょうは、キナ・ショーキチのコンサートに行くかなあ。

100 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/27(土) 14:02

60554 ゲットしました。

101 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/27(土) 14:24

みなみつくしさん

嫌ですねぇ、からかっては。立宗750年です。御宝前を最高に荘厳したいと思っています。

102 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/04/27(土) 20:32
そうだったのですか!
すっかり忘れてました。別にからかっているわけではなくて。明日は所属寺院では何も無くて、立宗会は実はオフ会の日でした。私は休むつもりだったのですが、母がどーしても行きたい、と。それで休んだのです。
びんぼーな私には荘厳するスペースや道具はない。困りました。

103 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/27(土) 23:21

みなみつくしさん

御免なさい。困らせてしまいましたか。『最高に荘厳』なんて書きましたが、実は、私も、大層な事が出来るわけではありません。いつもは掃除しない、仏壇の隅々までお掃除することが一つ。それから、華立ても隅々まで磨いて、新しいしきみをお供えすること、これが二つめ。そして、季節の果物と、おいしいお菓子を買ってきて、お供えすること、これが三つ目です。これだけは、明日の仕事として、真心込めてやりたいと思っています。如何でしょうか。

104 名前: いちりん 投稿日: 2002/04/29(月) 13:22

う〜ん。近ごろは、漢字熟語の多い文は、読めなくなってしまった。

105 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/04/30(火) 06:44
三十万登山に昨日行って参りました。
法要等について、非常にマナーの悪さが目立ったお登山でした。
まだ終わっておらず、まだご僧侶が退場されてないのに立ち上がったり、階段に駆け込み押し合ったり。私語や携帯電話の通話が聞こえたり。
観光に来ているのではないはずです。
ちなみに、私の近くに力士二名が座っておりました。慶祝弁当、いただきましたが、いつものお弁当屋さんではなく何故か倒産した京樽でした。
その前日、実は、その弁当よりも豪華な慶祝弁当をいただいちゃいました。へへへっ。

106 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/04/30(火) 06:55
今の名前について、もう止めたいと考えてます。
みなみつくしはお坊さんの名前だと後で分かってしまったのです。男性の名前は使いたくないのです。
オフ会で問題ない、と言って下さった方が居りまして、感謝してますが。
ご意見下さい。

それから皆様は連休をどう過ごされますか。私は殆んど仕事です。時間は少ないですが。

107 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/04/30(火) 09:25

みなみつくし さん

三十万登山会、法要はどんな内容だったのでしょうか。簡単で結構ですから、御披露お願いいたします。

私のところは、休みは日曜日だけなのです。ですから、基本的に、連休は仕事なのです。そういう方、結構いらっしゃるようですね。テレビに映る、連休に海外旅行に出かける人達の姿を指をくわえて見ておりました(笑)。

「みなみつくし」さんが駄目なら、『つくし』さんなら、女性のハンドルネームとしては、ふさわしいかなぁ、なんて勝手なことを思ってます。


61000 ゲットしました。

108 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/02(木) 12:38

4月29日、所用で富士宮に行きました。時間があったので、大石寺に“観に”行きましたが、境内にはワッペンを貼らないと入れないし、輸送班は睨みを効かせているし、仕方がないので、富士美術館の駐車場に停めて、建造中の奉安殿なるものを遠目から拝見。どこかで見たことがあると思ったら立正佼成会の法輪閣に似ているなと(笑)
まあ、デザイン的には法輪閣のほうが優美な感じ。奉安堂は色も形も趣味が悪いと思うのは個人的な感想。

それにしても、大石寺は、開宣法要は2回やるし、30万登山は延々と続けるなか、奉安殿はそれに間に合うような建築計画になっていないのは、いかにも放埓な予定立てだと思いました。これだけの予算を使い、さらに記念行事があったら、国家・県などの事業であったら、かならず記念日に間に合うように建造されるもの。できなければ、責任者は引責辞任を余儀なくされることになるでしょう。

結局、石山の場合、3月の開宣法要にも登山、4月も登山、30万も登山、そして、奉安堂と落慶でまた登山と、何度何度も登山させるという“経営方針”で人と金を集めるから、こんなことが許されるのでしょうか。

それにしても輸送班が同じユニフォームを着て、無線機片手に部外者の排除と、効率良く参拝者を誘導することに腐心する姿は、任務者には悪いですが、実に異様な光景です。このようなことが信心活動であると思ったら、私は大きな勘違いであると指摘しておきたいと思います。

オフ会であったお二人、ごめんなさい。でも、もしロムしていらしたら、少しお付き合いを。

私の友人でカメラマンがいます。世界中の聖地を歩き、ダライラマにも会い、マザーテレサにも会った人物です。大石寺に連れ立ったことがあります。彼曰く「軍事政権下の聖地じゃあるまいし、なんで制服の警備員が見張っているんだよ。ここは異常だよ」と吐き出すように行って、「もう、ここには2度と来ない」そう言いました。

さらに彼は「バスで大挙押し寄せ、“与えられた”予定を済ませて、また団体で帰って行く姿に、かけらほどの信仰心も感じない、哀しい気分だ」と言ったものでした。そう言われたとき、まだ私は法華講の役員であったので、一所懸命、石山の弁明をしたものですが、先日、石山に行って見て、しみじみ彼の言葉を思い出したのです。

「チョモランマに行ったとき、聖地巡礼をする人たちを取材したんだ。あの人たち、歩いてチョモランマまでやって来るんだよ。ある人に『ここに来るのに、どれくらいの時間がかかった?』と聞いたら『3年』と答えた。3年かけて歩いてきたっていうんだよ。それなのに、着いてもすぐには山には登らない。まず、山の周りを周るんだよ。経典に仏に右繞三匝ってあるだろう。あれらしい。それで周るのに、また1年もかけるというんだ。それでようやく山を登り出す。
 おれも登ってみたんだ。もっとも途中まで、車でだけど。驚いたんだ、その時。たくさんさ、本当にたくさんの行き倒れた巡礼者たちの遺骸を見かけたんだよ。何年もかけて歩いてきて、やっとここまで辿りついたのに、死んじゃったんだよな。もしかしたら、巡礼を果たして力尽きたのかもしれない。いいか悪いかわからない。でも、信仰の重みを感じたんだよな。命懸けの信仰っていうのかな。
 それに比べるべくもないけど、なんだよ、あんたたちの登山てさ?」

続けて、「世界平和だ、民衆救済なんて口で言うのは簡単さ」そう行って、初めて海外へ行ったときの体験を語り出しました。

ふと路傍に出ると、道端の次の数百メートル先まで角までハンセン病の罹患者が長蛇の列をなして座り込んでいたといいます。見れば、服はぼろぼろでやせ衰え、顔や体はただれ、膿を噴き出していたと言います。初めて経験に彼は鼻と口を押さえ、恐怖のあまり、そこから駈け出し、逃げてしまった…。正直、「恐かった」のだと言いました。日本で社会派・良識派で知られ、少しは名の通ったプロである彼は、その時に自分の持っている信仰のウソを自戒するとともに、それが日本人の信仰の現実であるとも思ったと語ってくれました。

そんな話を聞かされてから、もう10年の歳月が経過しています。いま、ようやくと彼が語ってくれた話をかみ締められるようになりました。

109 名前: いちりん 投稿日: 2002/05/02(木) 13:16
独歩さんが、マザーテレサのことを書かれていたので、わたしの体験ですが。

カルカッタに着いて空港を出ると、この臭い、この熱気、この緊迫感。またインドに来たのだとワクワクする。インドは、何度も来ているのだが、入国の時はいつも緊張する。

外には、雲助タクシーの群。インド人の目がランランと光っている。外国の旅行客はいいカモだ。運転手同士で、客の奪い合いが始まる。

その夜は、サダル・ストリートにある救世軍の安宿に泊まる。なにしろ一泊50円ほどの超安宿。ドミトリー形式の雑居部屋になっていて、世界の貧乏旅行の若者が泊まる定番の宿だ。情報交換にはとても便利なのだ。

翌日の朝、人力車に乗って、カーリーテンプルに行く。ここは、カーリーという女神が祀られている。その女神に捧げるために、境内では生きている数匹の山羊の首をたばねて、大きな刀でドバッと切り落とす。羊たちは、クビを切り落とされても、かたかたと口を痙攣させる。地面に血があふれる。血の臭いに引き寄せられて、カラスや野良犬が集まってくる。

テンプルの隣に、マザーテレサの「死を待つ人の家」がある。
そこは、まさに死に行く人を看取るための施設。毎日、路上に倒れている人たちがかつぎ込まれてくる。カルカッタには、ホームレスが何十万人もいて、路上で生まれて、路上で死んでいくのだ。

マザーの奉仕とは、イエスが隣人愛を説いたからではない。まさに、ぼろぼろになって飢えて病にかかって死んでゆく者こそが、それがイエスだというのだ。
わたしたちが出会う老いて路上で朽ちていくその人こそが、イエスであるという。だから、マザーにとっては、まさに神に奉仕するような気持なのだと思う。

マザーは言う。「私は決して群衆の面倒を見ない。ただ一人の人だけを見る。もし群衆を見ていたら、きっと私は何も始められないでしょう」と。

「死を待つ人の家」では、世界各国の青年達が奉仕活動をしていた。抱き抱えながら老婆にミルクを与えている青年の姿、壁には伝染病で亡くなったシスターの写真も貼ってある。一人の人を愛するということは、ここまで命がけなんだ、とてもわたしにはできないことだと、思った。

夕方には、教会本部でミサに参加させていただいた。ミサには、シスターたちが200人ほどと、あとは死を待つ人の家でボランティアをしている人たちが参加していた。

インドの喧噪の中、ここの祈りの空間の、なんとも清浄なこと。
それはきっと、自分一人のための現世利益の祈りの場ではないからかもしれない。死に逝く人に対して、なんとか希望と慰めを与えられますようにという祈りを感じた。こういう深い祈りが、シスターたちの奉仕活動の源泉になっているのだ。

祭壇のそばには、マザーはいなかった。今日はマザーはおいでにならないのかと、私は残念に思った。だが、賛美歌を歌っている時に、何気なく後ろを振り向く。
小さな老婆が、さらに体を丸めて祈っている。
も、もしや。。
よく見ると、それは、マザーその人だった。
シスターたちと同じ白い服、小さなお体で、ひっそりとまったく目立たない姿だ。 
しかも、入り口の履き物入れに近い場所。

ミサが終わると、マザーは真っ先に外の戸口の前に立って、参加者一人一人を祝福しマリアのメダルのようなものを手渡す。

マザーは、上座にいて説法するわけでも、儀式を自ら執り行なうわけでもない。
もっとも下座の靴箱の近くにいて、みなに仕えるような姿だった。
「こうして私のように、あなたたちも苦しんでいる人に仕えなさい」という無言の教えを感じた。

110 名前: いちりん 投稿日: 2002/05/02(木) 13:35

マザーの姿から、へぇぇぇと驚いた点がいくつか。

●下座に徹していた
なにしろ下駄箱の近くがマザーの祈りの定位置でした。もっとも下座なんですね。
聖書には「人の上に立つものは、人に仕えなさい」とあります。
イエスみずからが、最後の夜は、弟子たちの足を洗うのですね。

●説法じゃなくて、行動で姿で示していた 
ミサが終わると、誰よりも早く立ち上がって、戸口に立って、参列者を祝福していました。

●一人を大事にしていた
マザーには、団体とか数とか建物の大きさなんて、どうでもいいんでしょうね。
目の前の苦しんでいる一人の人、その人を救うだけ。その人が、まさにイエスとしてあらわれている。

●みんなとおんなじ格好をしていた
マザーはその教会のリーダーなんだけれども、まったくシスターたちとおんなじ格好でした。
そして、シスターのなかには、偉いとか古参とかあるのでしょうが、まったくみんなおんなじ制服でした。それはも、白一色に青い筋の入った質素なものでした。

●お金はとらない
当たり前だけど、お金はとるわけないですね。
ただ、お金は必要で、寄付は募っていました。それは、路上で死に逝く人たち、親のない子どもたちを救うためのものでした。

111 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/02(木) 14:09

いちりんさん:

いいお話をお聞かせいただきまして、有り難うございます。
世界各地に自分の目で確かめに行く、いちりんさんを私は本当に尊敬します。

マザーの言葉で私が愕然としたこと。「日本は貧しい国だ。皆が飢えている」という一言でした。これを教えてくれたのはプロテスタントのユダヤ人、日本でカルト救済活動をしている知人でした。

マザーが言う日本人の飢えとは日本には愛(慈悲)がないということ、みな愛と慈悲に飢えているという意味です。私がもっとも考えさせられた一言でした。

112 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/02(木) 14:25

> わたしたちが出会う老いて路上で朽ちていくその人こそが、イエスであるという。だから、マザーにとっては、まさに神に奉仕するような気持なのだと思う。

渡部昇一さんが以下のようなことを書いていました。

光明皇后はすでに天平の昔に飛田院や施薬院を建て、1000人の垢を洗おうという願を立てられたのである。その1000人目の癩病(原文のママ)患者が膿を吸ってくれるよう願ったのでそれを吸ってあげられた。すると、その病人はただちにアシュク仏(如来の一種)となって空中に消えたという。これは伝説であるが、癩(原文のママ)病院を建て、自らその患者の世話までなさったことまでは事実である。さらに伝説を一つ加えておけば、インドの見生王が、生きた観世音菩薩に会いたいという願を立てたころ、「東方の光明皇后を見よ」というお告げを得たので、問答士という彫刻家をはるばる来朝させ、皇后をモデルに三体の仏像を彫らせた。薬師寺の吉祥天の像も皇后をモデルにしているという。この辺、事実と伝説が絡まりあっていて断ちがたいが、皇后の人となりを示すには十分である。(『日本史から見た日本人。古代編』152頁)

優れた宗教感情というのは、必ず絶対的リーダーといったカリスマへの奉仕ではなく、社会的な弱者の中に神仏を見る形になっていくのだと私は思いました。

113 名前: 志楽 投稿日: 2002/05/02(木) 19:13
いちりんさん、独歩さんの話を聞いていて、心のそこからつきあげてくるものを感じました。

それにひきかえみずからの信仰のなさけなさ。深い反省なくしては読めません。

わたしも少しでもよいから上に書かれていることを見習いたいと思います。

本当にいい話をありがとうございました。

114 名前: モモ 投稿日: 2002/05/03(金) 01:55
>それにしても輸送班が同じユニフォームを着て、無線機片手に部外者の排除と、
>効率良く参拝者を誘導することに腐心する姿は、任務者には悪いですが、実に
>異様な光景です。このようなことが信心活動であると思ったら、私は大きな勘
>違いであると指摘しておきたいと思います。

>オフ会であったお二人、ごめんなさい。でも、もしロムしていらしたら、少し
>お付き合いを。

そういうことを言う人もいると思ったので今まで輸送班のことは内緒にしてたの
です。正直言って私もいろいろなところで矛盾を感じてます。しかしとりあえず、
今年は今までどおりやっていこうと思ってます。

115 名前:投稿日: 2002/05/03(金) 02:27
>たくさんさ、本当にたくさんの行き倒れた巡礼者たちの遺骸を見かけたんだよ。
何年もかけて歩いてきて、やっとここまで辿りついたのに、死んじゃったんだよな。
もしかしたら、巡礼を果たして力尽きたのかもしれない。いいか悪いかわからない。
でも、信仰の重みを感じたんだよな。命懸けの信仰っていうのかな。
 それに比べるべくもないけど、なんだよ、あんたたちの登山てさ?

今の登山は明らかに楽です。
大講堂での展示にて、昔の法華講が様々な法難に遭いながらも信心を貫いてきた姿、
命がけのお登山の姿、痛感しました。
バスに乗って団体で登山したのですが、その帰り、その日のことについて、
コメントを言う機会が与えられたのでマイクで突っ込みを入れておきました。

「今の私たちは恵まれすぎていると思いますが、如何思われますでしょうか?」

楽に東京からバスでスムーズに行って、マナー悪く登山して、
「感激しましたー」とか言っている人が多かったから、
「ああ、登山の重みわかってないな信仰の求道心あるの?」
みたいに感じました。

>どこかで見たことがあると思ったら立正佼成会の法輪閣に似ているなと(笑)
まあ、デザイン的には法輪閣のほうが優美な感じ。
奉安堂は色も形も趣味が悪いと思うのは個人的な感想。

そのようには思いませんが、どこか正本堂を引きずっているような
感じがしました。

法華講の信仰心は、どこにいってしまったのでしょうか。

116 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/05/03(金) 02:28
あ、上の書き込みは私です。「み」は私の入力ミスです。

117 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/05/03(金) 02:46
問答迷人様

内容ですが、確かこんな感じの物でした。

5:30  新宿西口をバスで出発
8:00  大石寺到着
10:00 客殿にて法要開始→方便品第二〜じがげの途中まで読む
      →じがげの訓読しながら散華(当たると痛いぞー)
      (記念の紙でできた散華を何人かの御僧侶が飛ばします)
      →名前は忘れたけど、2人が御僧侶に問答して、日顕上人様が
      問答について解説するような儀式→日顕上人様、柳沢総講頭が
      簡単に挨拶→法要終了
11:30 券と引き換えに記念品とお弁当を頂く
13:30 御開扉
14:20 大講堂にて特別展見学→下山

という感じでした。詳しく説明できる方、あとよろしくお願いいたします。

118 名前: 無徳 投稿日: 2002/05/03(金) 03:17
みなみつくしさん今晩は、

 いったい、法華講の信仰心って有ったんでしょうか?
法華講がしっかり信仰(実践)していれば、創価学会や顕正会がこんなにも
のさばることもなっかったと思うのですが、と言うことは嘗ての(いや、今
もかも知れません)総本山や末寺の御僧侶方の信仰に対する矜持を疑わざる
をえません。

 巨大な建築物を建てることにどんな意味があるのでしょう?ましてや厳と
して存在した巨大な正本堂を破壊して、またもや巨大な奉安堂とは私にはと
ても理解が届きません。

119 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/03(金) 23:21

61500 げっとしました。

120 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/03(金) 23:33

114 モモさん:

> そういうことを言う人もいると思ったので今まで輸送班のことは内緒にしてたのです。

決して私はモモさんを批判しようなどという意図で書いたのではありません。
物事を客観的に見ることは大切なことです。
石山、あるいは創価学会などで行われている無償労働が恰も信仰であるという誤解は既に40年以上の歴史があります。
この点は、富士門流の見直しのなかで、どうしても明らかにしておかなければならないと思ったので記しただけです。

信徒は無償労働なのに、何ゆえ、柳沢さんは最高級のプレジデントで運転手付きで乗りつけ、僧侶は全員、給料をもらっているのか、このような矛盾を「おかしい」ということを、私はいちりんさんのマザーテレサのお話は語って余りある思うのです。信仰も何にもない人からすれば、残念ながら、石山と法華講員の有り様より、マザーテレサとボランティアの人々の姿のほうが遥かに、比べるべくもなく心を動かさせることでしょう。

マザーテレサには宗教を見、法華講には軍隊を見る、その現実を考えてみることは大いに価値のあることであると私は思うのです。判読いただければ幸甚です。

121 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/03(金) 23:36

志楽さん:

はじめまして。よろしくお願い申し上げます。

122 名前: モモ 投稿日: 2002/05/04(土) 01:49
独歩さん

レス拝見しました。というか私も輸送班をやりながら輸送班をもうそろそろ止める
べきかも、ということを正直感じているからです。輸送班の登録には指導教師のサ
インが必要です。尊敬できない指導教師のサインを貰いつつ輸送班に登録をしてい
るという矛盾した現実があります。いやみっぽくて困ってます。それでも一応立宗
750年までは…、という気持ちもあったのです。また信仰とは関係ありませんが、
班長、主任などの選び方も恣意的だと正直言って感ずるのです。もっとも連合会の
活動で自分にひいきして貰ったこともあるので言い過ぎはよくありませんが。オフ
会の自己紹介の時の「輸送班やってますか?」という質問がありましたが、できれ
ば内緒にしておきたかったな、と思ってます。もっとも本山任務からそれなりに得
るものもありましたし、為にはなったと思います。これからどうするかはまだ考え
てません。

123 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/04(土) 08:15

122 モモさん:

信教というのは自由だし、行動というのも他人に迷惑をかけない限り、自由でしょう。
ですから、モモさんが輸送班を続けるか否かは個人の問題に属すると思います。他人がとやかく言うことではないですね。

まあ、たぶんモモさんの言いたいことの趣旨は「輸送班、内緒にしておきたかった」のにあからさまに書かれてしまったという不本意を告げるところに趣旨があると、お見受けするので、この点について記します。

輸送班の問題は、私としてはオフ会でモモさんが自己紹介をしたから、それについてコメントしたというより、私はモモさん個人とは関係なしに、書いておかなければいけなかったわけです。私の個人的な慙愧、また失ってしまったまともな指摘をしてくれた友人への陳謝も含めて、ということです。

ただ、モモさんが輸送班であるというのは「オフ会の案内」のスレッドを読めばわかってしまうことになっていたので、オフ会当日の自己紹介ということではなくて、この掲示板上のこととして、私も書く以上は、テーマに該当する人に、それもお会いしたこともある人である以上、書く内容が個人攻撃ではない旨をお断りをしたという流れです。

いずれにしても、組織というのは不本意でもやらなければいけないこと、おかしいと思ってもやり続けさせられてしまう一種の魔力がありますよね。そこで自分の信念を持つことも難しい、信念に基づいて決意し、行動することはもっと難しい。けれど、「おかしい」と思ったら、おかしくない道を選択し、そちらに歩むことは大切なことであると、私は思っています。それに、そのように選択した人生は清々しいですし、自分自身に対する後ろめたさも消えるものです。たぶん、ここの常連で、かつてどこかの組織に属していた、こんな役職やなんやらをしていたと“過去形”で語る方々は、私と同じ「さっぱりした」整理の付いた気持ちで人生を歩んでいるであろうと拝察します。

輸送班が内緒かどうかというより、むしろ、モモさんの書き込みには、そのすっきりしない、おかしいと思いながら、しかし、やらなければいけないといった葛藤のほうこそ、考えるべきことのような気がしますよ。「できれば内緒に」と2度にわたって記される逡巡を脱却されんことをお祈り申し上げます。

124 名前: ワラシナ 投稿日: 2002/05/04(土) 22:07
無徳さん、しばらくです。ワラシナです。

>いったい、法華講の信仰心って有ったんでしょうか?

0、とのことですが、有ったとおもいます。なぜなら、「日蓮正宗入門 第三章、歴
史」で信徒の法難史の記述がちゃんとあるから。なのに、、。

1、その後、昭和の宗門史に入ったところの236頁最後で「信徒組織の動向」という
特高調書ばりの物凄いタイトルの章があり、学会中心の組織発展史の記述がつづい
て、平成宗門史に入ったところで宗創抗争の発端と破門結末を述べた後、平成3、
4年にかけて、法華講支部が次々と結成された、、、という順序で初めて法華講の
名前がでてくる。この法華講に対する紹介のされかた(後の315頁では独立して紹介
されているが。)が、寂しいと感じました。

2、それまで戦前までだって立派な講中があったのですから。「信徒組織の動向」を
語るに巨大化した学会組織から先に記述された事に、やっぱり「数(かず)」かな、
と感じました。

125 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/05(日) 00:06

問答名人さん:

お元気でいらっしゃいますか?

126 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/05(日) 00:11
ワラシナさん
おっしゃるとおりですが、近代法華講と戦前法華講は違いますね。
元来法華講衆は組織ばった形では無かったはずです。
お寺にいる信徒が、親睦団体にように作っていたと聞いています。
たまに、気合いの入った講が出来ても、それは宗風にはあわず、離脱してますし。
ですから私は全ての信徒は直信徒にするべきで、講は不要だと思います。
私的に作るのは自由ですが、宗門の非公認として作れば良いじゃないですか。

127 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/05/05(日) 05:25
>ですから私は全ての信徒は直信徒にするべきで、講は不要だと思います。
私はそこまでは思いませんが、直属制度を復活させたほうが良いかと思われます。

理由:組織活動に馴染めず信仰自体から脱落している方が非常に多い。

落ちこぼれ信者の受け皿として必要だと考えます。

128 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/05/05(日) 05:33
>問答名人さん:

お元気でいらっしゃいますか?

私も、気にしております。

近況:タンクトップで私の脂肪を披露しました。
私は本日より真剣にダイエットに挑みます。
54キロ→37キロにしたいです。
次のオフ会迄どれだけやせたか、見てください。
今年は、エステに通いまくりで、整形手術も考える予定です。

129 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/05(日) 06:59
みなみつくしさん
>私はそこまでは思いませんが、直属制度を復活させたほうが良いかと思われます。
今でも、直属が無い訳では無いんですよ。古い墓檀家がいる寺院では、墓檀家やその方々に折伏を受けて帰依した人などはね。

130 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/05(日) 09:13

独歩さん

>問答名人さん:

お元気でいらっしゃいますか?

済みません。このところ、仕事に追いまくられています。掲示板をロムするのが精一杯、なんて感じなんです。私のところは、祝日は営業しますので、他が休業している関係か、ゴールデンウィーク前から、大忙しなんです。ゴールデンウィークが終わったら、少し暇になると思います。皆さんの書き込みをじっくり読ませていただき、書き込ませていただきたいと思っています。


みなみつくしさん

>私も、気にしております。

ご心配掛けて済みません。

>私は本日より真剣にダイエットに挑みます。

ちょっと待ってください。私の治療院は、耳つぼ痩身術もやっています。専門的なことになりますが、少し、コメントさせてください。

>54キロ→37キロにしたいです。

ダイエットは、健康体重、理想体重という二つの目標値を考えなくてはなりません。37キロは、みなみつくしさんの身長からすると、少し少なすぎるのではないでしょうか。それと、どのくらいの期間で落とす予定でしょうか。通常、10キロ落とすのに、三ヶ月掛けます。

>次のオフ会迄どれだけやせたか、見てください。
>今年は、エステに通いまくりで、整形手術も考える予定です。

エステでも、痩身術を言いますが、あくまでも、外側からのことが中心です。エステだけで、痩身しても、大抵リバウンドしてしまいます。また、健康を害する場合もあります。

太りすぎの原因は、当然のことながら、食べ過ぎと運動不足です。だけど、なぜ食べ過ぎるのか、その理由が理解されていない場合がほとんどです。それは、身体が必要とする、必須アミノ酸や、ミネラル、ビタミン類の量が少ない食品を食べていると、多く食べないと、健康を保てないからだといわれています。栄養バランスの良い食事が、どんどん失われてきています。特に、ハンバーガー等に代表される、外食産業での食事が日常化してきています。栄養バランスがかなりおかしくなってきているのです。そのため、必要な栄養素を取り込むために、たくさんの食品摂取が必要となります。間食の習慣とかは、そういうところに由来するのだと思います。その結果、カロリーの取りすぎを招き、運動不足とあいまって、どんどん脂肪が蓄積されてしまうのです。

問題の由来するところは、そこにあります。その根本的な問題をそのままにして、食事を減らしたりしたら、大変な結果を招きます。第一に、女性であれば、栄養不良から、生理が止まってしまったり、肌の潤いが無くなったり、しわが増えたり、ひどい場合は、拒食症という最悪の事態を招きます。

それでは、どうすればよいのか、答えは簡単です。身体に必要な栄養素の内、エネルギーに変わる脂肪はすでに身体についています。あとは、たんぱく質、ビタミン、ミネラルを中心とした食事に替えればよいのです。そうしたものは、現在、健康食品として、いくつも売られています。極端なことを言えば、水と、必須アミノ酸、ビタミン、ミネラルだけバランスよく取っておれば、他は、何も食べなくても、健康を保つことが出来ると言われています。(勿論、これは、身体の不必要な脂肪を消費している期間のことです。)

そして、大切なことは、極端な空腹を我慢してはならない、ということです。朝昼晩と、きちんと栄養補助食品と食事を取る事です。食事を抜くと、身体は、その少ない食事から、栄養素を取ろうとしてがんばりますので、栄養吸収率が向上してきます。これは、ダイエットを終了した時点で、元の食事に戻したとき、栄養の吸収が良くなっているので、たちまちにリバウンドしてしまうことになるわけです。

もし、ご質問があれば、メールしてください。決して無理しないことです。

131 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/05(日) 09:18

書き忘れました。

ダイエット期間中の食事の量は、私のところでは、毎食、腹五分にしてくださいと申し上げています。勿論、量を減らすだけで、品数は減らさないことが大事です。つまりは、お皿や、お茶碗を半分の大きさのものに取り替えてしまうのです。

132 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/05(日) 15:37

> 127

> 直属制度を復活…組織活動に馴染めず信仰自体から脱落…落ちこぼれ信者の受け皿…

今の法華講の信仰に馴染める神経というのはものすごいですよね。
落ちこぼれっていうより、通常の神経の持ち主だったら、異常さから離れるのは当然のことでしょう。

社会の落ちこぼれが法華講に集まっているようしか見えませんよね。

まあ、「落ちこぼれ」などという差別的な表現は嫌いです。言わんとすることはわかりますけれども。

しかし直檀を作っても抜本的な解決にはならないでしょう。石山では有師已来、手続(てつぎ)の師を言うのであって、この点は動かせないからです。

ただ、この手続の師というのは、創価学会との蜜月時代にはまるで空文化していたわけです。所属寺院の住職を指導教師だ、手続の師だと思っていた学会員なんかいなかったわけです。

それが「誤り」だと今ごろになって石山は言うわけですが、その誤りを許していたのは、なんてことはない、石山そのものであったわけでしょう。

元来、戒壇之曼荼羅の内拝だけできればいいというニーズがあるということです。その点に拘らなければ、創価学会・顕正会・正信会とぐんと枠が広がるでしょう。

私は、やればよいと思います。
広宣流布の暁まで蔵にしまうとか大義名分を言いながら、作り変えた蔵は人が数千人も入れる名ばかりの蔵。ひどい欺瞞です。
内拝希望者には法華講員にするのと同じようにお金を取って開帳すればいいのです。少なくとも精師已前は自由に参拝できるようにしていたわけですから。

まあ、カメラ持ち込まれて隠し撮りされたり、導師の命を狙う、テロを行うなんて対外的な事情もあるでしょうけれど。しかし、この危険を敢えて全世界の聖地は侵しているわけです。それこそ、愛・慈悲の精神なのでしょう。

私は仮に直檀となっても石山僧侶には檀那として身を寄せたいと思う石山僧侶は一人としていません。悲しい現実です。

133 名前: 無徳 投稿日: 2002/05/05(日) 18:27
ワラシナさん今日は、お久しぶりですねお元気そうで何よりです。

>>いったい、法華講の信仰心って有ったんでしょうか?

との私の表現は適切なものではなかったですね、当然ながら個々の法華講員
さんや講中のなかには、立派な信仰を貫いた方々がお出でであったことを疑う
ものではありません。

 しかし、私の言いたかった本意は、善悪はともかくも創価学会や顕正会のよ
うな、日蓮正宗の中では新興的存在といえる信仰組織に対し、総本山側が適切
な教導や信仰に対する矜持を示し得なかっただけでなく、弘教や経済面で全く
依存してしまったために、

 これらの新興組織の暴走を許してしまい、あまつさえ主導権を奪われてしま
った為の焦りから、暴挙とも言える破門という最後の切り札を乱発せざるを得
なくなってしまったのだと、私には思われてしかたがありません。

 現代社会における宗教活動がどうあるべきか、また、どうすべきかに対する
問題意識や研究が、総本山側に全く欠けていたのではないかとも思われます。

 日本の現代社会では仏教における在家の信仰者達は必ずといってよいほど、
ヒエラルキーを伴った信仰組織を築き上げ、そして頂点に立つ指導者をほとん
ど絶対として信奉し随順することを通じて、自己の信仰の確立を目指し宗教活
動に勤しんでいるように見えます。

 ヒエラルキーを伴った組織運営という在り方は、現代社会では宗教に限らず、
政治や経済分野においても当然の如くなされていると言ってよいと思います。

 ただ、政治経済の分野では宗教組織のように絶対的指導者を有し、その人を
絶対と信奉するような組織はあまり無いという違いはありますが、何事かを成
し遂げようとするときには、ヒエラルキーを伴った組織運営が最も効率的で目
的に達する近道であることは確かなようです。

 しかし、創価学会や顕正会の在り方を見ていると宗教活動においてはヒエラ
ルキーを伴った組織運営のマイナス面を思い知らされます。

したがって、総本山の御僧侶方に望みたいのは現代社会における日蓮仏法の
実践はどうあるべきなのか、またどうすべきなのかを信徒に対し明確に指し示
し、より良き教導をなさるべきであると共に、現代社会における日蓮仏法信仰
の矜持とは如何なるものかを模範を持って教示していただきたいと切に願いま
す。

ただし、現在のような権威主義的ともいえる指導や教導はごめんこうむりた
いと思います。   無徳

134 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/05(日) 19:08
まず、妙信講はあくまでも妙縁寺の「預かり講」であったという事実があります。すなわち準信徒でしょう。その他の法華講とは違うわけです。
と考えますと、末寺の指導を聞く義務があったのかどうか疑問ですね。ましてや、妙信講は講頭ですら寺の責任役員になっていない中途半端な立場です。

また、創価学会についても別宗教法人であり、同じく準信徒扱いだったでしょう。ですから、授戒以外に寺は意味を持ってなかった訳です。
すると同じく究極まで言えば、末寺の指導を聞く義務があったのか疑問ですね。

ですから本来、ある程度信仰が整ったら、各寺院の(本)信徒としてやっていくのが本筋だったでしょう。ところがそのままになってしまった。ここに問題がありませんかね。

両者とも結局、指導教師の考えを無視した訳です。

すると、創価学会って何だったんでしょうか。

135 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/05(日) 19:17

133 無徳さん:

この問題提議は的を得ていますね。賛同します。

> 現代社会における日蓮仏法信仰の矜持とは如何なるものかを模範を持って教示していただきたいと切に願います。ただし、現在のような権威主義的ともいえる指導や教導はごめんこうむりたいと思います。

まことにもってしかりです。
まあ、私に賛同されても仕方ないかもしれませんが。

136 名前: 無徳 投稿日: 2002/05/05(日) 20:30
独歩さん今晩は、

とんでもない、独歩さんに賛同していただき百人力を得た気持ちです。

 私は大言壮語吐くつもりはありませんが、様々な面で現代社会の在り方に危機感
を抱いています。

 ハイデッカーがナチスに荷担したとされ非難をうけましたが、現代に於ける哲学
や思想界をリードする人々も、現代社会の様々な問題に対し適切な回答を示し得な
いでいるように思います。

 その意味では哲学不在の時代はますます深刻さを加えていると思わざるを得ませ
ん。ビンラデン等のアメリカ社会に対するテロによる挑戦や、やイスラエルに対す
るアラブ人のテロによる対抗は、フランスを起点とする現代思想による白人優位文
明への反省だけでは解決不能の状況とも思われます。

 今や日本を含む世界の先進諸国と言われる国々は中国やインドを代表とする東南
アジア諸国における人口大国の経済的挑戦という、嘗てなかった世界的変革の時代
に突入したと言えます。

 人口大国の経済発展は人類にとって環境破壊・資源枯渇・食糧不足等々の言い古
されたような危機が目前に迫っていると思わざるを得ません。更に富める国と貧苦
に沈む国との格差はますます広がり、世界的に不安定要因が拡大してくると思われ
ます。

 また、日本のような先進国と言われる国においても、個々人においての貧富の差
はますます拡大しつつあります。EUを代表とするヨーロッパ諸国ではこれらに対
する危機感や問題意識から社民主義的傾向が強まり、フランスを中心とする現代思
想界にも少なからぬ影響を与えているようですが、一向に解決の方途を示し得ない
ばかりか混迷を深めているのが現状と言えそうです。

 ハイデッカーが人間を死すべき存在であると共に世界内存在であるとしてフッサ
ールの現象学が示したヨーロッパの危機を、人間の危機と捉え返したと私は考えて
います。

 少なくとも大乗仏教国である日本は、大乗仏教における人間認識を基軸にして、
現代社会に於ける人間中心主義・科学中心主義・金銭中心主義を乗り越え、縁起
・空という仏教の中心概念をしてヨーロッパ中心といえる現代思想に於ける関係
主義をアウフヘーベンして、生死即涅槃・煩悩即菩提とする大乗仏教の到達した
人間認識の緑野をさらに豊かなものにしていきたいと念願しています。 無徳

137 名前: 無徳 投稿日: 2002/05/06(月) 00:58
訂正:
 
 科学中心主義・金銭中心主義を
 科学至上主義・金銭至上主義に置き換えたいと思います。

138 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/06(月) 02:09

136 無徳さん:

そう。たしかに仰るとおりだと思います。

私は結局、真の菩薩道の復興こそ、日蓮信仰の在り方であると思っています。

「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」七仏通誡偈は富士では言われないけれど、仏教の不変の精神で在ると思うわけです。これがいやならば、「衆生無辺誓願度・煩悩無数誓願断・法門無尽誓願学・仏道無上誓願成」四弘誓願でもよいし、私個人としては「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏。」二十四文字の法華経がよいのですが、この菩薩精神をもって、各人の実践をもって社会悪の抑止力になる潮流を作っていくことこそ、現代的な日蓮信仰の在り方であると思っているわけです。

無徳さんが「生死即涅槃・煩悩即菩提とする大乗仏教の到達した人間認識の緑野をさらに豊かなものにしていきたいと念願しています」と表現されるところも、この菩薩精真に基づくものであると私は認識するものです。

139 名前: モモ 投稿日: 2002/05/06(月) 05:06
独歩さん、三師塔のご教示ありがとうございました。これからは私も本山参詣の
折にはつとめて三師塔にお参りしようと思います。

140 名前: モモ 投稿日: 2002/05/06(月) 05:07
30万総登山に参詣しました。法要は方便品、自我偈訓読、論議式となってました。
論議式の1問目は本尊問答抄の「題目の5字をすべし」に関するものだったのですが
よく覚えてませんでした。2問目は報恩抄の「本門教主釈尊を本尊とすべし」に関す
る議題でした。私はここの掲示板のこともあり、興味を持って聞くことができました。
しかし、結局久成の釈尊がどうして曼荼羅御本尊となるのかはわかりませんでした。
そこには論理の飛躍がある、というのが今の時点での正直な感想です。3問目は万年
救護の御本尊と戒壇の大御本尊に関する議題でいた。要するに万年救護の御本尊の賛
文には深い意義があるが御戒壇様の方が出世の本懐である、と言うような内容です。
この掲示板で議論されていた「二千二百二十余年、頭破七分、福過十号」に関する議
論はなされませんでした。そこが聞きたかったのですが。そういえばここの掲示板で
も日蓮大聖人には万年救護の御本尊の賛文より上行菩薩の御自覚があった、という結
論に達していると思います。
あと大講堂には御宗門に関する展示がありました。諌暁八幡抄の複製版の展示もあり
ました。でその中に御歴代上人の写真がありました。ここで言っていいのかわかりま
せんが、日昇上人が本当にアメリカ人とのハーフであったということがわかってしま
い、正直言って複雑な気持ちになりました。

141 名前: モモ 投稿日: 2002/05/06(月) 05:22
ここの掲示板では30万総登山に対する批判がありましたが、法要の内容
自体は信仰歴の浅い人も深い人も満足できる良い法要だったと思います。
批判している人も参詣してみるとよいと思います。

142 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/06(月) 07:43
モモさん
私は今度の金曜日に行きます。
ところで、論議式は昔は、文語でやったそうです。すると「候文」になって、聞いてる人が分からなくなるそうです。
その点、今回口語にしたのは良かったんでしょうが、私は古くさい形式も好きなんですよね。
また、稚児行列も無くなったし、古い形式も復古して欲しいですね。
ちなみに、諌暁八幡抄の複製版の写真なら私も持ってますよ。

143 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/05/06(月) 09:44
問答迷人様。

ふーっ、やっと書き込みできました。でも携帯です。
オフ会の時、実は厚底スニーカー履いていたのでもっと身長低いです。
三十七という数字には根拠があります。身長は中学の時と変わらなかったので、その時ベストやった体重とエステの方が算出した体重を参考にしやした。
あたいはタレント志望やったけれども、太っちゃったら書類審査で落ちやした。
今は一生モンの彼氏いるからタレントにはなれないけど、ネットアイドルならできるやろ、と。
最近ピアス開けたばっかやから耳ツボダイエットは無理だけど、(続く)

144 名前: みなみつくし 投稿日: 2002/05/06(月) 09:58
(続き)
食事については、モデル事務所が使っている製品をプログラム的に使用、リンパマッサージなどでセルライトを分解、水泳など有酸素運動、更に、アブジムニックてうう運動器具で筋肉の比企氏もを行う予定ですので心配なさらないでください。またのちほど。これから仕事ですがいぱい書き込みたいので。登山のこととか。

145 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/06(月) 10:47
私は男だけど、医者から体脂肪を減らすように言われております。
よって、ジム通いを始めました。
勤行続けるより大変な気がします。

146 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/06(月) 12:20

モモさんへ:

石山の三師塔は三つありますね。つまり九塔。全部、参拝するものだそうです。蓮興目の順番で題目三唱。私は登山許可が出ないので、登山会のない日に上がり、御影堂と、そして三師塔を参詣します。本堂と墓所という意味です。子供の頃から何百回と行ったお山ですから、近年の考証とは別に、やはり懐かしい場所です。けれど、本年は身延の宗廟にも上がって見ようと思っています。

30万登山のこと、興味深く、読ませていただきました。
行われた問答式は、読む限り天台の化儀を継承したもののようですね。
実は私は儀式だったものは好きなんですよ。あそこら辺の時代考証やらなんやらは教学部が一所懸命に調べ考えているものですね。儀式方式(ほっしき)に、石山独自性が生じてくるのは精師に拠るようです。けれど、問答式は天台(比叡山)であったかと思います。

ずいぶんと昔、読んだ日蓮聖人の御一代をテーマにした小説に、比叡山で修行中の蓮長がこの問答式に出る一幕が描かれていました。

問答式は、本来、即興の問答であって、論者同士の優劣を決する真剣勝負であったようです。敗者は勝者に下り、時には脇にさしていた刀で自害に至ることもあったといいます。しかし聖人の時代には既に形式化し、元々用意された問答をお互いに言い合うだけのものになっていた。それを聴衆に見聞させる単なる儀式になっていたといいます。

その儀式に臨んだ蓮長は、儀式の真っ最中に突然、「いま、民衆が飢饉・疫癘に塗炭の苦しみをそこに喘いでいるのに、このような形骸化した儀式が何になろうか。仏教とは民の苦しみを救うものではならないではないか」と怒号を放ち、その場を去る。比叡山に、もはや、民衆救済の魂はない。真に民衆を救う仏教を確立しなければならないと立宗を心に堅く誓うという筋書きでした。30年近くも前に読んだものなので正確ではないのですが、そんな内容でした。

実際の聖人はどうであったのでしょうか。わずかな資料から垣間見られる聖人は読経・唱題、法華経・摩訶止観の講説をされていたことは窺えます。あと基本的な行儀は当時の天台の修行に準じていたであろうという指摘もあります。

我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ。

と仰せになられた聖人の一日はまさに寝食を惜しむ修行三昧であったろうと私は想像しています。

147 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/06(月) 21:13
アンディ・フグの遺言で、フグ寺院が建立されるようです。
アンディと言ったら創価学会ですが、何宗の寺院を建立するのでしょうか。
PS.K1は好きだったんで、アンディの冥福をお祈りいたします。

148 名前: みなみつくし 改め 憂国少女やーこ。 投稿日: 2002/05/06(月) 23:26

ハンドルネーム、早くも改名する事になりました。
あとで、お坊さんの名前だと判明したので、なやんでおりました。


>フグ寺院が建立されるようです。
え? 本当ですか? 詳細が知りたいです。
格闘技は嫌いだけれども、CMが印象に残りましたから。
でも、覚えてないですぅ…。


>医者から体脂肪を減らすように言われております。
よって、ジム通いを始めました

あまり、筋肉ばかり鍛えすぎない事をおすすめします。
なぜなら、高校時代失敗して筋肉に変わったのに体重落ちず、
さらに、運動できなくなったらとたんに脂肪に変わってしまうからです。

お勧めしたいのが、水泳です。あと、ほかの有酸素運動です。
一回多目に泳ぐだけで全体的にすっきりします。
それから、脂肪が固まると「セルライト」ができてしまいそれが膨らんで痩せにくく
成ってしまいます。そうなると、リンパ系オイルマッサージなどで強くほぐさなければならなくなってしまいます。
毒素や脂肪、余分な水分を排出いたしましょう。
実はわたしはもっと太っていたのですが、1ヶ月半かけて急に痩せました。
病気ではありません。まずはバランスのいい食事で、全体的に少しずつ食べるのを
減らし胃を縮小させましょう。


OFF会こられた皆様へ
写真一通をメールで送付します。重たくなりますがご了承ください。
掲示板付属アドレスで送ります。

149 名前: みなみつくし 改め 憂国少女やーこ。 投稿日: 2002/05/06(月) 23:30
しまった…3が二つできちゃった…しかも大阪弁誤字だらけ…すみません。
筋肉の比企氏もを→筋肉の引き締めを

150 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/07(火) 07:49

62153 ゲットしました。

151 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/07(火) 08:02
休みが明けましたね。本日より仕事か。ああ面倒くさいな。
ジム通いも復活だ。憂国少女やーこさんお勧めの、有酸素運動中心にがんばろう。

152 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/08(水) 20:42
今、帰れません。
横浜線火災でストップして、川崎から帰るのに、南武線に乗って、溝の口で東急線に乗り換えて、長津田で待ち惚け。
もう少ししたらやっと帰れます。

さて、日本の拘置所での死刑の際お経が流れると本にありましたが、
一体何のお経でしょうか。

153 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/09(木) 00:38
私の家の近くに小菅の東京拘置所があります。
そこでも死刑が出来るようになっております。
日蓮宗の僧侶が、言ったことがあるそうですよ(北野武の菩提寺の僧侶です)。

154 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/09(木) 07:45

62507 ゲットしました。

155 名前: 五月雨 投稿日: 2002/05/09(木) 16:51
昨日、所属寺院の法華講の方が1年ぶりに訪ねてこられました。近くに引っ越してきたと言うので、息子さんが結婚されて、今までの家は若夫婦に渡して別居されたのだろうと思い、そう聞くと、息子は自殺したと言うのです。まだ三十も半ばの若い身空に一体何があったのか。私達がまだ組織活動していた時に、知っていた彼の人となりに思いを馳せても、あの彼が自らの手で人生を終わりにしたという事は、いまだに信じられないことです。彼なりにそうせさ゜るを得ない色々な理由があったのでしょう。その中の一つに、この信心への不審というものがあったと聞きました。
組織の在り方に、非常に疑問を持ち、組織活動を嫌がっていました。今から思えば去年の一月に登山をしてからこっち、段々様子がおかしくなってきてたようだ。だけども、日常生活は普通に送っていたから、何にも気付かなかった。と話されるお母さんに、たかが信心の事ぐらいで悩まなくてもと言いました。宗門と学会の争いなんて、トップ同士の意地の張り合いじゃありませんか。学会に非がある。宗門には非はないと、信じ込まされていたら、正しい宗門は隆盛を誇り、間違っている学会は潰れて当然と思い込み、今なお衰退の兆しさえ見せない学会と、中々伸びない宗門の現実にジレンマを感じない人はいないでしょう。
「学会は大きな組織やから中々潰れんやろうな」という会話が最後だったそうです。宗創戦争に心を痛めて、死んでいった人間がいるという事を、石山の出家僧侶はどう思うのでしょうね。
幸せになる為の信仰じゃなかったのかと、心が痛みます。
 ツブヤキすれっどですので、ちょっとツブヤカせて頂きました。失礼しました。

156 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/09(木) 21:18

> 155

胸が切り裂かれるような悲しい哀しい話です。

私は今日、ばったり、街で法華講の役員に会いました。

「30万登山、なんでいかないんですか」
「あれ、法華講に私の席が残っていたんですか」
「…、いまでも、ちゃんと信仰心はあるわけでしょう?」
「ええ、日蓮聖人は崇敬していますよ」
「戒壇の大御本尊様を信じているんでしょう」
「日蓮聖人の御曼荼羅でしたら、どれも有り難いでしょう」
「唯受一人の血脈だって、信じているんでしょう」
「血脈ねえ、うーん」
「じゃあ、身延でもいいわけ?」
「聖人が晩年を過ごされたところですから。偲ぶべき場所ですよね」
「じゃあ、日朗でもいいわけ!」
「いや、あそこは民部阿闍梨日向師でしょう」
「どっちでもいいけど、日興上人の唯受一人を信じないわけ?」
「まあ、五・一相対は越えて、日蓮聖人が定めた六老僧に戻るべきでしょう」
「ええ! 身延でもいいってわけ。
 あ、そうですか。どうも、お時間取らせました」

と言って、去って行きました。別けれ際に私は合掌礼をしたのですが、頭を上げたときには、もう姿も見えませんでした。

なんで、組織のために同じ宗祖、同じ曼荼羅を拝する人たちを喧嘩させる憎悪でしか、人を動かさないのでしょうか。上のほうでは、打ち合わせが終わっている出来レースだろうに。

まあ、私も気が短いですから、反省するところはたくさんありますが。

157 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/10(金) 07:18
最近欝です。やることにも気力無くて、疲れています。
三十万登山や組織活動の事等、やっぱ何かおかしいと思って。
帰りのバスの中で、感想尋ねられた時、法要について一切答えなかったのは、私、歓喜が湧かなかったからなんです。
他の方々は感じていたようですが。
たった一人の欠席者を気遣いせず、先を争うように席とりとか退場とか。大声で境内を暴れたり。観光旅行じゃないんですよ。何のための登山なんでしょうか。イマイチ盛り上がってないし。
成功は遠い話のように聞こえます。
と思うのは私だけなんでしょうか。

158 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/10(金) 07:50
最近欝です。青年部組織活動にも多少の疑問があります。
ある役職の方の女性のお話です。
私が入信させた友達、彼女他数人の青年部と、学会数人の法論があったのですが、こちら側が教義の間違いを指摘すると、学会は御書をとびとびに読んだのでこちら側は切り文だ、などというやりとりがあって、その場にいた友達はキレまくってました。が、その様子を友達から聞いて、彼女に聞くと、とんでもない返答が来ました。
彼は分からないだけなのよ、法論はことばの使い方で決まるんだから、と。しかも彼女は仕事を早退してまでよくお寺にきます。(続く)

159 名前: 五月雨 投稿日: 2002/05/10(金) 11:13
やーこ様
組織活動における疑問で、鬱々と悩む事が私にもありました。私も講の役員をしていて、どれほど理不尽な目にあったか分かりません。終には全ての事において限界を感じ、組織から離れた訳ですが、その事で周りから大批判を浴び、挙句の果てに「オオバチガアタルデ!」「イッセンダイニナッテシマウゾ」等々のここでは書けない言葉を言われたお陰で、ますます法華講が大嫌いになりました。神経は図太く出来ていると思っていましたが、その後十二指腸潰瘍になり、情けない日々を送っていました。
 今、思い返して見るとき、どうして組織活動に悩んだのかと振り返ってみると、私の場合は、良い法華講の組織を構築したいと真剣に考えたのが原因でした。所属寺院は七十世帯に満たない小さなお寺でしたが、法華講員は皆元学会員でした。
役員になった人は、学会時代に上の方の役職をもっていらした方ばかりで、私はというとぺーぺーあがりでその上、学会幹部の生意気な所が大嫌いでしたから、理不尽な言い分に従う筈もありません。私の事を「訓練されていないから駄目だ」とよく言っていました。信心するのにどんな訓練が必要なのか、未だに理解不能なのですが。その上、指導教師はやる気はなく、弱きを挫き、強きにおもねる性格で、お寺に参詣する人数を減らすのが得意技の人でした。私の足を引っ張る、皆の前で平気でウソをついて、
人を貶めるという役員について、そういう事をしない様に注意をして欲しいんですとお願いしたら、「人にそう言われるのは、あなたの因縁ですよ。あなたは足が悪いでしょ。息子さんも足が悪いでしょ。因縁です。それと一緒ですよ。」と平気な顔で言われた時は、私自身が背負い、又、子供に背負わせている宿命の辛さを、そんな事と同様にされ、どれほど傷付いたか。今思い出しても、泣けてきました。そんな組織の長である指導教師と、人の上に立って、人を支配し続けたいだけの役員。
こんなのが信心の集まりではないと思っています。
やーこ様の状況は、分かりませんが悩むだけ無駄というものです。まともな組織だったら悩む事も無いでしょう。まともじゃないから悩まなければならないのです。又、悩みに思うという事は、あなたがまともな感覚の持ち主だからです。
結論として、私は組織から離れて良かった。活動しません宣言した次の日の朝に目覚めた時、胸の当たりが温かくなり、血が通ったと思いました。いまだにあの感覚は鮮明に覚えています。そして訪れた平安な心、平穏な日々。でも不思議です。
平安とか平穏とかあって当たり前の信心の世界に無かっただなんて。
残念に思う事。信心重視で、子供の事をおろそかにしてしまった事。もっともっと遊んでやれば良かった、いろいろな経験をさせてやりたかったと、口惜んでいます。
私は、やーこ様の倍は生きてきているかもしれません。だから、ちょっと偉そうな口調になってしまったかも知れませんが、お許しの程を。
最後にもうひとつ、最近悟った事を聞いてください。人間の値打ちは、どう生きてきたかが重要なんだという事。人生の半分が過ぎて、やっと分かった私を笑ってください。
自分の人生なんだから、自分で大切にしてあげてくださいね。(155で書き込んだ彼にも、言ってあげたかった言葉です。)

長文で、失礼しました。

160 名前: ワラシナ 投稿日: 2002/05/10(金) 19:33
こんばんわ、

>「最後にもうひとつ、最近悟った事を聞いてください。人間の値打ちは、どう生き
てきたかが重要なんだという事なんだ。」という上のお方のお悟りを聞いて私は以下
のようにつぶやいております。

「人間の値打ちは、どう生きてきたかが重要なんじゃなくてね、今いくら現金持って
るかで決まるんです。」と。(よくないよこの考えはね、完全に間違ってます。だけ
れどもね、、、、こればっかりは、、心底体験がないとつぶやけないんです。)

161 名前: 五月雨 投稿日: 2002/05/11(土) 08:41
ワラシナ様
面白いですね。今日は朝から笑っちゃいました。(何かいい一日になりそうな予感が!?)私もここ1年、やっと貧乏生活から抜け出した所なので、貴方のお気持ちは良く分かります。人間貧すりゃ鈍するといいます。昔の人は真理を突いていました。
そのお考えに間違いはありません。お気になさらないように

162 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/11(土) 08:57
私はお金が全てとは言いませんが、お金も重要だと思います。
おかげさまで、我が経営する社は全て順調でほくほくです。
これも大聖人様のおかげと思ってますが、私は現証至上主義ではありません。
私がきれい事を言わずにどんな仕事も受ける事も原因だと思ってます。
現在はどこかの大物Y沢さんのようにきれい事言ってては儲かりません。
法華講の中に仏法上の信仰と世法上の事をゴッチャにする方が多いのは良くありません。
事業の失敗等は自分に責任があるのであって、罪障とか学会の妨害とか言うのは間違ってます。
罪障がどうの、罰がどうのは仏にしか分かりません。凡夫は目の前の現証を事故責任として受け止めていきましょう。
以上、いろいろな法華講幹部の方を皮肉りつつ、ツブヤキました。

163 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/11(土) 08:59
訂正
162の事故責任は自己責任の誤りでした。

164 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/11(土) 09:24

私は真偽未決ながら、『四菩薩造立抄』の

日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり

という一節が好きです。世間と仏教、同じ価値観で見るのであれば、出世間、出家という考えは生じないであろうと思います。

しかれどけれど、ワラシナさん書かれるところは人生の経験から、身に凍みるところです。

身内の不幸や病気などで「もっと、お金があれば充分なことをしてあげられるのに」、そんな思いが募ることもありました。ボランティアをやっていると「ああ、金持ちほど、けちんぼだ」と資金繰りに頭を悩ませることもしばしばです。
165 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/12(日) 08:09
何故彼女は仕事を早退してまでしょっちゅうお寺に夕方の勤行から通うのか。
私には理解できませんでした。
仕事をさぼってまでお寺にきているのか、それとも仕事を早く終わらせてきたのか。
もし前者であれば、それはおかしいと思います。
しかも、私が何か疑問をぶつけると、「信か不信かの問題でしょ」と言われて
答えてくれませんでした。もしかしたら回答をごまかしているのでしょうか。
私も仕事で忙しいのですが、無理やり休みを取ったら、変に褒められました。
「そうして活動に参加することはいいことだよ。」
おいおい、ちょっとまった、こちらは無理に休み取ったんだぞ。

だいたい、仕事を優先にするのが社会常識で、筋が通っていると普通は思うんですけど。
確か「おんみやづかいは…」と御書にあって、大事だと仰せのはずなんですけど。

166 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/12(日) 08:20
それから、あるうちの支部の幹部の男性は、
ある女性幹部(前のレスとは違う人)はある事情があって夜の仕事をしていて、
なかなか寺院の青年部活動に参加できず、彼女のお話によると、こんな酷い事を
言われたそうです。

「こんな仕事をやってるからいけないんだよ!」

事情があって働いてるのに、仕事や生き方を馬鹿にするとは! と私は腹が立って
ぶん殴ってやろう! と思いましたが実現できませんでした。
彼は、その後、過労で倒れ、参詣できなくなり、復帰するまで長い時間を要しました。

私が思うに、仕事を馬鹿にすることは法を下げ、罰が当たる行為だ、と。
いかがなものでしょう?

知人から聞いたのですが、一番最初の彼女も、病気を患い姿を見せなくなったそうです。

それから、御寺では、このレスの二人が不倫している、と聞かされました。
しかも、ある夫が妻を日常暴力ふるっている、とも聞かされました。
もちろん、うそなのですが、どうしてそんなことを垂れ流すのでしょうか.

167 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/12(日) 08:36
昨晩、我が実家にちゅうもんしておいたダイエットキットが到着し、
今朝からはじめます。昨晩友達と食べに行きました、ちょっと贅沢なものにして。

アブジムニック、実は、腰を痛めてしまっていて、まだ使ってません。

今日は熱が出て、体の節々が痛くなりましたが、仕事は休めず横浜に行きます、
某Fコンタクトの配布をします。でも終ったらさんまのからくりーじゃぁー!!
だからガンバロー、って思います。

五月雨様
私はおそらく2分の一から三分の一の年齢でココの掲示板では最年少だと
思いますよ。だからそう、えらそうにしてても大丈夫ですよ。
自分を大切にしたいとはじめて思いました。ありがとうございます。
最近は御講以外は全て参加を自粛しています。まぁ、近い将来青年部じゃなくなるかも
しれないし。かかわって無駄だと思いました。

168 名前: 五月雨 投稿日: 2002/05/12(日) 09:05
やーこ様
 私の気持ちが、私の拙い文章から少しは伝わったみたいで嬉しく思いました。
まだまだお若い貴女ですから、柔軟な思考で全てを乗り越えられると思いますよ。
とりあえず所属している私のお寺には、七十を越した、頭の中身は幼稚園児が沢山います。そのお寺の長女(小学五年生くらい)の方が余程、まともです。
頭に来ることはあると思いますが、何故だかそうなってしまう彼・彼女に同情こそすれ、ぶん殴ってやろうかというよりも、心の中で蹴っ飛ばすだけにしてあげて下さい。(あーまた余計な老婆心が出てしまいました、ゴメンナサイ)

169 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/12(日) 11:32

>仕事を優先にするのが社会常識

法華講の常識は、折伏第一、仕事第二なんですよ。わたしの地方の地方部長が、柳沢委員長の指導だと言って、そんなことをみんなの前でしゃべっていました。約一年前でした。早速、私は、御住職様に御指導を求めました。そう聞きましたが、本当でしょうかと。そしたら、御住職は、ばつの悪そうな表情をしながら、「まちがいです」と言ってくれました。それで、「みんな聞いています。布教区会で問題にして、地方部長を指導してください。それが難しければ、宗務院から、連合会に指導してくださいませんか。」「判りました」としぶしぶ言われましたが、そんな指導があったとは聞いていません。どこかで握りつぶされたのです。法華講が一生懸命頑張っているのに、水をさすようなことは出来ない、というのが、その理屈だと思います。

ただ、忘れてならないことがあります。この、「折伏第一」というマチガッタ指導で、どれだけの信徒が社会的に葬られて言ったかをです。創価学会を一生懸命やっていた人で、社会的に信用されている人を私はあまり知りません。特に幹部は、大抵、社会的信用ゼロの人が多いです。

御宗門も、そうした事実に目をふさがないで欲しいと思います。本来、御在世当時を振り返れば、僧侶が折伏の先頭でした。信徒は、供養を以って、その僧侶を支えたのだと思います。いまは、僧侶は折伏の先頭ではないですね。むしろ、信徒を折伏の先頭に立たせていますね。逆転しています。この逆転現象は、創価学会に由来するわけですが、もうそろそろ、本来の姿、信徒が一生懸命仕事をして、御供養を以って僧侶を支え、僧侶は他宗僧俗を折伏し、信徒を激励し、聖職者に徹しては如何でしょうか。信徒を煽って、目先の成果を出しても、信徒の生活、社会的信用を潰す様では、宗門の未来はないと思いますよ。

長い長い呟きでした。

170 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/12(日) 18:15
ふー、やっと仕事が終わった。熱でふらふらだけど。
さて、一に折伏、ニに仕事は私も聞いてました。
確かに、折伏は大事です。過去にも、厳しい時代の流れで法難を受けてこられました。
が、折伏は仕事や会食、公の場でするものではないです。個人的な場ですべきものです。そもそも宗教や政治の話を公でするのは世界的タブーとされてます。それを教えられず実行して差別を受ける例が近年多いです。それで法難と言われても困ります。実際私がある組織から折伏をレストランで受けててそれを丁重に断ったら相手が怒鳴って周囲の顰蹙をその人は受けた。

171 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/12(日) 18:19

信仰と仕事に優先順位なんかないと私は思いますね。
しかし、どこかで優先順位を決めなければならない事態が起きるとすれば、もうそれだけでその団体は異常だということでしょうね。

四条金吾の主君耳入此法門免与同罪事は鎌倉時代のこと、現在は信教の自由が確立されているし、職業選択の自由も確立されている、つまり、信仰も仕事も故人の自由医師に基づく大前提があるわけです。そこで、1日24時間、信仰と仕事の時間分配は、会社が決めるのでも、宗教団体が決めるのでもない、個人が決めることです。

信仰は心の問題であるわけですから行住坐臥、寝ても醒めても、遊んでいても働いていても、その作々発々に信仰が具わっているわけでしょう。

ところが優先順位が言われるということは、宗教団体のなかで生信的強制力を持つ拘束時間が発生するためでしょう。出家者ならば、いざ知らず、無償労働を提供する在家側に、本来、この労働には強制力があってはならないわけです。ところが、おかしな団体ほど、この強制力が増してくるわけです。しかし、これに抗するのが“自由意思”“自己選択”ということですね。

本来、信仰は神仏・諸尊・教義に対するもの。けれど、この掲示板では一貫して、“組織と信仰”、換言すれば組織信仰のことが問題になっている。私のように独歩となって久しいものからすれば、組織理論が持ち込まれた信仰は不純と映じるわけで、なにより、そんなもの本来、なかったろうと思うわけです。

なんで、そこまで、組織だ、人のしがらみに拘り続けるのだろうか、と考えさせられるわけです。信仰と言うのは心の中の問題であって、組織の問題であるはずがない。組織の問題は所詮、組織のご都合の問題、人のしがらみは人間関係の問題、それと信仰の問題がごちゃ混ぜに論じられることは、そもそも信仰に対する冒涜であると私は思うのですよ。

えーと、まあ、もちろん、呟きですが。

172 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/12(日) 18:26

【171、間違いだらけでした。お詫びし、訂正します】

7行目
誤)信仰も仕事も故人の自由医師に基づく
正)信仰も仕事も個人の自由意思に基づく

14行目
誤)宗教団体のなかで生信的強制力を持つ拘束時間が発生
正)宗教団体のなかで精神的強制力を持つ拘束時間が発生

173 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/12(日) 18:27
創価で周囲の尊敬を受けている人がただ一人知ってます。
久本雅美氏で、法華講時代は我が寺院に所属しておりました。今はかなり石山に攻撃的ですが。
自分が芸能界で成功して生きて生きたいために入信したようです。と同時に、学会活動しながらも仕事もきちんとこなし、彼女は公の場かどうか立て分けてきちんと折伏してきました。結果、仕事が増え、周囲の信頼を勝ち取りました。
現在、幹部をやっておられます。また、多くの芸能人を学会に入信させるだけでなく芸人としての躾や、面倒を見ているそうです。ある女性週刊誌上にありました。

174 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/12(日) 18:37
信仰は機縁が無ければ出来ないのが本来です。ですから、相手の論を破折したら、後は本人に任せるのが当然です。
機縁があれば自分から授戒を求めて来るでしょうし、無ければ来ないでしょう。
ですから、創価学会や血走った法華講員のように授戒を受けさせれば良い等は論外です。
昔はそう簡単に授戒は受けられませんでした。当宗は「公家の富士」と言われたように格式がある宗派です。
やたらと人数を増やすだけが脳じゃないでしょう。いやいややってる者は出て行って宜しい。

「大聖人は信者の数を衣にはしない。」

175 名前:投稿日: 2002/05/12(日) 18:42
>110
超亀レス。
マザー・テレサって「私に寄付を寄越さないでください」って言うんだよね。
マザーにお金をあげて、いいことをした気になるんじゃなくて、
自分の周囲の人を愛しなさい、というわけなのでしょうね。
「豊かな国にも愛されていない人がいる」と言って、マザーの修道会は日本にもあります。
シスターたちが花火見物をしているところを見ました。

176 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/12(日) 19:01

在家の授戒儀式は創価学会が出来てから作られたもので、言われている戒文は日蓮宗の経巻頂戴のパクリ。学会離反後にもまた新しい儀式が作られたわけですね。第一、末法無戒と言いながら、授戒というのはなんですね。まあ、戒壇って言葉もあるけれど、これは曼荼羅所住の処に戒の儀が存することを言うので、やや論点は違うだろうと。授戒(受戒)というより、灌頂でしょうね、本来は。関係ないですけれど、灌頂は元来、頭に水を注ぐこと、つまり儀式形態としてはキリスト教の洗礼の原形と同じ、文化交流を感じますね。どの道、法華経のどこを読んでも、授戒(受戒)は見出せません。結局、六根清浄、身口意三業に求められるのでしょうね。儀式は関係ないでしょうね。

「折伏が本尊下付一世帯」と印象付けてしまったのは、やはり、創価学会でしょうか。これまた、とんでもない、逸脱です。折伏の意味はこんなところにあるはずはありません。。

まあ、「いやいややってる者は出て行って宜しい」という組織理論はわからんでもないけれど、反面、「数増やすことでしか信仰を計れない組織も日蓮僧俗の名を返上する」のも一考かも…、あいや、呟きですが。

177 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/12(日) 19:58
>在家の授戒儀式は創価学会が出来てから作られたもので
これは学会が言ってますけど、大正時代に九州開導妙寿尼様が在家に授けてますから違うでしょう。

178 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/12(日) 21:10

63035 ゲットしました。

179 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/12(日) 21:48

177 菊水護国さん:

こういう史実があるとすれば、興味深いですね。

『妙寿日成貴尼伝』について、『大白法』で読みましたが、ここでは異流の本尊(曼荼羅)を席山の曼荼羅に改めたという記述が見られますが、このときに授戒を行っているわけでしょうか。

しかし、反面、聖人已来、一貫して在家に授戒儀式があったとしたら、他にもそのような資料があってしかるべきであると思うのですが、どうなのでしょうか。また、取りたて命寿尼(尼は尊称なので様は略しますが)に限って例を引くということは、逆に、この授戒が他例のないことであったので特筆された可能性はないのでしょうか。

なお、私は学会の情報に拠ったわけではないのです。でもまあ、あそこも言っていますか。ただ、同轍だと思わないでくださいね。

180 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/12(日) 22:36

打ち間違いばっかり、すみません。

179、6行め
誤)席山の曼荼羅
正)石山の曼荼羅

ついでにこの『大白法』は
http://www.fsinet.or.jp/~shibuken/PAPER/1999/538.htm
です。

181 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/13(月) 01:40
随分とまたディープになりました。
いや、まともに真面目に私が答えたからいけないのかしら。
今日はいっぱい呟いてしまいました。
もし出来る事ならもう一度、高校生に戻って充実した信心がしたいです。
その時は自由な校風のサポート高校で、茶髪とルーズソックスを履きたい。
見事痩せたらもう一度だけコギャルに戻ります。信仰に疑問を持たなかった高校生時代に。
ちなみに大学は家庭の事情で去年退学しました。有名な新宿の理系単科大学、、の二部でした。私の気持をみなさんにぶつけました。そこには何故か学会の活動部がありましたが。

182 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/13(月) 08:22
私の記憶が確かならば(料理の哲人風)、学会は「牧口先生が懇願して、初めて授戒の儀式が行われた」と言ってますね(多少不正確御容赦)。
もっとも、それにが可笑しいと感じたのは、学会以前の古い在家信徒さんがほとんど、授戒を受けていると語っていたからです。
もう50年も経てば、その方たちも生きてないしょうが、未だ高齢で生きておられる方がいますから、100論より本人の証言に蘊蓄を感じますね。

183 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/13(月) 10:06
正確に訂正します。
学会においては「御授戒は昭和12年ごろ牧口会長が宗門に依頼して始めた」と言ってるそうです。

184 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/13(月) 10:11
183の記述の情報をメールで教えてくれました学会員の「相模守」さんありがとうございました。
ところで相模守って、北条家の方ですか。

185 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/13(月) 11:28

菊水護国さん:

創価学会のアナウンスには私は疑問をもっているんです。というのは、三谷素啓居士に折伏をされて、牧口・戸田両氏は、歓喜寮(現・昭倫寺)で、授戒したと『人間革命』とかなんとかに書いてあったのを読んだ記憶があるからです。まあ、いまは書き直してしまっているかもしれませんが。ですから、牧口氏が懇願して始まったというのは、違うと思うわけです。

ただ、在家への授戒は日蓮聖人は行っていなかったろうと思うわけです。

在家への授戒(のようなもの)は昔からあったかもしれないでしょうが、それは特に聖人に由来するというより、それぞれ寺院、僧侶が勘案工夫してのこと、あるいは通日蓮宗の慣習、あるいは他派の様式を真似るなどして、途中から行われるようになったのであろうと。

なお、聖人は弟子に灌頂のような儀式は施していただろうとは思います。得度許可のなんらかの儀式体は天台の形式を敷衍していただろうなと。これは想像ですが。

いずれにしても、憶測、想像ではなく、たしかなところを知りたいと思うわけです。

186 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/13(月) 11:28
菊水護国様

それって、料理の鉄人では!?

違ってたらすみません。確か、初代の司会?は鹿賀丈司さんだったと思いますが。その役がお亡くなりになったという設定で女性が引き継いでいたようですが、なんかぱっとしません。
ポンキッキーズでも出演してましたが、あのキャラといい役といい、気に入ってます。
携帯でレスしてて、パケ代節約しなきゃって思ってます。でも誘惑に負けてしまいます。
仕事の合間縫ってチェックしてます。

187 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/13(月) 16:51
少なくとも、学会からというのは、彼らの手前味噌が十二分に入っていると認識して良いかと思い書きました。
なお、上記文言を突然私のメールに入れてきた人がいましたので、今もこのように指導しているようですよ。
しかし、だったら掲示板に書いていただきたいと思うんですが・・・。
なお、相模守と称する学会員さんへ。メールを送るときは送信者を隠すのは止めてください。

188 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/13(月) 18:47
携帯ではパソコンのブラウザと違いレスが降べき順になってます。
上の書き込みはそれで下の書き込みになってしまいます。
ある方が青森へ葬式行った際、火葬が先でお通夜とかが後だった、と聞きました。
これを東京の同僚たちに伝えると、みなさん驚いてました。何故でしょうか。行ってきた本人は分からなかったようですが。多分富士桜様なら分かりそうだと思いますが。
それから本にあった死刑の際のお経の件でレス頂いたのを忘れてましたが本の事例は念仏でした。ということは選べるのでしょうかまたは輪番制でしょうか。誰かご存じでしょうか。

189 名前: 和助 投稿日: 2002/05/13(月) 20:03
横から失礼いたします。
受戒については大乗、小乗にありますので煩雑ですから省きますが、富士門に置いて
入信時に在家受戒の作法は日応上人から始まりました。
これは「法の道」という当時の法道院からの刊行物で知ることができます。
応師が帝都折伏を始めた頃から在家にもされたようです。
それ以前は明治の荒木清勇氏とか
由井一乗氏や在家でも受戒名(戒名を通り名にして著作活動されていた人)
を持った方は受戒を承けたようです。
有名なのは松本佐一郎しのお爺さん(この方は元蓮花寺所属)の佐蔵氏の道本や佐一郎氏
の和道(進達院和道日直居士)など。
弟子分の受戒は独歩さんの推察通り大聖人御在世は僧侶に授戒は当然施されていましたが
天台式の灌頂受戒を模していたようです。最蓮房に与えられた得受職人功徳法門抄
などに出ていますが(真筆ではありません)大聖人の御父母にあてた戒名(妙日尊霊
妙蓮尊霊)がありますから(南条殿等)恐らく身分的な事も含めて檀那の出家の時に
されていたと推察されます。
あとは興師の書き付けの中にもあったように記憶していますが今は定かではありません
横入り失礼いたしました

190 名前: いちりん 投稿日: 2002/05/13(月) 20:28

受戒の儀式って、いわば「イニシエーション」ともいえましょうか。
イニシエーションって、「死と再生」ともとらえられるかなあと思います。

死がなければ、新しい生がない。
いままでの俗の人生が死んで、正しい教えに基づいた新しい人生が始まる。

聖書の中で、パウロが、「肉である自分が死んで、キリストがわたしのなかで生きる」というようなことを書いていますが、そういう精神的な転回点が、真のイニシエーションなのでしょうが。



それから、「洗礼」との関係でいうと、
たぶんもともと、インドなのかエジプトなのか古代オリエントで、国王になる儀式に、頭から水を注ぐということがあったように思います。

古い国王が新しい国王水を注ぐ。それが、王位継承であると。それが、まあ「法水写瓶」みたいなものの源泉かもしれませんです。
そして、洗礼もおんなじですよね。



日蓮正宗の受戒の儀式は、衆生が自らの頭に「法華経」をいただくのですよね。これも、まあ洗礼みたいなものに近いかなあとも思いました。

191 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/13(月) 21:18

和助さん:

はじめまして?と、ご挨拶申し上げてよろしいでしょうか。

> 189

『法の道』に基づくご指摘、有り難うございます。そうでしたか。応師でしたか。
もし、お手元に該当の文書がありましたら、ご提示いただければ、さらに有り難く存じます。

> 大聖人の御父母にあてた戒名…妙日…妙蓮

これは性格に分類すると戒名ではなく“法号”ということになりませんでしょうか。

現代の戒名は歴史的な重層性を背負うわけで、その構成は概ね以下のようになっています。(この点、実は以前、本を書いたことがあるので、委しく調べたことがあるのです)
和助さんは、ご承知のこととは存じますが、ロムの方々のために記しておきます。

○○院(殿) □□ 日◇ △△

○○が院(殿)号、□□が法号、日◇が日号、△△が位号です。
聖人は、日号、法号は付けていらっしゃるわけです。しかし、これは厳格な意味では戒名ではありません。たぶん、鎌倉時代には戒名という言葉自体なかったのではないでしょうか。その後、禅宗から戒名という化儀が生じたというのが研究の明らかにするところであろうかと存じます。

やや、付言すれば院号は(寺)院を建てた人に贈られる名です。そのもっとも格式があるのが院殿(いんでん)号です。敬台院殿などというのが、これですね。位号は和助さんが引用されてお出でのとおり、その信者の位を表わしているのでしょう。大居士・居士・信士、清大姉・大姉・信女などです。通じて、いずれも生前に贈られるものであって、逝去の段階で付けるというのはまったく根拠を見ません。

石山僧侶も愛読しているという戸田浩暁師著『日蓮宗の戒名の理論と実際』は名著です(笑)

創価学会の友人葬にはまったく賛成するものではありませんが、かたや石山が「戒名を日蓮大聖人已来の化儀」ということにも以上のことから、まったく了解できません。

聖人は日号、法号のみをお付けになったのでしょう。その意味で「戒名は日蓮大聖人はつけていない」という学会の指摘は正しいでしょう。

しかし、もし、新しい創価学会の方がロムしていらしたら、以下の戒名はご存知でしょうか。

冷燃院感得日常居士、大宣院法護日城大居士、宣正院浩徳日基大居士

牧口氏、戸田氏、北條氏の戒名です。(牧口氏のものは字が違っているかもしれません)
戒名は寺院に、院号、日号は石山歴代に“願出”ない限り受けられません。つまり、牧口家、戸田家、北条家、そして、創価学会が石山に願出たればこそ、以上の戒名が残っているということです。

やや、余計なことを記しました。

和助さん、今後ともよろしくお願い申し上げます。

192 名前: 富士桜 投稿日: 2002/05/14(火) 00:16
やーこさんお久し振りです。
.
>ある方が青森へ葬式行った際、火葬が先でお通夜とかが後だった、と聞きました。これを東京の同僚たちに伝えると、みなさん驚いてました。何故でしょうか。
.
関東近県では、亡くなられてから、よっぽど御遺体の損傷が激しくなければほとんどは棺に納め、お通夜、次の日に告別式、そして荼毘に伏されます。
損傷が激しくても、強引に棺に納め式をする場合がほとんどです。御葬家さんの意思にもよりますが。
(例えば交通事故、災害、自殺、他殺、腐乱、または特殊な病気)
.
ところが、このある方のおっしゃっているように、東北地方では、(東北地方に限らないかも知れませんが)まず仮通夜をして荼毘、そして葬儀式を2〜3日執り行われる事を自分もお聞きした事がありますよ。
.
そして東京方面ではほとんどが49日まで御自宅で御安置されます。それで納骨になるのですが、茨城や群馬ぐらい離れると、遺骨になったらその日にすぐお墓の方へ納骨になるようです。宗派によって違うかもしれませんので一概には言えないんですが。あ
.
ここ数年では「散骨」がブーム(?)になっていまして、件数も増えていますめ。一番多いのが、クルーザーを借り切っての海への散骨。これがほとんどですし、関東地方でも散骨の指定海域もあるくらいです。
お金持ちになると(笑)、新木場のヘリポートでチャーターしたヘリの乗って空からの海へ向っての散骨も一度だけありました。
自分、実はめちゃくちゃ高所恐怖症なんです。
「頼むからとっとと終わらして帰してくれ!」
とパイロットの人に涙目でお願いしました。。。
「それではもうそろそろホバリングに入りますので、ドアを開けますから葬儀屋さん準備をお願いします。」って言われた時は、その中途半端な高さに気絶しそうになりました。死ぬかと思いました。
.
色んな宗派の葬儀に関わりましたが、ここ最近では「無宗教」や「音楽葬」などで祭壇を飾らず、花祭壇で送る葬儀が本当に多くなって来ました。おかげで今は生花部で花祭壇ばっかり作っています。
.
話は飛びましたが、その地方や宗派によって様々なやり方がありますので色々調べてみると自分も未だにびっくりする事が多いです。
.
ここ最近は忙しいです。自分が忙しいって言う事は死んでる人が多いって事なんですけれど。(笑)あんまりいいことじゃないかも知れませんね。
ちなみにここ最近は極道さんの葬儀が続いて。。。疲れ果ててます。
富士門らしからぬ内容のお話ですいませんでした。失礼します。

193 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/14(火) 00:24
極道さんの葬儀って大物だと結構集まるのよね。
義理人情の薄れた昨今堅気より、義理堅いよ。
私は、知る人ぞ知る立場ですから、裏社会の葬式も結構行くんだけどね。

194 名前: 富士桜 投稿日: 2002/05/14(火) 00:36
菊水護国さん
.
確かに(笑)
でも普段は何とも思わないけれど、
こういう時って機動隊とか刑事さんが張り込んでいてくれるとほっとします。。。
担当していたのはM会長のいらっしゃるKって言うめちゃくちゃ武闘派の方々がいらっしゃる所です。

195 名前: いちりん 投稿日: 2002/05/14(火) 00:36
極道の葬儀で思い出した。

かつて池袋の会社にいたとき、近くに、毎月のように極道さんの葬儀をやっているお寺がありました。(しかし、極道って、道を極めるって書くのだから、すごいね)
一般の葬儀場やお寺さんでは断られるので、その筋専門のお寺さんもあるようですね。

でまあ、その筋の方々が、じゃんじゃんと歩いては、道を闊歩していましたね。
車は、ほとんどベンツ。ベンツ、ベンツ、ベンツと二重駐車おかまいなし。
ケーサツは、まったく取り締まらないのですね。

その筋の方々を観察するのは、わりとわたしは好きでしてね。
どうだ!って風情で、気合いを入れて、あたりを睥睨(へいげい)してあるくさまは、なかなか見応えがありましたね。

睥睨という言葉で思い出したけど、「猊下」ってことばも、下をじろっと見るとか、上から下を見下ろすっていう意味もあるのかなあとか。。

196 名前: 富士桜 投稿日: 2002/05/14(火) 00:49
言っておられるお寺はよ〜く知ってます。
高速道路の下にあるんですよね。
本当ですよね。ベンツ、ベンツ、ベンツ、ロールス、そんでベンツ、ベンツ
リムジンのベンツ、リムジンのプレジデント。。。
自分も好きなんですけれどね。圧倒されます、自分みたいな素人は。
ずら〜っと並んだ幹部の方から舎弟の方から親分さんが来られると一斉に「うおぉぉぇぇっすううう!」」
(って聞こえる)地響きみたいな挨拶なんかは「あ〜こういう世界って本当にあるんだ」と思いました。
でも、葬儀関係で関わると。。。一般人は辛いです。。。(涙)恐いです。

197 名前: いちりん 投稿日: 2002/05/14(火) 01:04
しかし、ベンツってステイタスなんですよね。
ロー留守ってのは、まあすごすぎですけど。
でもまあ、ドイツに行きますと、ワーゲンとベンツとビーエムは、あたりまえですよね。
というか、まあ日本でいうとカローラみたいなものですよね。
ドイツに旅したとき、マツダのカペラが、高級車みたいに思われていましたね。
あと、スウェーデンのボルボですか。
お寺の坊さんたちも、ベンツが多いですよね。若い副住職は、ビーエム。
ちゃちゃっとお経をよんで、50万円くらいもらうんだから、なんともね。日本の仏教は、、。

198 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/14(火) 05:54

まあ、しかし、半世紀で、表に出ているだけで2兆円、実際は50兆円ともいわれる金を集めた団体もあるわけですねえ。

199 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/14(火) 06:13

> 「猊下」ってことばも、下をじろっと見るとか、上から下を見下ろすっていう意味もあるのかなあとか

【猊】漢 ゲイ 呉 ガイ
(1)シシ。唐獅子 (2)仏・菩薩の座。猊座。獅子座 (3)〔仏〕高僧の座席
[字源]兒(ゲイ)が音
【猊下】(1)猊座下の意で獅子座のもと (2)高僧のそば (3)高僧に対する敬称
▲〈(猊-兒)+(峻-山)〉―― 獅――(三省堂、深漢和中辞典)

だそうです。元来、獅子を意味するのだから、「じろっと見る」というイメージはありますね。

200 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/14(火) 06:34
一夜明け、携帯から見てぴっくりしました。
沢山のレスに驚きました。
やはり高級車は仏道を求める方も欲しがるものでしょうか。やはり男の方って(失礼)高級車は一つのロマンでしょうか。
私なんて車の免許まだですから。でも私多分一生かかっても無理でしょう。だって不器用だからすぐに事故りそうやから。事故に遭って死ぬのはごめんだーい!
さて、お葬式の件についてですが、普通の男性で普通に老衰して亡くなったそうです。前レス「ある方」様へ、自分が希望した葬儀関係の就職の際車の免許が無い為諦めたから興味あってレスしました。

201 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/14(火) 06:49
富士桜様ありがとうございます。

最近の自分の近況ですが、ダイエットキットが届いて、ここ二日間は毎食プロテインのみの食事で今日から五日は一食低カロリーレトルト粥、残りニ食はプロテインで、これが無事終了すれば、ニ食普通食、のこりはプロテインにキトサンタブレットです。効果現れてきました。

202 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/14(火) 07:38
やーこさん
体調は崩さないように、がんばってください。
昔、高校時代女の子で1ヶ月13キロダイエットした方がいたんですが、
自己流でやったもんだから、肌はかさかさになるはで、大変だったそうです。
その後、とうとう入院してしましました。
まあ、今も体重は維持してまして、さらに健康そうなお母さんになりましたが。

203 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/14(火) 11:49

富士桜さん:

いただいた花は、まだきれいに咲いています。
有り難うございます。

204 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/14(火) 13:44
菊水護国様、
ありがとうございます。こちらは平日は朝八時から夜七時迄仕事が続くこと多いし休み時間も正味四十分しかないのでエネルギー使いますが今は平気です。
今日は京急川崎でアイフルのティッシュを配っていたのですが朝は大変でした。私じゃなくて通勤の様子がまるで地獄のようで見てると泣きそうになりました。
国鉄で電車が止まったのです。
またあとで。

205 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/14(火) 19:50
予定を変更して、京急川崎の浮浪者のお話をさせてください。後悔の念を持って呟きます。そしてコメント下さい。
重い呟きですみません。助けて下さい。
朝から私が駅前で配っていて、その時から彼は階段の脇にいました。起こさぬようあたりを通ったりしていたのですが、彼は起きませんでした。そして夕方誰かがやっと気付いてくれました。実はもうこと切れていたのでした。何時亡くなったのかは不明で今警察が調べています。私は早く気付けば命は助かったのにと後悔しています。塩と華を買えなかったので題目あげましたがこれでよかったのでしょうか

206 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/15(水) 07:04
昨日は大変失礼いたしました。あのショックから立ち直れないのと、仏法は何のためにあるのかよく考えたい為少しの間参加控えます。
いろいろ自分の周囲で大変なことがありましたから。
史跡オフ会参加表明をしようとしまいましたが同じ理由で今回は見合わせて下さい。
なお、意見その他は携帯メールでお願い致します。

207 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/15(水) 19:56
独歩さん。
亀ちゃん(亀太郎さん)の誘いには、乗らないのですか。
まあ、やめた方が良いとは思うけど。

209 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/15(水) 23:21

63526 ゲットしました。

210 名前: 富士桜 投稿日: 2002/05/15(水) 23:54
独歩さん
お花がまだ咲いているんですね。
優しいんですね独歩さんは。
ですが。。。オフ会で隣に座らせて頂きましたが、あの時感じた鋭い眼光、自分は今でも記憶に残っています。
.
実はゴールデンウィーク明けに、池上本門寺の関係でそちらの方へ行きました。
日蓮宗のお坊さんと新宿から池上まで車の中でお話していたら
「そう言えば日蓮正宗の大石寺って知ってる?」
と聞かれましたが、仕事の関係上トラブルにならないようすっとぼけて
「知らないです。」
と答えました。
(過去、日蓮宗のお坊さんに「正宗か!ちょっと担当変えてくれ!」と会社に電話をされて仕事が飛んでしまった過去がありましたので、それ以降はすっとぼけているんです。。。詳しいお話は出来ませんが。。。)
.
そしたら、日蓮宗のお坊さんが
「いや〜、大石寺ってこの間行って来たんだけど、あそこはいいな。景色もいいし。ゴルフ場も近いし。ああいう所で住職してみたいね〜。」
と言われたので
「あそこ(大石寺)も創価学会なんか破門にしちゃうから大変なんじゃないですかね。あれだけの檀家さんが離れちゃったら潰れるでしょう、普通だったら。」
と答えましたら
「良く知ってる葬儀屋さんだな。い〜や、甘いな。あそこはどうせまた増えるんだよ。あそこの板さえ(板=大御本尊様)なきゃな。あれがあるとやっかいなんだよ。今どれくらい減ったんだろうな?学会が抜けてから?」
と聞かれて
「前に日蓮正宗の葬儀やった時に、学会が破門になってから2万人くらいしか居ないって
言ってましたよ。」
と答えると
「あそこは5千位まで落ちなきゃだめだな。どうせ折伏って騒ぐだろうし檀家もいいところ抱えてるしさ。うちの檀家の所にもよく来たよ。学会がぎゃーぎゃー騒ぐからさ。ひっきりなしに何とかしてくれ!ってなってたんだけどね。まあ、うちもああいう風にしなきゃだめなんだけどさ〜。バラバラだからな〜。」
とざっくばらんにお話して来ました。
確か独歩さんもこっちの方じゃなかったかな?と思い、独歩さんもお寺に法論されに行ったのかな?と思っていました。
.
思わずふいんきのいい人なので「自分法華講なんです」と言いそうになりましたが(笑)
「日蓮宗の方でもこういう風に思っている人いるんだ〜」て感じました。
.
日蓮宗の宗務院はすっごい綺麗でした。ホテルみたいでした。
そのお坊さんも中山法華経寺で荒行をされたらしく、大変だったとおっしゃっていました。
何かとこの仕事はひょんな事で色んな宗派のお坊さんと知り合いになってしまいます。
実は自分の釣りの友達の中には、禅宗の住職や真言で護国寺の管長のお孫さんとか未だに宗派関係無しで遊んでますが、さすがに学会の友達は遠縁になってしまいましたが。
.
以前、独歩さんは「ちょっと話し掛けるのも恐れ多い方かも」と感じていましたが、ここ最近の書き込みを読ませて頂いていますと、「何かお話してみたい」と思え、文面も柔らかくなって来たように思いました。
ですが法論になるとやはり文面から以前にも感じていたような緊張感があります。
ですが。。。
八幡神社で命がけで鳩に餌をあげるなんて、読んでいて笑っちゃいました。
以前のメールは大切に保管し、時々読み返しています。
今後も書き込みの方、そしてお仕事の方も頑張ってください。いちファンとして読ませていただいています。

211 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/16(木) 02:05

207 菊水護国さん:

挑発しないでくださいよ(笑)

212 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/16(木) 11:36

富士桜さん:

そんなにおっかながらないでくださいよ(笑)
また、オフ会ででもお会いしたいですね。
近くまでいらっしゃり、時間があるようなときには、お気軽に声をかけてください。お茶でも飲みながら雑談でもしましょう。あとで携帯電話の番号をメールしておきます。

213 名前: いちりん 投稿日: 2002/05/16(木) 15:29

こんどホテルなみになった日蓮宗の宗務院あたりで、お茶しましょう。
朗子会館の近くにも、大田区のきれいな施設がありましたよね。

214 名前: いちりん 投稿日: 2002/05/16(木) 20:57

創価学会は、日蓮正宗に破門されてから、葬儀や法事の時には、正宗の坊さんには頼めないので、友人葬ということになりました。

知り合いの日蓮宗の坊さん、二人から聞いたのですが、それから創価学会の人から葬儀を頼まれることが増えたと言います。

友人葬は、学会員の中では定着しているのだとは思いますが、しかし親族やら親戚やらの希望もあるし、世間体などもあって、「やはり葬式には、お坊さんに来てもらわないと」ということで、やむなく日蓮宗の坊さんに頼むんじゃないかと思います。

215 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/16(木) 23:41
でも、日蓮正宗改革同盟の僧侶もいるんですけどね。
数が足りないのか、それとも正面から頼みにくいのかな。
それなりの数がいるけどな。

216 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/17(金) 10:20

メール・アドレスを変更しましたので、取り敢えずご報告いたします。

犀角独歩 Saiaku DOPPO
hak91510@rio.odn.ne.jp

217 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/17(金) 10:59

…… 自分の名前を Saiaku と打ってしまいました。Saikaku でした(笑)

218 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/17(金) 20:21

> 213

宗務院の中でもお茶できるんですか。地元ながら、知りませんでした。
朗峰会館の喫茶店は、最近、改築して値段が高くなりました。
関係ありませんが、ここでお茶をしていたら、朗峰会館で公明党が会合をやっていて、運転手でついてきた地元創価学会員とバッタリ。「いやなひょんなところでお会いしますね」と声をかけると「ええ、まったくまったく」(笑)

いちりんさんが仰る大田区の施設とは池上会館。喫茶室は安めですね。でも感じもいいし、静かです。私はよくお茶をしています。
エレベーターで上がると、五重塔のすぐ側に出られ、屋上からの眺めも良いですね。
横の合同墓苑・久遠林はセンスのいい造りだと思っています。

お近くにお越しの際は是非ともお声をかけてください。
車で、石山末寺、学会旧第一本部、聖人が足を洗ったという洗足池、田園調布の高級住宅街からかつての巨人グランドを一望できる多摩川台公園、おまけは池田さんの父親のお墓のある真言宗・密厳院まで、観光案内をいたしましょう(笑)

219 名前: いちりん 投稿日: 2002/05/17(金) 22:45
独歩さん

じつは、だいたい毎月、池上まで出かけているんです。

身延大乗結社という日蓮宗のおばあちゃんたちの集いがありまして、そちらに呼ばれて行っております。
みいんな信仰歴三十年、四十年という人たちばかりで、七面山など、十回以上も登っているんですね。七面山の登るたびに、すごい体験を得てきたようです。

なんか話をしてくれと言われるのですが、わたしのほうは、おばあちゃんたちの体験を一人一人聞いています。

日蓮宗って、祖師信仰のもとにお題目を唱えるということと、
もひとつ、七面山に登るというのが、大切な行としてあるんだなあと思いました。

七面山という霊山と、そして法華シャーマンとでもいいましょうか。
法華の霊感を得ていく系譜があるんですね。
まあ、たとえば、霊友会の小谷キミさんとか、立正佼成会の長沼妙佼さんとか。
そのあたり、おばあちゃんたとのお話を聞いていて、気がついたことなんです。

日蓮正宗となると、ほとんど大脳の左半分のほうばかりで、直感とか感性とか、まあ霊感のようなものは(こちらは右脳ですよね)、どうも薄いんだなあなどと思いました。

菅田正昭さんという古神道を研究している方も、池上にいまして、彼は法華神道を探求していますので、いちど池上で、ゆっくりとお話したいものですね。

220 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/17(金) 23:14

> 219

よろしくお願いします。

みんなの前でのお話、ぜひ拝聴させていただきたいものです。
古神道、シャーマニズム、役行者とのシンクレティズム、これらの習合を意識しないと日蓮仏法は皆目、わからないですね。楽市楽座はこの辺りを網羅されていて、さすがだと思うわけです。

池上にお出での折はお声をかけてください。
菅田正昭さんのお話も是非お伺いしたいですね。

221 名前: 無徳 投稿日: 2002/05/18(土) 18:49
独歩さん今日は:

>古神道、シャーマニズム、役行者とのシンクレティズム、これらの習合を意識しな
>いと日蓮仏法は皆目、わからないですね。

 とのことですが、少々解説していただけますでしょうか?
決して突っ込みを入れているつもりはありません。わたしにはなかなか理解が届か
ない領域ですのでよろしくお願いします。

222 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/18(土) 20:28

無徳さん:

お久しぶりです。

実は苦手な、というか勉強不足の部分なので、説明をするのに私は相応しくないかもしれません。不足している部分は、どなたかに補っていただくことにして、触りだけ記させていただきます。

まず、古神道ですが、というより日本教といったほうがいいのかもしれません。日本はいわゆる国家宗教として仏教を受け入れて、神道との二本立て、まあ、神仏習合という形で発展してきたわけです。ですから、中国仏教から見ると、びっくりされるような神道の受容があるわけです。特に聖人の場合は極めて肯定的であって、曼荼羅図示に当たり、「天照大神」を書き込むほどですから、それは典型的であると言えるわけです。

次のシャーマニズムの影響というのは、やや言い過ぎかもしれません。通常、祈祷は密教的な要素ですが、その一端をシャーマニズムに負うところがあると私は考えているわけです。ただし、この点については、精しくありません。

最後の役行者との関係、この点は特に山岳信仰と仏教の混交を、特に興師一門は背負っていたということです。興師が弘安元年まで供奉僧を務めていた四十九院は、その典型的な寺院であったと言います。また、目師もこのような仏教の出であり、多くの信徒を擁した興師門下である佐渡の法華講も、その系列にあるといいます。

無徳さんは異論をお持ちかと思いますが、そもそも富士戒壇説は富士信仰という山岳信仰を背負っていた興師にあらずしては形成の仕様がない教義であったと指摘されるわけです。

また、この点は興師を初発心とする波木井円師の身延山もその系統にあるといいます。そもそも身延の“延(えん)”役(えん)の行者と語源を共にするものであるという説もあるようです。

五・一相対として知られる興師と、その一門の教学は他の五老方と異なるのを、富士門としては聖人の正しき相伝があったからと善意に考えたいのは人情なのですが、しかし、この異轍のそもそも遠因は、たぶん、興師が、いわゆる叡山教学の通常の流れとは違った、山岳信仰を背負った思想背景で育ったことと大いに関係していると指摘する声があるわけです。この実否について、明確な論考を出来るほど、私は知識を持ち合せていませんが、たしかに頷かざるを得ない点を感じるわけです。

あと、これはさらに論考出来る程の知識を持ち合せていませんが、富士周辺には古来より、道祖信仰があるようで、これは天台立川流との混交を来すものとも考えられ、中世以降、徳に顕著になる凡夫本仏思想、あるいは煩悩即菩提の実生活的に解釈する傾向は、ここに起源を見るべきかもしれません。

非常に雑駁な記述で、それこそ、“突っ込み”を入れられても、あまり気の効いたレスも出来ませんが、以上のようなことから、220は記したわけです。

223 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/18(土) 23:38

64000 ゲットしました。

224 名前: 無徳 投稿日: 2002/05/19(日) 01:57
独歩さん今晩は、早速のレスありがとうございます。

>日本はいわゆる国家宗教として仏教を受け入れて、神道との二本立て、
>まあ、神仏習合という形で発展してきたわけです。

 確かに日本仏教の特色として神仏習合が看取されることは間違い有りま
せんね、ただ、日蓮仏法に於ける神仏習合の影響という観点から見ますと
日蓮御坊は天照大神や八幡大菩薩といった神々を、あくまで法華守護の諸
天善神として位置付けていますね、いわゆる法華経の行者を守護する役目
を以て、その神の存在意義が認められると言うことでありましょうか?

> 特に聖人の場合は極めて肯定的であって、曼荼羅図示に当たり、「天照
>大神」を書き込むほどですから

 御本尊にしたためられた諸天には、その他に月天子や明星天子が有り、
更には帝釈天はもとより、十羅刹女や鬼子母神までおしためになられてい
ます。

 この事から見ますと、天照大神や八幡大菩薩と言った日本の神々だから
特別と言った意味合いは無さそうですね?

>通常、祈祷は密教的な要素ですが、その一端をシャーマニズムに負うと
>ころがあると私は考えているわけです。

 との事ですが、戸頃重基氏は日蓮仏法に於ける唱題行に対し呪術的であ
るとして批判を加えていますが、唱題行は私から見ると天台本覚論を止揚
した結果到達した実践方法であろうと考えています。

>最後の役行者との関係、この点は特に山岳信仰と仏教の混交を、特に
>興師一門は背負っていたということです。興師が弘安元年まで供奉僧
>を務めていた四十九院は、その典型的な寺院であったと言います。
>また、目師もこのような仏教の出であり、多くの信徒を擁した興師門
>下である佐渡の法華講も、その系列にあるといいます。

 この辺は、私にとっては初めて知らされた事柄でありコメントのしよう
がありませんが、役行者の存在が謎につつまれていることもあり、山岳信
仰が日蓮門下(現日蓮正宗)にどのような影響を与えたかは今後の研究に
待つしか有りませんね。

>そもそも富士戒壇説は富士信仰という山岳信仰を背負っていた興師にあ
>らずしては形成の仕様がない教義であったと指摘されるわけです。

 この点については、やはり異論がありますね南条家が寄進した上野郷が
富士の麓にあり、日蓮御坊の日蓮は富士山の別名である日蓮華山から採ら
れたとされる説もあるくらいですから、最勝の地を富士として其処に戒壇
を建立しようとなされたと見るのが自然ではないでしょうか?

>五・一相対として知られる興師と、その一門の教学は他の五老方と異な
>るのを、富士門としては聖人の正しき相伝があったからと善意に考えた
>いのは人情なのですが、しかし、この異轍のそもそも遠因は、たぶん、
>興師が、いわゆる叡山教学の通常の流れとは違った、山岳信仰を背負っ
>た思想背景で育ったことと大いに関係していると指摘する声があるわけ
>です。

 どなたの説かは知りませんが、かなり穿った見方ではないでしょうか?
身延離山の原因はやはり波木井氏と民部日向の癒着に因ると見る方が分か
り易いように思いますが如何なものでしょう?

>富士周辺には古来より、道祖信仰があるようで、これは天台立川流との
>混交を来すものとも考えられ、中世以降、徳に顕著になる凡夫本仏思想、
>あるいは煩悩即菩提の実生活的に解釈する傾向は、ここに起源を見るべ
>きかもしれません。

 とのことですが、これは順序が逆ではないでしょうか?つまり、煩脳即
菩提や生死即涅槃と言うタームや凡夫本仏論を都合よく解釈したのが真言
立川流の欲望肯定主義であり、富士門流がその影響を受けたとされるのは
如何なものでしょう?

 まあ、正直な処これらの説に正確に述べるだけの情報を持ち合わせてい
ませんので、あくまで私の我説として受け止めていただければ幸いです。

225 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/19(日) 07:01

無徳さん:

> 神々を、あくまで法華守護の諸天善神として位置付けていますね、いわゆる法華経の行者を守護する役目を以て、その神の存在意義が認められると言うことでありましょうか

まあ、そうでしょう。月天子・明星天子・帝釈天・十羅刹女・鬼子母神などは法華守護を誓うことは経文に見えるわけですね。しかし、帝釈はヒンドゥー教のインドラが仏教に取り入れられたものであって、ここでも混交が見られます。他化自在天は曼荼羅にありましたっけ? オウム真理教が盛んに礼拝したシバ神のことですね。

天皇性の肯定も日本であれば自然にとらえられるわけですが、天皇崇拝こそ、まさに神道という宗教そのものでしょうね。それを代表する神格が天照大神です。これは守護の善神ではないでしょう。仏本神迹、あるいは神本仏迹論からとらえるべきものであって、富士門が大好きな本地垂迹思想から読むべきものでしょう。しかし、これらは法華経にも、天台の釈に拠るものでもないわけです。

いずれにしても、聖人の教えから天皇を差し引くのは、わずかここ50年のことでしょう。

> 戸頃重基氏は日蓮仏法に於ける唱題行に対し呪術的であるとして批判を加えていますが、唱題行は私から見ると天台本覚論を止揚した結果到達した実践方法…

戸頃師の説と対峙した形で無徳さんは自説を論じていますが、私は本覚思想そのものが既に呪術的なものである、つまり、天台密教なのだと思っています。本覚論と聖人の関係についてはテーマが大きすぎて、いまのところ、無徳さんとは意見の一致を見ていないので、この点をやりだすと長くなります(笑)

ただ、私は本覚思想の受容者に呪術性がないとすることはできないと思っています。敵国調伏の祈祷を申し出た聖人であればなおさらのことでしょう。

ただ、唱題は呪術性の発揚というより、禅定止観の延長と見るべきであるとは私は思います。

>> 山岳信仰を背負っていた興師
> この点については、やはり異論がありますね南条家が寄進した上野郷が富士の麓にあり、日蓮御坊の日蓮は富士山の別名である日蓮華山から採られたとされる説もあるくらいですから、最勝の地を富士として其処に戒壇を建立しようとなされたと見るのが自然ではないでしょうか?

異論を述べるであろうと思いました(笑)
しかし、ここにいみじくも(大)日蓮華山の名を挙げられましたね。この山号を使用するのは六老のなかでも興師門だけでしょう。大日・蓮華、大・日蓮・華、その読み方はどちらでしょうか。いずれにしても、この山号自体が山岳信仰系から発生したものであるということでした。

ただし、富士に住まい、そこを最勝の地と考えられ、ここに戒壇を建立されようとしたという点は、そのとおりでしょう。

226 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/19(日) 07:02

―225からつづく―

> どなたの説かは知りませんが、かなり穿った見方ではないでしょうか?
身延離山の原因はやはり波木井氏と民部日向の癒着に因ると見る方が分か
り易いように思いますが如何なものでしょう?

これは、私の文も不美くないのですが、興師教学の展開は聖人とは別個の要素を見なければならないという所に力点があります。先に「人情」と私が書いたのは唯授一人だから、聖人の教えをそのまま興師が受け継いでいるというのは希望的な観測であるという意味です。私は興師とその一門に独自の教学展開があると思いますし、その基礎となった何らかの外的要素があったと思っています。

ただ、波木井円師との不和、身延離山の理由は仰るとおりでしょう。

> 順序が逆ではないでしょうか?つまり、煩脳即菩提や生死即涅槃と言うタームや凡夫本仏論を都合よく解釈したのが真言立川流の欲望肯定主義であり、富士門流がその影響を受けたとされるのは如何なものでしょう?

ここは少し本覚論との関わりにもなりますが、田村芳朗師は

日本における本覚思想の考察にさいし、まず取り上げられるべき人物は空海であり、論書としては、空海が盛んに引用した『釈摩訶衍論』である。本書は本覚にたいして自由奔放なまでの解釈を施しており、日本における本覚思想の高揚の源泉ともなった。(『天台本覚論』504頁)

と記しています。つまり、日本における本覚思想は空海にその端を見るのであって、真言宗の影響から生じたと見るべきでしょう。また、中国における天台思想の展開は、その基礎に華厳思想を見なければならないとも思います。

もちろん、真言立川流の直接的な延長に天台本覚論やら、聖人の御立法門があるわけではないでしょう。立川流は空海を祖とする特化された欲望肯定主義の昇華であったのであろうと思います。ただ、(興師門ではなく地域としての)富士周辺の歴史を調べていくと、立川流との関係を見出せることは多々あるわけです。その地域における立川流からの影響について記したのです。富士門の仙波の影響、後代の極端な煩悩肯定論を受容する遠因にその関係との脈絡があるかどうかは一考を要する、さらに山岳信仰との関係を考えてみるべき必要があるということです。

以上、記した点は、自宗肯定という主観性から見れば快く思えないけれど、客観的に自己信仰の起源を探ろうとするとき、他思想の受容と混交から、どのように教義が形成されていったかを俯瞰してみることは無意味なことではないと私は思っています。

取り入れられたあとに信仰すると、それはもはや仏教の“内”となりますが、混交以前と比べれば違和感があるのは当然ですが、ここを見つめられる冷静さが不可欠であると思うわけです。

227 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/19(日) 07:23

そう言えば、達師は「大日蓮華山」を商標登録していましたね。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/dainitirengezan.gif

228 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/19(日) 07:42

ついでに思い出しましたが、池田さんがした「南無妙法蓮華経」の商標登録は取り下げたんでしたっけ?

商標登録願 南無妙法蓮華経
1 指定商品および商品区分
  第25類 紙類 文房具類
2 商標登録出願人
  住所 東京都新宿区信濃町32番地
  氏名 宗教法人創価学会
     会長  池田大作
昭和37年
商標登録願
第29110号

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/daimoku_toroku.gif

229 名前: 独歩 投稿日: 2002/05/19(日) 07:54

池田さんは10年後の昭和47年に、『指定商品および商品区分』に「被服・布製身回」でさらに商標登録していました。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/daimoku_toroku02.gif

230 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/20(月) 05:49
横レス失礼いたします。
元気が出てきたので復活レス、です。

独歩様、富士桜様、メール、有難うございました。
(富士桜様にメールしようと思ったら返事できず返ってきました。)
あの状況から立ち直るのには時間かかりましたが、元気になりました。
ありがとうございました。

話は戻ってしまうけど、川崎であの日の前日、ごつい顔の集団がいて、
高級車ばかり走っていました。葬式もありました。
もしかしたら、その道の方の葬式だったのかもしれなかったです。
最近そういうの多いような気がしますが…。
商標登録の点ですが、確かにありましたですね。
でもその意図は私はどうしてもつかみたかったのですがわかりませんでした。
スキャナーを買ってきたのであったら公開したいと思いますが…
…なんせ、使い方が分からないもので…

237 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/22(水) 08:31

64523 ゲットしました。

238 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/24(金) 20:47
すみません。236より前、携帯からみれなくなってしまうのですけど。
しかも、フリーズしています。
こわれているのでしょうか?(PCより投稿)

239 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/25(土) 08:40

65000 ゲットしました。

やーこさん

236より前、231までのレスは「神州日本の天皇」スレッドに引越ししました。そのせいだと思います。

240 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/26(日) 07:33
フリーズは収まりましたが、まだ過去レスを見ることが出来ません。
神州日本のなんとかてスレで、言いたいことがあります。
天皇制という言葉に腹だたしいという無徳様のレス、軍人の血を誇りに思う菊水護国様のレスがございましたが、私も主張したいことがあります。
私はアメリカを心からにくんでいます。私の母がたの祖父は自ら進んで国の為、仲間の為戦争で奉公しました。結果、銃弾の破片を目に受け、片目を失いました。生きて日本に帰りましたが、アメリカは障害者の彼の家族自体を馬鹿にしました。(続く)

241 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/26(日) 07:47
(続き)アメリカ、GHQによる一時的支配をきっかけに周囲は文明化(?)していきましたが、アメリカはその流れの中で子供たちに何を教えてきたのでしょうか。子供たちや家族は裕福になっていくが、何故かもと軍人を恨み、必要のない差別を持つようになってしまった。私は生きてないのでよく分からないが、聞いたところ、目を潰されたもと軍人の家族の人格を否定され、関係無い子供の母は尊敬する父の悪口をさんざん学校で子供逹に言われ、近所からも差別されていた。仲間、死後の待ち合わせ約束場所にした靖国、今までの人生、ふみにじられた。(続)

242 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/26(日) 08:04
(続き)全て否定された。これほどの屈辱はない。アメリカは自由と平等の他に汚いものを持ち込みました。
アメリカテロ事件後の報復など、世界の警察を名乗り、各国を自分逹のいいようにして軍事力を利用、支配する姿。京都議定書などの件を見て腹が立ちます。また最近ダカーポを読んでいて、日本国憲法全文の英語の原文を、英語堪能な日本人に読ませて、後でそれが日本国憲法全文だと教えた記事があった。感想は、なかなか日本国憲法とは気付かなくて、普通に考えて、馬鹿な病理的妄想を書いたような文章が前文が恥だという意見が多かった。(続く)

243 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/26(日) 08:20
(続き)私は英語が分からないが、この話がもし本当ならば大問題だと感じる。世界から馬鹿にされるようなものを憲法を与えられたならば、日本にとって屈辱だ。それを素晴らしいと言いながら教えてる教師。見てるとぶん殴りたくなる。まるで日本が洗脳してるようである。とにかく、アメリカは日本を駄目にした。文章の脈絡もないし、改行しなかったので読みづらくて申し訳ありませんが、憎しみと怒りを持つ子孫がここにいることを分かって下さい。もう、頭が爆発しそうで、、、、

失礼致しました。

244 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/26(日) 09:40
やーこさん

東京裁判で、多くの旧本の戦争当事者が、戦争犯罪人として裁かれ、日本は侵略戦争当事者として断罪されました。いかし、日本に原爆を投下し、多くの一般国民を虐殺したアメリカの戦争犯罪は、一切黙殺されました。このような馬鹿げた裁判があるでしょうか。裁判ではなく、戦勝国が、自国の残虐な殺戮行為を正当化するために演出した茶番劇でしかなかったと思います。そして、この東京裁判によって、全て日本が悪く、アメリカこそが正義なんだという悪質な洗脳をアメリカは日本において実施しました。この事実関係は、決して忘れてはならないと思います。使う必要のなかった原爆を投下し、非戦闘員の広島長崎の日本人を大量虐殺した行為は、今、イスラエルがパレスチナで行っている虐殺行為と何ら変わらず、ユダヤ・アメリカの残虐性を端的に示しています。

この問題の根底は、私は宗教であると考えています。ユダヤ教、そして、ユダヤ教の配下となったキリスト教、その問題であると思っています。

245 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/26(日) 09:43

訂正です

いかし→しかし

246 名前:投稿日: 2002/05/28(火) 00:14
やーこ様、問答迷人様

>全て日本が悪く、アメリカこそが正義なんだという悪質な洗脳をアメリカは日本において実施しました。

あちき、洗脳なんかされてないでげすよ。
別に、「やーこ様や問答迷人様が、あちきのことを『洗脳されている』と言っている」
という意味ではありません。
あちきは、名前も出てないのに、突然、横レスしているわけでげして。

あちきの高校の時の社会科の先生は「あいつは左がかっている」とウワサされている人でした。
その先生は、日本国憲法を大切に考えている人でした。
その先生は、原爆投下を厳しく非難した授業をやりました。(内容は忘れた)
そして、東京裁判を批判した授業をやりました。(内容は忘れた。社会科苦手なんだよな)
まさに、「全て日本が悪く、アメリカこそが正義なんだ」というのを批判した授業をやったのです。

問答迷人様は、ひょっとして、「日本人は全員、『アメリカは正義だ』という洗脳を受けている」
とお考えでしょうか???
もし、そうだとしたら、そういう考えも、洗脳に近いものだと思うでげすが。

247 名前:投稿日: 2002/05/28(火) 02:23
ユダヤ・アメリカの残虐性?  ユダヤ教の配下となったキリスト教?
アメリカがユダヤ人の国とは知らなかった。
アメリカ人を誰でもつかまえて、「あんたユダヤ人」と尋ねてみるといい。たぶん怒るでしょう。
それに、キリスト教はユダヤ人を差別してきた。
数年前、その過ちを、ローマ法王が謝罪したのが、新聞の1面を飾ったのではなかったか?
ユダヤ教だって、キリスト教と一緒にされたら、怒るでしょう。

聡明な問答迷人様のご発言とは思えず、困惑しております。

248 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/28(火) 08:44

あ さん

仰る通りです。私の発言は、つぶやきなんです。論理的に書いたのではありません。だから、意味が取れないかもしれません。だけど、アメリカはユダヤ国家なんですよ、すでに。通信社、金融資本、政治の中枢、ほとんどユダヤ人が掌握しています。一度、お調べなってみてください。

249 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/28(火) 09:36
横レス失礼。
問答迷人さんの言うとおり、アメリカのかなりの資本がユダヤ系に牛耳られてますね。
これはアメリカに限らず、2次大戦以前にはヨーロッパ特にドイツでもユダヤに経済界が牛耳られてまして、
それに対するヒトラーのジェラシーもホロコースト(大虐殺)の動機の1つと言われてる位です。
さて、アメリカですが、経済界はほとんどユダヤ企業ですね。
部門にもよりますが、ハリウッド映画界なんかは完全にユダヤ市場ですね。

250 名前: いちりん 投稿日: 2002/05/28(火) 16:24
アメリカ経済の実質を握るのは、ユダヤ資本というのは、事実のようです。

たとえば、大きくは、ロックフェラー系、ロス・チャイルド系があるようですが。
代表的な企業は、チェース・マンハッタン、モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックス、ソロモン・ブラザーズなど。

石油メジャーの殆どがユダヤ資本:エクソン、モービル、テキサコ、ガルフ、ロイヤルダッチシェル。
5大穀物メジャーの内3社がユダヤ資本:コンチネンタル・グレイン、ルイ・ドレフーズ、ブンゲ

ユダヤ資本、とりわけロスチャイルド資本は軍事・エネルギー・金融・IT・メディアをはじめ世界主要企業の株を支配し、アメリカ歴代政府も彼らの意向を無視しては政策決定できなかったといいます。

アメリカのユダヤ資本だけで、アメリカGDPの50%を左右する財力を保有しているとの説もあります。

政治面でも、上院議員の約1割はユダヤ民族であるばかりか、民主党の次期副大統領候補もユダヤ人だとか。F・ルーズベルトやキッシンジャーもユダヤ人ですね。

マスコミ面でも、ニューヨーク・タイムズはユダヤ資本です。
世界の4大通信社のAP、UPI、ロイター、AFPも、ユダヤ資本とか。

まあ、調べ上げると、なにしろユダヤ人はすごいです。芸術・文化面でもすごいし。

創価学会の池田さんなども、さかんにユダヤの団体と接触していますね。
まあ、彼らの力を借りて、彼らの印象をよくして、いろいろと画策しているようです。まあ、ノーベル賞ももらいたいのでしょうし。

251 名前:投稿日: 2002/05/29(水) 00:49
問答迷人様

問答迷人様がアホに見えるようなことを書き込んでしまったか?、
と思って反省しております。
あちきは頭が悪いので、あのように書くしかなかったのです。
頭が悪くてジョーダンが通じないヤツだと思って、許してやってください。

アメリカ国がユダヤ人資本に支配されている、という話は、あちきも聞いたことがあります。
その話が拡大して、チマタではトンデモが流行るのでげす。
トンデモなのかホントなのか、頭の悪いあちきは迷うのでございますでげす。

252 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/29(水) 07:38

あ さん

ごめんなさい。私のつぶやきが、いろいろ、物議を醸したこと、反省しております。もう少し正確な資料を揃えてから、申し上げるべぎでした。ただ、菊水護国さん、いちりんさんが書き込んでくださったことによって、この問題の有り様が見えてきたので、有り難いなぁ、と思っています。

詐欺師が人を騙す時、一番用心することは何か、それは、自分が詐欺師であることを見抜かれないようにすることではないかと思います。

『アメリカはキリスト教国家であり、キリスト教文明は今や、世界の隅々まで行き渡り、人類を潤している。それに引き換え、ユダヤ教は、一部のユダヤ教徒のための教えに過ぎず、しかも彼らユダヤ人は、過去虐げられてきていて、長い間、国もなかった。哀れな民族である。そのユダヤ人がやっとの思いで手に入れた国、イスラエルは、アラブ人、イスラム教徒によって、常に存亡の危機に晒されて来た。』

今、パレスチナで行われていることの本質を捉えるには、やはり、ユダヤ教について詳しく知らなくてはならないと思っています。

254 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/05/29(水) 09:57

65506 ゲットしました。

259 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/30(木) 07:14
今、にちゃんねるの自分の会社のスレにはまってこちらがおるすですみません。
今まで横浜線使って川崎まで仕事に行ってました。
新横浜を通りすぎる度に、小さいころけんしょう会で、横浜アリーナに行ったことを思い出します。
今でも電車内で鶴の丸バッヂを付けている人を見掛けます。
また、あちこちで大百蓮華を広げる学会員を見掛けるようになりました。
次は菊名→聞くな!というギャグを思い出し、同時にかつて、自分の所属寺院が自分逹の悪いところを他人から聞くな、といわれていたことを思い出しました。

260 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/30(木) 09:39
鶴丸バッジね。結構たくさん持ってたんだけど(忘れると買うから増えた)今も1個くらい残ってると思うよ。
銀バッジで良く出来てるよね。ただし航空会社と結構間違えられたけどね。どうせなら、幹部は金バッジにしたら良いのに。会長はダイヤが入ってるとかね。
当時から少しは区別したほうが良いと思ってたんだけどね。
顕正会の皆様、部外者の戯言ですので、お許しを・・・。

261 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/05/30(木) 21:14

鶴丸バッジですか、懐かしいですね。

ただし、私が懐かしいのは創価学会が昭和30年代頃まで使っていたほうです。
昔は鶴丸バッジは創価学会の専売特許だったものです。金バッジやら、銀バッジもありました。

菊水護国さんは買ったんだそうですが、創価学会では財務部員に配られたものでした。財務部員も許可制でしたから、役職があり、さらに財務部員である人に限って着けていたんですよ。私は子供心に「大人になったら鶴丸バッジを着けられるようになるんだ」なんて思っていたものでした。実際、大人になったら、バッジを着けているのは顕正会でした(笑)

創価学会が鶴丸バッジの使用をやめて、今では顕正会のトレードマークになっているんですね。時代の変遷を感じます。

しかし、鶴丸バッジ、これを着ける団体が口にするのは「国立戒壇」
顕正会も着けなくなる頃には国立戒壇論を卒業するんでしょうか。
言っていることもやっていることも昭和30年代から40年代の創価学会と大同小異、歴史は繰り返すわけで、案外、そんな未来がやってくるかも知れません。

そう言えば「会長先生」と言えば、昔は池田さんを指した言葉でした。達師も、こう池田さんを呼んでいましたよ。顕正会でも「会長先生」みたいな言い方をするんでしょうか?

262 名前: やーこ。 投稿日: 2002/05/30(木) 22:41
ふっふっふっ。
私は幼稚園生の時からずっと付けてましたよ。しかも、あらゆるものに。あれって一体何の為やったんやろ?
一個百円だったと思います。

263 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/30(木) 22:51
浅井甚兵衛さんは最初から講頭先生でした。そのころ浅井昭衛さんは(青年)部長先生だったそうです。
しかし、その後の青年部長で先生と尊称された者はいない。所詮は浅井家の世襲私物団体ですね。そういう面では創価学会の方が世襲制は低いですね。

264 名前:投稿日: 2002/05/30(木) 23:03
古本屋の軒先で棚ざらしにされていた、薄っぺらいムンクの画集(パンフレット程度のやつ)
を200円(消費税別)で買った。ムンクって、ホレ、あのオドロオドロしいヤツ。
オドロオドロしいのばかり掲載されている中に、目を引かれた2枚の絵があった。

1枚は初期に描かれた少女の絵(有名な「病める少女」ではない)。
これが、ちゃんとした写実的な絵なのだ。
ピカソって初めの頃の絵を見せられると、「えーっ? これが同じ人の描いた絵?」
と驚くのだけど、それと同じ驚きだ。
リン、とした表情。輝く瞳。強い視線。キリリと結ばれた形の良い唇。美しい少女だ。
生の不安を表した絵ではなく、真っ直ぐに進んで行こうとする、意志的な少女を描いている。

もう1枚は、4人の少女が横に並んでいる絵。
あのムンクのタッチなのだが、形や色にオドロオドロしさが無くて、
子供に与える絵本の絵のような、明るさ、暖かさが感じられる。

画家っていうのは、自分の表現を、努力して切り開いて行くものなのだな、
と改めて思った。

265 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/05/30(木) 23:22
> …創価学会の方が世襲制は低いですね

菊水護国産らしからぬ分析の甘さ(笑)

創価学園、創価大学、両方とも、池田さんの跡取り、ご学友グループに囲まれた次男坊に合わせて創設されたものです。世襲制が低いなどと、どうして言えましょうか。

266 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/05/31(金) 08:01
独歩さん。
世襲制が低いとはあくまで、顕正会と比べた場合ですよ。これは、顕正会にいた人にしか分からない概念ですが。
会長側近のブレーンの推移を見れば分かりますよ。
池田さんはイエスマンなら他人でもブレーンが周りにいるでしょう。
ところが、浅井さんは最終的には理由もなく他人の幹部は排除し、周りを全て身内で固めてしまってます。
有能な他人は忠誠一筋でも将来の危険性から、5年以内に排除します。
現在の幹部は、会長御本人、青年部長長男、男子部長次男、本部理事娘婿・・・。
もちろんこれで世襲制の高低にはつながらんでしょうが、一族第一主義はかなりすごいですよ。

267 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/05/31(金) 10:42

> 266

菊水護国さん:

なるほど。そういう意味ですか。
たしかに私は顕正会に所属した経験はないので肌感覚としてわからないで書いていました。

268 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/06/02(日) 12:55

66072 ゲットしました。

269 名前: 岡田克彦(Gay75MZI) 投稿日: 2002/06/02(日) 19:22
2チャンその他で私の名前にていろいろなことを書き込んでいる人たち
がいるようでございますが、私は、2チャンその他の掲示板にはレヴェルの低い、
しかしコンプレックスだけは強い連中がタムロしていることがわかりましたので、
一切興味がなくなりました。このゴールデンウィーク以降は、
何も書いておりません。これからも永久に書き込みませんので、
全て2チャンネラーの偽者の仕業とお考え下さい。(岡田克彦)

私、岡田克彦の音楽ホームページ「K.OKADAワールド」URL;
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/5933/

270 名前: モモ 投稿日: 2002/06/02(日) 20:52
なにやら迷惑投稿がありますね。断固削除すべきでしょう。
いっしょにこの投稿も削除してください。

271 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/06/03(月) 11:46
ちょっと待て。
岡田克彦さんの2CHについての意見はわかった。
しかし、当掲示板とは何の関係も無いのは、言うまでも無い。
しかも、全スレに書き込むのは何故だ。
文句は2CH管理人「西村博之」(自ら開示している)とやらに言えば宜しい。

272 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/03(月) 12:54

というか、これ本当に岡田克彦さん本人が書き込んだものなのでしょうか。
私はK.OKADAワールドというところにジャンプしてみましたが、なかなか美しい音楽が流れるサイトでした。
こんな音楽をよくする人が、こんなばかげたことをやるものなのでしょうか。

いずれにしても、管理人さんが処理される問題であり、掲示板規約に違反したことについては、参加者は取り合わないことで対処することが一番、賢明であろうかと思います。

273 名前: 無徳 投稿日: 2002/06/03(月) 15:15
本当にネチケット(ネット上の倫理)を解さない人には困ったものですね。

 この問題は独歩さんが言われるように管理人さんにお任せして、我々は取り合わ
ないことが肝要と思います。

 それにしても岡田克彦氏とは如何なる人なのでしょう?
どなたかご存じの方がおられましたら情報をアップして下さい。

276 名前:投稿日: 2002/06/04(火) 11:50
あ、そーか。
昨日、ここに来てみたら、全部のスレに同じ「岡田克彦」を「名乗る」
書き込みがしてあったので、ビックリした。
それで、検索エンジンで「岡田克彦」をいろいろ調べてみたんだけど、
これが、われらが「富士門流信徒の掲示板」とは、何も関係無いんだよな。
日蓮の信仰とは何も関係ない人だ。正宗系の団体とも、全然何も関係ない人だ。

調べてみた結果、2ちゃんねるで、「岡田克彦」という人か、
あるいは岡田克彦を「名乗る」人の間で、
何かトラブルがあったらしい事がわかった。内容はよくわからない。
「岡田克彦」という人か、岡田克彦を「名乗る」人が、
2ちゃんねるのトラブルで頭に来て、迷惑投稿をあちらこちらにバラ撒いて、
それが、この掲示板にも流れてきてしまったというわけだ。
言わば、何も関係無いのに、走っているトラックがハネた雨水を、
この掲示板は、かぶってしまったようなわけだ。

うん、しばらく放っておいて、管理人様にまかせよう。

277 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/06/04(火) 17:07

66490 ゲットしました。

岡田さんの書き込み、意味不明ですが、呟きの一種として、このスレッドの書き込みだけ残して、あとは削除しますね。

278 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/06/08(土) 11:09

67078 ゲットしました。

279 名前: やーこ。 投稿日: 2002/06/10(月) 11:10
私の抗議投稿も消してください、と書いたんですけど。

実は腰痛の炎症が悪化して入院しそうなのでしばらく消えます。
二週間の予定ですが、またみなさんにお会いしたいです。
しばらくの間、留守してる時のレスを楽しみに待ってます。

280 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/06/12(水) 09:03

67563 ゲットしました。

281 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/14(金) 11:10

澁澤光紀師、文の責任を負う『平成の摂折論争 その後の展開』を読みました。
最近、日蓮宗では「今成論争」というものが起きているそうです。
いわば摂折論争であるとのこと。近代の日蓮系の流れは優陀那輝師の摂受論と田中智学師の折伏論であって、そこから出ません。

前者、輝師は黒船を見て、今後は摂受たるべきを訴えるに至流と云います。
「立正安国論は当時既に其の用を為さず。今世に至って全く其の立論の無実を知る」

後者、田中師は、この日蓮宗の有り体を嘆いて、完全と折伏の復興を叫ぶわけです。
「吾宗の教徒たるものは、大上人立正安国の御主張を心として、自らの信念を此に据え」と云い、折伏論を展開したわけです。しかし、国家主義的な方向性から三大秘法をとらえ国立戒壇論を訴えるも、敗戦とともに、捨て去られることになると云います。それによって日蓮宗は輝師をもって復興の流れに乗るのに、創価学会は戒壇論を民主主義で焼き直し、主権在民を論拠に天皇戒壇論から、民衆戒壇論に改竄して、ついに正本堂を建立するに至ったわけです。現在は、この論調は顕正会に受け継がれるけれど、40年前の創価学会となんら変わることはないことに会員は気が付かないでいるわけです。

通じて戒壇論の鼓舞は激烈な折伏実践を伴うのは創価学会、顕正会に明らかです。

興風談所は創価学会型の折伏が、なぜ起きたかを分析して、その折伏論の基礎が涅槃経にあり、聖人の不軽折伏論を採らなかったせいであると分析したと云います。

果たして「摂受か折伏か」という論争となるわけですが、要するに、この二者択一を迫る必要があるのかと私は疑います。摂折二門は両輪の如し、宜しく両意を採るべきと思うからです。

282 名前: 川蝉 投稿日: 2002/06/14(金) 14:53
犀角独歩さんへ。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/
「法華行者の会」の4に,「摂折論に関して」
があります。
shamonさんが、今成教授も出席している所で批判講演されたものです。興風談所と同じく「折伏は不軽菩薩が範」との意を語っています。

283 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/06/14(金) 15:27
> 現在は、この論調は顕正会に受け継がれるけれど、40年前の創価学会となんら変わることはないことに会員は気が付かないでいるわけです。

というよりも、顕正会の浅井会長が、熱烈なる戸田信奉者なのだから当然といえば当然です。
彼の書籍に「退転者の屍を乗り越えて」という言葉がありますが、これは戸田さんの書かれた、創価学会青年訓の中に見出せます。
また「時を待つべきのみ」を「時とは漫然と待つのでは無く、作り出すものである」という強烈な考えも戸田思想の受け売りです。
最近彼の立正安國論の講義の書籍を読みましたら、戸田さんの御書十大部の講義をそのまま書いていると確認できました。
という事は、会長が代替わりしたら、国立戒壇を捨て、民衆戒壇論に変わるかも知れませんね。

284 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/14(金) 19:09

川蝉さん:

> 282

ご紹介有り難うございます。
拝見します。

285 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/14(金) 19:10

菊水護国さん:

> 283

浅井さんて、戸田さんのシンパだったんですか。
是非、講義録の対照表を作ってみてください(笑)

286 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/15(土) 10:38

最近、問答名人さんが登場されないせいか、なんかぱっとしませんね。

287 名前: いちりん 投稿日: 2002/06/15(土) 11:10
そうですね。お忙しいのでしょうかね。

288 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/15(土) 11:28

管理人さんのいないところで勝手にやっているような、なんか申し訳ない気分です。

289 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/06/15(土) 17:33

68059 ゲットしました。

すみません。ロムに回っています。ここのところ、仕事を拡大したもので、てんてこ舞いです。正直申し上げて、ロムするのがやっとの状態です。がんばって書き込みに努力します。よろしくお願いいたします。

290 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/06/15(土) 19:42
> 285
意外と知らんのですよね。戸田、浅井類似性(敬称略)。
池田さんとは比べるけど、戸田時代とは比べる方が少ないんですよね。
そうですね。ある程度は対照表作ってみましょうか(私ってすぐ挫折するから、計画で終るかも)。
独歩さんの100分の1でも、熱心さがあれば。

291 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/15(土) 23:46

菊水護国さん:

> 対照表

ぜひ、やってみてください。楽しみにしています。
私も、いま古い学会の資料、読んでいます。

池田さんが「勅使門を通るのは自分だ」と書かれている会長講演集の一節、見つけました。
この門を通るとなると、天皇の使いということになると思うんですが、面白いことを言ってものだと。

292 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/06/19(水) 07:25

68533 ゲットしました。

293 名前: 寛星(KANSEI) 投稿日: 2002/06/19(水) 14:23
愚見@

私が学会にいて教わったものに、大聖人の「立願の子細」というものがあった。
それは大聖人が幼少の頃に懐いていた疑問である。
1、承久の乱において天皇方は天台真言等の高僧による調伏祈祷をしたにもかかわらず惨敗し、三上皇が島流しに処されたこと。
2、釈尊一代の教えが何故各宗各派に分れ、それぞれが優越性を主張しているのか。
3、念仏を唱える人の臨終が、あまりにも狂乱で悪相なのはなぜか。
以上の3点である。
今現在、改めて考えるとやはり2番目の「釈尊一代の教えが何故各宗各派に分れ」が気になる。

報恩抄には、次のようにある。
『我等凡夫はいづれの師なりとも信ずるならば不足あるべからず。仰いでこそ信ずべけれども、日蓮が愚案は(晴)れがたし。世間をみるに、各々我も我もといへども国主は但一人なり、二人となれば国土をだ(穏)やかならず。家に二の主あれば其の家必ずやぶる。一切経も又かくのごとくや有るらん。何(いず)れの経にても・をはせ一経こそ一切経の大王にては・をはすらめ。而るに十宗七宗まで各々諍論(じょうろん)して随はず。国に七人十人の大王ありて、万民をだ(穏)やかならじ、いかんがせんと疑ふところに一(ひとつ)の願を立つ』

「我ら凡夫は、いずれの師であっても、信じている限り不足があるわけはない。仰いで当然のように思って信じているけれども、それでは日蓮の愚かな考えは、決して晴れない。なぜならば、世間を見ると、各宗派がそれぞれ「我こそは」「我こそは」と主張しているが、国主は必ず、ただ一人のはず。もし二人の国主がいたならば、その国土は決して穏やかになるはずがない。たとえば一つの家に二人の主人がいたならば、その家は必ず滅んでしまう。そして一切経も、まったくこれと同じなのである。どのような経であろうと、ただ一つの経だけが、一切経の中の大王なのである。ところが十宗・七宗という多くの宗派それぞれが、自宗を第一として、論争し合い譲らない。それは一つの国に七人・十人という多くの大王がいたならば、万民は穏やかになれるはずがないのと同じである。だからこそ、どうしたらよいのかと思い、一つの願いを立てたのである。」

さてこの幼少からの疑問は、大聖人御自ら、御自身の仏法についても当然考えておられたはず。
ましてや末法尽未来歳までの遥かな年月を、正しく伝えさせるには、どうしたらよいのかと考えておられたはず。

294 名前: 寛星(KANSEI) 投稿日: 2002/06/19(水) 14:25
愚見A

たとえば、今の学会は未来にまで分派することはないのだろうか。
もし池田氏・秋谷氏・森田氏等の子孫が、新たに御本尊を作成し、また我こそは「真の法華経の行者」と主張し、それぞれが「永遠の指導者」から血脈を受けたと主張したらどうなるのだろうか。
今の学会にはそれを阻止する定義がない。御本尊の開眼も必要とせず、それぞれが勝手に作成しても、またかりに大聖人の御真筆をコピーしても、それを謗法とする基準が無い。正本堂建立の際、大御本尊をあらゆる角度から撮影していた赤沢氏もいる限り、新たに板御本尊を作成することも簡単である。学会はそれを未来にまで、しないという会則も無く、それを謗法とする定義が無い。
御本尊の数だけ分派し、またそれぞれが「永遠の指導者」から血脈を受けたと主張したら、それはさらに増える。そして互いにその相手を謗法とすることもできない。

実はこれは学会に限ることではない。分派の可能性は正信会も顕正会も同じである。
では日蓮正宗はどうか。究竟中の究竟とされる大御本尊があり、一人から一人への唯授一人の血脈がある。学会も正信会も顕正会も、それを信じていないから正宗から出て行ったのである。(正確には追い出されたのである)

大聖人御在世、唯授一人の血脈がなかったら明らかに六老僧の分派が出来、互いに謗り合うが、それぞれが正当化する基準はない。もちろん日興上人以後も同じである。七百年の間、宗門の血脈が、様々な方法で伝えられたのも事実だと思う。しかし現に一人から一人へと伝えられている形になっている。

あくまでも愚見であるが、大御本尊と唯授一人の血脈とは、未来にわたり分派を阻止し、大聖人の仏法を正しく伝える最も重要なものではないのか。さらに言えば万民が一同に「南無妙法蓮華経」と唱える事が出来る唯一のものなのかもしれない。

295 名前: 寛星(KANSEI) 投稿日: 2002/06/19(水) 14:26
愚見B

戸田二代会長質問会より
「そして日蓮大聖人様滅後は、御本尊を拝して唱える題目は読であり、代々の御法主上人を拝んだのは、誦の題目であります。御本尊は人法一箇でありますが、御本尊を法本尊とし、大聖人以来の血脈付法、代々の猊下は人本尊と拝します。ですから、現在は法本尊を中心にして人本尊を拝んでいます。」

堀日亨上人に云はく
「明らかに反対の態度を取りて宗門の人法を批難攻撃する事になる。これを度々(たびたび)訓誡せられても、頑(がん)として改心せぬのが、即ち大謗法である。この様な人は残念ながら宗門から離れて貰(もら)はにやならぬ。」

法華経普賢菩薩勧発品第二十八に曰く
「この経を受持するものを見て、そのものの過失や悪を暴露したならば、そのことがもしくは事実であるにせよ、もしくは事実ではないにせよ、このものは現在の世に癩病を得るであろう。またもしもこれを転じて笑うならば、そのものはまさに代々歯がすいて欠け、醜い唇と低い鼻をもち、手や脚はもつれてまがり、眼はすがめとなって、身体は臭くきたなく、悪いできものができて、そこに膿(うみ)や血がたまり、腹水病や肺結核など、多くの悪い重病となるであろう。」(訳・三枝充悳氏 第三文明社)

296 名前:投稿日: 2002/06/19(水) 19:37
>あくまでも愚見であるが、大御本尊と唯授一人の血脈とは、未来にわたり分派を阻止し

だったら何で、富士門が4つに分裂してしまったのでしょうねえ。
日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会、みんな、大御本尊と唯授一人の血脈を信じていたじゃありませんか。
今はどうだか知らないが、数十年前は確実に信じていましたよ。

>大御本尊と唯授一人の血脈とは、未来にわたり分派を阻止し
我々、外部の者は、こういう意見はシラけてしまいますな。

297 名前: 寛星(KANSEI) 投稿日: 2002/06/19(水) 21:08
あ様、書き込みありがとうございます。
>日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会、みんな、大御本尊と唯授一人の血脈を信じていたじゃありませんか。

もちろん信じていたから、日蓮正宗を名乗っていました。しかし創価学会、顕正会、正信会はそれを信じなくなり、追い出されたのです。

逆に、あ様にお尋ねします。
「釈尊一代の教えが何故各宗各派に分れ」との大聖人の疑問は、大聖人御自ら、どのように解決されたのでしょうか?
また尽未来際まで流通するために、どのようにされたのでしょうか?
どうか教えて下さい。お願いします。

298 名前: いちりん 投稿日: 2002/06/19(水) 21:42
大御本尊と唯授一人の血脈って、たしかに、わかりやすいですが。
しかし、これが「強さ」と「脆さ」を持っていて。

大御本尊というのは、板ですよね。まあ、半丸太。
それで、いつかは必ず腐敗して崩れて土と化す。(すでにかなり腐敗していて、補修したともいわれています)

あるいは、火災にあったり、富士山が爆破して溶岩に呑み込まれたり、ボーイングでも突入して炎上したり、あるいは凶器の法主があらわれて、ゴミに捨ててしまうことだって、ありえますよね。

そしたら、末法尽未来際の本尊たるものが、それで終わりになつてしまいます。

また、唯授一人の血脈というのも、とても脆い。
法主が、頓死したり、急死したり、あるいは凶器にでもなったら、それで終わり。
まあ、大石寺の歴史では、そんなことは、何度もあったようですが。

ですから。

そのたびに、「いや。じつは、わたしが相承を受けていた」ということにしていたようですね。あるいは、在家やら少年に相承したり。(ワンポイント・リリーフみたいな)

大御本尊も焼けたり破戒されたりしたとしたら、「いや。じつは、あれはレプリカで、ホンモノはここにある」ということも、ありえましょうね。

大切なのは、いかに「もの」から離れるか。
「形」から離れるか。
「もの」や「かたち」にとらわれる、そういうあり方を、いかに離れるか。
そこなんでしょうが、人間、執着が強いから、難しいですね。

それでまあ、あっちが正しい、こつちが正しい、いやあれこそホンモノ、それはニセモノ。
いや、相承を受けていた、いやニセモノだ。
そんなこんなで、あーだこーだと、修羅の世界を、見せてくれているわけですね。
そして、争うほどに、心は濁っていき、伝える法も、濁っていき。
やがて、みんな灰と化す。土と化す。

その灰から、あたらしい芽が育つのかもしれませんが。

299 名前:投稿日: 2002/06/19(水) 22:17

寛星(KANSEI)様

>逆に、あ様にお尋ねします。

私が寛星(KANSEI)様のお尋ねに答える必要はないでしょう。
私が創価学会に居たのは、非常に短い期間でした。
しかも、宗門と学会の分裂以前にやめてしまいました。
今は、宗教何もやってません。
私がやめた頃は、まだ、「日蓮正宗と学会は1枚岩だ」と教えられていて、私はそれを信じていました。
同じく、大御本尊と唯授一人の血脈も教えられていて、私の周りの学会員も固くそれを信じていました。
だから、やめた後で宗門と学会が分裂して、私はびっくりしたのですよ。

寛星(KANSEI)様のお尋ねには、逆にこっちが質問したいぐらいです。

300 名前: 寛星 投稿日: 2002/06/20(木) 10:31
いちりん様 ありがとうございます。

>大切なのは、いかに「もの」から離れるか。
>「形」から離れるか。
>「もの」や「かたち」にとらわれる、そういうあり方を、いかに離れるか。
>そこなんでしょうが、人間、執着が強いから、難しいですね。

「もの」や「かたち」にとらわれる、だから、いちりん様も、

>大御本尊も焼けたり破戒されたりしたとしたら、
>法主が、頓死したり、急死したり、あるいは凶器にでもなったら、それで終わり。

このような考えになるのでしょうか。

法蓮抄には、次のようにあります。
『今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、乃至、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る』

あ様へ、

>私が寛星(KANSEI)様のお尋ねに答える必要はないでしょう。

とても残念です。

皆様へ、

「釈尊一代の教えが何故各宗各派に分れ」との大聖人の疑問は、大聖人御自ら、どのように解決されたのでしょうか?
また尽未来際まで流通するために、どのようにされたのでしょうか?
滅後の我々が、正しい大聖人の仏法を知り、また子孫に伝えていくために、どのようにされたのでしょうか?
どなたかどうぞ教えて下さい。お願いします。
301 名前: いちりん 投稿日: 2002/06/20(木) 11:26
寛星さん

>「もの」や「かたち」にとらわれる、だから、いちりん様も、
>大御本尊も焼けたり破戒されたりしたとしたら、
>法主が、頓死したり、急死したり、あるいは凶器にでもなったら、それで終わり。
このような考えになるのでしょうか。

あ、そうじゃなくてね。
「もの」や「かたち」にこだわるとも、執着すると、
大御本尊も焼けたり破壊されたり、法主が、頓死したり、急死したりすると、とても困ることになるよ。
そして、そういう事態は、起こり得ないことじゃないでしょう、といいたかったのです。

つまり、「もの」や「かたち」にこだわる信仰だと、その「もの」や「かたち」が劣化したり、腐敗したり、破壊されたり、あるいはニセモノだということがわかると、壊れてしまうようなものだということなんです。

で、それが壊れたり、ニセモノとわかると、それまでの信仰を投げ捨てたり、信じ込まされたとして憎悪したりするんですね。
あるいは、ホンモノをさがさなくちゃという宝探しになったりする。
あるいは、なんとかつじつまをあわせて、いやいや、心が大切なんだ、久遠の本仏と直結でいいんだ、とか言い出します。

そういうのは、やはり「他に依存して安心しようという心」であって、いつまでたっても、安心のない生き方になるかなあと思うわけです。

で、まあブッダのいいたかったことは、「もの」や「かたち」にこだわるな。
自分の「身体」にもこだわるな。さらには、「自分」というものにも、こだわるな。
そういうことだったんじゃないかなと、思いますね。

ブッダが、大御本尊を拝んだり、南無妙法蓮華経ととなえたり、しなかつたでしょうしね。
そして、血脈相承なんてしなかつたでしょうしね。

やはり、ブッダに学ぶのが、いいなあというのが、わたしのあり方なんです。

302 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/20(木) 11:31

寛星(KANSEI) さん:

はじめまして。
ここのところ、あなたが記しているところは、いわゆる為にする言論でしょう。つまり、まず答えありきです。答えとは宗派とは一つである日蓮正宗である、未来に伝えるために戒壇の本尊を遺し唯受一人を定めたというものです。この結論を示すために、敢えて疑問を立てているのに過ぎないと映じます。

> 「釈尊一代の教えが何故各宗各派に分れ」との大聖人の疑問は、大聖人御自ら、どのように解決されたのでしょうか?

以上のことを示すために『報恩抄』を引いていますが、既にここに聖人は答えを記しています。つまり、あなたが引用したその続きです。

いかんがせんと疑ふところに一つの願を立つ。我(われ)八宗十宗に随はじ。
天台大師の専(もっぱ)ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云はく「法に依って人に依らざれ」等云云。依法(えほう)と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外(ほか)の普賢(ふげん)菩薩・文殊師利(もんじゅしり)菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり。此の経に又云はく「了義経に依って不了義経に依らざれ」等云云。此の経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。されば仏の遺言を信
ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。

聖人は宗派、あるいは人ではなく、法華経を拠り所としたのでしょう。
なお、日蓮宗という命名は明治に入ってからのこと、日蓮正宗に至っては大正になってからの自称に過ぎません。聖人は、法華経を拠り所として法華宗を相承すると言うけれど、しかし、これは今で言う宗教法人のようなものの設立とは次元を異にしているでしょう。
ここに既に「依法不依“人”」を選び取られる以上、「唯受一“人”」など聖人のお考えにあったとは思えません。
そもそも、聖人は天台宗における相承系譜から出て法華経により、釈尊・天台・伝教・日蓮という三国四師を立てた方でした。しかし、この系譜は概観すればすぐにわかるように、連綿と途切れることなく伝わるものではなありません。

日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通せん。三に一を加へて三国四師と号(な)づく

なお、ここで言われる法華宗とは天台宗を言うものであるけれど、ご本人は「助けて」と言われるばかりで、その宗派意識を超克されておられるのでしょう。

参考に聖人の天台宗における位置を示しておきます。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/honkakukeihu.html

> 尽未来際まで流通するために、どのようにされたのでしょうか?
滅後の我々が、正しい大聖人の仏法を知り、また子孫に伝えていくために、どのようにされたのでしょうか?

そのために唯受一人血脈と戒壇の本尊を遺したと言えば、答えは簡単でしょう。
しかし、私はいちりんさんも記されるとおり、土俗信仰でもあるまいし、聖人が器物崇拝に留まっていたとは思えません。聖人は大乗仏教徒との自負と誉れが充ち満ちているからです。自分が図示した曼荼羅がいつしかなくなってしまうことなど、空論を持ち出すまでもなくおわかりになっていたことでしょう。

なお、『法蓮抄』の、いわゆる沙羅四見に該当する文を引用していますが、これは文字(経典)側の不滅を論じるのではなく、界位によって、対象が同様であっても相違して識られる点を論じるものです。曼荼羅が有り難いと拝する人界で、動物(畜生界)であれば、広げた経典を布団代わりに昼寝もすることでしょう。

この質問にかかる聖人の規範は、

日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土(えど)の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむるのみ。

に極まることでしょう。ただし、私はこの文をもって日蓮本仏とはまったく考えません。
聖人は題目の立行をもって未来に伝えようと考えられたのでしょう。しかし、それは唯受一人であるとか、究竟の曼荼羅と言った一宗派の自山顕彰を宣べる如き狭隘な発想とは無縁のものであったと拝察するものです。

303 名前: 寛星 投稿日: 2002/06/20(木) 12:42
いちりん様、ありがとうございます。

>「もの」や「かたち」にこだわるとも、執着すると、
>大御本尊も焼けたり破壊されたり、法主が、頓死したり、急死したりすると、とても困ることになるよ。
>そして、そういう事態は、起こり得ないことじゃないでしょう、といいたかったのです。

いちりん様の言われることも、分るような気がいたします。
しかし、大聖人は「令離諸着」(諸の着を離れしむ)を、あえて「離」を「明らか」と読まれました。

>で、まあブッダのいいたかったことは、「もの」や「かたち」にこだわるな。
>自分の「身体」にもこだわるな。さらには、「自分」というものにも、こだわるな。
>そういうことだったんじゃないかなと、思いますね。

そうなると、「もの」や「かたち」、「身体」、「自分」にこだわらないということは、やはりすべてが「空」なのでしょうか。「執着」とは「空」なのでしょうか?
諸法の実相とは?

犀角独歩様、はじめまして、そしてありがとうございます。

>されば仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。

確かに大聖人は釈尊の一切経の肝心を法華経として、「釈尊一代の教えが何故各宗各派に分れ」との疑問を、明確にしました。
しかし、その大聖人が「大聖人一代の教え(南無妙法蓮華経)が何故各宗各派に分れ」ということを考えていなかったとは思えないのです。私はそこが知りたいのです。

>ここに既に「依法不依“人”」を選び取られる以上、「唯受一“人”」など聖人のお考えにあったとは思えません。

涅槃経の「依法不依人」についても、「法」が大切だから「人」はいらない。というのではなく、「人」の姿で判断するな、「法」の内容で判断しろ、と言われてると思っています。
同じく涅槃経には、有名な「雪山童子」があります。
おそらく今の学会では、半偈を唱えた鬼に対して「民衆が納得する姿になれ」と言って、残りの半偈を教わらないでしょう。
しかし問題はたとえ鬼の姿であっても、教える法が素晴らしければ、不自惜身命で教わり、後世に伝えることであると私は思っています。
そしてその素晴らしい「法」を「実相」として、大聖人は顕されたのであり、それは幾つも残されるはずがなく、たとえ個々への授与はあっても、やはり究竟中の究竟として、ひとつの「仮」として伝えられるものがあるのではないのか、と思っています。

どうか私の愚見に、皆様のお考えを、やさしく教えて下さい。お願いします。

304 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/20(木) 15:43

寛星さん:

私は、あなたの言い回しは、よくわかりません。

> 大聖人一代の教え(南無妙法蓮華経)が何故各宗各派に分れ…

これは、いったい何を言っているのでしょうか。

> 「依法不依人」についても、「法」が大切だから「人」はいらない。というのではなく、「人」の姿で判断するな、「法」の内容で判断しろ、と言われてると思っています

そのとおりでしょう。それが大石寺でいう唯授一人とどのような関係にあるのでしょうか。

> 今の学会では、半偈を唱えた鬼に対して「民衆が納得する姿になれ」と言って、残りの半偈を教わらないでしょう

なにを言いたいのかさっぱりわかりません。

> 素晴らしい「法」を「実相」として、大聖人は顕された

これまた、いったい何を言っているのでしょうか。皆目理解できません。
該当の「実相」とは方便品の

仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり

に因るのでしょうか。ここに明確に「仏の成就したまえる所…唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」と釈迦仏ならびに諸仏が成就・究尽するというのです。日蓮が、ではありません。

> それは幾つも残されるはずがなく、たとえ個々への授与はあっても、やはり究竟中の究竟として、ひとつの「仮」として伝えられるものがあるのではないのか

つまり、これは前文の「実相」が戒壇の本尊であって、他は仮のものであるということでしょうか。まったく何の根拠も大石寺の宣伝を真に受けたものにすぎないのでしょう。

聖人図示の曼荼羅が諸法の実相であるというだけでも驚きですが、仮にそうだとしても「幾つも残されるはずはない」とは、究竟曼陀羅論を振り回す石山門ならではの勝手な憶測ではないでしょうか。事実、聖人は多くの曼荼羅を図示していますし、興師は複数の曼荼羅に「奉懸 本門寺」と記されています。

残念ながら、あなたが記されるところは、まったく為にする虚しい議論であると映じます。

> 私の愚見に、皆様のお考えを、やさしく教えて下さい

と願うより、まず自分の心に巣くう多くの既成概念を点検し直すことから始めるべきでしょう。いまのあなたは人の言を聞き入れる心があるように見えません。

なにより、あなたが愚見と記すところは、あなたの考えではなく、大石寺法門をなんの考証もせず記す、受け売り以外の何物とも見えません。どこにあなたの考えがあるのでしょうか。

自分の眼で原典から読み直し、自分の考えを持つことが先決です。まずは心を開き、大石寺法門、唯授一人、戒壇の本尊の信憑性を徹底して、法華経・天台釈・日蓮真跡をもって思惟し直してから、他に意見を求めることをお薦めします。

305 名前: 寛星 投稿日: 2002/06/20(木) 17:50
犀角独歩様、ありがとうございます。
なんだか犀角独歩様を怒らせてしまったようですね。
やはり私自身の愚かさを感じます。

>> 大聖人一代の教え(南無妙法蓮華経)が何故各宗各派に分れ…
>これは、いったい何を言っているのでしょうか。

大聖人の教えが何故、釈尊のように分かれてしまうのか、です。

>> 「依法不依人」についても、「法」が大切だから「人」はいらない。というのではなく、「人」の姿で判断するな、「法」の内容で判断しろ、と言われてると思っています
>そのとおりでしょう。それが大石寺でいう唯授一人とどのような関係にあるのでしょうか。

この「依法不依人」と「唯授一人」の関係は、次のように、

>ここに既に「依法不依“人”」を選び取られる以上、「唯受一“人”」など聖人のお考えにあったとは思えません。

と犀角独歩様が、持ち出したのです。

>> それは幾つも残されるはずがなく、たとえ個々への授与はあっても、やはり究竟中の究竟として、ひとつの「仮」として伝えられるものがあるのではないのか
>つまり、これは前文の「実相」が戒壇の本尊であって、他は仮のものであるということでしょうか。

ごめんなさい、「仮」とは「空・仮・中」の「仮」を言いたかったのです。
文章が下手で、御迷惑をお掛けしました。

>> 私の愚見に、皆様のお考えを、やさしく教えて下さい
>と願うより、まず自分の心に巣くう多くの既成概念を点検し直すことから始めるべきでしょう。いまのあなたは人の言を聞き入れる心があるように見えません。

そう思われたなら残念です。

>なにより、あなたが愚見と記すところは、あなたの考えではなく、大石寺法門をなんの考証もせず記す、受け売り以外の何物とも見えません。どこにあなたの考えがあるのでしょうか。
>自分の眼で原典から読み直し、自分の考えを持つことが先決です。まずは心を開き、大石寺法門、唯授一人、戒壇の本尊の信憑性を徹底して、法華経・天台釈・日蓮真跡をもって思惟し直してから、他に意見を求めることをお薦めします。

なによりも私は日蓮正宗を信じている人間なので、大石寺の法門を述べるのは当たり前です。
それよりも犀角独歩様の一方的な、また威圧的なお言葉に、悲しみを懐きます。
過去ログによると、犀角独歩様は、大石寺の教学部に出入りされていたとのことですが、それが一転して独自の道を歩まれているようですが、それは自由であり批判もしません。むしろ尊敬してしまうところです。
しかし、自分の子供や子孫、また未来の人々に対して、何を残し、何を伝え、そして何を広宣流布しようとお考えなのですか?
私は、そのために「大御本尊」と「唯授一人」が大聖人から残され、歴代の猊下により伝えられていると思っています。
うまく言えなくてすみません。

306 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/06/20(木) 21:37

寛星さん はじめまして

横レス失礼いたします。

>私は、そのために「大御本尊」と「唯授一人」が大聖人から残され、歴代の猊下により伝えられていると思っています。

そのように寛星さんが考えられることは自由です。ただ、それは事実ではありません。大石寺戒壇板本尊は、河辺メモにおいて、現日顕上人の言葉として記録されたように、様様な理由により、日蓮聖人が直接したためられたものとは到底考えることができません。また、唯授一人の血脈相承は、大石寺の作り話であり、何らの根拠もありません。日蓮正宗の作り事や、作り話をそのまま鵜呑みにしても、日蓮聖人の仏法には全然ならないですよ。この掲示板では、以上の諸点を過去半年以上に渉って詳細に検討を加えてきました。本当に知りたいと思われるのなら、大石寺の歴史スレッド、続大石寺の歴史スレッドを一読されることをお勧めいたします。そうでないと、何らかみ合わない、不毛の議論になってしまうと思います。よろしくお願いいたします。

なお、このスレッドは論争禁止のスレッドですから、なお、議論の続行を希望されるのであれば、既存の適当なスレッドを選ばれるか、あるいは、新しいスレッドテーマを御提案いただきたいと存じます。よろしくお願いいたします。

307 名前:投稿日: 2002/06/20(木) 21:42

>私は、そのために「大御本尊」と「唯授一人」が大聖人から残され、歴代の猊下により伝えられていると思っています。

まず初めに結論ありき、なのがよくわかりました。

なぜ、大聖人の教えが分かれてしまったのか、なぜ富士門が分裂したのか。
その答えは簡単です。
「大御本尊」と「唯授一人」が大聖人から残され、歴代の猊下により伝えられている、
そんなふうに考えていない人がいるからです。

308 名前:投稿日: 2002/06/20(木) 22:26

問答迷人様、どうもすみません。
最初に、あちきがイチャモンつけたのがきっかけでした。
論争禁止のスレッドでした。
307は、タイミングがずれてしまったのです。

309 名前: いちりん 投稿日: 2002/06/20(木) 22:56

でも、盛り上がってきて、よろしいかなーと思いますよね。
新人の方が、発言してくださると、いろいろと刺激になるし。

しかし、こちらの掲示板の過去ログの内容の深さ・密度はすごいです。
でも、なかなか、読めないのですね。

310 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/06/20(木) 23:32
寛星さん
あさん
いちりんさん

そうそう、議論に水を差したみたいですが、それは、本意ではありません。活発な議論大歓迎です。ある意味で、以前の議論の蒸し返しもOKです。歓迎します。

311 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/21(金) 01:52

寛星さん:

私は、別段、怒っていません。

> 大聖人の教えが何故、釈尊のように分かれてしまうのか

この答えは簡単でしょう。大石寺のように自分たちが最高だと主張するものが出てきたからでしょう。少なくともいちばん最初に分裂したのは興師門下であったのでしょう。

> 私は日蓮正宗を信じている人間なので、大石寺の法門を述べるのは当たり前です

これを当たり前であると考えるところですべてが止まってしまうでしょう。個人的な信仰として鰯の頭でも、信じるのは勝手ですが、しかし、人に語るに際しては責任が発生します。その責任を果たすために、語ることが事実か否かをしっかり考える必要があると言いたいわけです。ここに記されてきた膨大なログをお読みになっているかどうかわかりませんが、そのために真剣に皆考えてきたのです。
第一、大石寺法門といわれるものなど、ここで書き込みをしている人々は、あなたに語っていただかなくても、みな熟知しておりますよ。

> 自分の子供や子孫、また未来の人々に対して、何を残し、何を伝え、そして何を広宣流布しようとお考えなのですか?

これも既に何度となく記してきたことです。日蓮聖人は本当は何を説かれたのか、つまり、聖人の祖意を闡明にし、未来に伝えようということです。それは換言すれば、大石寺で言われていることはまるで聖人の祖意とかけ離れていると言うことです。殊に戒壇の本尊、唯授一人はまったく聖人があずかり知らない後世の捏造であるというのが私の結論です。さらにまた、今後、永らく仏教を未来に伝えるためには、器物崇拝・神秘主義・カリスマ信仰という誤った信仰を捨て、仏教本来の在り方に戻っていくべきであるとも思います。大石寺の言っていることが聖人の教えであると思われたり、仏教であると思われては聖、ひいてはお釈迦様に申し訳ありません。事実を未来に残し、伝え、そして広宣流布していくべきでしょう。

312 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/21(金) 01:54

【311の訂正】

誤)仏教であると思われては聖、ひいてはお釈迦様
正)仏教であると思われては聖人、ひいてはお釈迦様

313 名前: 寛星 投稿日: 2002/06/21(金) 09:19
問答迷人様、
あ様、
いちりん様、
犀角独歩様、
皆様、ありがとうございます。

もちろん過去レスを読んで見ました。

問答迷人様が言われている中で、
>日蓮正宗の作り事や、作り話をそのまま鵜呑みにしても、日蓮聖人の仏法には全然ならないですよ。
>この掲示板では、以上の諸点を過去半年以上に渉って詳細に検討を加えてきました。
とあります。

また犀角独歩様が言われている中には、
>人に語るに際しては責任が発生します。その責任を果たすために、語ることが事実か否かをしっかり考える必要があると言いたいわけです。ここに記されてきた膨大なログをお読みになっているかどうかわかりませんが、そのために真剣に皆考えてきたのです。
>第一、大石寺法門といわれるものなど、ここで書き込みをしている人々は、あなたに語っていただかなくても、みな熟知しておりますよ。
とあります。

過去レスの中には、かなり複雑な部分もあり、到底、私の頭では整理できないのですが、イメージとして感じたことが、大聖人の仏法とは、こうであろうと討論されてはいる(それは間違ってもいないし、私も勉強になりました)が、しかし現実として、整理されたものが見当たらない。(私だけが理解していないのかもしれないが)
例えば、今、目の前に悩み苦しんでいる人に、「何をどうすれば幸せになれるんだ」といえるのでしょうか。

同じく犀角独歩様は、
>> 自分の子供や子孫、また未来の人々に対して、何を残し、何を伝え、そして何を広宣流布しようとお考えなのですか?
>これも既に何度となく記してきたことです。日蓮聖人は本当は何を説かれたのか、つまり、聖人の祖意を闡明にし、未来に伝えようということです。それは換言すれば、大石寺で言われていることはまるで聖人の祖意とかけ離れていると言うことです。殊に戒壇の本尊、唯授一人はまったく聖人があずかり知らない後世の捏造であるというのが私の結論です。さらにまた、今後、永らく仏教を未来に伝えるためには、器物崇拝・神秘主義・カリスマ信仰という誤った信仰を捨て、仏教本来の在り方に戻っていくべきであるとも思います。大石寺の言っていることが聖人の教えであると思われたり、仏教であると思われては聖人、ひいてはお釈迦様に申し訳ありません。事実を未来に残し、伝え、そして広宣流布していくべきでしょう。
と言われました。
それでは、この中の
「聖人の祖意」や「事実」を未来に残し、伝え、そして広宣流布していくべきでしょう。
と言うことは、具体的に、今、目の前にいる人に何を教えるのでしょうか。

>殊に戒壇の本尊、唯授一人はまったく聖人があずかり知らない後世の捏造であるというのが私の結論です。
これを結論にしてしまえば、御本尊も知らない人に、何処の御本尊を与え唱題を進めればいいのでしょうか。日本国民ならび世界の多くの人々に、どの御本尊を授けるのでしょうか。
それとも御本尊はいりませんか。摩訶止観のように、それぞれが己身の十界を観ていればいいのでしょうか。
ここの掲示板は私は好きです、しかし現実にどうすればいいのか分らなくなるのです。

論争禁止とのことでしたが、御迷惑をお掛けいたしましたこと、深くお詫びいたします。

314 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/21(金) 18:58

寛星さん:

> 過去レスの中には…現実として、整理されたものが見当たらない。(私だけが理解していないのかもしれないが)

ここは議論の場です。そもそも整理されたものがあるはずはありません。自分で読み、考え、自分で整理するのでしょう。インスタントに与えられることになれた発言なのでしょうね。かつて私もそうでした。

そして、仰るとおり、理解していないのはあなたご自身でしょう。

> 具体的に、今、目の前にいる人に何を教えるのでしょうか

この答えは何度も記しています。また『井戸端すれっど「山門前」』114に、川蝉さんが非常に明快に整理されて記されています。雖近不見は自らの責任に帰することでしょう。

私は器物崇拝、神秘主義、カリスマ信仰からの卒業を示し、聖人の教えで申し上げれば本尊と題目を示します。その基底を為すものは、衣座室の三軌であり、私は個人的に二十四文字の法華経であると考えています。慈悲心とは即ち菩薩道なのでしょう。

> 御本尊も知らない人に、何処の御本尊を与え唱題を進めればいいのでしょうか

これはつまり究竟の曼荼羅という唯一絶対の本尊があるという前提の論議でしょう。狭量なドグマの呪縛にはまり、前が見えないのでしょう。お気の毒です。
そもそも本尊は与えるものではありません。感得するものでしょう。

聖人の曼荼羅にその優劣など論ずるべきではなく、聖人御筆の曼荼羅を勧め、題目行を進めればよろしいのではないでしょうか。

聖人の御筆であろうと、ただ一体の曼荼羅を除いては礼拝の対象としないのにも拘わらず、唯受一人の血脈者のみが書写の権限を有し、その者が書写した曼荼羅は他の聖人の曼荼羅を捨て置いて効験ありなどという考えは、まさに聖人の聖筆の冒涜でしょう。また、その書写曼荼羅を市中の印刷会社で濫造し不信の徒にまで頒布して「折伏一世帯」などと成果主義に走り、ばらまいた上、多くは不敬に藻屑と化す罪業はいかばかりのものでしょうか。

なお、ここ呟きスレッドで、私はあなたと論争しているつもりはありません。また、議論にもなっているとは思いません。議論以前の問題を指し示しているだけです。

いずれにしてもインスタントにすぐわかるようなものは難信難解とも言わず、人に教えられてわかるようなことは随自意とも言えないでしょう。

過去のログをお読みになったと記されていますが、読むばかりで理解ができていないのでしょう。わかるまで徹底してみる忍耐をお持ちになることです。議論はそれからのことです。

315 名前:投稿日: 2002/06/21(金) 21:32

あのー、全部は読めていないのですけど、
犀角独歩様に、あらためて、エネルギッシュにお考えを記していただいて、心が暖かくなりました。
感謝です。

316 名前:投稿日: 2002/06/21(金) 23:11
>御本尊も知らない人に、何処の御本尊を与え唱題を進めればいいのでしょうか。日本国民ならび世界の多くの人々に、どの御本尊を授けるのでしょうか。

世界の多くの人々に御本尊授けるってったって、
楠製の半丸太を示して「これを拝みなさい」なんて言ったら、
イスラム教徒に蹴っ飛ばされますよ。
なにしろ、あっちは、絵にも銅像にもできない神様を拝んでいるんですからねえ。

317 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/06/22(土) 05:52

69023 ゲットしました。

318 名前: 寛星 投稿日: 2002/06/22(土) 07:09
犀角独歩様、あ様、ありがとうございます。

しかしどうしてだろうか。私には理解できない。これも私の愚かな知識のせいだろう。
犀角独歩様、あ様のお話を読むと、広宣流布という意味さえ分らなくなる。

とにかく凡夫の私にとっては、「御本尊に題目を唱えると幸せになれる」という行為が実に分り易い。
大聖人は難信難解の法を、末法の凡夫の誰もが、以信代慧という方法で、御本尊を信じ唱題することにより成仏を叶えさせてくれるものと思っており、問題は濫造された「十界曼荼羅」をどのように選奨するかが知りたかったのですが、ここの掲示板を読んでいると、おもしろく、また勉強にもなるが、これからどうしたらいいのか分らなくなる。そして人にどのように勧めていいのかも分らない。

よって一つだけ教えていただきたい。
問答迷人様、犀角独歩様、あ様、いちりん様、
今、皆様はどの御本尊に向かい、勤行し、人に勧めているのですか。
むりにはお聞きしません。できればで結構です。

「小知は亡国の端(いとぐち)」とも「小知は菩提を妨げる」とも言います。
私の浅はかな知恵を書き込むことで、これ以上、御迷惑を掛けられませんので、この一つだけお聞かせくだされば、もう問いません。
何卒、宜しくお願いします。

319 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/22(土) 10:07

ここの掲示板では以前に、敬称について、「様」付け「さん」付け、どちらにするのかが、話題になったときがあり、その時の常連方のご意見は「さん」付けが大勢を占めました。以来、それが暗黙の了解となってきました。ですから、他の方へは、ともかくとして、私には「さん」付けでけっこうです。私も、そのようにいたします。

あ さん:

> 315

あ さんから、ご賛同をいただけるとは望外の喜びです。


寛星さん:

誤解がないように申し上げますが、私はあなたがここで多くの疑問を投じられることは妨げようと思っていません。また、その権利もありません。ですから、「最後の質問」などと自粛する必要はないと思います。また、小知がまずければ大知に眼を向ければよろしいだけです。また大知は大疑によってはじめて生ずるものであると存じます。玄義に「断大疑生大信(大きな疑いを断てば、大きな信が生じる)」とあるとおりです。

また、聖人は

此の経文の心は眼前なり・而れども・邪眼の者と・各謂自師の者、辺執家の者はみがたし

と仰せになられるわけでしょう。「自分たちが絶対である」という考えこそ邪ではないでしょうか。各謂自師の者とは自分の師匠の過ちに気づかないもの、自分の師匠が最高であると拘泥すること、一人のリーダーを永遠の師と言ったり、唯授一人と信じることではないでしょうか。辺執家の者とは宗派でしかものを判断できない人を言うのではないでしょうか。この過ちに寛星さんは陥っているのではないでしょうか。しかし、それは悪意からではないでしょう。正しい道を求めるために、まず正しい師匠、正しい本尊、正しい教えに選定する必要があるという実に真面目な動機から大石寺の師と法門・本尊を選び取っていたのでしょう。そして、そこを基準に考えることが正しいことであると考えてきたのでしょう。しかし、いつしか大石寺を唯一の“地図”としてしまい、自分で考えることをしなくなってしまった。けれど、たぶん、ご自身は一所懸命に考えていると思われていることでしょう。しかし、その答えを出す第一歩である“考え方”の段階で既につまずいています。つまり、「大石寺が正しい」という基準から外れないで考えるように条件付けてしまっているからです。師が絶対であると条件付けてしまっているからです。仏法を信仰しようとしていたのに、いつのまにか教団と師を信仰することにすり替えられていることに気がつけないでいるのでしょう。

ですから、あなたの質問は、先にどれ程、答えを記して置いても、あなたの目には映らず、心に響かないのです。ですから、私が聖人・御筆の曼荼羅はいずれも尊いと記しても、いまだ究竟曼荼羅論(最高の本尊は唯一つという寛師の考え)でしか、ものを考えず

> どの御本尊に向かい、勤行し、人に勧めているのですか

と問うのでしょう。しかし、要はどの御本尊(曼荼羅)に向かうかではなく、本尊をいかに取り定めるのかが重要なはずです。それを聖人は本尊抄に「教主釈尊」と仰せになられているのでしょう。

それなのに、その本尊に迷い、あろうことか聖人を本仏などといい、さらに戒壇の本尊は生身の日蓮であるといい、ひいては石山住職は日蓮・戒壇の本尊と不二の尊体とまでいい、人に勧めることは、聖人の教えに背くものに他ならないでしょう。また、数多の聖筆を差し置いて、墨痕を削り取った模刻の板ばかりを唯一の本尊などということは聖人の教えであろうはずはありません。まさに(未決書ながら)「日蓮を用ひぬるともあしくうやま(敬)はヾ国亡ぶべし」ということになります。

しかし、このあなたの有様は、まさに過去の私そのものの姿です。ですから、大方の石山信徒の思考パターンは私には手に取るようにわかるのです。けれど、今のあなたには私の思考パターンは理解できません。なぜならば、人間は未来の自分を考えることはできないからです。しかし、あなたは日蓮聖人の教えに基づけば、聖人のお示しの本尊、すなわち今もこの瞬間に説法教化し続ける久遠已来の教主釈尊を感得する日がやってくるのでしょう。そして、永遠の菩薩道こそ、法華経の信の意味であることを理解する日がやってくるでしょう。

各謂自師・辺執を捨て、聖人の教えの如くに信行すべきです。「眼あらば経文に我が身をあわせよ」と仰せです。

我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏。

320 名前: tokumei 投稿日: 2002/06/22(土) 10:15
おひさしぶりです。

ちょこっと先日から引っ掛かっているのですが・・・

二十四文字の法華経/法華経題目
不軽菩薩の修行/上行菩薩の修行

世間ではこれらが全く同じものかのように語られている節があるかと・・・

321 名前: tokumei 投稿日: 2002/06/22(土) 10:20
奇しくも独歩学匠が引用されておられました。省略されて目に映らなかったので慌てましたが、攻撃の意図はありません。
あまり直後のレスなのでおことわりいたします。

322 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/22(土) 10:40

tokumei さん:

おひさしぶりですね。
まあ、学匠はやめてください(笑)

> 320

時を同じくして二十四文字をお考えであったことに喜びにも似た驚きを感じました。

> 二十四文字の法華経/法華経題目

題目と二十四字は因行と精神の差異のようにとらえてきました。詳らかに論じれば立て分けるべきものでしょうね。

> 不軽菩薩の修行/上行菩薩の修行

この点は重要です。
不軽菩薩は釈尊の前世ですから、聖人はその修行をなぞる(身業読誦)ことによって弟子である誠を尽くし、ついにご自身が法華経の行者である確信に至られるのでしょうか。しかし、このことと上行菩薩を上首とする地涌千界菩薩とつなぐものは何でしょうか。

法華経では不軽品の次に神力品が配置されています。私には、釈尊が過去成道の艱難辛苦を前世・不軽菩薩で有らせられたときの行体を二十四文字でお示しになり、滅後弘法の地涌菩薩の心地を督励されたものと拝します。しかし、これは通日蓮教学とは解釈を異にするかも知れません。

323 名前:投稿日: 2002/06/22(土) 11:30

寛星さん
(なんだか、「さん」付けの了解があるようですね。うんじゃあ、あちきも、「さん」付けで呼ばせていただきます。)

前にも申しました通り、あちきは今、宗教やってません。
創価学会にいた期間は、ごく短かったので、御書なんか全然読めないのです。教学、全然わからない。
しかも、学会と宗門の分裂の前にやめました。唯授一人の血脈、世界最高、唯一、絶対の大御本尊を
周囲の学会員さんが信じている頃にやめました。
短い学会生活の中で「これは、なんか、自分の求めている仏教とは違うようだ」と思っていました。

犀角独歩さんのご発言を読んでると、まあ、あちきなんか、学が無いから、ほとんど理解できないのだけど、
それでも、所どころ、チラ、チラと、「ああ、これが本当の大聖人の心なんじゃないかなあ」と思えてくるのですよ。
厳しく響くところもあるでしょうけど、こりゃ、もう、同門ゆえの愛のムチ。
もう、ヘタなことは言わん。犀角独歩さんの発言を熟読してください。

あちきは「哀の無知」だな。

324 名前: お気楽人生 投稿日: 2002/06/22(土) 12:43
どうも過去世・現世・来世という三世の生命観を長らく信じ込まされていたんですが、

もしかしたら、この世だけではないのかと思うようになってきました。

まちがいかなぁ。

325 名前: いちりん 投稿日: 2002/06/23(日) 01:07

いや、ほんとうに、わからないですよね。だれも。

326 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/23(日) 13:30

あ さん:

難しいですか、そうですか。でも、読んでくださったわけですね。
読んでいただけることを感謝します。

信仰についていえば、私はいちりんさんの考えに大賛成です。
楽しくなければ意味がないのでしょう。しかし、これはいちりんさんのように鍛錬された方ならではの言葉ですね。

変な話、人に嫌がらせをしたり、人殺しをしたりすることを楽しいと感じる人もいるでしょう。何を楽しいと感じるようになれるか、それが大切なのでしょうね。

「自分は人より優れている」ということを楽しいと感じる人もいるでしょう。反面、そんなことを全然考えない人もいると思います。

「自分の信じている教えは最高だ」が「自分は最高だ」の説明になっている信仰者は案外多いものですね。人より優れているために教学も人より優れている、功徳もたくさんもらっている、社会的にも成功している、どんどん、自分を高めることがいつの間にか他より優れることばかりを考えるようになっていく、こんな形でしか役立たない宗教は、新興宗教に多いように感じます。しかし、これは勝他の念と言われ修羅界の特徴といわれるものと一緒ですね。

「極悪日顕」、かたや「池田デェサク」なんて貶し合っている姿、憎悪によって人を煽り、活動に駆り立てている組織の有様、その根本にある怒り・憎悪、これは地獄界の特徴とされるわけですね。それなのに自分がやっていることは正しいことだからと肯定されてしまう。

そういう一切越えたところの、真の楽しみ…衆生所遊楽と言っていいのでしょうか。それを教えるのが法華経なのでしょう。法華経にも多くの差別表現、不適切な箇所はありますね。けれど、法華経に登場する菩薩は、どの菩薩をとっても怒る菩薩はいないし、やったからやり返す菩薩もいないのですね。相手を憎悪する菩薩などいるはずもありません。いるわけはないわけです。怒ったり、憎悪したりしたら、その心根を三悪、地獄・餓鬼・畜生であると教えるのが法華経ですから。怒ったり、憎悪したりする心は菩薩ではないのですね。

どのような境遇、どのような状態にあっても心を乱さないこと、これが仏教で言う「楽」と言うことなのでしょう。

心の問題、個人の問題を教えるのが仏教ですね。組織のための行動理論を教えるのは組織論であって、実は仏教ではない。けれど、多くの人は組織論を恰も仏教だと思い込んでいるのでしょう。それは違うということがわかるだけでも仏教理解は大きく前に出るような気がします。

仏教というのは使われている言葉は難しいところもあるのですが、言われていることは実はとても明快で簡単なことなのだと思います。けれど、それが「言うは易く行うは難し」なのでしょう。怒り・憎悪を越えて、慈悲に立脚することは本当に難しいことです。けれど、いま生きているこの奇跡を心から喜び、宇宙の歴史からすればほんの一瞬に過ぎない一生に、同時刻に生き、生きるという奇跡を共有する人々を互いに尊い思うこと、なにかすべては光に充ち満ちていると私はこのごろ思うのです。

あ さんのご理解は私には尊い奇跡に感じ、光を感じるのです。

327 名前: 川蝉 投稿日: 2002/06/23(日) 14:57
320 : tokumeiさん、322 : 犀角独歩さんに関連して。
不軽菩薩と宗祖

「顕仏未来記」に

「例せば威音王仏の像法の時不軽菩薩、我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。彼二十四字と此の五字と其語殊なりと雖も其意是れ同じ。彼像法の末と是の末法の初と全く同じ。彼不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり。」(学会版・507頁)
とあります。

「彼二十四字と此の五字と其語殊なりと雖も其意是れ同じ。」
と述べています。

宗祖は二十四字を
「過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり。法華経を持ば必ず成仏すべし。彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて礼拝の行をば立させ給し也。」(松野殿御返事・1382頁)
の意味と解し、「衆生は仏界を具す。妙法五字受持修行により成仏すべし」という妙法五字の示す教えと其の意は同じと見ていたのでしょう。

不軽菩薩は二十四字を強いて聞かせ(折伏)、もって下種し、法難に遭い、宗祖もまた妙法五字を強いて聞かせ下種し法難に遭っていることが同じだとも考えられていますね。

「檀越某御返事」に

「あわれあわれ。さる事の候へかし。雪山童子の跡ををひ、不軽菩薩の身になり候はん」(1294頁・真在)
とも、また、

「下山御消息」にも

「刀のさきにかかりなば法華経一部よみまいらせたるにこそとおもひきりて、わざと不軽菩薩の如く覚徳比丘の様に、・・・弥強盛に申しは(張)る。」(356頁)
とあるので、不軽菩薩に見習おうという意識があったことがわかります。

「上野殿御返事」にも

「其の上日蓮は法華経誹謗の国に生て威音王仏の末法の不軽菩薩のごとし」(1554頁・真)
とありますが、不軽菩薩になぞらえています。

もっとも「不軽菩薩は杖木・瓦石と見えたれば杖の字にあいぬ刀の難はきかず」(上野殿御返事・1557頁・真無)
と違い有ることも述べています。

犀角独歩さんが22 番のコメントに、
>私には、釈尊が過去成道の艱難辛苦を前世・不軽菩薩で有らせら
>れたときの行体を二十四文字でお示しになり、滅後弘法の地涌菩
>薩の心地を督励されたものと拝します。しかし、これは通日蓮教
>学とは解釈を異にするかも知れません。
とありますが、
宗祖は上に述べたように、不軽菩薩を見本・手本としていますので、犀角独歩さんの理解は、通日蓮教学の解釈と異にしていないと思います。

328 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/23(日) 15:18

川蝉さん:

有り難うございます。そうですか、私の理解は通日蓮教学の理解と異なっていないのですか。
真跡と法華経の読後感のみで書き込んだことなので、いちおう「異にするかも」と記したのですが杞憂であったようです。

329 名前: 五月雨 投稿日: 2002/06/24(月) 10:32
ちょっと横レス失礼します。私は寛星さんのお気持ちがよく分かります。石山教学を信じなければ謗法者呼ばわりの組織の中にあって、言ってる事とやってる事の大きなズレに気付きながらも、活動する事が“信心”だからとやめられず、インターネットでここのサイトに行き着いて
こういう考え方があるんだと驚きながら、これが“真実”なのかもと思うのですが、悲しいかな石山教学の毒気(?)に当てられているので、“真実”と思いながらも、そう思う事さえ“謗法”なんだと心の葛藤が始まるのです。ここの常連の皆様方のように、凄い教学力をもってひとつひとつを破折し、理論的に結論付けが出来る人間ばかりではありません。少なくとも私自身はそうです。(何の自慢にもなりませんが)
アホな私が分かる事は、今の日蓮正宗は信仰者の集まりでは無いという事です。慈悲の仏法と云いながらも、対学会への憎悪で固まり、学会批判していた割には段々学会化していく法華講組織に、寛星さんも戸惑っておられるのではないでしょうか。
確固たる持論をお持ちの皆様方は、どのように信心修行なされているのですか。朝晩の勤行、折伏をどう捉えられているのか、教えて頂けないでしょうか。
犀角独歩様、法華経を読むように薦められていますが、どんな本を読めばいいのか書名を教えて頂ければ幸いです。よろしくお願いします。

330 名前:投稿日: 2002/06/24(月) 11:39
「折伏だあっ、折伏だあっ、結果をだせっ!」
そんなに簡単に折伏していいのか?

ある人の書いた文章。

日蓮聖人は、正法たる法華経の教主釈尊を全身で感じ受け止めたからこそ、仏の救済の予言を信じ、末法時の世を救う如来使として立正安国論を上奏し、正法による社会を実現せんとしたのです。末法時に正法を広めるにあたり、法華経に書かれた現世利益と現世値難の相反する二つの証文を前にして、日蓮聖人は「いわずわ今生は事なくも、後生は必無間地獄に堕つべし。いうならば三障四摩必競起るべしとしぬ。二辺の中にはいうべし。(開目抄)」という覚悟をもって広宣流布に臨んだのです。「無理なく、自然に仏性を開花して」広宣流布したのではありません。生命力(福運)を増し、宿命転換をはかるような現世利益を目的として広宣流布したのでもないのです。教主釈尊の教えが「正しい」がために、受難を覚悟で布教し現状変革のために闘ったのです。

法華経を受持するということは、この世で受難を覚悟しなければならないのだド。
あちきは、こんな宗教ヤダー!(爆) 現世利益欲しいよー!(爆)  
こんな恐ろしい宗教、人には勧められないよー!(爆)

日蓮正宗が独立したのは、大正時代じゃなかったっけ?
それまでは、邪宗・身延と同席していたんじゃなかったっけ?
じゃあ、それまでの信者は、地獄に落ちてしまったのか?

331 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/24(月) 20:56

五月雨さん:

まず、私は寛星さんのお気持ちも、また五月雨さんの仰ることもよくわかります。
ただし、私がここに記していることは昨日今日、安直に出した結論ではありません。実に50年になんなんとする人生を棒に振ってきた総まとめとして記していることなのです。その意味で取り返しの付かない膨大な、自分の信仰人生を犠牲にして成り立っているのです。また、石山僧俗を批判しよう、排撃しようなどということを目的にしたのではなく、私と同じ過ちを歩み、人生に無駄にすることなく、1日でも早くご自身の人生を取り戻していただければと思い、記しているのです。仰るように「“真実”と思いながらも、そう思う事さえ“謗法”なんだと心の葛藤が始まる」のは私自身のかつての経験でもあります。ただ、その葛藤に苦しむ人と私に差があるとすれば、その葛藤から前に進む方途を自分なりに掴んできたということです。それは換言すれば、苦しみではなく自分自身のための意義ある方途を得たということです。そしてまた、仰る「憎悪」」からの脱却を、菩薩道に求めていることは何度となく記したとおりです。

> 朝晩の勤行、折伏をどう捉えられているのか

朝晩の勤行とは、そもそも何でしょうか。石山、あるいは創価学会から下付された印刷曼荼羅を本尊と思い、供養賛嘆をすることでしょうか。現在の石山の勤行は概ね寛師からそれほど遡れるものではないわけですから、この勤行が聖人の行体と同様であるなどということは、とても言えませんでしょう。また、他五老方の流れであっても、直ちに聖人を起源とする行体であるとも言えないと私は考えております。聖人の勤行とはどのようなものであったのか。方便・寿量を読経するものであることは想像は付きますが、しかし、今行われている石山勤行とはまったく相違したものであったと思えます。聖人は伊東配流以降、釈尊の一体仏を随身されていたわけでしょうから、その仏像に読経・唱題されていたことは、ほぼ間違いのないことでしょう。また、文永期以降、曼荼羅図示を始められたわけですが、しかし、実際のところ、聖人ご自身が随身された御筆曼荼羅があったかどうかは憶測の域を出ないところです。また真跡中には「五体投地」が行われていたことを思わせる記述があり、また、比叡山に学び、純天台復興を叫んでおられた聖人であれば、その行儀は天台(法華)宗の行体に拠っていたかもしれません。また、日本語研究などによれば、発声・発音・スピードは現代とはまったく異なっていたことも予想されるわけです。以上のことを総合すると、現段階で私は聖人がどのような勤行をなさっていたかは決せずにおります。

ですから、要は形式ではなく、釈尊、その他の諸尊、また聖人に真心の誠を尽くそうとする決意をもって読経供養することに肝要があるのだと思います。私は形式に拘らず、日々時々に思いに任せて、漢読、訓読、また現代語であれ、音読、黙読と行っております。

ついで、折伏という点についても申し上げておきます。
たとえば石山義が、とても聖人の御立法門であると思えないが故に、それを漫然と語る人があれば、その過ちを強く述べることもあります。これは私にとってまさに折伏義によるものです。何度も記していますが、折伏とは御受戒を受けさせ、本尊下付をし、組織につけるなどということが折伏であるわけはありません。聖人の祖意、天台の祖意、さらに困難なことながら、シャキャムニの教えを人に示すことが折伏であると私が信じます。故に公然と現石山義をここに破することは、もちろん私にとっては折伏義を含んでのことです。

しかしまた、反面、摂折二門は車の両輪の如く、謗じぬ方には南無妙法蓮華経のお題目行を指し示し、時には思想・宗教を異にする人々と手を取り合い、人の倫を語り合い、何らかの実践をすることも大切な行体であると思います。

> 法華経を読むように薦められていますが、どんな本を読めばいいのか書名を教えて頂ければ幸いです

岩本裕師の梵本直訳の「正しい教えの白蓮」を私は取りあえずテキストとしています。
しかし、読むべき本は数多あることでしょう。「これが一番」などと勝劣を論じるより、読める限り多く読み、しかし、すべて長所・短所の両面があるのですから、自分自身で宜しき部分を得ていくことが大切であると存じます。

しかし、私が犀角独歩と名乗るのは、その教えの取捨を組織(教団)・個人(師)に寄せるのではなく、自分自身の責任をもって歩むことこそ、シャキャムニの教えであると信じるからです。聖人もまた、そのような方であったとも信じるからです。

332 名前:投稿日: 2002/06/25(火) 00:15
ナンクセつけたいわけじゃないのだが、

>「御本尊に題目を唱えると幸せになれる」という行為が実に分り易い

この言い方が、すごく気になった。
幸せとは、精神的な幸せなのか、物質的な幸せなのか。
この方の場合は、精神的な幸せを意味しているのだろうが。

私の場合は、物質的な方の幸せで、S学会に勧誘されたのだった。

K会などはお題目系なので、どちらかと言えば、物質的な方の幸せで勧誘する。S学会以上かもしれない。
逆に、お念仏系の親○会などは、現世利益などは説かず、初め精神的な方の幸せで釣っておいて、
後で徹底的に無間地獄の恐怖を植え付けて、脱会できなくしてしまう。
K会に入会しやすいのは高校生、親○会は大学生、という違いがあるそうだ。

お題目を唱えたら、本当に幸せになれるのか?
何だかご本尊を「幸福製造機」などと、アイスクリーム製造機みたいな軽軽しい呼び方をした
S学会の言い方に似ている。
真に偉大な宗教とは、幸福どころか、大きな苦しみを信仰者に背負わせるものではないのか?
「幸せになれますよ」なんて言って、折伏していいのか?

333 名前: 五月雨 投稿日: 2002/06/25(火) 10:32
犀角独歩さん
 温かいお返事を有難うございました。何だか泣けてしまいました。独歩さんも同じような思いをされてきたのですね。独歩さんの歩んでこられた過程と比べて、私自身が経験してきた事はほんの些細な事かもしれません。組織とお寺を離れて一年半経ちますが、信心してきてニ十数年の時間の中で、今が一番幸せで充実しています。それが不思議と言えば不思議です。
信心活動の中にこそ、幸せがあると思い込んできましたから。今冷静になって思う時、子育ても家庭も放っての信仰生活を、ただただ後悔しています。これからは 「自分自身のための意義ある方途」を捜していきます。
 ちょっと間抜けな事を聞いてしまいますが、、勉強家の独歩さんに教えて頂きたいのです。正宗では何かあると直ぐに、“地獄に堕ちる”と言いますが、大聖人の教えがそうなっているのですか。片や慈悲広大と言いながら、こちらでは信伏随従の気持ちが薄ければ、信心していても地獄行きと仰る、この御書を読んでどっちみち地獄行きかと自嘲するしかありませんでした。(御義口伝) 大聖人様の御心は、本当はどうなのでしょうか。御書の理解の薄いアホな私です。自分で調べろとは仰らないで下さい。

>私は形式に拘らず、日々時々に思いに任せて、漢読、訓読、また現代語であれ、音読、黙読と行っております。

形式に拘らずと仰っていますが、「何に」向かって手を合わされているのですか。対象物に囚われていると言われそうですが、気になります。それと“シャキャムニ”って何の事ですか?
勉強不足ですみません。お教え下さい。聞いてばかりですみません。もう二度と質問攻めにしませんから、今日のところはお許し下さい。

あ さん 
 >真に偉大な宗教とは、幸福どころか、大きな苦しみを信仰者に背負わせるものではないのか?

逆説的におっしゃっているのですよね? 真に偉大な宗教は、大きな幸せをくれるものですよね。あるかどうか知りませんが。(念の為)

334 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/25(火) 11:48

五月雨さん:

> 組織とお寺を離れて一年半経ちますが、信心してきてニ十数年の時間の中で、今が一番幸せで充実しています。

これは私も同様に感じました。
私は出生以来、片時も宗教団体との関わりのない時間はありませんでした。ですから、組織を離れたとき、「人間は宗教組織が無くても生きていけるのだ。幸福感を味わえるのだ」と実感したとき、それは本当に大きな発見でした。

> 「自分自身のための意義ある方途」を捜していきます。

まず、自分自身のために生きること、それが引いては他をも利することになること、が順番ですね。

> …“地獄に堕ちる”と言いますが、大聖人の教えがそうなっているのですか。

そうですね。聖人は法華経譬喩品に基づいて、そのように記されていますね。聖人のお気持ちは、その堕地獄の道を塞ぐためにお題目を流布されたということなのでしょう。

ここでポイントなのは「人、信ぜずして法華経を誹謗すれば」ということになります。
「日蓮正宗を」とか「創価学会を」とか「顕正会」をとか、組織や、その指導者を誹謗するとではない点です。組織は「組織に背くことはつまり法華経に背くこと、指導者に背くことはつまり法華経に背くこと」と勝手にすり替えています。板曼荼羅を日蓮と見ないと地獄に堕ちるなんてことはあるわけもありません。むしろ、こんな決めつけをして、人を脅かす形でしか信者を縛れない側こそ、生きながら地獄の念に捕らわれているのでしょう。

ところで法華経の意(こころ)に背くとは、どのようなことなのでしょうか。経典に背くと言うことなのでしょうか。私はそうではないと思っています。ここで法華経の意とは何であるのか、それは煎じ詰めていくとき、文字で記された経典も、宗教というカテゴライズも、一切を超えて「法(ダルマ)」ということになっていくのであろうと思います。
結局は八正道に生きるところに生死共に地獄はないと私は考えます。
(八正道とは、見・思惟・語・業・命・精進・念・定の八つを正しく生きよということですね)

しかし、いずれにしても死後のことは、元来、仏教の扱うテーマではありませんでした。これを「無記」というのだそうですが、お釈迦様は、このような人知をもってわからない問題を考えあぐねている時間があったら正しく生きることを考えよと教えた方であったようです。私は、このお釈迦様の考えは大切であると思うのです。

以前にも紹介したのですが、仏教の造詣の深い精神医学者・高橋紳吾師は、その著『超能力と霊能者』(岩波書店)の中で

教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。(215頁)

と明言されています。私は、この師の仏教理解はもっとも現代的な意義を持つものである尊敬しています。

335 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/25(火) 11:48

―333からつづく―

>  (御義口伝) 大聖人様の御心は、本当はどうなのでしょうか。

『御義口伝』は私自身、魅了された一緒でした。しかし、いま翻って、その文を一瞥するに、とても聖人の口伝とは思えません。私がこの書の疑義説を意識したのは『日蓮教学上に於ける御義口伝の地位』という小論を読んだときからでした。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_002.html


興師筆とされますが、もちろん、同師の筆録は残っていません。また、この書は、要山辰師が洛中の古書から見出したものであって、爾後、要山で珍重されたということでした。その後、要山は富士本山論を展開し、石山との通用ができ、要山出の大石寺住職が数代に亘って出ることになります。この背景の中で元亀年間に『御義口伝』は要山・石山共同で開版されて今に至るわけです。

内容的には中古天台本覚思想の影響が色濃く、凡夫本仏論の展開など、真跡から拝せる聖人の教えとは隔絶したものがあります。しかし、ここでは日蓮本仏論は見られません。また種脱判は基底をなすばかりで寛師の如き五重相対論は現れていません。さらに凡夫本仏論の濫觴を『秘密荘厳論』の置くけれども、聖人の真跡中に同書の形跡はまったく見られません。

また現在の御書全集などでは略されていますが、

此れは註法華経を置かせ給いて、六老僧の為めに身延山に於いて御談有りしなり

と言い、むしろ註法華経に重きを置いた体裁になっているように感じます。
また、弘安元年の筆録とされるのに「六老僧」の語が見られることは如何にも不自然です。本弟子六人(六老僧)の定めるのは弘安5年のことですから。

以上のことから『御義口伝』を聖人の口伝の筆録とするのには疑義を挟まざるを得ません。

しかし、この書が本覚論を日蓮教学の立場から読み直し集大成した最高峰に位置することは事実であると思います。もちろん、私は本覚反対論者ですし、聖人の祖意を求める故に、この書は差し置くことになります。

> 形式に拘らずと仰っていますが、「何に」向かって手を合わされているのですか。対象物に囚われていると言われそうですが、気になります。

私は人と接するときは合掌礼をすることもあります。けれど、ご質問の主旨は勤行の際の対象物ということなのでしょう。もちろん、曼荼羅に向かうときもあります。しかし、私は曼荼羅そのものを本尊と崇めるのではなく、そこに記される諸尊を確認し、日蓮、上行を通じて教主釈尊を拝する心地でおります。

法華経は、天地創造の全知全能の絶対者に対する信仰でありませんね。あくまで教主釈尊という久遠已来の仏様を取り定めて法華経を信奉する信仰です。ですから、実際のところは仰るような合掌の対象を具体的に申し上げれば、常に釈尊(仏)と法華経(法)ということになるのでしょう。私も基本的にはそのような心地です。

> それと“シャキャムニ”って何の事ですか?

釈迦牟尼世尊をカタカナで表記したばかりです。お釈迦様のことです。
ただし、私は釈尊(寿量・教主)とシャキャムニ(歴史上の実在のお釈迦様)を書き分けています。

> 質問攻めにしません…

いえ、別段、このような形で、質問攻めにされることは厭いません。どうぞ、ご随意になさってください。

336 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/25(火) 11:49

【335の訂正】

誤)―333からつづく―
正)―334からつづく―

337 名前:投稿日: 2002/06/25(火) 13:43

五月雨様

本当は、五月雨様や犀角独歩様のご発言を熟読してレスしなければならないのですが、急いで書き込んでしまいますね。

なぜ大聖人は受難覚悟で布教したのか、なぜそういうことができたのか、ということを考えていたのです。
私などは、お金持ちになれますよ、と勧誘されて、ホイホイ入信しちゃったのですから。

私と大聖人は、全く逆なんですよね。うーん、悩む。

339 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/06/25(火) 18:38

69543 ゲットしました。

340 名前:投稿日: 2002/06/25(火) 22:22

>折伏とは御受戒を受けさせ、本尊下付をし、組織につけるなどということが折伏であるわけはありません。聖人の祖意、天台の祖意、さらに困難なことながら、シャキャムニの教えを人に示すことが折伏であると私が信じます。

折伏について考えていました。
オシャカ様の教えを示すことが折伏なら、「死後のことはわからない。無記。オシャカ様が何も言ってないのだから、地獄だの何だのと脅かしなさんな」と、人に言うことも折伏。
「入会届にサインをさせるのが折伏ではない」と言って、勧誘活動に明け暮れるのを拒否するのも折伏。
そういうふうになって欲しいなあ、と思います。

でも、「この宗教は正しい宗教なんです。あなたも早く入信しなさい」と言って、いつも駈けずり回っていなければ、
大聖人の教えに忠実でないような気がして、心配になってきてしまうのですよなあ。

341 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/26(水) 12:00

あ さん:

> 340

私はそうだと思っています。
いわゆる、成果主義は間違っている、組織偏向はおかしい、日蓮は本物ではない、板曼荼羅が究竟の曼荼羅ではない…と今の大石寺法門、あるいは各グループの有り様の間違いを聖人の教えに基づいて証明することは、私の考える折伏です、少なくとも相手の考えを折るわけですから。ただし、私は伏させようなどとは、もちろん考えません。示された教えの教主に各人が、各人の意志に基づいて伏せば宜しいのでしょう。そして伏するということは八正道と菩薩道に生きようと思うことであるとも思っています。折った瞬間にその説者は失せ、ただ本主・教主、釈尊のみの崇敬を残すが折伏の有様であると私は思うのです。「こんなに折伏した我が団体は世界最高の団体だ」などというのは、仏恩を知らぬ浅はかな結論であると思うわけです。また折伏のもう一面に常に摂受がなければならないと思うわけです。

> この宗教は正しい宗教なんです。あなたも早く入信しなさい」と言って、いつも駈けずり回っていなければ、大聖人の教えに忠実でないような気がして、心配になってきてしまう

煎じ詰めていったとき、「正しい宗教」「間違った宗教」なんていうカテゴライズは消失するのでしょうね、なんといっても一乗妙法というのは一切を法華経の元に一つと見る考えであるわけですから。偏狭な宗派意識、組織論こそ、間違った宗教でしょうねえ。

駆けずり回り方にも色々あり、組織のご都合以外の在り方に実は真実があると私は思うのです。

342 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/26(水) 14:13

【341の訂正】

誤)日蓮は本物ではない
正)日蓮は本仏ではない

343 名前: 五月雨 投稿日: 2002/06/26(水) 16:43
犀角独歩さん
 ご丁寧なお返事をありがとうございました。長年の疑問が少しづつ晴れてきました。学会・宗門に属していた時に感じたチグハグ感の正体が分かった気がします。まだまだ、分からない事の方が多いのですが、このサイトの過去ログを見たり、法華経の本を読んだりしながら、勉強をしていきたいと思います。質問をさせて頂く事を、快くご了承して下さって有難うございます。又、分からない事があった時には、どうぞよろしくお願いします。


あ さん
 折伏について真剣に考えておられるのですね。私も20数年前に折伏を受けた時に、幸せになれます、宿命転換できます、お金持ちになれますと、現世利益に乗せられて入信しました。こんなにいくつも入信動機があるなんて、欲深いのがバレバレですね。
 
>オシャカ様の教えを示すことが折伏なら、「死後のことはわからない。無記。オシャカ様が何も言ってないのだから、地獄だの何だのと脅かしなさんな」と、人に言うことも折伏。
「入会届にサインをさせるのが折伏ではない」と言って、勧誘活動に明け暮れるのを拒否するのも折伏。
そういうふうになって欲しいなあ、と思います。

本当にそうなって欲しいですね。それと宗門の信徒が亡くなった時に、未入信の遺族に葬式の条件としての入信の強要はやめて欲しいですよね。入信しなければ、葬式に行かないなんてあまりにも非情だと思うのですが。仕方の無い事なのでしょうか。

344 名前:投稿日: 2002/06/26(水) 17:27

>宗門の信徒が亡くなった時に、未入信の遺族に葬式の条件としての入信の強要はやめて欲しいですよね。

え? そんなことがあるのか? 知らなかった。それは、ひどい、むごい。絶句……。
キリスト教の信者が死んで、未入信の遺族に牧師が「あなたが洗礼を受けなければ、葬式やりません」とは言わんだろーが。

へー、それじゃあ、何かい? 正宗信徒で死んだ人に未入信の友達がいたとして、その友達は葬式に参加できないってかい? 淋しいねえ……。

345 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/26(水) 23:55

> 宗門の信徒が亡くなった時に、未入信の遺族に葬式の条件としての入信の強要はやめて欲しい

このようなことが石山僧俗によって「慈折」という美名の元になされるのは事実ですね。この原因は、有師にあるのでしょう。『化儀抄』に

一、縦い昨日まで法華宗の家なりとも孝子施主が無くんば仏事を受くべからず、但取骨までは訪ろうべし云云。

とあります。これを享師は

親又は師匠の正法の人なりしも其子又は其弟子が背教して謗法の人となりたるに、其親又は師匠が死したる時・跡々の事どもが謗法の子又は弟子の意見の如く他宗他門の儀式にて行はるゝ家には決して訪らふべからず、然れども謗法の子又は弟子が我意を狭まず死亡せし先代の意の儘に葬儀なんどをも正法の方に任せなば・悦んで訪ひを為すべし其れも其家の跡目を続くもの孝養の考へなくして直に謗法となるやうならば骨揚の日迄にて切り上くべし、其間は亡者たる親又は師匠の姿が其家に残りたる形なれば其に対して必ず訪ふべきなれども・骨揚後は全く謗法の家となれば其家にて子又は弟子の供養を受くるは謗法に同ずるものなれば行くべからず。

註解するわけです。難しいかも知れませんが、要するに喪主が石山信徒でないときは骨上げまでしか行ってはならないということです。

しかし、反面、有師は「無縁の慈悲」ということも言うのです。これは、まったく自分に縁の無い人に対してかける慈悲こそ、もっとも重要であるということです。私の感覚からすれば、信徒になっていない他宗派の人こそ、もっとも無縁の慈悲に相応すると思うのですが、この会通は聞けないのは残念です。

346 名前: 寛星 投稿日: 2002/06/27(木) 09:46
再びの横レス、すみません。
やはり愚かな私は、分っていません。

犀角独歩さん(様)へ

>今の大石寺法門、あるいは各グループの有り様の間違いを聖人の教えに基づいて証明することは、私の考える折伏です、少なくとも相手の考えを折るわけですから。ただし、私は伏させようなどとは、もちろん考えません。示された教えの教主に各人が、各人の意志に基づいて伏せば宜しいのでしょう。そして伏するということは八正道と菩薩道に生きようと思うことであるとも思っています。

確かに八正道と菩薩道は大切ですし、絶対に不可欠なものです。
しかし大聖人がなぜ「南無妙法蓮華経」の題目を弘め、また御本尊を御図顕されたのでしょうか。
私は大聖人が当時の万民の悲惨な状態を哀れみ、そしてさらに滅後の我々の為に残されたものと考えています。
もちろん法華経においても釈尊の滅後がメインになり、「法華経」と「法華経を受持する人」への讃嘆の功徳と誹謗の罰を多く説かれています。

ところがここの掲示板から感じるものは、独歩さんを中心に、

>各グループの有り様の間違いを聖人の教えに基づいて証明することは、私の考える折伏です

とあるように、間違いを正そうとされています(これは私も賛成ですが)
しかし何を弘めようとされているのか、具体的には何もありません。

「AやBやCなどは間違いです」
「DやEもありません」
「示された教えの教主に各人が、各人の意志に基づいて伏せば宜しいのでしょう」

これでは各々が勝手にやればと言っているようなものです。

『富士門流信徒の掲示板』ならば少なくとも、題目と御本尊を弘める方向へ、話が進んで欲しいです。
そしてこの題目と御本尊を根本に、八正道と菩薩道に生きることが最も大切なことだと考えます。

世界中にある差別を無くしたり、難民などにボランティアすることも大切です。それは独歩さんのほうが、私より身に沁みて感じておられることでしょう。

確かに「マザー・テレサ」だって立派です。尊敬します。
しかし病気に苦しむ人、貧しい国に生まれた人達も含め、世界中の人たちが等しく「宿縁・宿習・宿業」を「正境」を縁とし、誰もが一日も早く「宿命転換」することが大切なのではないでしょうか。

私はここの掲示板が好きです。だからこそここの人たちと一緒に幸せになりたいと願います。
だからこそ何を弘めようとされているのか、具体的にして欲しいのです。
もし示されないならば、少なくとも「自分は今は具体的にこうしている」ということでもいいと思います。ただし「法華経」で止まらないで下さい。
大聖人が「南無妙法蓮華経」の題目を弘め、また御本尊を御図顕された以上、ここから具体的にどうしているのか教えて下さい。
そして一日も早く苦しみ悩んでいる人に教えて行きたいのです。また子供達にも残して行きたいのです。

347 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/27(木) 10:19

寛星さん:

> 間違いを正そうとされています(これは私も賛成ですが)
しかし何を弘めようとされているのか、具体的には何もありません

モノが尺度になっているあなたには、具体的に何も見えないのでしょう。
慈悲に基づこうとたとえば申し上げても、「では、具体的にどのような形をしているのか」と、あなたは問うのでしょうか。心がカタチで表せないことは当然のことです。

しかし、あなたは自分が大石寺に与えられた考え方でしか考えることができないロボットになっていることに気が付かないでいるのでしょう。

あなたは宿命転換という言葉を使っていますね。では、日蓮聖人は、この言葉を使っているでしょうか。

また、本尊…あなたに刷り込まれている考えでは日蓮を人、南無妙法蓮華経を法とする曼荼羅…を流布することが正しいという、これまた大石寺のすり込み(心に植え付けられた心理プログラム)で善悪を判断しているのに過ぎないのではないでしょうか。

その弘めようという本尊は、日蓮ではなく、釈尊であるというのが日蓮本人の教えであれば、そもそも弘めようとすること自体が間違っていることになります。この掲示板に何も見えないあなたは、間違ったことを弘める強迫観念に囚われているだけなのではないでしょうか。

そもそも、日蓮聖人は万人に曼荼羅を残されたのでしょうか。たぶん数百体の曼荼羅しか図示されず、それも聖人ご自身は複製が作られることなど想定されておられなかったでしょう。それは興師とて同様です。曼荼羅本尊は万民に与えられたのではなく、師が信心強盛不退転と判断した弟子に限って下賜されるのが本義でしょう。この点でも、既に聖人・興師の御意を捨て、現石山化儀に惑わされています。

聖人の教えが団体・個人の都合でよいように改変されてきた以上、まず聖人の祖意を明確に見極めるところから始めなければならないはずです。

あなたは、その義務を怠り、大石寺の言うことを鵜呑みにしています。私にはあなたが実に無責任な人と映じるのです。

348 名前:投稿日: 2002/06/27(木) 11:45

345に挙げていただいた享師(漢字合ってるか?)の指導、
葬儀やその後の法事におけるトラブルを避けるための具体的指導になっていると思います。

>謗法の子又は弟子が我意を狭まず死亡せし先代の意の儘に葬儀なんどをも正法の方に任せなば・悦んで訪ひを為すべし

これは未入信の遺族が葬儀を石山僧侶に依頼する場合に相当すると思います。
石山僧侶は頼まれたら、喜んで葬儀を引き受けるべきではないでしょうか。

>其家の跡目を続くもの孝養の考へなくして直に謗法となるやうならば骨揚の日迄にて切り上くべし、

遺族が他宗を信じているのに、そこへ石山僧侶がしゃしゃり出たら、トラブルになってしまいます。

しかし、この指導を未入信の遺族に入信を強要するために利用しているとしたら、
そりゃ、やってることが、全く逆転していると思います。

349 名前:投稿日: 2002/06/27(木) 12:53

あちきは、345の指導は、信者の死亡は緊急事態であるから、
遺族と意見が合わなくても、とりあえず駆けつけよう、
その後のことは遺族の意見にまかせよう、と読めるのですが。

350 名前:投稿日: 2002/06/27(木) 14:35

>縦い昨日まで法華宗の家なりとも孝子施主が無くんば仏事を受くべからず、但取骨までは訪ろうべし云云。

謗法者と同席してはいけないのですよね。
しかし、上の文を逆手にとれば、取骨までは行ってもいい、ということになります。
これなら、身内を亡くした直後で悲しみと混乱の中にある遺族を、助けてあげることができます。

351 名前: 五月雨 投稿日: 2002/06/27(木) 17:27
あ さん
私が数年前に、僧侶から聞いた話です。「邪宗の者からのご供養はいっさい受けられ
ません。葬式の後の七日々々のお塔婆供養も出来ません。よってお葬式も出来ませ
ん。」数年前の話ですが、大体こんな内容だったと思います。自分で貯金しててもダ
メなのかしら、と感じた事だけははっきり覚えていますので間違いはないと思いま
す。でも無慈悲ですよね。僧侶の衣の裾が広いのは、僧侶の慈悲の表れだそうで
す。ご自分で仰っていました。その話を聞いた時、法華講員全員が苦笑いしました
よ。こんな風に言ってる事とやってる事の大違いを見ながら、アゼンとするしかない
のでしょう。


寛星さん
私の早とちりで書き込みをしたようです。私と同じく今の宗門の信心の在り方を考え
ておられる方かと思ったのです。
何が何でも、石山の教えどうりなのだと主張されたいのでしょうか。私自身も、独歩
さんのレスを読んで全て理解出来ないし、何を広宣流布するのかなと思う事もあるけ
れども、形に囚われてはいけないと仰っているのだから、形ではないのでしょう。新
参者の私達は、それは何なのかを突き止めるべく学んでいきながら、自分の頭で考え
るという作業をしなければならないと思うのですが。「信心は馬鹿にならなければ出
来ない」路線で生きてこられたタイプですか。余分な事は何も考えず、ただ御本尊様
だけを信じて、勤行し、活動さえしていれば成仏できるという法華講員が沢山います
が、信じていてあらぬ方向に連れて行かれてたらどうしますか。私は、人に勧めるの
なら自分の信仰に責任を持たなければならないと考えています。

>一日も早く苦しみ悩んでいる人に教えて行きたいのです。

貴方は、自分が救世主になりたいのですか。学会員・元学会員に共通の“人を救って
やるんだ”というそれが使命なんだという思い込みを感じます。

>>まず、自分自身のために生きること、それが引いては他をも利することになるこ
と、が順番ですね。

334のレスで、独歩さんがおっしゃった事です。寛星さんの書き込みを見ていると、
人の不幸ばかり見ておられるような気がします。人の面倒を見ることによって自分は
福運を積み、幸せになれる。組織の論理に今も生きている言葉です。私もそう思って
いました。でも自分が幸せにならなくて、他者を幸せにしてあげられるのか。又、他
者を幸せにするだなんて何ておこがましい事でしょう。まず八正道と菩薩道が一番な
のではないでしょうか。今の法華講員に一番必要な事ではないでしょうか。
自分自身のために生きるとは、八正道から外れず、菩薩の心で他者を慈しむ。そこか
ら利他の道も開けていくのではないかなと思うのです。
私は、今の法華講の人間性、僧侶の人間性を見て、大聖人様の教えを信じて行じてい
る人達の在り方がこうなのはおかしい。そう疑問に思った時に、自分の頭で考える事
を始めました。本尊から始まらず、
信じている人間から始めて、本尊に行き着いたのです。信心している人間が、変なの
は何もかも無茶苦茶な石山の教えのせいと分かりました。今は大聖人様の本当の教え
は何なのだろうと思索しています。寛星さんも、一度今の信心を離れた所から、観察
されたらいかがでしょうか。見えてくるものがある筈です。

352 名前: 五月雨 投稿日: 2002/06/27(木) 17:30
文章が変な配列になってしまいました。何がどう原因したのでしょうか。メールの作成で打ち込んでコピー・貼り付けをするのですが。どうすればよいのか教えて下さい。

353 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/06/27(木) 19:12
たとえ未入信の家族の願いでも「葬式」「初七日」までは受け付けますよ。
これは、昔からです。
葬式を受け付けないと言われた御僧侶がいたら、その方の方が間違っております。
現実にそういった例はたくさん見ますよ。

354 名前: やーこ。 投稿日: 2002/06/27(木) 20:25
お久しぶりです。
検査の結果、入院はまぬがれましたので復活します。
当分二週間はコルセット付けて仕事休みますのでちょくちょく寄りたいと思います。

私の意見?としては、相手を幸せにしてやるんだ、という使命感は無いし、組織を使おうという気はさらさらないんですけど、実は自分の周りが他人と比べて不幸な環境に置かれている人が多いので、自然と悲しみを覚え、まず自分よりも他人を救おう、他人の喜ぶ顔が見たい、と思ってしまいますから、でもそういうの前の書き込み見て考えたんですが、他人を幸せにするには自分が幸せでなくて

355 名前: やーこ。 投稿日: 2002/06/27(木) 20:30
(続き)と思ったり思わなかったり。いろいろ悩んでしまいましたが、やはり私にはなんかしっくりと来ません。
自分のそういう性格は実は組織によってつくられ染まったものだろうか?
なんだか、わけわかんなくなってしまいました。

すみません。変ですね。難しい!

356 名前: やーこ。 投稿日: 2002/06/27(木) 20:33
訂正です。
始めのレスと続きの間に

は、ならないのか

を挿入して読んでください。文章なってなくてすみませんでした。でもそんな私の気持分かって欲しいなぁ、って。

357 名前: いちりん 投稿日: 2002/06/28(金) 00:22
腰痛ですか。それは、たいへんだなあ。
わたしも、かつて腰痛で苦労しました。
そして、そのことで、いろいろ気づきました。

358 名前: 寛星 投稿日: 2002/06/28(金) 11:44
横レスすみません。
犀角独歩さん(様)、ありがとうございます。

300で私は、
「釈尊一代の教えが何故各宗各派に分れ」との大聖人の疑問は、大聖人御自ら、どのように解決されたのでしょうか?
また尽未来際まで流通するために、どのようにされたのでしょうか?
滅後の我々が、正しい大聖人の仏法を知り、また子孫に伝えていくために、どのようにされたのでしょうか?
どなたかどうぞ教えて下さい。お願いします。

314では、
>聖人の御筆であろうと、ただ一体の曼荼羅を除いては礼拝の対象としないのにも拘わらず、唯受一人の血脈者のみが書写の権限を有し、その者が書写した曼荼羅は他の聖人の曼荼羅を捨て置いて効験ありなどという考えは、まさに聖人の聖筆の冒涜でしょう。

また347では、
>本尊…あなたに刷り込まれている考えでは日蓮を人、南無妙法蓮華経を法とする曼荼羅…を流布することが正しいという、これまた大石寺のすり込み(心に植え付けられた心理プログラム)で善悪を判断しているのに過ぎないのではないでしょうか。
>その弘めようという本尊は、日蓮ではなく、釈尊であるというのが日蓮本人の教えであれば、そもそも弘めようとすること自体が間違っていることになります。
と示されました。

そして、318で私は、
「今、皆様はどの御本尊に向かい、勤行し、人に勧めているのですか。」
と尋ねたら、

319では、
>しかし、要はどの御本尊(曼荼羅)に向かうかではなく、本尊をいかに取り定めるのかが重要なはずです。それを聖人は本尊抄に「教主釈尊」と仰せになられているのでしょう。

また329の五月雨さんの、
> 朝晩の勤行、折伏をどう捉えられているのか
に対しては、

331では、
>要は形式ではなく、釈尊、その他の諸尊、また聖人に真心の誠を尽くそうとする決意をもって読経供養することに肝要があるのだと思います。私は形式に拘らず、日々時々に思いに任せて、漢読、訓読、また現代語であれ、音読、黙読と行っております。
と示され、

さらに五月雨さんの、
> 形式に拘らずと仰っていますが、「何に」向かって手を合わされているのですか。
に対しては、

>私は人と接するときは合掌礼をすることもあります。けれど、ご質問の主旨は勤行の際の対象物ということなのでしょう。もちろん、曼荼羅に向かうときもあります。しかし、私は曼荼羅そのものを本尊と崇めるのではなく、そこに記される諸尊を確認し、日蓮、上行を通じて教主釈尊を拝する心地でおります。
>法華経は、天地創造の全知全能の絶対者に対する信仰でありませんね。あくまで教主釈尊という久遠已来の仏様を取り定めて法華経を信奉する信仰です。ですから、実際のところは仰るような合掌の対象を具体的に申し上げれば、常に釈尊(仏)と法華経(法)ということになるのでしょう。私も基本的にはそのような心地です。
と示されました。

ハッキリ言って私は悲しい。
「菩薩道」「菩薩道」と叫びながら、結局は、
>日々時々に思いに任せて、漢読、訓読、また現代語であれ、音読、黙読と行っております。
>もちろん、曼荼羅に向かうときもあります。しかし、私は曼荼羅そのものを本尊と崇めるのではなく、そこに記される諸尊を確認し、日蓮、上行を通じて教主釈尊を拝する心地でおります。
と示され、他人を慈しむ心さえ感じられない。まるで仏教を哲学のように考えているように思えます。

真筆が無いから通じないとは思いますが、
経王殿御返事は大聖人の御心と拝しています。
「先日のまぼ(守)り暫時も身をはなさずたもち給へ。其の御本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕はし奉る事たえたり。」
「日蓮守護たる処の御本尊をしたヽめ参らせ候事も師子王にをとるべからず。」
「又此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼(く)の如し。いかなる病さは(障)りをなすべきや。」
「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」
「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。」
現実の独歩さんなら、一番心に沁みる御書だと思っています。

359 名前: 寛星 投稿日: 2002/06/28(金) 11:45
五月雨さん、ありがとうございます。

>>一日も早く苦しみ悩んでいる人に教えて行きたいのです。

>貴方は、自分が救世主になりたいのですか。学会員・元学会員に共通の“人を救ってやるんだ”というそれが使命なんだという思い込みを感じます。

あなたは菩薩道をどのように考えているのでしょうか?
またどのような菩薩であれ「自分が仏になってから他を救いましょう」なんて考えてはいません。

どのようにしたら自分は成仏できるのか、どのようにしたら人々をも成仏させる事ができるのか。
そのために今どうするのか、仏滅後はどうするのか。そして未来のために何を残し伝えるのか。
これを私は、私のような凡夫にも実践できる具体的なものとして示して欲しいだけなんです。

360 名前:投稿日: 2002/06/28(金) 12:51

五月雨様

>私が数年前に、僧侶から聞いた話です。「邪宗の者からのご供養はいっさい受けられ
ません。葬式の後の七日々々のお塔婆供養も出来ません。よってお葬式も出来ませ
ん。」

ほんまですか。無慈悲な話ですな。
あちきが348から350に書いたことは、日蓮正宗を弁護するためではありません。
有師と享師の指導を、現在の宗門は信徒締め付けのために、
(言葉は悪いのですが)悪用していると、あちきはニラんでいます。

江戸時代に不受不施派というのが禁制になったそうです。
だけど、大石寺なんか、弾圧を受けていないじゃないですか。受不施じゃんけ。
石山僧侶なんか、肉は食らうし、妻は持つし、破戒僧じゃんけ。
それを、なーにを今さら、「謗施は受けられん」などと、キレイごとを言って。

葬儀という僧侶の特権を利用した信徒締め付けとしか思えません。

361 名前:投稿日: 2002/06/28(金) 13:30

五月雨様

351の五月雨様の書き込み、全文しっかり読んでます。
あちきは今、宗教やってませんが、五月雨様の悲しみが、わかるような気がします。

362 名前: 五月雨 投稿日: 2002/06/28(金) 14:35
あ さん
“ホンマです。”
私の拙い書き込みを読んで頂いて有難うございます。
  あ さんは関西人ですか。私は関西人です。純粋ではないけれど、故郷よりもこちらの生活の方が長いので、準・関西人というところでしょうか。発音が悪いと指摘されつつ関西弁で喋っています。でも書き込むときは関西弁は辛いですね。仕方なく文章語です。
私もすっぱりと宗教をやめたい。だけど日蓮大聖人様の事は大好きなので離れられません。辛いところです。悲しんでばかりもいられないので、皆様方のアドバイスを頂きながら、真実を知りたいと思っています。これからもよろしくお願いいたします。


寛星さん
“自身仏にならずしては父母もだにもすくいがたし・いわうや他人をや”という御書を拝読した事があります。ところが石山の新しい御書にはこの部分がありません。という事は偽書だったのでしょうか。私はこの御書をいつも思い、前の書き込みをしたのです。
真の菩薩道とは・・・私は独歩さんのお考えに賛成です。
学会・法華講の両方で経験した事ですが、あの人が不幸で困っている折伏しなくちゃと折伏に邁進されている人をよく見かけましたが、その前にご自身をどうにかしなくちゃ駄目でしょう。どんなに素晴らしい法を説いても説得力が無いですよ。と言いたい人が少なからずいました。
寛星さんはそういう事に当てはまらず完璧でいらっしゃるのに、失礼な言い回しをしてしまいました。お許しください。

>・・・これを私は、私のような凡夫にも実践できる具体的なものとして示して欲しいだけなんです

この問い掛けは、所属の寺院の僧侶に聞かれた方が良いのではないですか。きっとご納得のいくお答えを頂けると思います。

363 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/29(土) 00:06

寛星さん:

> 他人を慈しむ心さえ感じられない。仏教を哲学のように考えているように思えます

私は仏教を哲学であると考えたことはありません。まったくの誤解です。
私は日蓮という御名を聞き読み、そして自らも呼び記すとき、心の底から熱く暖かく、そして懐かしさと恭敬の念でいっぱいになります。そしてまた、釈尊の御名も、お題目にも同様の情動を伴います。聖人御筆の曼荼羅はその諸尊を図示されたものです。まさに経王書の如く思いです。

お題目を立行され、曼荼羅を図示された聖人の尊さ、それは釈尊の有り難さへの集積なのでしょう。その聖人の思いを人に示し、孫子に伝えることが肝要であるというのが私の考えであることは、ここ1年近く記してきた文章を虚心坦懐にお読み懐く人であれば誰しもご理解いただけるところでしょう。

しかし、それをあなたは読み取れない。結局、あなたは私を批判したいだけなのでしょう。まったく悲しく思うばかりです。自分の「見えざる」有様を基準にして。人の心を横計し、私が記するに思いとまったく逆のことを書き連ね断定するあなたの論法と手法を、私は悲しく思うのです。

自分と違う価値観を突きつけられると、人身攻撃に転ずるのは自己の絶対性を主張して止まない組織・信徒の常の在り方です。

寛星さん、あなたのような論調には以前にも接したことがあります。

364 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/29(土) 01:15

あ さん:

今は宗教やっていないとのことですが、なんのなんの、宗教はしっかりとおやりになっていると拝察します。
ここに記されていることは、あ さんの宗教心そのものです。
やっておられないのは宗教団体のほうでしょう。こちらは、構成員の飯の種とご都合主義、私ども宗教信徒とは無縁の営利社会です。
宗教と宗教を飯の種にする団体は厳格に峻別して考える習慣が必要であると私は思うのです。

365 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/29(土) 01:21

五月雨さん:

> 真の菩薩道とは・・・私は独歩さんのお考えに賛成

有り難うございます。
しかし、どうか、私の拙い考えを越えて、五月雨さんしか見いだせないの境地を、私に示し、ご教導ください。

366 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/29(土) 11:25

ここのところのつぶやきを拝見し思うのは、広宣流布に関する解釈が操作されているということです。
私のサイトの日々雑記に「広宣流布に関する覚え書き」を少し書いて見ました。
まだ、未完結ですが、ご高覧いただければと思います。

日々雑記 「広宣流布に関する覚え書き」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/zakki_01.html#020629
仏教再考
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/

367 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/06/29(土) 11:59

70114 ゲットしました。

368 名前:投稿日: 2002/06/29(土) 14:19
       
     犀角独歩様
     ありがとうでげす。
     「広宣流布に関する覚え書き」、ウッ、こういうのは、あちきの小さな脳みそでは歯が立たん。
     難しくて頭が……頭破七分じゃああああっ! パス。

     五月雨様
     ウチ、ほんまは関東ですねん。関西弁、よう、しゃべりまへん。
     せやけどビックリすると、「ほんまでっかー!?」と、クチをついて出てきますのや。
     テレビのお笑いの影響でっしゃろなあ。

369 名前:投稿日: 2002/06/29(土) 17:01
    
    あ、それでも、日々雑記、別のところは、なかなか、ちょっと、おもしろい。

370 名前: 五月雨 投稿日: 2002/06/29(土) 17:10
犀角独歩さん
 >・・・五月雨さんしか見いだせないの境地を、私に示し、ご教導ください。

独歩さんに教導なんて、そんなおこがましい事出来ません。やっと自分の頭で考え始めた初心者です。ご冗談でもそうおっしゃらず私の方こそよろしくご教導の程お願いします。
  
昨日、学会婦人部の方が二人見えられて、さんざん池田先生は「すごい物語」を得と話して帰られました。「世間の人の方が、学会をよく分かってんで」と言うと、「そやねん、聖教新聞にも沢山の知識人が、先生は凄いって書いてるで」と、のたまうので「ちゃうがな、学会の悪どさをやがな」と言うと、「何を根拠に言うてんねん」と延々と先生は凄い、ニッケンは悪い、山友はサイティのオンパレード。その上、自分たちの正当性を、石山教学を持ち出して、証明しようとする。その支離滅裂さに、やるせなく心寂しい思いです。
一日たっても引きずっています。
この二人がマインドコントロールをされてしまっているのは分かっています。自分もついこの前までされていましたから、されているよと指摘したところで、マインドコントロールされている自分自身を分かろう筈もなく、どうしようも無いなと思うのですが、心の片隅には早く目が覚めますようになんて気持ちもあったりて゜、複雑な思いです。
 『学会のバリバリなんて池田教に、どっぷり染まっているのだから、話をせず、家の中に入ろうとしたら、住居不法侵入罪で警察に電話しなさい。』
この宗門の指導を、守れたら気も楽なのですが。守れない私は信徒失格です。
「広宣流布しているのは学会だけ」と自負しながら、帰って行った二人の後姿に、大聖人様は広宣流布について本当はどう仰っているのだろうと考えていました。独歩さんの「広宣流布に関する覚え書き」は、私にとってグットタイミングのご教示です。私の理解力では、中々追いつかない内容ですが
しっかり読ませて頂きます。つづきも楽しみにしております。
 話言葉を関西弁で書きましたが、やっぱりしまりませんね。


あ さん
関西弁がお上手ですね。関西弁の認知の為に、関西弁使ってください。でも真面目な書き込みしてても、笑っちゃいますよね。どうしてもマンガチックになってしまいます。

371 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/06/30(日) 10:54

最近、ATOK15を使い始めたのですが、これはなかなかの優れもので「話し言葉関西」という辞書がついています。私は生まれも育ちも親の代から東京なので、使えないんですが、面白いなと。

あ さん:

まあ、そんなに思いっきりパスせんでください(笑)

五月雨さん:

私のサイトも、ぜひ時々のぞいてみてください。お待ちしています。

372 名前: やーこ。 投稿日: 2002/07/02(火) 06:54
横レス失礼します。

突然ですが…30万登山、うちの講中で、今まで「延べ人数の30万ではありません」
と言っていたのに、昨日お寺に行ったら、
「一人何回行ってもいいですよー」と言われました。
これって…「延べ人数」を認めてしまうようなものではありませんか。
「ルール違反」→「登山失敗」→「終了」みたいで何か嫌だし、
「ルール遵守」→「登山失敗」→「終了」の方が潔いので、
つい、休憩中の信徒の前で「延べ人数に手を貸すようなことはしない」と
いっちまいました。すっきりしました。
「うを、いいこというじゃん」とも言われましたので、なんだかヒーロー気分です。

373 名前: やーこ。 投稿日: 2002/07/02(火) 07:01
そして、また、別の横レスです。
この掲示板で、カルト(セクト)の話題が出ましたので、非常に楽しみにしております。
日本の4人の弁護士の共著で、タイトルを忘れてしまいましたが…カルトの一例として
顕正会がでております。データの一部として、SGIインターナショナルも入っております。
他、私が読んでいたおすすめのカルト対策書籍を思い出したら、この掲示板で報告致します。
多分犀角独歩様ならご存知かと思いますが。
また、洗脳を解く方法として、逆洗脳というのがあるそうです。ご参考までに。

374 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/02(火) 07:30

やーこさん:

お久しぶりです。

> 洗脳を解く方法として、逆洗脳

ええ、ありますね。デプログラム-deprogram-と言われる方法です。

かつて保護手法と共に使用されたことがありますが、PTSD-PostTraumatic Stress Disorder-(心的外傷後ストレス障害)、また、その他、心的障害、PMCS-Post Mind Control Syndrome の危険性が指摘されてからは使用しない方向になっています。

現在では、単なる脱カルト、脱洗脳を施すのではなくて、脱会後のケアを中心に据えた心理療法が一般的ですね。

375 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/02(火) 07:44

> 4人の弁護士の共著…カルト…

以下の書籍のことでしょう、たぶん。

『カルト宗教のトラブル対策―日本と欧米の実情と取り組み』山口 広・中村 周而・平田 広志・紀藤 正樹著

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4876523819/bengoshikitol-22/250-8504426-7304265

紀藤弁護士のHPには顕正会情報が載っていますね。

http://homepage1.nifty.com/kito/index.htm

現在「入信勧誘でまた逮捕者が出ました」と記されています。

376 名前: やーこ。 投稿日: 2002/07/02(火) 08:41
犀角独歩様:
お久しぶりです。そう、ずばり、その本でした。
実家に置いてきてしまいましたので、今、手元にありません。
発行されてからすぐに買いました。
あと、他に買ったのは…サイエントロジーを舞台とした洗脳体験を記した本
などです。
身近な顕正会信者に見せたところ、「学会のデマだ」と返ってきました。
「マスコミは学会の情報を鵜呑みにして流している。策略だ」と。
当時18歳の私がこんな本を購入したのには訳がありまして…
…その頃私は工学院大学という宗教とは無縁の大学に通っていまして(2部、既に
退学)、興味本位で宗教論の授業をとりました。
いろんな宗教を勉強して折伏に役立てたい→そのうちカルト問題に目を向けるように
なる→カルトに属している人を救いたい、という気持ちになっちゃいまして…
…その講師の先生が面白い方でして(しかもかっこいい!)…はまってしまいました。
脱洗脳のお話は、その頃授業にちょっとだけでていました。宗教論ですから、
宗教がメインですので危険性とかは語られませんでした。
他にも、人間の肉は甘くておいしいとか、マジックマッシュルームとか、
ブレアウィッチプロジェクトはわけわかんないとか、
献血で血液検査とか、いろいろ私たちを笑わせてくれました。
(でも遅刻には厳しい)
でも、そんなカッコ良くておもしろい先生が実は、東大大学院ご卒業の、
島田裕巳氏と同じ学科出身の、若手の実力有る活躍中の先生でした。
びっくりしました。
失礼、脱線してしまいました。
とにかく、そういうカウンセリングとかする人になりたいというわけで、
結婚して、まとまったお金が出来たら、法政大学の通信の宗教学に入ろうかな、
と考えているところです。確か、そこは何年でもいられる、ということで。
一昨日21歳になりまして、なんとなく体力的にも精神的にも老けてきたので、
たぶんだめかなーと、思いつつ。

377 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/02(火) 12:06

> カウンセリングとかする人になりたい…

私は、この手の情報、及び人的紹介(つまり大学関係者)はかなり具体的に行うことができます。

カウンセリングにも種々ありますが、資格に基づく心理カウンセリングとなると、やはり、臨床心理士ということなりますね。心理学に関する学位と大学院の卒業が条件になります。

こう記すと、困難なことに思えますが、私の若い知り合いの中には、それこそ放送大学から、自分の尊敬する先生を追いかけて大学院に入り勉強している人はたくさんおります。皆、未来のカウンセラーを目指しています。

> 結婚して、まとまったお金が出来たら、法政大学の通信の宗教学に入ろうかな、
と考えているところです。確か、そこは何年でもいられる、ということで。

宗教学という学問も面白いものですね。ただ、カウンセラーを目指すのであれば、社会(心理)学、文学部(心理学科)という系列が知識的には必要と言うことになるでしょうね。もちろん、精神医学ではあれば、申し分ありませんよね。

> 一昨日21歳になりまして、なんとなく体力的にも精神的にも老けてきたので、
たぶんだめかな

お誕生日だったのですか。おめでとうございます。
しかし、やーこさんに「老けた」などと言われたら、私なんか墓場に行かなければならなくなりますよ(笑)

378 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/02(火) 16:37
犀角独歩さん
 私も早い時期に、独歩さんのホームページをお気に入りに登録していましたが、漢字の多いホームページは、私の脳みそがついつい拒否して、開いてもあまり長居をしませんでした。でも「日々雑記」なら少しは理解出来そうですので読ませて頂きます。「広宣流布に関する覚え書き」もとても為になりました。前に教えて頂いた「正しい白蓮の教え」は、岩波文庫の法華経の中にある文ですか。一冊の本かと思って捜していたのですが、無かったのでそれを買いました。独歩さんには簡単な内容かと思いますが、私には脳圧が高くなってしまいそうと思わせるような本です。ま、頑張って読んで行きます。


やーこ。さま  お久しぶりです。三十万登山についてですが、始まる前から延べ三十万登山になっていましたよ。ウチの講の78才のおばあちゃまなんて、月に一度は行きたいと張り切っていました。結局三回行く事になったみたいですが、年寄りの元気さに呆れるとともに、僧俗協議会で、
「延べ人数じゃないんだ。実人数なんだ」と声高に仰っていた僧侶と連合会役員の顔が見てみたいと意地悪な気持ちも沸き起こりました。学会じゃないんだから数字じゃないんだといつもいつも言っていてのこのテイタラク。その上二枚舌。数を集めてご供養集めての手段に、付願も数に入れるので受け付けるそうです。末期症状かなぁ。ホント若い人に恥ずかしいですね。
 お誕生日おめでとう。若い時って、一歳年を取るだけでなんかものすごく年取ったという気がしますよね。私くらいの歳になると、いくつ年とっても一緒のような気がしますよ。まだまだ若い証拠です。やーこ。さんの歳で老けたと言われた日には、私も急いで棺おけに片足つっこまなアキマセン。(笑) 自分では、若いつもりでいますのに。ガッカリさせないで下さいませ。
輝かしい二十一歳を、送って下さい。

379 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/02(火) 17:00

五月雨さん:

> 「正しい白蓮の教え」

説明不足でしたね。
これは岩波文庫版で上中下3分冊本です。

岩波文庫 33-304-1 〜 33-304-3
法華経(上)(中)(下)
坂本幸男・岩本裕 訳注

1964年に初版が出版されたものですから、もう絶版になっていると思います。

「正しい教えの白蓮」というのは梵本から岩本師が訳した法華経名です。
この書は妙法蓮華経の漢文・訓読と梵本直訳が対照されたものです。

『法華経』では最近、とある日蓮宗僧侶の方から進められて、岩波新書版『法華経入門』を読んだのですが、著者は、なんと創価大学教授(笑)でびっくり、まあ、わかりやすく、よくまとまっています。

もっとも「永遠の生命」が連発されたり、一念三千の説明が危なっかしく感じるところもあるのですが、それらの点を除けば、この書は、まああ、今のスタンダード・スケールと言うことになるのでしょうか。

「日蓮においては紙に仏・菩薩などの十界の生命体を配列した曼荼羅をいう」(P106)などという記述があって、苦笑するところもあるのです。

読みやすい本では田村芳朗師著(これも絶版かも)中公新書版『法華経』もお薦めですね。

あと、私の書いていることで、漢字が多くてなんだかわからないところがありましたら、どんどん突っ込んでください。その点は、どうぞご遠慮なく。

380 名前: やーこ。 投稿日: 2002/07/03(水) 10:18
おはようございます、犀角独歩様、五月雨様、レスありがとうございます。

…うーん、臨床の資格ですか…。大学院卒?は、学習能力の悪い私には難しいかもしれません。
臨床の資格がいらないほうで、何回かの講習を受ければカウンセラーになれる、と断片的に聞きましたが…。
何の講習を、一体どのくらい受ければよろしいのでしょうか。
自分としては、宗教学をベースに、心理学と、少し精神医学も勉強したいのですが。
自分が高校生のときから、なぜかは良くわからないのですが、他人から、学会や顕正会などの
勧誘がしつこいからなんとかして、とか、友達が変な団体に染まっていて困る、とかの相談をもちかけられる
ことが多くありまして、でも、其のときの少しの知識だけでは責任持てる回答ができない…と悩んでおります。
人生の浅い私に人生相談を持ちかけられることも有りますし…。

381 名前: やーこ。 投稿日: 2002/07/03(水) 10:32
で、前述の弁護士の本、探してみたら行方不明でした。
かわりに、2冊、紹介します。

「カルトの構図 呪縛のストラテジー」
フーゴー・シュタム著 青土社
サ○エン○ロ○ー、もの○の○、○鮮○氏などの団体、きっかけ、洗脳、
勧誘、活動、脱会、子供たちのことが取り上げられています。 2400円。

「宗教の時代とは何だったのか」島田裕巳著 講談社
旧オウム真理教、ヤ○ギ○会中心にとりあげられていますが、
創価学会で、戸田先生、牧口先生のことも内容に入っています。1545円。

382 名前: つまけん 投稿日: 2002/07/03(水) 12:35
横からすみません

犀角独歩さん

こんにちは、先日は貴重な情報ありがとうございました。

>紀藤弁護士のHPには顕正会情報が載っていますね。

http://homepage1.nifty.com/kito/index.htm

>現在「入信勧誘でまた逮捕者が出ました」と記されています。

↑は2001年7月2日(約1年前)のニュースですね。

一番最近の事件は↓です。誇張して書かれてますが
(殺人)事件自体は事実のようです。

http://www.amicom.com/~kmen/tokuhou/tokuhou172.htm
http://bbs10.otd.co.jp/kohaku/bbs_plain?base=920&range=1

383 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/03(水) 13:26
犀角独歩さん

岩波文庫の法華経(上)(中)(下)坂本幸男・岩本裕 訳注を、文庫本で手に入れました。
絶版ではありません。売っています。ご紹介の他の本にも興味はありますが、この三冊にしばらくは時間を取られそうです。全然前に進まないのは何でやねんと思いながら、今日も読んでます。

384 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/07/04(木) 11:08

71067 ゲットしました。

385 名前: nb 投稿日: 2002/07/04(木) 18:45
平成四年に正信会の方より出ました小冊子、
「創価学会の皆さんへ訴える」
私のホームページに掲載しました。
http://nakanihon.net/nb/souka/souka1.htm
上記の所です。

創価学会の方だけでなくいろいろな方が見てもらいたいです。

創価思想について簡単に説明してありますので、よろしくお願いいたします。

386 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/04(木) 21:07

やーこさん:

> 何回かの講習を受ければカウンセラーになれる

そのようなものがあるのですか。
講習その他というのもなかなか危ない世界ですので、選定にはどうかご用心ください。

五月雨さん:

法華経は今でも絶版になっていないのですか。初版から40年近くを経ています。感激です。

この本は、すっと読めるものではないです。私も1年ぐらいかけて、メモを取りながら、読み終えたものでした。坂本師は日蓮教学の重鎮でしたし、かたや岩本師はサンスクリット語では世界で3本の指に入る研究者でした。特に岩本師から私は多大な影響を受けていると自分では思っています。ただ、残念ながら宗教学、あるいは仏教学の人脈その他に属する方ではなかったので、非常に優れた提言をされながら、学会から無視されてしまったことは惜しまれます。逆に仏教書の中で知ることができないいくつもの内容が法華経の訳注その他の中に宝の山のように埋もれています。

まあ、焦らず、ゆっくりと、そして、確実にお読みになってみてください。

387 名前:投稿日: 2002/07/05(金) 01:19
あっのー、基本的な質問で悪いんですけど……
顕正会の正式名称「冨士大石寺顕正会」って何なんでしょうか。
日蓮正宗顕正会(以前はそうでしたよね)とか、富士門流顕正会なら、外部の者にも理解できる。
解散勧告受けようが何だろうが、「俺たちこそ正統派なのだ」という主張に受け取れるから。
顕正会の中に「あっちは偽物の大石寺で、こっちが本物だ」という思想でも、あるんでしょうか。

いずれにしろ、これを宗門は、大石寺詐称、と見るでしょうね。
こんなことしちゃ、顕正会の宗門復帰は無理そうだな。
(下の方に顕正会スレあるから、そこで聞けばいいようなものだが、
 あのスレ目立たせると、いろんな人が雪崩れこんで来そうで、怖いいんだもん。)

388 名前:投稿日: 2002/07/05(金) 01:37
あ、そうか、宗教法人格をとるために、日蓮正宗という名称が使えなかったのかな。
それにしても、別の名称考えたら良さそうなものなのに。

389 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/05(金) 11:16

> 冨士大石寺顕正会…宗門は、大石寺詐称、と見る…

石山が、というより、顕正会以外は詐称と見るでしょう。
宗教教義上の信念での勝手な命名ですから、まあ、どんな名前を付けようと勝手ですが、法律的には 宗教法人 日蓮正宗 大日蓮華山富士大石寺 とは、まったく関係のない団体であるわけですから。

言ってみれば、たとえば私が顕正会独歩と名乗って、正統な顕正会教義は私こそ継承していると言っているようなものです。これを詐称と見るかどうか、詐称以前にまったく事実を知らない人は、その名称から判断するしかないわけですから、誤解を招くような紛らわしい名称は違反としか言えないでしょう。他の人たち、また、メンバーはどう思っているのかわかりませんが、私は名称一つをとっても顕正会は、言っていることも、やっていることも怪しい判断せざるを得ません。

どこぞの団体の長が、自ら天皇の末裔、目師の末裔を僭称し、法皇とまで自称しているのと、冨士大石寺顕正会という自称は何ら変わらないでしょう。こんな名称を平然と使う神経は理解できません。もし仮に将来、石山が顕正会を信徒団体と認める日が来るまで(あり得ませんが)、そのときまで、この名称を取っておくべきでしょうね。それは広宣流布の暁まで大石寺が本門寺と名乗らないようにです。それが石山教義の名称のコンセプトでもあるわけでしょうから。

390 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/07/05(金) 11:38
あ さんへ
「あ、そうか、宗教法人格をとるために、日蓮正宗という名称が使えなかったのかな。
それにしても、別の名称考えたら良さそうなものなのに。」
そうですよ。さすが、するどい。
実は「宗教法人日蓮正宗顕正会」で申請したら却下されたから、次に「宗教法人冨士大石寺顕正会」で申請したら、それでも却下されたから、やむおえず「宗教法人顕正会」となってしまったそうですよ。

それより「申請する前に気付けって、そんなもん却下されること自体」

391 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/07/05(金) 11:46
犀角独歩さんへ。
私は、顕正会がどんな名前を付けようと、勝手だとはおもうけど、私の思想上は
「どこぞの団体の長が、自ら天皇の末裔、目師の末裔を僭称し、法皇とまで自称しているのと、」
こっちのほうが、許せんね。街宣でも、回してやろうかな。
ちなみに、こちらのOさんにある右翼結社が電話を入れたら「法皇というのは、そういう名称であって、現今天皇家とは全く関係ありません。差し支え有りましたら、いつでも変更いたします」
って答えたそうですよ。構えて電話を入れた、その方は拍子抜けしてしまいました(ジャンジャン)。

392 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/05(金) 16:14

菊水護国さん:

これはたしかに拍子抜け(笑)
まあ、あの人は個人的に会うとけっこう気のいいオッサンという印象でしょう。
私が学生時代、まだ一宗一派も立ち上げてない頃、神奈川の自宅まで送ったことがありましたけど、近くの焼肉屋で飯を食わせてくれました。そんとき、肉をついばみながら「君は戒壇の本尊を本物だと思うんですか」と唐突に聞かれたのを覚えています。
論戦とかもあまりしそうな印象ではなかったけれど、肉体派バトルなんて無縁なイメージでしたね。

案外、議論なんかで躁状態を続ける、一人になるとガクンと鬱状態になりそうなタイプと見ているんですが。元気にしているんでしょうか。まあ、懲りないタイプには違いありませんが、心配はしていませんが。

393 名前:投稿日: 2002/07/05(金) 19:41
犀角独歩さん、 菊水護国さん、どーもありがとうでげす。
そっかー。「宗教法人冨士大石寺顕正会」も法律的な正式名称じゃなくて、法律的には、ただの「宗教法人顕正会」なんだ。

394 名前: やーこ。 投稿日: 2002/07/05(金) 20:41
こんばんは。ちょっと、つぶやきたいです。
顕正会に喧嘩を売るつもりではありませんが。

ある悪徳商法摘発BBSを見たところ(現在は書きこみが出来なくなっている)
最初、富士大石寺なんとかに勧誘されました、みたいなことが書いてあって、
次のレスから良く見てみると、「富士大石寺顕正会」がかいてありました。
なんでやねん???
まぁ、結論は「宗教の問題だし、2CHで顕正会のスレッド多いから、そちらで」
ということになったようですが…。驚いてしまいました。
それから、この間の犀角独歩様のレスのリンクで、被害者のHPを発見したのですが、
うち、T.Eさん25歳女子部逮捕の件については本当の話ですが、
反対している「折伏先」の変な罠による不法逮捕により、会を挙げて、T.Eさんの
救済に全力を挙げています。T.Eさんは「殴られ怪我を負った」のにT.Eさんが
「殴った」と勝手にされてしまっているとのことで、会として「弁護士を呼ぶ」とのこと。
これは、つい最近の顕正新聞(だったと思う)の会合の記事として大きく取り上げられていました。
また、中学校の教師の会員が中学生をさそっているとHPに実名で取り上げられましたが、
実際顕正会は高校生未満は入会できません。
あまりにも過激過ぎです。そして、真実を確かめなさ過ぎです。

それから、「富士大石寺顕正会」の前は「日蓮正宗顕正会」でずっとやってきておりました。
破門ではなく解散処分なので名乗りたい気持ちもわかりますが、個人的には
「日蓮正宗顕正会」の方が紛らわしかったと思います。

395 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/06(土) 12:44

一講員さんは、おそろしく大変な作業をいとも簡単に提案しますね。読もうという意気込みは、もちろん、善意に受け取りますが。
また、それを快くお受けになる問答名人さんには、改めて敬服します。

396 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/07/07(日) 20:35
やーこさん。
「富士大石寺顕正会」ではなく「冨士大石寺顕正会」です。
富士の富に点が無いから、意味が違いますとでも言うのかな。
冗談でした。俺の方が喧嘩売ってるかな。

犀角独歩さん
ちなみに本門正宗の本尊の表具って「赤紙」と聞きましたが本当でしょうか。

397 名前: 一字三礼 投稿日: 2002/07/08(月) 01:11
以前、私が体験した事です。(つまらない話ですが)

私は過去に3回、顕正会から折伏を受けています。最初は高校生の時、次が学生の時、これは両方とも友人から。3回目は勤めていた会社に来ていた派遣社員の女性からでした。

その派遣社員の女性とは、同じフロア−で働いていたのですが、ほとんど話しをした記憶もありません。ある休みの日、その女性から電話で「近所まで来ているので、お茶しませんか?」とのお誘いがありました。
本当だったらこの時点で、彼女が私の住所や電話番号を知っている事の不自然さに気付くべきでした。がそこは男の性とでもいいましょうか、哀しさとでもいいましょうか、お茶するつもりでのこのこ出かけたのです。
しかし、待ち合わせの場所に行ってみるともう一人、私の知らない女性と二人で待っていました。
そして「良い喫茶店があるから」と西武線に乗せられたのですが、うまい具合に故障で電車が動かず、そのまま池袋で降りる事になり、そこから池袋の西口にある喫茶店に連れていかれました。
その喫茶店は以前、2回折伏された場所だったので、さすがに状況が把握出来たので、「あなた達が大変な使命を帯びて生きている事は承知している。だから、あなた達の事を知らない人々に道を教えてやってくれ。今日はたまの休みだし。」と、丁寧にお断りしたら「同期(私の)の方々は、ほとんど入信なさいました。あなたもご一緒にどうですか」と言われました。
しかたなく、私の少ない仏法の知識を総動員してその場は辛くも逃れました。

翌日、会社で同期の男達に話を聞いてみると、本部で数珠と経本を買わされて帰ってきたとの事。しかも皆、同じ手口で呼び出されていたので、「男って哀しいね」と慰め会いました。

その後、その女性は会社から派遣元に苦情が行き、他の会社に替えられたそうですが。

398 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/08(月) 08:32

菊水護国さん:

> 本門正宗の本尊の表具って「赤紙」

いやあ、これは私は知りません。
しかし、「赤紙」って、なんだか召集令状みたいな…と、言っても若い人は知らないですね(笑)

でも、表装の赤は案外、見かけますね、日蓮宗なんかでは。

石山でも、…えらくうる覚えで間違っているかもしれませんが…大正皇后所持の曼荼羅は朱に地模様・黄紙で軸が水晶の造りではありませんでしたっけ?
寛師の六巻抄依義判文抄第三に「黄巻朱軸の経巻」なんて言が見え、経巻の造りは、そのようで、宮沢賢治が遺言した法華経も表紙は赤で、それ故に、赤本と言われたのでしたね。

…、本門正宗の表装はわかりますが、肝心の曼荼羅はどこからのパクリ?、それとも自分で書いているんでしょうか?

399 名前: アネモネ 投稿日: 2002/07/08(月) 10:12
突然の家庭訪問やお電話による勧誘ってよくないですね。顔見知りの人でも、個人的に住所や電話番号を教えてない人がいきなりみえるというのは、なんだか脅威です。
だけど、押しかけたきた信徒の方は「猊下の御指導だから」と、鬼のくびをとったかのように誇らしげだったり。
私のお寺は600人世帯だそうですが、30万登山に参詣しない人の名前と住所・電話番号が名簿からリストにされて地区内の信徒に配られたようです。場合によっては600人もの人に公開されるのかもしれないと思うとなんだかゾッとします。
私を折伏してくれた人は、お寺のいざこざに巻き込まれて、電話攻勢がひどく、とうとう電話番号を変えてしまいました。私が親しくしていることもあって、幹部の方が他の信徒を使って私から彼女の電話番号を聞きだそうとされましたが、もちろん私は教えませんでした。
個人情報保護法案はメディア規制の観点からマスコミの反発を受け、まだ可決されてませんが、「個人情報保護」の気運は高まっていますね。
一字三礼さんの書き込みを読んで、私もつぶやきたくなりました。顕正会の方は、派遣先の会社の社員名簿を見たか、総務に問い合わせたと思われますが、これからは、会社側も社員の個人情報の管理について問われることになるでしょうし、もちろん派遣会社のモラル教育も問われるでしょうね。
組織をあげての家庭訪問や電話などの布教活動は、社会的に容認されない世の中になってきていると思いますね。

400 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/08(月) 10:12

一字三礼さんの体験を読んで思ったのですが、要するに顕正会の場合、数珠と経本を買うと入会ということになるんでしょうね。入会届のような書式もあるんでしょうが、それより、数珠と経本。これはしかし、入信ではなく、購入ですね。

こんなことで入会をカウントするとすれば、実に底の浅い、団体であると思うわけです。あと、これは一字三礼さんのケースとは違いますが、未成年者を勧誘するのに保護者の承諾を取っているのでしょうか。学校からの苦情、親からの苦情を聞く限り、本部側の指導はどうなのか知りませんが、会員は、そんな世間一般の常識など、完全に無視しているように思えます。

それにしても数珠と経本に霊力があるわけではあるまいし、なんともはや、薄ら寒い話であると思います。また、勤行にしても、曼荼羅もないところで石山の方向に向かってするという、…遙拝勤行とか勝手に言っているようですが、こんな化儀、そもそも石山義にはありませんね。曼荼羅がなければ、勧請も成り立たないわけですから、勤行自体、意味をなさないでしょうに。

他で見れば、創価学会は入会は幹部を中心者にする勤行会出席でカウントするとか聞きました。石山では受戒、本尊下付で入信。

しかし、入信というのは、ほんとにそんなことなのでしょうか。
勧誘の仕方には大いに疑問はありますが、それ以上に入信の意味を考えると、ただ数取りに翻弄されている強迫観念に基づいた切迫行動のようにしか見えません。これはまた、朝晩の勤行の姿勢にしても、そのように感じますね。

401 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/08(月) 10:29

○マレーシア石山教会が日蓮宗に改宗

一つ、ニュースをお伝えします。

マレーシア・ペナン島の正宗寺院が、この度、日蓮宗になったとのことです。
カルト問題に取り組む日蓮宗僧侶の方からお聞きしました。
この方、ご自身が改宗に当たり、法要のためにマレーシアに赴かれたとのことでした。

ご連絡を受けた抜粋を紹介します

・かつて創価学会と日蓮正宗がマレーシアを含めた東南アジア地方に進出して、マレーシア半島だけで四つの教会を建立
・そのうちの一つがこの度改宗して、「ペナン日蓮宗佛教會」となった
・信徒数は70家族ほど、百数十名
・それぞれの信徒達は、週に二三回以上必ず教会に足をはこび、唱題行・勤行・法華経の勉強など、熱心に活動
・方便品・壽量品は、大半の人達が暗記している

・日蓮正宗からの離脱理由
 1、当教会は、正宗の手助け無く、信徒達だけで作られたものであるにもかかわらず
   正宗側が、教会施設の全面的権利譲渡を主張した
 2、1の件で、正宗側との関係にぎくしゃくした
   その後、正宗側がペナンへの僧侶の派遣を拒否したこと。
 3、信徒の代表である長老が、正宗からの離脱に賛同したこと
 4、釈尊を中心にした信仰を持っていた人がほとんどで、教義に疑問を持った
 5、正宗の、強制的な信仰の束縛や活動の強制に疑問を持った
   (以上が主な離脱の原因)


このご連絡のなかで印象的であったのは、「正宗・学会の指導がまだ残っているのか、『信徒を増やすことが一番大事』という気持ちが強すぎる」という感想でした。

たしかに増やすこと以上に大切なことがあるのが信仰かも知れません。

402 名前: 一字三礼 投稿日: 2002/07/08(月) 14:09

アネモネさん

結局、その顕正会の女性に対して、男性陣には恥ずべき甘さがあったのだろうと思います。会社が個人情報を外部に漏らした事を追求したのは、同じように布教された女性社員達だったと聞きます。
社会的にも個人情報の管理、保護はこれからの課題であると思います。
これとは全然視点は違いますが、一仏者として私が疑問に思うのは、何故彼らは、相手を騙して呼び出しておいて、“信じる事”の大事さを説くことができるのか、と言う事です。自語相違もはなはだしい行為をしていても、それにまったく気付いていない人達の存在は、少なからずおどろきでした。

403 名前: 一字三礼 投稿日: 2002/07/08(月) 14:10

犀角独歩さん

入会、入信等の形式は本当に意味の無い事であると思います。

以前、他のスレッドで示して頂いた「勧請」について、私なりに考えてみました。
大石寺流の「開眼供養」より、むしろ「勧請」したほうが大曼荼羅の意味も役割もより明確になるとは思うのですが。
「四条金吾釈迦仏供養事」などを読みますと、文面はいかにも聖人が仏像に「開眼供養」する事を勧めていらっしゃるようですが、どうも本当は、儀式に関わらず、仏事全般を法華経によれ、と仰っているように私には読み取れます。つまり、「勧請」の儀式では、法華経はどのような形で関わるのでしょうか。その一点が気になるところです。

「日々雑記」読ませていただきました。
このような言い方をするとなんか生意気ですが、犀角独歩さんが、三つの法門の“法門”に着目されたくだりでは、驚きました。ちょうどその時、私も兄とその事について話していたのです。
聖人が“法門”と名の付けたものであれば、“法華経を元に展開された思想”と観るべきある、と。だから、国立戒壇であろうとも大本門寺構想であろうとも、それが出来あがったからと言って決して「本門の戒壇」にはなりえないと話していました。
初期仏教概念では「形あるものは、必ず滅びる性質のものである」という教えがあります。これを言いかえると「必ず滅びる性質のものではない、それは形あるものではないからである」となります。
蓮祖聖人の三つの法門は、末法万年・尽未来際までと仰っているので、それはやはり形の無い、理念的なものとなるのではないでしょうか。
本来は、発心、入信というものは形式に依らず、自身に対する問いかけと決断によるべきと考えます。

404 名前: アネモネ 投稿日: 2002/07/09(火) 00:02
一字三礼さん

レスありがとうございます。やはり社内で個人情報の管理が問題になっていたのですか。
もう約20年ほど前(不正確ですが)に、朝日新聞で創価学会の布教の勢いが低迷してきていることを指摘したコラムがあったことを聞いたことがあります。
その内容は、かつての古き日本の鍵もかけずにざっくばらんな隣近所の行き来が頻繁にあった時代とは異なり、核家族が進んでさらに個人主義の時代へと移り変わった今日の日本の社会では、個別の強引な家庭訪問による布教活動の限界がみえてきたといった内容だったらしいです。破竹の勢いでその数を増やしてきた創価学会といえども、次なる布教方法を模索しなければならない段階に突入したといったようなことだったらしいですね。題して『匿名社会』だったとか。
個人がどこに住んで、どこに勤めていて、何の宗教を信じてどこの組織に所属し、どんな生活をしていて、どんな不幸を抱え、どんなふうに幸せなのかといったことは、全て個人のプライバシーであり、立ち入られたくない。たとえ所属する組織といえども、個人の情報を提供する以上はそうしたプライバシーを守ってもらいたいと思っているわけですね。
その流れは、もうすでに20年も前から指摘されていたことだというのに、いまだに法華講や顕正会などの教団では、かつての創価学会の古き手法で布教ができると思いこんでいるんですね。世の中を見ていない証拠だと思います。

>相手を騙して呼び出しておいて、“信じる事”の大事さを説くことができるのか、

私も同じことを感じてきました。たとえ悪事をなしても、それは「法の為」の振る舞いであるならば、仏様は喜んでおられる。そういう理屈なんでしょうね。それに近い法話を聞いたことがあります。だけどそれでは、突き詰めていけば、先日死刑判決を受けたオウムの新実被告の理屈と同じですね。
結局は、この世を生きていないのではないかと思います。この世で人を騙そうが、欺こうが、嵌めようが、辱めようが、自分(たち)が信じる虚構の中の仏界では、間違いなく仏に通じているのだと信じている。いや、信じ込まされているんでしょうね。

407 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/09(火) 00:23

一字三礼さん:

法門ということは、日々雑記に記した如く、また、一字三礼さんがお考えになる如く、と思います。

ところで、開眼と勧請、一字三礼さんらしからぬ、勘違いをなさっていますね。
たしかに開眼と勧請は同じような意味で使われることもありますが、しかし、そもそもまったく別のものでしょう。

いまは、もう夜も遅いので、この点は明日にでも、改めて記させていただきます。

408 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/09(火) 00:29


もう一度、一字三礼さん:

人を騙しているのにも拘わらず、信じることを勧めるということ。これは社会心理学では「代理状態」「服従」という二つの側面から説明されているんですよ。これも詳しくは明日でも記しますが、この心理効果には副作用があります。それは「責任感の喪失」ということです。これを証明したのが、S・ミルグラムの服従実験、世に言うアイヒマン実験というものです。これを報告した書籍が『服従の真理』」という不朽の名著です。

409 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/07/09(火) 05:43

72002 ゲットしました。

410 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/09(火) 09:58

○開眼と勧請

開眼は仏像などを造立したときの入魂の儀式を言うのでしょう。
文字通り、仏像に眼を書き入れることをもって、儀式とすることもあるようです。
いずれにしても、造立、あるいは抜魂から、再度入魂を行うときの儀式です。

かたや勧請は勤行などの度ごとに行うわけですから、そもそも根本的に意味を異にするでしょう。ただし、「本社から分社に勧請する」などという言い方はあるわけですが、これはまた開眼とは別と言うことになるでしょう。

ここで聖人が開眼・勧請を行っていたか?という疑問が当然、起こるわけです。
開眼に関しては真跡中に記述が見られますので、行われていたのでしょう。

では、勧請は、というと、『守護国家論』に一度、「梵天勧請」の使用を見るだけです。しかし、当時の仏教の常識として行ってお出でであったろうと私は拝察します。聖人からすれば、開眼無き仏像崇拝、勧請無き勤行を無効とされていたのではないでしょうか。

上述の梵天勧請という成句にも見られるように、勧請に諸尊は応えるわけですから、そもそも勧請のない勤行というのは何なのかことになります。…と、このように書くと「そんなのは形式じゃないか」という方もいらっしゃるかも知れませんが、その方には、反対に私は聞きます。「では、ただ単に朝晩、お経を唱える勤行は形式ではないのか」ということです。

私が勧請を喧しく言うのは、たとえば曼荼羅に向かって勤行をするのに、勧請を意識しないというのは法式から逸脱しているからです。曼荼羅への勤行は、所謂、曼荼羅供養という一面に過ぎないわけです。また、ここでは、法の説者が意識されていません。ただちに法だけを仰げば、法偏重です。図示された諸尊を一々に勧請して法を讃歎するということが聖人が曼荼羅を図示された意図であったと私は拝察します。むしろ、曼荼羅は諸尊を勧請するためにあると言っても過言とは思えません。

このような形式(ではないのですが)論をかたるとむずかしいことはわからないと言った声が聞こえそうですが、要するに釈尊・その他諸尊を、讃歎し、仏恩を意識するためにあるのが勧請であると私は理解しています。また、勤行は開眼され尊体とされた本尊に対する供養ですから、その本尊のないところで勤行をしても意味をなさない、まず、その本尊の御前に詣でるところから勤行と修行は始まっているということです。

いわば遙拝勤行?は、その第一歩の段階で懈怠があり、さらに勧請もない故に、供養ならず、自分自身のためと、本来、諸尊に捧げるべき供養を自分の為とする点で相違していると言うことです。しかし、このような勤行の姿勢はなにも遙拝勤行なるものに限らず、曼荼羅に向かっても、自分の為に勤行をしている人は多いのではないでしょうか。まったく、南無(帰命)になっていないわけです。勤行は諸尊に対し勤め行うものであるということでしょう。

なお、石山の開眼ということについて、一言しておきます。
石山の曼荼羅は在野の印刷所で印刷したものを、表具店で表装して仕上げてあるわけです。それを戒壇の曼荼羅の前に積み、石山住職がお経を唱える(このときに特別の観念やら何やらがあるかないかは知りませんが)ことによって開眼とするわけですね。さらに各人に頒布されたときは、石山住職との師弟血脈のある(とされる)僧侶が、これまた、曼荼羅を仏壇に安置し、読経唱題することによってはじめて開眼した曼荼羅となるということになっています。
しかし、創価学会に対しては半世紀の長きに亘って、各家庭への入仏を在家幹部が行うことに目をつぶってきた以上、上述の曼荼羅開眼の意義はいかばかりのものであるのかと、疑わざるを得ません。

また、数珠の開眼もいうわけですが、こちらも在野の業者が作った数珠を束にして、戒壇の本尊の前に積み、勤行の最中に石山住職が指に掛ける(このときに観念その他があるかどうかは知りません)ことによって開眼とする。修繕その他を行ったときは、寺院に数珠開眼供養を願うと勤行中に僧が手に掛けることによって開眼としていますね。

まあ、法具一々に開眼をすることについて、私は異論を挟む気はありませんが、私はこの石山義を開眼と言うのには、やや抵抗があるのは事実です。

開眼というのは、どこか、その起源に日本独自の浄不観がひそんでいるようで、「お清め」「祓い」という仏法にあらざる儀式を引きずったもののように感じます。(菊水護国さん、神道批判ではありませんよ)

411 名前: 一字三礼 投稿日: 2002/07/09(火) 14:46

犀角独歩さん

詳しい御指摘、御教示ありがとうございます。

「開眼」と「勧請」の相違と意義、理解いたしました。

たしかに私は「勧請」を捉えられずにいました。それは、犀角独歩さんもお示しの「梵天勧請」、また「勧請開山」などのように、“仏・菩薩に降臨を願い、永く世に住して人々の救済を請願する意”と考えました。つまり、一度「勧請」しておけばそれで良いもので、勤行の度に必要とは思いませんでした。その様なところから、「開眼」とごっちゃになったようです。

>「そんなの形式じゃないか」という方もいらっしゃるかも知れませんが・・

形式とは思いませんが、“いつでも・どこでも・どなたでも”という「勧請」の持つ特性から、ご都合主義的な解釈や、使われかたをしてしまう可能性は孕んでいると思います。
それらを防ぐ為、「勧請」にあたっては、仏・菩薩に対して“出来るかぎり純粋にして真剣な信心と請願”が要求されるようになるのではないでしょうか。そうなると今度、私の頭の中では「受戒」・「戒法」・「戒壇」等とイメージがカブってくるのですよ。
一つ一つの事柄を正確に理解するように心掛けます。

412 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/09(火) 21:01

一字三礼さん:

勧請のこと、実は私は実にフランクに考えているところ、シビアに考えているところがあります。

フランクに、とは要するに元来の念仏思想のような(浄土教のではなくて)、つまり、心に強く仏を思うことを儀式的にすれば勧請になるのであろうと思うわけです。シビアには、とは仮に本当に来臨を祈るとすれば、仏菩薩を実感するまで行うこと、感得するまでということですが、こうなると命がけであろうと。

> ご都合主義的な解釈や、使われかたをしてしまう可能性は孕んでいる

これは勧請に限らず、何事もすべて、一切合切、言えることでしょうね。

> 仏・菩薩に対して“出来るかぎり純粋にして真剣な信心と請願”が要求されるようになるのではないでしょうか。

請願とは実に的確な語彙の選択ですね。私も、もちろん、そう思います。
本来、勤行というのは、そういうものでしょうね。聖人の真跡を拝見すると「五体投知」がされていたことが窺えるのですが、この原意は、それこそ、千尋の谷から身を投げるような身命を捨てる有様と言うのでしょう。シビアで悲観的と申し上げるのはこのような点です。

> 「受戒」・「戒法」・「戒壇」

これまた、いい視点ですね。

受戒という儀式は聖人は、当然、お弟子になされていたと思います。この証が法名(法号)でしょう。日興などというお名乗りは受戒に基づくのしょうね。同じように父に妙日、母に妙蓮の法号を授けられたのが事実であれば、ここに受戒の儀があったのでしょう。しかし、現在は受戒したからと言って、法号すら授けない、けれど、出家の弟子には授けます。ここら辺に石山の欺瞞があると私は思います。

戒法という点は難しい。受戒・戒法・戒壇と並べると戒法ばかりは、実は真跡中には見いだせませんね。

先に戒壇とは法門であるという点で合意を得たわけですが、実に曼荼羅を懸け、勧請の場たる道場は戒壇に当たるのではないのか、と個人的には思っています。

413 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/11(木) 16:59

最近、関西、聖書(キリスト教)なんてことの話題が続いていますね。

まるでまったくツブヤキですが、いちりんさんのところを覗いたら以下のページが紹介されていました。生まれながらの仏教徒であり、かつ東京人である私にとっても、新鮮な刺激がありました。正直、おもしろい。


河内弁聖書
http://www4.justnet.ne.jp/~syuuya/linkp02.htm

414 名前: いちりん 投稿日: 2002/07/11(木) 22:41
たとえば、河内弁ダンマパダとか、青森弁法華経とかも、あったらいいですよね。
なるたけ、やさしく・わかりやすく・おもしろくありたいなあと。
日蓮遺文の口語訳も創価学会が進めているらしいですが。

415 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/07/11(木) 23:35

72505 ゲットしました。

416 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/12(金) 00:24

> たとえば、河内弁ダンマパダとか、青森弁法華経

このようなことを、よくプロデュースできるのは、やはり、いちりんさんをおいてはないと思いますよ。

しかし、私からすると、漢文白文の経典と訓読の開きより、訓読と河内弁の開きは、はるかに大きい(笑)

標準語なんて言葉は一種の差別語だと思いますが、べらんめいの私からすると西の言葉は漢文白文以上のインパクトがあります。

417 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/12(金) 11:34
河内弁聖書面白いですねェ。でも御書の河内弁訳はやってほしくないです。有りがたみ無くなってしまいますョ。関西弁にも色々ありまして、聞いてて耳に心地よいもの、八九三さんに脅かされている気になるものと大きく分けて二つあります。関西人がすべて河内弁で喋っていると誤解なきようお願いしますね。
ところで、「ダンマパダ」って何ですか。不勉強でごめんなさい。教えて下さい。

418 名前: いちりん 投稿日: 2002/07/12(金) 12:00
五月雨さん

「ダンマパダ」ってのは、お釈迦さまの説法の、もっとも古い経典のひとつです。
日本では「法句経」と訳されたりします。
人間・釈迦のことばが、よわく伝えられいるように思います。
とてもわかりやすいです。岩波文庫にあります。

たとえば、こんなことばがあります。

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついていくように。

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする。――弓師が矢の弦を直くするように。

419 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/12(金) 12:30
いちりんさん
早速のご教示を有難うございます。お釈迦さまの説法でしたか。ご紹介いただいた言葉も、なるほどと心に響くものがありました。どうも日蓮正宗の信徒は、大聖人様がいろいろなお経を引用されているのに、そのお経を知らない、読まないという点で見落している事が沢山あるように思います。(でも読めば「謗法」という言葉での非難が待っているのも事実ですが。)
私も、それを反省して「法華経」の訳本を読んでいます。いちりんさんの広い視野から見た仏教についての考え方はとても興味深く拝見させていただいております。又、いろいろと教えて下さい。よろしくお願いします。

420 名前: いちりん 投稿日: 2002/07/13(土) 00:32
五月雨さん

やはり本から学べるときに、学んでおくのがいいと思いますね。
学べるとき、というのは、「あ、おもしろそうだな」「あ、読んでみようかな」と、閃いたとき。

わたしはかつて、日蓮さんの御遺文に引用されていた『法華経』をすべてひもといて確認していったことがありました。
その前後関係、文脈を理解したいと思ったからですが。

そうしたとき、日蓮さんが、『法華経』を必ずしも正確に引用していない、「まあ、なんとも恣意的に、我田引水に引用しているなあと」いうことが、わかりました。

有名な「大集経」の「白法隠没」というところも、原典をちゃんと読むと、「なあんだ本意は、日蓮さんがいうことと、ちがうじゃないか」ということもわかります。

、日蓮主義一本であれば、御遺文だけでいいんでしょうが。
やはりせっかくだから、いろいろと仏教を学ぶのも楽しいことですし、自分なりに、なにかつかんだほうがいいんだと思います。

で、やはり日蓮さんが、『法華経』が第一というのですから、ひとつ『法華経』は読むとよいと思います。何度も何度も、です。
漢訳ののもの、そして梵文のもの。そうすると、いろいろと、わかってきますから、おもしろいです。

さらには、『法華経』を読みますと、この教えが第一だということが盛んに書かれていますが、それが第一かどうかは、ほかの経典を読んでみないとわかりませんよね。

で、少しずつでも原始仏典やら、維摩経みたいなものから、読み始めるのも楽しいことです。

といいましても、あれやこれやと手を出すと、密林の中に迷ってしまいますから、ひとつ『法華経』だけを、せっせと読んでいけば、すべてがそこにあるといえるのかもしれませんですね。

421 名前: いちりん 投稿日: 2002/07/13(土) 00:42
>人間・釈迦のことばが、よわく伝えられ

と書いているのは、入力ミスです。
「よわく」じゃゃなくて「よおく」です。えらい違いですね。わたし、ほとんど読み返さないで、一気に書いてそのまま投稿してしまうので、いつもすいません。

大乗仏教は、人間・釈迦という立場じゃないですね。
まあ、いわば、宇宙仏・釈迦みたいな。とても人間じゃありません。SFXのスーパースター。アニメのキャラみたいな描写です。

で、原始仏典は、あたりまえだけと、人間・釈迦です。
わたしたちとおんなじ人間です。その人間が、覚醒した、悟りを開いた、それがブッダ(目覚めたという意味)つまり仏になった。その立場から書かれています。

だから、光を眉間から発したり、空中に浮かび上がって説法したり、大地を振動したりはしません。
ただ読むと、あったりまえのフツーのことが書かれています。
なあんだ、つまんない、という方もいます。

けど、これが、自分の「心をおさめる」というところから、実践として読んでいくと、なかなかにすごいです。

お釈迦さまの最後の言葉は、
〈さあ、修行者たちよ。お前たちに告げよう。もろもろの事象は過ぎ去るものである。
 怠ることなく(不放逸にして)修行を完成しなさい。〉というものでした。

で、ああ、不放逸ね、しっすかりやればいいんだねと、とらえてしまうと、本質が外れるんですね。
この(不放逸にして)ということば、ひとつだけでも、すごい真理があるんだと思います。

不放逸に関して、詳しくは、またの機会に。

422 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/13(土) 20:17
いちりんさん
 分かり易い言葉での解説を有難うございます。

<まあ、いわば、宇宙仏・釈迦みたいな。とても人間じゃありません。SFXのスーパースター。アニメのキャラみたいな描写です。

私も法華経の訳本を読み始めて直ぐに感じた事があります。「ただのも・の・が・た・りなんだ」と。お経自体にものすごい力があると信じていたから、そう思ったときはちょっと頭の中がパニック状態になりました。虚脱感もありましたが、いちりんさんの解説を読んで何だか安心しました。人間釈尊を描いた仏典もあるのですね。今は、まだまだ法華経の取っ掛かりの最中ですので、いつかは原始仏典というのも読んでみたいと思います。
「不放逸」の解説も楽しみにしています。でも私ほど無知な人間はこの掲示版に居ないのではないですか。手がかかって申し訳ありません。

423 名前:投稿日: 2002/07/14(日) 02:30

ごあいさつ。
     ここのとこ、ちびっと、疲れておりまして、ちゃんと、レス読んでおりません。
     元気が出てきたら、また、掲示板に参加させてください。
     ちゃんとレス読んでないので、次に来るときは、カンチガイ、誤爆、いろいろあるかもしれません。
     その時は、お許しくださいますよう、皆様にお願い申し上げます。

     「富士門流信徒掲示板 チャート図」
      すっげー話でげす。管理者様、がんばってくださいでげす。

424 名前:投稿日: 2002/07/14(日) 02:44
    
    ……ちゃんとレス読んでないのに、許してくださいだなんて、ズーズしいよな……

425 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/07/15(月) 12:51

73013 ゲットしました

427 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/17(水) 11:48
昨日、登録しているMLからこんなメールが来ました。
「30万総登山に10回以上参加した人は表彰し、法号を与える」と。
一部のお寺だけなのか宗門全体での話なのかよく分かりませんが、買い物してポイントをためるポイントカードの賞品みたいに思いました。ところで“法号”とは、生きている間につける戒名という理解でいいですか?意味をご存知の方どなたか教えていただけませんでしょうか。

428 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/17(水) 21:00

> 「30万総登山に10回以上参加した人は表彰し、法号を与える」

本当ですか、これは。石山の発表として事実であれば、「異常」というしかありません。俄に信じがたいことです。

> 戒名…法号

この点については、このツブヤキすれっどの 191 に記してあります。

法号は聖人の時代に、弟子に与えた名前です。もちろん、生前に与えたものです。聖人の父に妙日、母に妙蓮と名を送ったと言われています。

今で言えば、石山僧侶が得度試験に受かったときにもらう名が法号に当たるのでしょう。さらに日号、阿闍梨号もあります。

429 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/17(水) 22:42
独歩さん
 教えて頂いて有難うございます。前に書かれていたのですね。失念していました。また私の思い違いもありました。

>今で言えば、石山僧侶が得度試験に受かったときにもらう名が法号に当たるのでしょう。さらに日号、阿闍梨号もあります。

という事は、30万登山10回達成記念の法号は、正式に弟子にしてやるぞみたいな意味なのでしょうか。
 私もこの話は俄かに信じられない思いです。でも報告された方は、宗門の現在に疑問は持ちつつも、熱心に信心されている方の様です。ここのサイトに投稿されているのでご覧下さい。なお、私の一応所属しているお寺ではこんな話は無いという事です。

http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageListForm/syousyu

430 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/17(水) 23:12

> 30万登山10回達成記念の法号は、正式に弟子にしてやるぞみたいな意味

というか、この話の実否の如何が問題ではないでしょうか。

投稿者は真面目な信徒ということですが「日顕宗」という言葉を使っていることから創価学会員なのではないでしょうか。

富士門流信徒の掲示板、ここの常連さんにも石山の現役さんはたくさんいらっしゃいます。真偽を投稿いただければと思います。

私はこんな馬鹿な話はないと思いますが。謀略、ガサネタではないでしょうか。

なお、MLは拝見しましたが、それぞれ、組織に吹き込まれたことを、恰も自分で考えたように記され、宗創代理戦争にのめり込んでいるだけ。それぞれの組織から与えられた情報から一歩も出ないお粗末な議論を、敬虔な熱意と陶酔している類と映りますが。まあ、こう書くと熱くなって敵意を露わにされるかも知れませんが。退屈な内容であると思いました。

431 名前: 富士桜 投稿日: 2002/07/18(木) 02:57
>「30万総登山に10回以上参加した人は表彰し、法号を与える」と。
一部のお寺だけなのか宗門全体での話なのかよく分かりませんが、買い物してポイントをためるポイントカードの賞品みたいに思いました。
.
自分は法華講です。このような内容のお話は独歩さんのおっしゃる通りです。全く悪質なガセネタです。
と、言うか。。。思いっきり笑ってしまいました。(笑)
自分自身4月28、29に行われた特別大法要、そして一般の大法要を参加させて頂きましたが、心に残る登山でした。

一般の大法要の折、以前に独歩さんがおっしゃっていた「三師塔」「五重塔」「十二角堂(垂迹堂?)」「御経蔵」などへ参詣に回ってみました。
ばけつに水をいっぱい入れて、おしきみ、お線香を持って回ると。。。結構大変でした。。いや、すごい大変でした。

432 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/18(木) 10:19
実は、ご本人に直接メールを差し上げまして、早速にご返事を頂き今読み終わったところです。本当だそうです。7月7日の御報恩御講の法話の中でのお話だったそうです。そこのお寺の現状ですが、昨日は唱題会か゜あったらしく、「住職が留守でいい唱題会だった」と講の皆さんが喜んでいたそうです。私の所属するお寺と同じ雰囲気を感じました。そんな風なお寺なので、そこの住職という“人間性”とウチのお寺の住職の“人間性”が重なり、「法号云々」の話を納得できる気分になりました。(実際は信じたくないというのが本音ですが・・) その他、信心に対する姿勢等々書かれている事は、切々とその思いが伝わってきました。嘘をおっしゃっている様には感じられません。また「法号云々」のお話について、疑問に思われている方は講中において一割に満たないだろうとの事です。何とも寂しい気持ちです。

433 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/18(木) 11:04

五月雨さん:

要するに石山・顕師の決定ではなくて、一末寺住職の勝手な打ち出しと言うことですか。
どこの寺院ですか。具体名を教えていただけませんか。掲示板に公開するのがはばかれるのでしたら、個人的にフリーメールでけっこうですから、ご通知いただけませんか。とても信じがたいところです。直接、その寺院にも問い合わせ、事実を確認いたします。

もし、これが住職個人の勝手な暴走であるとすれば、住職罷免、擯斥処分、僧籍剥奪にも至る大罪です。

事実確認がつき次第、石山重職にも連絡をしたいと思います。このような売僧は仏教の恥です。許してはいけません。

まあ、石山がそんな考えならばどうにもなりませんが、そこまで、骨の髄まで腐っているとは思えません。

いずれにしての、このような大馬鹿が日蓮の名の下にのうのうと指導教師と呼ばれ、御僧侶などと人に仰がれることは、富士門下の恥辱以外のなにものでもありません。それに煽動される信徒は聖人の神(たましい)をなずる与同罪恐るべしと思うばかりです。

434 名前: アネモネ 投稿日: 2002/07/18(木) 11:39
おかしさに気がついている方はたとえ一割でも、確かにいるんですね。だけど、そのことが公然と言えない。疑問に思うことが口に出来ない。口にしないけどどことなく疑問を感じている人は、もっといるかもしれません。お寺の方とお話ししていてもそれを感じます。
それが、心理操作につきものの、言論封鎖ですね。だから、なかなかカルト的要素が表沙汰されてこなかったのだと思います。
仮に表に出ることがあっても、これまでの情報はたいていが破門によって宗門への言論封鎖を解かれた創価学会からのものです。しかし創価学会自体がカルト教団にみなされているわけですから、宗門にとってはかえって好都合で、宗創問題に摩り替えながら本当の問題を隠蔽することが出来、宗門は正しく清い存在としてアピールできてきたのだと思います。
だけと、五月雨さんがこうやって法華講の人からの情報で掲示板に紹介されることで具体的なことが表に出てくることは、学会が流すこれまでの情報とは違う意味を持ってくるだろうなと思いました。小さなことでもこうしたことは大きいと思います。IT時代には、宗門が隠蔽してきた僧侶の横暴は少しずつ世間の知るところになっていくのかもしれません。私はとても大事なことだと思いました。

435 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/18(木) 11:53

富士桜さん:

> 「三師塔」「五重塔」「十二角堂(垂迹堂?)」「御経蔵」などへ参詣に回ってみました。
ばけつに水をいっぱい入れて、おしきみ、お線香を持って回ると。。。結構大変でした。。いや、すごい大変でした。

そうですか。そうなさってみたのですか。
実際にやってみると、本当に大変なことであると思います。

『忘持経事』に

「舎利(しゃり)を頚(くび)に懸(か)け、足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ」

― 亡母の遺骨を首に懸けて千葉より身延までの徒歩の距離は往復千里にも及ぶのでしょう

「高山に登れば頭(こうべ)天に[(打-丁)+卒](う)ち、幽谷(ゆうこく)に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し…」

― 身延の高山に登れば頭が天をとどくようで、深い谷を下れば、足に雲を踏むようでしょう。このような所ですから、鳥でもなければ渡ることは難しく、鹿でもなければ越えることも難しいのです…。

かつて聖人の許を訪れた門下のご苦労は並々ならぬものであったと思います。
結局、ご登山はそれを手本とするものなのでしょうね。
この前、とある方と話しましたら、山を8時間かけてお題目唱えながら登り仰ぐ、景観はこの上のないものであるということでした。

石山登山も、このような修行の形に戻ればよいと思うのです。
富士桜さんが感動された法要への感動は、それは個人の徳質として少し否定するものではありません。ただ、効率と収入のためにインスタントに感動を与えるのに、バスで、大挙、人を運び、儀式法式を用いて感動させて返す繰り返しだけでは底の浅い、かつての登山とは比ぶべくももないものなのでしょう。富士桜さんが山内を参詣して歩かれた感じた苦労のなかに実はあるべき姿のヒントがあるのでしょうね。

436 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/18(木) 13:53
皆様。事の重大さに気付かない愚かな私を笑ってください。かのメールを読んだ時“なんちゅうこっちゃ!!”と思いましたが、さもありなんという方が先に立ちました。次にポイントカードが頭に浮かぶ始末です。(主婦ですから)
でも、でも信じたくない気持ちで、個人的に確かめるべくご本人にメールを出しました。真面目に答えて下さり読み終わって、やっぱりなと思うだけです。そんな僧侶がいてもちっとも不思議にも思わない、怒りさえも感じない。“法の尊さ”という事をどれほど自分自身がおざなりにしていたのかと、独歩さんのお怒りのレスを読んで反省しています。
かのメールの差出人は、MLでご自身の住所・氏名を明記されているので教えても差しつかえないとは思いますが、書かれているアドレスは、独歩さんに個人的に送らせて頂きました。

437 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/18(木) 13:56
アネモネさん
 色々な本をご紹介していただきましたのに、お礼が遅くなりまして申し訳ありませ
ん。有難うございました。おいおい読ませてもらいます。今は、ここの過去ログを、
プリントアウトして皆様の白熱した議論を読んでいます。登場される方の博識ぶりに
はびっくりです。何だかアホ丸出しの私は場違いじゃないかと感じています。が、そ
んな私のお相手をして下さるアネモネさん初め皆様方に感謝しております。
IT時代になったからこそ、事実が明るみになる。本当にそうです。私もインター
ネットをして、ここのサイトにめぐり合い色々な事実を知りました。そして、沢山の
疑問を解決しました。すごい時代になったものです。宗門においては、いいお灸にな
ればいいですね。


>宗門にとってはかえって好都合で、宗創問題に摩り替えながら本当の問題を隠蔽す
ることが出来、宗門は正しく清い存在としてアピールできてきたのだと思います。


アネモネさんの洞察力の鋭さは、本当に凄いですね。その通りです。学会の誹謗中傷
と言ってきた事の殆どが事実だったと今は実感しています。

438 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/18(木) 23:11

> 学会の誹謗中傷と言ってきた事の殆どが事実だったと今は実感

以上のような書き方をされると、法華講員に偽装した創価学会員であると誤解を受けるのでは(笑)

いずれにしても、このような実感は否定すべくもありませんが、しかし、当の学会に対する誹謗も物量作戦で団体・指導者の絶対を鼓舞するも、やはりただ虚しく、さらに全体主義的色合いを見せ、敵対者を許さない独善性を巷間に晒しているのは事実でしょう。

その団体の当否を諮ることは、より補に質的な部分で議論するべきであると思います。

439 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/18(木) 23:12

【438の訂正】

誤)より補に質的な部分で
正)より本質的な部分で

440 名前: 富士桜 投稿日: 2002/07/19(金) 00:17
独歩さん

>そうですか。そうなさってみたのですか。
>実際にやってみると、本当に大変なことであると思います。

独歩さんが大石寺に登山されるたび、毎回毎回こういう参詣をされていたのか・・・と身を持って感じました。
大法要に参詣する為に礼服での登山で独歩さんのおっしゃっていた道順で歩きました。汗だくになりました。

今まで「何でそんなに現宗門の登山に独歩さんは叱咤されているんだろう。」と感じていた事が、はっきりわかりました。

今まで自分は行事の登山には宿坊が
「うわ〜。また富士地方部は常来坊だ〜。丑寅きっついな〜。」
「ラッキー!今回は塔中だ!客殿近いぞ〜!」

などと心の中で、いや、もしかしたら口に出していたと思います。そう言った自分自身が三師塔や五重塔など、気が向いた時、折伏をした人を案内する以外は近寄りもしなかった自分が
「いったい何が登山だ。何を考えて登山なんて言って来たんだ俺は。」
とお題目を唱えながら打ちのめされた気持ちでいっぱいでした。

最後に六壷の前でお題目を唱えた時、これからは誰と来ようがなんと言おうとも、登山に来た時にはこの道を歩こうと決めました。

>身延の高山に登れば頭が天をとどくようで、深い谷を下れば、足に雲を踏>むようでしょう。このような所ですから、鳥でもなければ渡ることは難し>く、鹿でもなければ越えることも難しいのです…。かつて聖人の許を訪れた門下のご苦労は並々ならぬものであったと思います。

自分など車で2時間やそこらで着ける場所。カーステをガンガンかけて咽が乾けばパーキングでコーヒーを買っておかしを買って、帰りには「まかいの牧場」で牛乳とソーセージを買って行く事を習慣にしていた信心なんぞ、このような当時の門下の方々から見れば、到底足下にも及ばない汗です。自分の大変さなど、とんでもない甘えです。

大講堂で特別展示会が行われているのですが、日目上人がおともの御僧侶と3人で吹雪の中に箕傘を押さえながら天奏に向かう絵がありました。こんな思いまでして。。。と涙が出てしまいました。金沢法難の時に日寛上人がしたためられた三つ折り御本尊には、今自分が何に邪魔されるでもなくお題目を唱えられる環境が、どれほど恵まれている事なのか、と見入っていました。

独歩さんの教えて頂いた事で多くを気がつかされました。
本当にありがとうございます。

>石山登山も、このような修行の形に戻ればよいと思うのです。

全くその通りであると思います。
また、このように参詣した後に参詣する大法要も戒壇の大御本尊様の内拝も格別でした。そういった意味で心に残る大法要でした。

441 名前: いちりん 投稿日: 2002/07/19(金) 09:41

大石寺でいいなあと思うのは、参道の左右に清流が流れていることですね。
浅くて速い水の流れ、いつも水の音がしているのは、気持ちがいいものです。
夕方になると、灯籠の灯がともされて人気(ひとけ)のない参道は、とくによいです。

442 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/19(金) 11:30
>>以上のような書き方をされると、法華講員に偽装した創価学会員であると誤解を受けるのでは(笑)

えっ!そうなの?ここの掲示板に“法華講員に偽装した創価学会員”がいたりするのですか?世間知らずですみません。これからは発言に気を付けます。

443 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/07/20(土) 14:29

74002 ゲットしました。

444 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/20(土) 18:09
ううん。ひとそれぞれなんですね

それはそれでいいのかもしれませんね

私などはここで独歩さんから学んだ日蓮本仏義のまちがい、板曼荼羅のまちがい等から

お山に行きたいなどはなくなってしまったけど

むしろさらにシャキャムニの教えの原形はなんだったのか、それを独歩さんから学びたいと

法華経もシャキャムニが説いていないことが事実だとすれば日蓮の教えとは一体なんだったのかなど

そっちを知りたいと

そんなふうに思います

お山への未練などはなくなってしまったのですね

445 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/07/23(火) 08:28

74524 ゲットしました。

446 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/07/25(木) 21:08

75009 ゲットしました。

447 名前: モモ 投稿日: 2002/07/27(土) 03:26
申し訳ないのですが、方言を差別するわけではないのですが、
マナーとして掲示板の上では標準語を使って頂けないでしょうか。
私には正直言って違和感を感じます。

448 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/27(土) 08:54
モモさん
 関西弁はお嫌いですか。うーん困ったなあ。オバチャン的には関東の方と関西人のものの取り様の少しの違いを関西弁で表したかったんだけど。例えば、関西では“アホ”というのは日常語です。たまに“バカ”と言われるとけんかになります。関東の方では逆らしいですね。でもご要望ならばなるべく書かないように気をつけます。

449 名前: アネモネ 投稿日: 2002/07/27(土) 10:31
モモさん

方言は、書いてる本人は、微妙な感情をこめやすいものなのですが、読んでいる方は耳慣れない言い回しに、返って誤解を招くかもしれませんね。
私もついつい、懐かしさもあって五月雨さんに方言を使わせてしまってたところがあると反省してます。
これからは気をつけますね。

450 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/27(土) 15:13

私はモモさんにケチをつけるわけではないけれど、別段、関西弁の書き込みかまわないと思いますよ。

東京人は標準語(なんとまあ、差別的ないやな表現でしょうか)で書けば、心の中の言葉と同じでもあるから思った通りを記せるわけですが、関西の人は、ストレートに心に浮かぶ言葉を置換する作業(まあ、そんな大げさではないのかな?)をして書くと、東京人より、よけいしんどい部分があるのではないでしょうか。

いいと思いますけれどね。
451 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/27(土) 17:55
いやぁご理解のある方もいてはるんやわ。関西弁のオモロサもたまに味おうてみるのもええんと違うんかな。

と少し京都弁のニュアンスをいれてみて、つぶやいてみました。やっぱ頭に直ぐ浮かぶのは関西弁だけど、それをそのまま書くと確かに変ですね。読み辛いですね。でも少々書く事をお許し下されば、助かります。前に書いたけれども、関東と関西の少しのニュアンスの違いを表したい時もあるのですよ。
たとえば、他のスレッドで書いた、「いちびり」関東風に言うなら「冷やかし」。ひやかしか!と怒られそうですが、いちびりはちょっとユーモラスでしょ。と思うのですが、いかがですか。

452 名前:投稿日: 2002/07/27(土) 18:25
私、関東ですから、あんまりコテコテの関西弁だと読みにくいですけど、
時々方言が入ると、読んでいて楽しいですよ。
鹿児島弁とか土佐弁とか青森弁とか、登場してくれないかな。

453 名前: アネモネ 投稿日: 2002/07/27(土) 18:40
五月雨さんのレスは、標準語で書いてても、私には関西弁に読めてしまいます。
ツッコミあり、オチありで、言葉のリズムが、すでに関西弁なんよね。

454 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/07/27(土) 19:45

75511 ゲットしました。

455 名前: モモ 投稿日: 2002/07/27(土) 23:25
五月雨さん、アネモネさん、独歩さん、あさん

レス拝見しました。私の方が器が小さかったようです。反省します。ただ私はい
ろいろな人が掲示板を閲覧するということでいわゆる最大公約数を考えるのがよ
いと思います。

今後ともよろしくお願いします。

456 名前: アネモネ 投稿日: 2002/07/28(日) 00:32
モモさん

もしもあの調子で、私と五月雨さんが関西弁でレスを続けてたら‥、それこそコテコの掲示板になっていたかもしれません。
注意してくれて良かったと思います。
思わず出てしまうビミョーな関西弁を味わってくださいね。
こちらこそよろしくお願いします。

459 名前: 宮本 投稿日: 2002/07/28(日) 15:25
 つぶやきスレッドってことは
愚痴の類もOKってことでしょうか。

 以前、友人の健康(友人は精神病なので)を祈っていたのですが
開口一番、お前、俺の事、祈っただろう!
祈っても無駄だと怒気を込めて叱責されたことがあります。
 要するに、一種の脅迫でした。

 どうも話しを聞いていると、祈ると、他のものが、その時間
暴れるようでした。
 
 イメージ的に言うと、ひょうひしているもの、キリスト教でいう悪魔。
神道でいう魔物の類のようです。

 本人曰く、三体ぐらいいると霊媒師にいわれたそうです。

 で、ある日、家の前、ちょうどこの部屋の前方、五メートルが
 神道系(金光教)の教会で、その正門になっていますが、
  幼少よりの知人で高校の先輩でもあるその教会長曰く
 それやるとたくさん集まってくるよなんて言われました。

  お前、毎日みているんで知っているやろ、
 信者が減ってさっぱりや、学会はどうやって人が
 集まるのか教えてよなんて言われました。

  信者の増減から、節の行事の状況、変なことせんでも、
 全てわかりますから、私に嘘はつけません。

  家の町内の形は、二百メートルの四角形で
 その中に神道の教会が一つ、真言宗の寺が一つあります。
  
  そんな中で、信心してるんで、大変です。
 どの教団でも嘘がつけません。結果は筒抜けで顔見知りです。
 自分ながらようこんな所で、学会やっている思います。

  破折とか、とんでもない話です。
 
  各宗、生き残るのでいっぱいです。
 高齢化で信者が自然に減り、不況だと入ってくる金が少ないので
 困っているなんて、真顔でくだんの教会長に言われたのは、参りました。

  こんなこと神道の信者に言えんがな・・・。(笑)
 
 なにもせんでも、消滅するな。なんて、この頃思っています。

460 名前: モモ 投稿日: 2002/07/28(日) 23:46
「標準語」って差別語なのですね。実感は薄いのですが、考えてみれば
そうだと思います。それではなんというべきなのでしょうか。日本国内
におけるいわゆる共通語、というほどの意味だったのですが。

10年ぐらい前では「ブラインドタッチ」という言葉も普通に
使ってたのいですが、今では差別語で「タッチタイピング」
といわなければいけないそうです。

461 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/07/29(月) 19:48

76033 ゲットしました。

462 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 20:26

> 「標準語」って差別語なのですね

標準というのは、たしかに変ですね。
私が学生時代に聞いた話ですが、いま標準語といわれることばは江戸城の大奥の一部で使われていた言葉であったということでした。「本当かな」といまでも思っています。

> 「ブラインドタッチ」…今では差別語

そうでしたね。何より和製英語であるとのことでした。しかし、私もこれが視覚障害の方に対する差別に抵触するとは夢にも思わず、ふつうに使っていました。言葉は難しいと思います。

そういえば、少し前、「肌色」という日本語に対して、アフリカ系の諸外国の方からクレームが付き、クレヨンなどを造る文具会社は別の表現を考えているという記事を読みました。日本人にとっての肌色は、世界水準としてふさわしくないというのです。

単一民族できた日本人には、困惑する問題であると思いました。価値観の違いを踏まえた原語の確率はことのほか難しい作業でしょう。

オウム真理教に関わる教育者が元信者に「マインド・コントロール」という言葉を使ったら、相手が不快感を露わにしたというのです。その元信者によれば「『マインド・コントロールされていた』と言われる、『お前はバカだ』と言われたような気になる」ということでした。

カルト理論などをある程度、学んだ人にとって、自分のマインド・コントロール度を客観化することができるのですが、そのような経過のない特定思想に強烈な影響を受けた個人にとって、マインド・コントロールすら差別語となり得るのかと、私自身も困惑しました。

このようなことは法華経の表記には多くあるのであって、「法華経にあるからいいではないか」というのは信者間だけで通用することで、今後、法華経を現代語に書き換える場合、差別語、なにより差別思想を如何様に扱っていくかは大きな問題になると思います。

私のいた寺院では捨て猫ボランティアをやっていた信者さんが、可愛がっていた猫が死に「せめても」と思い、塔婆を立てようと思い、寺院に電話をしたら、職員である住職の娘婿が「うちは畜生は扱っていません」とこう言った。その人が激怒して、法華講役員に悔しさを訴えると、役員はそれを寺院に伝えた。住職の耳にも入ったわけです。

すると住職は御講で、このことを話題にして「猫は畜生です。畜生を畜生と言って、なにが悪いんですか。法華経に十界でも畜生って言うんです。第一、猫なんて、人間と違って修行もできない。猫なんて、私はちっともかわいくありません。猫なんかにこだわるのはどうかしている」と言ったことを、その猫が死んで哀しんでいる自分の所の信者を物笑いにして、自分の婿をかばったことがありました。(前にも書いた話です)

こんな説法は石山の恥どころか、仏教を物笑いにさせるもので、話した人間の人格を疑わせる以外何ものでもありませんが、それとは別に、たしかに法華経には現代語としては不適切な言葉が重要な仏教語として含まれているわけです。これは今後、仏教が社会の中で受け入れられていくために改善しなければならない問題であることは間違いないと思います。

私の大事な友人である関西の浄土真宗僧侶は外道という語を「(仏教の)外なる道」「(仏教とは違う)外(ほか)の道」と読み替えていました。感心しました。
故石田次男氏も、外道という語を簡んで「現代諸学」と言い換えていました。
こうした基礎的な努力を積み重ねることが、実は大切なことであると思います。

463 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 20:30

462 また打ち間違えてしまいました

誤)価値観の違いを踏まえた原語の確率はことのほか難しい作業
正)価値観の違いを踏まえた言語の確立はことのほか難しい作業

464 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 23:34

今日はちょっと書きすぎました

465 名前: モモ 投稿日: 2002/07/30(火) 01:20
「享師」って59世の日亨上人のことでしょうか。
字が違うような気がするのですが…。

466 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/30(火) 06:32

モモさん:

> 「享師」って59世の日亨上人のことでしょうか。

ご指摘、有り難うございます。
私ですね、打ち間違えていたのは。

467 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/30(火) 09:20
昨日は、ウチの愛犬の三回忌でした。今はお寺に行ってないので塔婆供養はしませんでしたが、死んだ年のお盆に塔婆を立てました。塔婆台から少し離れた隅っこに立ててくれてました。動物用の塔婆に書く言葉もあります。「頓証菩提なり」という言葉が最後で、手を合わせる時は○○の頓証菩提なりと念じていました。畜生は自分でお題目を唱えられないのですぐに成仏できるようにという意味だったと思います。ウチの指導教師に教えてもらった事です。動物の塔婆は当たり前と思っていましたが、独歩さんのお寺では違うみたいですね。
ここのお寺ではアリで、そこのお寺ではナシだなんて、石山のご都合主義を現していますね。そういえば石山の僧侶はひとりひとり違った意見を持っているそうです。猊下の判断がなければ僧侶個人の考え方が通るみたいです。動物の塔婆も猊下の判断がないからするお寺、しないお寺があるのではないでしょうか。

468 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/30(火) 13:28

石山総体としては、動物の塔婆は受け付けていますね。

ただ、私がいた寺では「娘婿をかばって信者を笑いものにした」点が問題なのであろうと思います。

私もかつてペットを亡くしたことがあって、その時、いちばん困ったのは火葬でした。
いまとなっては、なにも気にならないことなのですが、いわゆるペット霊園と言われるものは、ほとんどが寺院の付属機関ですから、可愛がっていたペットを、自分は他宗の寺院神社に足を踏み入れないようにしてきたのに、火葬に当たっては、そういうところにお願いしなければならない、「かわいいペットをなんで他宗で火葬にしなければならないのだ」と本気で悩んだものでした。

こんなところでも、石山は穴だらけなんですね。

469 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/30(火) 13:33

あ、うちのネコは8月8日が命日でした。
五月雨さんのワンちゃんと共に冥福を祈ります。

470 名前: 五月雨 投稿日: 2002/07/30(火) 16:56
独歩さんのお寺の住職は、知っててそんな事を言ったのですか。知らなくて言ったと思っていました。ホンマにどいつもこいつも・・あっこれは私の独り言です。同じような奴は何処にでもいるもんなんやな、ウチの住職だけやあらへん、困ったモンがそろいすぎとるわ・・これも私の独り言です。気にしないでください。
ペットの火葬は、東京の方はペット霊園だけですか。こちらは市の火葬場の裏で焼いてます。勿論炉で焼いてるそうです。私は愛犬の葬式を出してやりたかったけど、言えませんでした。お数珠だけは、指導教師に相談して持たせてやりましたが。動物とはいえ同じ命です。石山にもきちんとしたマニュアルがあればいいんですが。各人に任せているのが現状でしょうね。
 独歩さんのネコちゃんのご冥福をお祈りします。

471 名前:投稿日: 2002/07/31(水) 05:41
富士門のことを考えると、いつも、ジョージ・オーウェルの『1984年』というSF小説を連想します。

主人公ウィンストンは、真理省という役所で、新聞の校正の仕事をしていました。
現在の状況に合わせて、過去の新聞記事を書き換えていく仕事です。

イングソック党メンバーに必要な「ダブル・シンク(二重思考)」の能力とは、
「不都合になった事実を喜んで忘れ、それがまた必要になれば、必要な間だけ忘却の彼方からそれを呼び起こす」能力です。

「ニュー・スピーク(新語法)」は、信徒が使う、外部の者には理解できない、難しい仏教用語かな。

聖教新聞はまさに「2分間憎悪」だし、

党のスローガン、「戦争は平和である」「自由は隷属である」「無知は力である」

「ビッグ・ブラザー(党の指導者)は、いつもあなたを見ている」

472 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/31(水) 18:02

あ さん:

『1984年』、カルト問題では、常に提示されるSFですね。
しかし、単なるSFとは思えない現実感をカルトに抵触する人々は感じるというのが、人々の共通認識になっていますね。

…というものの、細かいところを忘れてしまったので、早速、図書館で借りてきました。…が、1974年の訳本しかなくて、なんだか堅苦しい記述です。この本、もっと新しい訳本があるのでしょうね。うーん。

473 名前:投稿日: 2002/08/01(木) 02:40
犀角独歩さん、読んだこと、おありなんですか。うれしいなあ。
私は、カルト問題に関連して読んだわけではないのですが、この小説には、えらく思い入れがありまして。
『パートナーズ』というコメディ映画を見て、助演のジョン・ハートという男優さんが気に入ってしまいまして。
「あんた、こんなの好きなの?」とヒンシュク買いそうな、お下劣コメディなんですけど(でも、大好きなんだよな)。
それで、ビデオ・ガイドブックでこの男優さんの映画を探して、それが『1984年』だったのです。
レンタル・ビデオ店を探したけど、見つからなくて、せめてストーリーだけでも知りたいと思って、ハヤカワの文庫を買いました。
普通ならテレビしか見ない人間が、好きな男優さんのために、執念でこんな長くてインウツな小説を読み通してしまったのです。

その後、ビデオが見つかって、見ることができました。
映画の方も「あのオーウェルの年がやってきた」というので、1984年に作られています。
原作にほぼ忠実で好感が持てました。ジュリア役の女優さんはイメージぴったり。
オブライエン役はリチャード・バートン。
(ただ、あのラスト・シーンは絶対に違う!!!)

『パートナーズ』の方は、主演ライアン・オニール(『ある愛の詩』『ペーパー・ムーン』)

474 名前:投稿日: 2002/08/01(木) 02:52
始めの方は、暗くて退屈で、主人公にも魅力がなくて、ツライ。
中盤あたりで、「ひょっとして、これは?」と疑問が湧いてきて、
あとは結末が知りたくて、一気に読み通せてしまいました。

475 名前: モモ 投稿日: 2002/08/01(木) 04:32
自然科学における20世紀の原理的な発見が3つあります。

アインシュタインの相対性理論。
ハイゼンベルクの不確定性原理。
そして、ゲーデルの不完全性定理です。

ゲーデルの不完全性定理とは簡単に言うと、
「正しい論理体系の中にはその論理の中だけでは証明できない正しい命題が存在する」
ということです。

大石寺の教義の正統性の「科学的証明」について次のことが言えます。

すなわち
「日蓮大聖人の教義の中にはその教義の中だけでは証明できない正しい教義が存在する」
ということです。

そしてそのことは決して仏教の発展を妨げるものではないのです。
やはり誰がなんと言おうと大石寺の三宝義は正しいと思います。

476 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/01(木) 05:55

モモさん:

また、はじまっちゃいましたね(笑)

ゲーテルの不完全性定理は石山義だけに当て嵌まるのでしょうか。
他に当て嵌めると、

「やはり誰がなんと言おうと大石寺の三宝義は間違っていると思います」

になってしまいますね。もっとも、自然科学の発見を持ち出して論ずることではないと、私は思いますが。

477 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/01(木) 07:06

あ さん:

1984年、今読み直しています。
これ映画にもなっているんですか。観たいですね。
レンタルビデオでもあるものでしょうか。

478 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/01(木) 09:06

モモさん 横レス失礼致します。

>そしてそのことは決して仏教の発展を妨げるものではないのです。
  やはり誰がなんと言おうと大石寺の三宝義は正しいと思います。

そうですよね。大石寺の三宝義は正しいですよね。そう言いたいお気持ちはよく分かります。(笑)でも、私の場合はどうして正しいのか説明出来ません。こんな事をお頼みして申し訳ありませんが、ご説明をして頂けませんか。時の猊下がそう言っているからでは説明になりませんし、私も困っているのです。どうぞよろしくお願いします。

479 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/01(木) 10:05
いつも、わからないのは「正しい」っていうことなんですが。
いったい、それは、なんなんでしょうね。

まちがってない、ウソをついてない、あざむいてない、という意味で、正しい?
まっとうな人間(あるいはしあわせになる、苦しみを離れるとか、また成仏するとか)に育っていく教えであるから、正しい?

正しいのだが、正しいのだという人が、かなりたくさんいますよね。
「正しいワケだって?」「それは、正しいからだ」みたいな。

あるいは、正しいと言われてきたから、みんなが正しいと言っているから。
あるいは、正しいと信じてきたから、正しいと思っているから。
偉い人が正しいと言っているから。
いや、とにかく、正しいのだから。

しかし、ほんとうのところ、どうなんでしょうね。

480 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/01(木) 10:06
入力ミス

正しいのだが、正しいのだ→正しいのだから、正しいのだ

481 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/01(木) 11:28
ある人が、「猊下が正しいと言っている事が正しいのだ」と言ってました。じゃ、正しいと言っている人間が間違っていたらどうするのいうと、「信用出来ないのなら、信心していても仕方ない」と言われて少し口論になりました。終いには、それなら鰯の頭でも拝んでいればと言ってやりましたが、結局自分で本当に正しい事なのかを見極めるのが面倒だから、人の口車に乗っていた方が楽なのでしょう。そんな信心姿勢の人はとても多いと思います。

482 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/01(木) 11:38
人間っておもしろいなあと思うのは、どうでもいい些細なことは、とてもこだわるのですが、人生の大切なことは、他人の判断にゆだねてしまうとこがあるんですよね。

ゴミを捨てるのは、わたしじゃなくてあなたただとかいうのは、とてもこだわる。
でも、大切な人生の選択みたいなことは、自分の判断が信じられなくて、他人にゆだねてしまうとこけがあるんですよね。

そうして、真理だとか、神さまだとか、仏さまだとか、そういうものは、ひとたび信じ込んでしまうと、もうずーっとその路線になりやすいですね。

人っては、お釈迦さまにも会ったことないないし、日蓮さんにも会ったことないのに、それを本仏だとか、真理だとか、かんたんに信じ込んでしまうんですね。ひとたび信じ込んだら、もうそういうフレームの上に経験が蓄積されていくから、さらに強固に信ずるということにもなるわけで。

483 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/01(木) 18:22

私がいた寺院の青年部のホープ、連合会でも輸送その他で活躍する(今もしているのかは知りませんが)、その彼が「難しいことも何もわからないけれど、日蓮正宗が正しいことだけはわかる」と言っていたのを今でも覚えています。

ある面、この言葉は簡潔に石山系信徒の心理を端的に表しているように思います。
今日、モモ山の書き込みを拝見して、彼の言葉を思い出しました。モモさんも知っている彼ですよ。

そういえば彼は柳沢さんの受け売りをして「世間はみんな外道だ。内道にしなければいけない」と本気で豪語していました。今も変わっていないのでしょうね。こういう形で、連合会の若手や、輸送にかり出されている青年達が思想統制されていくことを私は怖いと思います。

484 名前:投稿日: 2002/08/01(木) 19:15
犀角独歩さん、『1984年』のこと。
私はレンタルで観ました。ただ、84年の作というと古いですから、そこらへんの小さなレンタル店には無いかもしれませんね。
足使って方々探しましたもの。

それにしても『1984年』がカルト問題に関連して読まれているとは、「へぇぇ…?」と思いました。
今まで、そんな読まれ方、してなかったでしょ? 超管理社会、独裁国家の恐怖、みたいな読まれ方ばかりしいて。
ちょっと調べてみたのですが、あるキリスト教系カルトから抜けたお母さんが、
「年端のいかない子供とこの問題を話し合うとき、オーウェルの『動物農場』を読ませるとよい」なんて書いていました。
なんか、納得できてしまう気がする。

ちなみに私、『1984』を読んだついでに、『動物農場』と『カタロニア賛歌』も読んじまいました。
今、読み返すのは、精神的にしんどくて、ちょっと……。

485 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/01(木) 20:36

あ さん:

ビデオはレンタルであるのですか。探してみます。
有り難うございます。

> 『1984年』がカルト問題に関連して読まれているとは

ええ、カルト問題に関わる方々で、この書を挙げる人は多いですよ。
私は、その記述を読んで慌てて読んだものです。

結局、環境コントロールをするカルトというのは「超管理社会、独裁国家の恐怖」に相通じるものがあるということではないでしょうか。

またカルト批判の基本理論というのは、ほとんどがナチズムの研究成果に基づく理論を応用しています。この辺でも共通しているのではないでしょうか。

486 名前:投稿日: 2002/08/01(木) 22:02
『1984年』のこと、しつこくてすみません。
映画のラストシーンが違うっていうのは、映画ではウィンストンはジュリアに対して「アイ・ラブ・ユー」を言ってるように見えた。
これは本当は、ビッグ・ブラザーに対する「アイ・ラブ・ユー」でなければならない。そうでなければ、本当の悲劇が伝わらない。
演出ミスなのか、意図的な改ザンなのか、わかりません。

487 名前: ワラシナ 投稿日: 2002/08/01(木) 22:57
「宗旨建立750年記念法要第35会、法華講30万登山参加7/31体験記」

0、一年ぶりの参詣ということで、やはりそれなりの感激はぬぐえませんでした。
1、行きは早朝5時のバスで中央道を、途中、谷村で休憩して、7時50分本山着。
2、妙泉坊で小一時間休憩後、法要開始10時までの間に、土産物屋で茶を買った。
店の人の話では地方の人でも一人で何回も登山してるそう。大体付き添い、新来者
案内のためだそうだ。

3、10時客殿で法要開始。行道散華の時の自我ゲ訓読は 半年も前から練習してい
たが春に止めてしまったため何度も間違えてしまった。散華が始まった時、誰もがお
そらくそうであったろうに、行道僧によって頭上に散らされる曼荼羅華を摸したアー
トフラワーを身に受けたく願っていたところ、右尻の下に一つ当たり、しばらくして
左ひじに一つ当たり、その後右肩に一つ、計三個当たった。
当たらなかった人がかわいそうだと思ったが、終了後いただいた記念品の中にこのア
ートフラワー(面子のようなカードだった)が三種類はいっていて全員が当たった
のと同じに配慮されてあったのだった。

4、論議式は退屈だったが、本宗教義の中枢が「宗祖本仏論」であることが改めて確
かめられたことだった。

5、法要が終わったら、記念品といっしょに受け取った慶祝弁当を坊でいただいた。
半ダース入りギフト石鹸箱サイズの折りの中に一升ますサイズの容器がたてに三列並
んでいて一つ目には野菜の煮物、二つ目には焼き魚、三つ目にはチラシすし、という
和風弁当であった。弁当メニュウは春以来二、三回変っている、という。おいしかっ
た。
6、昼食は早めに済ませて、大講堂での歴史展示会の見学をした。大聖人さまご所持
のだったという経典類の保存保管の為の竹製の篭の断片はほとんど赤茶けていた。
また日興上人ご所持だったというお数珠のデザインが今日風でいえばモダーンでオシ
ャレな感じのものだったのには驚いた。もっと無骨な感じを予想していたからだった。

残念だったのは、明治初期の二人の御歴代上人のお顔写真がなかったこと。

7、13,30に御内拝。終えて14,30にはもう下山だから坊に荷物を取りに
戻るわずかの間に、御影堂参拝して、中央参道、二天門を下って景観を眼に焼き付
かせた。坊についたらもうバスターミナルへ向かう慌ただしさは残念であった。
がしょうがない。このおかげで5時50分には東京に戻れたのだから。
だから、着山後朝のうちにすぐ土産物店に駆け込んだのは正解であった。帰りには
その時間が取れなかったからである。

8、今回の最大の収穫は大講堂の歴史展示会の閲覧であった。これだけでも参加した
甲斐があった。
9、昨日本山はくもりで蒸していたが猛暑というほどではなかった。

488 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/01(木) 23:21

ワラシナさんの30万登山体験記、興味深く拝見しました。

自我偈訓読は、私も在籍当時、勉強会でやったもので、懐かしいと思いました。
後になって日蓮宗寺院でも、この訓読を聞くことがありましたが、節回しなど殆ど同じでした。「同じなのだ」と驚いたことを思い出しました。

ワラシナさんの感想で意外に思ったのは「論議式は退屈だった」という一言。こういうことがお好きなお方であると勘違いしていました。

興師所持の数珠、私も過去に見たことがあります。カラフルで大きい。質素であったという興師のイメージとかけ離れていて、驚いた記憶が蘇りました。

なお、嘘かほんとか知りませんが、展示品は、盗難・破損を恐れて、レプリカであるといいます。これは創価学会の展示がそうだと聞いていて、たぶん、制作するところは同じだろうと、聞いた当時は思いました。今回の展示を見たわけではないので、いい加減なことは言ってはいけないと思いますが、たしか私が以前見た興師所持数珠はレプリカであると聞かされました。

いつもながら、淡々としたワラシナさんの文章は乾いていて清潔感が漂う品格があると思いました。

489 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/08/04(日) 18:13

77504 ゲットしました。

490 名前: モモ 投稿日: 2002/08/05(月) 03:39
独歩さん、五月雨さん、レス拝見しました。

>ゲーテルの不完全性定理は石山義だけに当て嵌まるのでしょうか。
>他に当て嵌めると、
>「やはり誰がなんと言おうと大石寺の三宝義は間違っていると思います」
>になってしまいますね。
>もっとも、自然科学の発見を持ち出して論ずることではないと、私は思いますが。

>そうですよね。大石寺の三宝義は正しいですよね。そう言いたいお気持ち
>はよく分かります。(笑)でも、私の場合はどうして正しいのか説明出来ま
>せん。こんな事をお頼みして申し訳ありませんが、ご説明をして頂けませ
>んか。時の猊下がそう言っているからでは説明になりませんし、私も困っ
>ているのです。どうぞよろしくお願いします。

ゲーデルは算術を公理化しようとすると、それが真実であることが我々には“わかる”
にもかかわらず、事実である事を形式的には決して証明できない事があることを証明しました。
いわゆる不完全性定理です。

第1不完全性定理は「いかなる論理体系において、その論理体系によって作られる論理式のなか
には、証明する事も反証することもできないものが存在する。」というものです。

第2不完全性定理は「いかなる論理体系でも無矛盾であるとき、その無矛盾性をその体系の公理
系だけでは証明できない」というものです。

ゲーテルは,これによって,あるシステムSが正常であるとき,その内部に,真であるにもかかわら
ずそのシステムSでは証明不可能な命題Gが存在するということを証明してみせたのです。

「正しい論理体系の中にはその論理の中だけでは証明できない正しい命題が存在する」

ということです。

「科学的(合理的)に証明できないが正しい命題がある」ということを不完全性定理は示している
のです。だから、数学、論理学においては矛盾があるか、不完全であるかなので正しいと信じるし
かなく、その意味では絶対的な確実性は達成できないのです。

また、不完全性定理は数学、論理学の定理なのです。

命題とは真偽判定ができる事柄です。
当然「大石寺の三宝義は正しい」という文は真偽判定のできる命題です。
ゆえに論理学の立場から考えることは有効だと思われます。

不完全性定理から言えることは「大石寺の三宝義が間違っていることを真筆だけでは証明出来ない」
ということです。

それでは「大石寺の三宝義が間違っているという証明」はできるのでしょうか。
本当に「唯受一人の血脈相承はない」ということは証明できるのでしょうか。
私はできないと思います。

似たような命題に「仏(神)が存在しないことを証明することはできない」ということがあります。

世の中に絶対といえるものがあるならそれは論理的に証明できるものではない
ということを不完全性定理は示しているのです。あるいは普通の人智を超えて
いるというべきでしょう。やはり絶対たるものを仮定するなり信じるなりして
話を進めていくべきだと思います。

「大石寺の三宝義を科学的(論理的)に証明」とは本当に科学を理解していない、
ということなのでしょう。

そして「不合理ゆえに我信じる」という言葉は単なる訳のわからない言葉ではなく

「不合理だからこそ信じることによりその矛盾を昇華させるべきである」

という意味だと思うのです。信じてこそ大石寺の三宝義が証明できるということです。

また、私の大石寺の三宝義を正しいと信ずる所以は以前にも述べましたが
御戒壇様の存在と御内拝の実感です。御内拝の実感について三宝義ではない、
もっと違う説明ができるのであればぜひともお伺いしたいと思っています。

この点については私は納得できる説明をいまだに伺っておりません。
単なる錯覚ではないはずです。初めて御開扉頂いた人が
「感激で涙が止まらなかった」という話を聞いたことがあります。
五月雨さんにも御内拝を頂いて感激されたことがきっとあると思います。

あと法華講連合会については、私は連合会の活動にも携わっているので今のところ
公の掲示板での発言は控えさせていただきたいと思います。よろしくお願い致します。

491 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/05(月) 08:59
モモさん

高尚なお返事を有り難うございます。私には高尚過ぎてよく分かりません。

>不完全性定理から言えることは「大石寺の三宝義が間違っていることを真筆だけでは証明出来ない」ということです。

本当に証明出来ないのでしょうか。証明できない事を信じるのはただの「鰯の頭も・・・」信心に繋がりませんか。私も大聖人様の本当のお教えは何なのだろうと、この掲示板で皆様にご親切丁寧にお教えを頂きながら、アホな頭なので悪戦苦闘しながら探しています。“鵜呑み”という言葉をご存知でしょう。大石寺から言われた事を鵜呑みせず、原点に戻られて思考されたら、ゲーデルの不完全性定理なぞ持ち出さなくてもいいんじゃないのかなとおもうのですが。頭の賢いモモさんなのですぐお分かりになると思います。だって大聖人様の仏法を難しい定理にはめ込んで論じられたくらいですもの。

>五月雨さんにも御内拝を頂いて感激されたことがきっとあると思います。

私も確かにありますが、感激する時もあれば、何ら無い時もあるその時の精神状態によるのは、なぜかなと思ったりしています。

>あと法華講連合会については、私は連合会の活動にも携わっているので今のところ公の掲示板での発言は控えさせていただきたいと思います

この部分のレスの意味を取りかねています。私が何かをお聞きしましたでしょうか。

492 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/05(月) 09:39

真実かもしれないし、
真実でないかもしれないですよね。
それは、つまるところ、わたしたちには、わからないことかもしれません。

でも、いずれにしても、「こうだ」と決めつけてしまって、そこから動かないという人生よりも、
「ほんとうのところはどうだろうか?」と探求し続け、問い続けるのが、
信仰もまた人生も、おもしろく躍動的になっていくのかもしれませんね。

493 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/05(月) 11:15

モモさんが言っていることは単なる言葉の遊戯でしょう。

聖人の教えを理解する方法は、ただ一つです。
聖人が考えていたことを理解することです。
聖人は不完全性定理も考えていなければ、神学的形而上学も考えておいでではなかった。そんなものを持ち出せば、さらに聖人の考えから遠のくだけでしょう。

「科学的(合理的)に証明できないが正しい命題がある」ことが、人の心を扱う仏教に当て嵌めるべきではありません。

「この飯をうまい」ことを不完全性定理をもって論じるなど、無意味であるようにです。それともすべては不完全性定理に拠らなければならないのでしょうか。

そもそも「正しい論理体系の中にはその論理の中だけでは証明できない正しい命題が存在する」のであれば、下種三宝という論理のなかだけでは証明できない命題が存在するのでしょう。しかも、これは正しい論理体系という前提に基づくことでしょう。間違っていることが証明できない話ではないはずです。

不完全性定理やら、「不合理なるが故に我信じる」と言ったキリスト教神学の常套句を持ってきて、石山義の「間違っていることは証明できない」などということは、かえって石山義の冒涜に過ぎません。

> 不完全性定理から言えることは「大石寺の三宝義が間違っていることを真筆だけでは証明出来ない」

それはそうでしょう。下種三宝義は寛師によって大成されるのです。少なくともそれまで400年間の資料が必要でしょう。しかも、これは不完全性定理とは関係ありません。

少なくとも、私はモモさん以上に内拝は受けてきました。その結果として、下種三宝に異議を唱えています。

> 「不合理ゆえに我信じる」

とはキリスト教神学における神の実在の証明でしょう。下種三宝義とはまったく関係ありません。

モモさんの書き込みを読んで、30年も前に熱心なキリスト教徒が、「天地創造が嘘であるとは証明できない」「処女懐胎が嘘であるとは証明できない」「キリストの復活が嘘であるとは証明できない」と私にくってかかったのを思い出しました。それでも、最後に言葉に窮したとき、彼の口をついて出た言葉が、この「不合理ゆえに、我信ず Credo quia absurdum」でした。モモさんがテルトゥリアヌスの信奉者であるとは知りませんでした。もっともテルトゥリアヌスは下種三宝義など知るよしも、庇護するよしもなかったのに違いありませんが。

概ね、信を強調したいのであれば、以信得入、以信代慧を挙げなければ、法華仏教とはならないでしょう。

> 御内拝の実感…三宝義

内拝の個人的な実感と三宝義が何の関係があるのでしょうか。

> この点については私は納得できる説明をいまだに伺っておりません。

当然でしょう。こんなことに納得できる説明があるはずはありません。
そもそも内拝の個人的実感が下種三宝であるという石山義すらないのですから。

> 単なる錯覚ではないはずです。

今回のモモさんの書き込みを拝見し、内拝の感激が単なる錯覚であった実感を私は深めました。これが間違っているとは不完全性定理から言っても証明できないでしょう。

それにしても、先の書き込みからしばらく時間が経っています。
こんなことを考えて時間を無駄にしていたのですか。「間違っているとは証明できない」という「思考輪廻の地獄」にはまってしまっているのではないのかと心配いたします。

> 法華講連合会…公の掲示板での発言は控えさせていただきたい

この点は了解しました。しかし、むしろ、自分が関わっていることであるからこそ、責任から書くべきことはたくさんあると、私は思っています。

494 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/05(月) 11:20
モモさん

モモさんのレスを読ませていただきました。少しレスさせて下さいね。

>不完全性定理から言えることは「大石寺の三宝義が間違っていることを真筆だけでは証明出来ない」ということです。

真筆だけではなくて、富士宗学要集など、その他の文献や当時の歴史的背景、地理的条件などを総合して、「間違っているのではないだろうか?」というところに来ているのだと思います。その点は如何でしょうか。例えば、板御本尊は、聖人が真言の曼荼羅をしたためる作法に則っていることから考えても、板に彫り付ける御本尊は考えられないというひとつの結論(過程かもしれません)が出ているわけですね。この点はどうなのでしょう。やはり何か特別な理由で板御本尊を立てられたに違いないと思われるのでしょうか。

>それでは「大石寺の三宝義が間違っているという証明」はできるのでしょうか。
本当に「唯受一人の血脈相承はない」ということは証明できるのでしょうか。
私はできないと思います。

私などはこれまでの議論の展開で十分に証明されているなぁという印象は受けましたが、かといってそれが絶対の結論だとするものでもないですね。モモさんが内心でそれを信じていくことについては、モモさんがそれで苦しんでいるわけでもないのであれば、誰も何も異論はないと思うのです。
だけど、ここからが問題なのですが、この仏法は折伏の法門ということで、広めていくわけですね。つまり「大石寺の三宝義」は絶対だとして信じ込ませようとする。信じない人は、地獄に落ちると脅してまで信じ込ませる。私はそこが問題だと思うんです。「大石寺の三宝義が絶対に正しい」ということは、とりあえず現時点で証明できないわけですね。証明できないものを信じ込ませようとするときに、証明できないから、脅しが必要になってくるわけですね。
同じことを「ものみの会」のエホバの証人もしているのです。昨今の世相をあげつらって、最後の審判が来ると終末思想を煽って、入信させようとします。同じことを言うんです。「聖書にはこの世の全てのことが書かれている」「人間は不完全な存在だから、正しいことが出来ない。だから聖書の言葉に素直に従って神にかなった清い生き方をしなければならない」「そうしなければ、最後の審判で神から選ばれず地獄に落ちる」というところへ持っていくんです。このおかしさはモモさんにもわかると思うんです。だけど、実は、「大石寺の三宝義の絶対」を広めていくというのは、このエホバのカルト性と同じものなんですね。

ここでも多く議論されてきたことですが、「絶対」とか「唯一正しい」という極論の危険性というものを考えていかなければならないのだと思います。それが宗教の恐ろしいところであるという見地に立って、そして何が大切なことなんだろうかということを、探っていくのがいいのではないでしょうか。

495 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/05(月) 11:21
(つづき)

>似たような命題に「仏(神)が存在しないことを証明することはできない」ということがあります。

存在することも証明できないですね。

>やはり絶対たるものを仮定するなり信じるなりして話を進めていくべきだと思います。

モモさんが書かれているように、あくまで仮定なんですね。つまりどこまでいっても不確定なことなわけです。観念の世界と言ってもいいかもしれません。その不確実な仮定や観念のために、脅しを受け、組織の奴隷となって、金銭と労働と時間を際限なく費やすことが信心だと吹き込まれている構造、それが問題だとは思いませんか?
それに喜びを感じているならばそれはそれでいいんです。だけどだからといって、人にはそれを強要してはならないと思いますね。ところがそれを強要するように信徒に指導しているのが、今の大石寺だと思います。

根本は、この仮定に過ぎないものを絶対として教え込んでいるところだと思います。

>そして「不合理ゆえに我信じる」という言葉は単なる訳のわからない言葉ではなく
「不合理だからこそ信じることによりその矛盾を昇華させるべきである」

この論理を用いるならば、ほとんどどの宗教も絶対に正しいということになってしまうと思いますが。さきほどのエホバの不合理も、信じることでその矛盾を昇華させられることが出来るわけですね。そうなってくると、絶対唯一正しいというものがいくつも出てくるわけですね。
モモさんの理論一点だけでは、大石寺の絶対性を証明するのはきついと思います。むしろ他の宗教だって適用されてくるわけですから、かえって危険かもしれません。

>信じてこそ大石寺の三宝義が証明できるということです。

残念ながら証明にはならないと思うんです。
個人の内心の自由ですね。信じるも自由、信じないのも自由です。
モモさんのレスは、とても難しい数学の理論を用いられてとてもすごいなぁと思うのですが、よーく読ませて頂くと、肝心なところになると飛躍があると思うんです。そしてその飛躍こそ、宗教に内在する危険性だと思うんですね。自分の信じたい仮定に都合よく飛躍させ、信じたくない仮定には飛躍させないわけです。飛躍を適用に置き換えてもいいと思います。そうなると結局は、モモさんの願望に過ぎないということになってしまいます。失礼な言い方かもしれません。気に障ったら、本当にごめんなさい。

自分が信じるにしても、またそのことを人に伝えるにしても、そういう危険性も孕んでいるということも考えてみられてはどうでしょうか。

496 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/05(月) 11:23
(つづき)

>また、私の大石寺の三宝義を正しいと信ずる所以は以前にも述べましたが
御戒壇様の存在と御内拝の実感です。

これは簡単に説明がつくと思います。ひとことで言って演出効果ではないかと。
広い本堂に多くの同心の者が集まり、一斉に題目を唱え始めると、墨染めの衣の御僧侶方が厳粛な面持ちでお出ましになるわけです。この時点で、とても有り難いですね。そして、いよいよ日蓮聖人の内証をお持ちといわれる猊下がお出ましになられ、そして700年の時空を越えて、扉がひとつひとつ開かれ、大御本尊とまみえるひとときを迎えて感動は頂点を迎えます。聖人が認められた御本尊と思い込んでいるわけですから、どれほど有り難いことでしょう。また、読経の最中には、私などは自分の心の中で、聖人の生涯を思い浮かべて涙が出てきたりもします。自分の中からの演出も出てくるのです。

しかし、そういう感動は日常でもあるんですね。顰蹙を覚悟で書きますが、横浜スタジアムや武道館でお目当てのアーチストのライブに行った感動にも似ています。そんなものと一緒にしたら、メチャメチャ叱責されるでしょうが。ライブにいく人にとっては、そのアーチストは神様みたいなものです。大勢のファンと一体になって、ほとばしる声援の中そのアーチスト現れるや、感涙と歓喜。

最近の宗教は、そういうライブ的な演出効果を狙ったもの多いですね。簡単に感動が得られるからだと思います。

私は昨年、北条時宗展に行ったとき、真筆の聖人の書や御本尊が展示されているのを見てきました。御内拝のときとは違う、もっと私には心に迫るものがありましたね。いわゆる感動を煽る演出はなにもなく、興味のない人は一瞥して通り過ぎていく中、私はいつまでもいつまでもそこから離れられず、ガラス越しに聖人のお筆のひとつひとつを目に刻んでおりました。今の私は、こちらで得た感動をこれからは求めていきたいなと思ってます。しかし、これも人に強要するものではありません。

私は自分が非常に思い込みの強い性格だと自覚し注意しているのですが、御内拝の感動とは、大石寺全体の佇まいも含めた本堂での演出と、そして自分の内なる思い込みからの相乗効果による感動と感涙だったなと、私なんかは分析してるんですよ。

497 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/05(月) 11:43
モモさん

>あと法華講連合会については、私は連合会の活動にも携わっているので今のところ公の掲示板での発言は控えさせていただきたいと思います

483の独歩さんのレスを読み飛ばしておりました。事情はよく分かりました。すみませんでした。

アネモネさん

アネモネさんの分析力は素晴らしいですね。ご開扉の実感には、確かにあの演出効果は充分作用していると思います。だから、疲れている時は効かなくて?眠気と闘ったりしてしまいます。来月に登山しますのでそこのところもよく観察してきます。

498 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/05(月) 12:49

もう一度モモさんへ

モモさんは、自分が言い出した「大石寺の下種三宝義が間違っていることは証明できない」ということから、それを「信」の問題ととらえ、考えようとしているのでしょう。

私がモモさんの一連の書き込みを拝見して、一番気になるのは、こんな教義面のことでは実はありません。教え込まれた考えにかくも執着し、訂正することを拒み続ける強迫観念とも見える思考形態です。私が神経障害で倒れる前の心理的要因と酷似しているからです。これは揶揄でも何でもなく、顔見知りであるからこそなおさら、心配しています。

ここつぶやきスレッドで、モモさんの発言を追ってみると最初は輸送班をやめようかと思っている、次に30万登山に行った、すばらしかった、下種三宝義は正しいと心理的な順番が見て取れます。また、他ではUFO、フリーメーソン、ファティマの予言などということも記されていましたね。集団没入、感動、超常現象、終末思想、そして絶対的信、実はどれをとっても、破壊的カルト・マインド・コントロールにとって、欠かせない要素ばかりです。

そして、自分の信仰する下種三宝をどうしても信じ込みたい故に訂正できないという心理によって結ばれています。

私はいつも自分が一つの考えに執着しそうになるとき、念頭に置くのは「妄想」の定義です。Karl Jaspers の定義ですが、妄想とは「間違った考え」「強い確信」「訂正不能」の三つということです。

モモさんが言う下種三宝義への信は不完全性定理がどうというより、この妄想の定義に関連すると危惧しているわけです。

フリーメーソンや、ファティマの予言についてはジョークの分類であったのかも知れません。それならばよいのですが、引用されるところと終末思想―末法思想―石山教学を関連づけていくこと(社会心理学でいう“連合”あるいは帰属エラー)は、信仰上の問題と言うより、心理学上の問題である点を、冗談ではなく、一度、真面目に考えて御覧になりませんか。

私は以前も引用しましたが、青年期の切迫した信仰観というのは、宗教的信念と言うより、高橋紳吾師が指摘するように“世界没落体験”と深い因果関係にあると考えています。
青年期に初発する精神分裂病に「世界没落体験」という症状がある。急性期に現れる妄想で「世界が今や崩壊に向かっている。いやすでに崩壊した。森羅万象のことごとくが生命を失った。最後の審判が開始された。世界革命が勃発した」などの、周囲の世界の劇的変化が絶対的な妄想確信をもって迫ってくる特有の妄想である。この妄想の際には不安と同時に昂揚感や宗教的啓示が現れ、世界の崩壊と同時に新しい未知の世界の誕生が予告され、しばしば世界の中心にある自分が至上者と一体化するという宗教的恍惚感が生じ、ときに救済妄想にいたる。精神病の初期には、自己の内部が崩壊していくカタストローフの感覚があり、しばしば患者は「自分が誰かわからない、狂ってしまいそうだ」と表現するが、この内的カタストローフが外界に全面投影されて生れるのが、世界没落体験である。一般に思春期は、自己のアイデンティティを形成していくうえで、危機的状況にある。「自分とは何者か」、「何処からきて何処へ向かうのは」、「何をすればよいのか」と真剣に悩む。世界没落体験は分裂病特有の症状というより、思春期を含めて、人が精神的危機状態にあるときに親和性を示す普遍的な心理的メカニズムなのである。(『超能力と霊能者』P218)

この指摘にご自身が当たらないかどうか、少し考えてみてください。
また、連合会との関わりの中で徐々に確信が深まっていくように見えるモモさんの変遷を、

精神科医は物理的に子供をカルトから分離させなければ洗脳を解くことは難しいということを知っている。我々は二人組精神病、感応精神病と呼ばれる、妄想症の患者の妄想が第三者に「うつった」病態の治療経験を積んでいるからである。(「二人組精神病と洗脳」『イマーゴ』1993年9月号・高橋紳吾師)

という指摘からも考えてみませんか。

私は以前にも記したと思いますが、いまのモモさんは心理的にある面、非常に危険な前駆症状を示しているように思えます。もちろん、これは狂気、精神障害だなどということを申し上げているのではないのです。神経障害を起こすような心的要因でご自身を圧迫している状況があると心配しているということです。

これはしかし、強盛な信心ではなおらないどころか、かえって問題を深刻化することを、どうか心のどこかに留めておいてください。

499 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/05(月) 17:47

モモさん、もう少しだけ補足です:

> 不完全性定理は数学、論理学の定理なのです。
命題とは真偽判定ができる事柄です。
当然「大石寺の三宝義は正しい」という文は真偽判定のできる命題

この点ですが、モモさん、ここで不完全性定理を持ち出すのは、論理的な命取りになっていることに気づけませんか。

不完全性定理は下種三宝の証明論ではないでしょう。言っている意味はわかりますか。その他にも当て嵌まってしまうのです。

下種三宝に対する脱益三宝(まあ、こんな言葉は抑もないですが)も「間違っているとは証明できない」し、聖人が批判した各宗派も「間違っているとは証明できない」というように、一切の論理に当て嵌まってしまいませんか。そうなると、モモさんがこの定理を持ち出したこと自体、何ら意味をなさないことになります。

この点に関する“脇”が論理的にまったく固まっていませんよ。
大丈夫ですか。ともかく、冷静になって、考えてみてください。

500 名前: モモ 投稿日: 2002/08/06(火) 02:23
五月雨さん、いちりんさん、独歩さん、アネモネさん、レスありがとうございました。

一日でこんなに沢山のレスを頂いたということで非常に驚いております。
ゆっくり拝見してからまた投稿したいと思っております。
よろしくお願いいたします。

501 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/08/06(火) 07:02

77777 ゲットしました。

502 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/06(火) 10:17
いろいろと宗教的な体感を重ねていくってのも、いいんですね。フツーの人には、ちと危ないですけど。

わたしの場合には、念仏称えたり、泊まり込みの座禅会(朝の4時〜夜の10時を三日間)、密教の経不動真言を唱えたり、日蓮宗のお寺で唱題したり、インドでヒンドゥーの祈りの場で唱えたり、古神道の行法とか、まあいろいろやってみました。

それで、素直にその行法そのものに入って、身体感覚としてとかんでいくのです。すると、どれもすばらしいのですね。感動がありますね。

で、世の中にはいろんな宗教やら実践やらがあって、それぞれが、なかなかにすばらしいのだ、ということがわかります。なにも、お題目だけが、どこそこの本尊だけがすばらしい、それしかない、、などということはない。それが、わたしの実感、体感ですね。やはり、これは体験してこないことにはねわからないのですね。

そして、もひとつ。
感動ということですが、感激して涙がどおっと流れて魂が震えるというような感動がすばらしいと思われがちですが、そうでもない。

その心理って、ものすごくじつは「依存」があったりします。つまり、「理想の投影」なんですね。

自分が、いろいろ抑圧されていたり、つらいことがあったり、嫌なことがあったりして、みんなそうですが、そうすると、「理想的ななにものかに出会いたい」「真実のしっかりしたものに出会いたい」そんな気持が出てきます。

それで、それさっぽいものに出会うと、「おおーー、これこそわたしの求めていたものだ」として、没入していく。そおして、理想化がさらに高まって高まって、すごく感動することもありますね。

で、そういう感動は、自己の理想を投影したものに感動しているだけ。そうして、依存しているだけ、ということもあるんですよね。

感動って、かなりアブないともいえますよね。創価学会でよくいう大歓喜みたいなのは。。ある意味では、わりとホンモノの感動って、とても静かなんじゃないかなあと思ったりします。穏やかで、静かで、ふつふつと喜びが湧いてくるみたいな。。

でまあ、そのあたりを、やっぱり自分の体験で、自分の身体感覚で、ひとつひとつ失敗したり、痛い目に遭いながら、楽しみながら、探求していくわけですね。で、これこそぉぉ唯一絶対だ、真実だというところの、まやかしみたいなものが、頭とか知識とか理屈じゃなくて、わりと微細に見極めていくことができるんじゃないかと。

503 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/07(水) 01:00
昨夜、ニュース23で、私の好きなある作家が出てました。途中から観たのですが、昨今の日本について、こんなメッセージを語っていたようです。

「日本に希望がなくても、あなたに希望があればいい」

私の置かれた信仰の状況になぞらえてみると、日本という言葉を、教団に置き換えてもいいかなぁと思いました。

きっと個人で信仰を求める段階になったのではないかという気がします。
組織で成仏を求めるものではなくて、また聖職者の善し悪しも、完全に組織で決まるもののではなくて、どの組織の聖職者であろうと、最後は個人で判断されるような気がします。
そして、個人で信仰の道を歩むとき、もちろん師という先人に学んでいくのですが、だけど全てを委ねず依存せず、あくまでひとつの道しるべとして、そうしながら自分のありようや為すべきことを模索し、やがては確立していこうと希望とする。今の私はとりあえず、こんな感じかなぁ‥。

それにしても、思い入れのある人の言葉というのは、電波を通して公に語られたものでも、なんか直接語りかけたられたような錯覚をしてしまうというか、特別の響きを感じてしまうものです。宗教の始まりって、こんなだったのかなぁと思ったりもします。

504 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/07(水) 07:39

私は高校3年の時に『感動の幻想』という小稿を発表して、どうも危険視された記憶があります。感動というのは宗教(団体)にとって、重要な演出効果なのだと思います。

御義口伝には歓喜という言葉がたくさん出てきます。

我が心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名づく。
所謂南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり

と言った具合です。歓喜が大きな尺度になっているのでしょうね。
しかし、これは尺度にしてよいものか。。

人は「感動させてくれるもの」に従って行動する原始的本能みたいなものがあると思います。ニーズですね。すると、今度は「感動させること」というニーズに応える必要を団体側は迫られるわけです。そこで演出効果というか、感動させる技術というのが特化されることになります。

すると今度は、その技術に対する「しらけ」というか、見抜く人間が現れる。つまり、「感動は本当に宗教の真偽の基準になるのか」と考え直すところにいたるわけです。

統一協会で「ホット・シャワー」という演出があります。入会を決意した新メンバーを、そこにいる全員で熱烈な歓迎と満面の笑顔、万雷の拍手で受け入れるというやり方です。新メンバーは、それまで味わったことのない、自分が主人公になったような、すべてを受け入れられたような喜びと感動に包まれることになります。こんなテクニックは自己啓発セミナーなんかでも使われる(いちりんさんが詳しそう)し、創価学会でも、法華講でも使われるわけです。

カタルシス [(ギリシヤ) katharsis] という言葉があります。辞書によれば、

〔アリストテレスが「詩学」で展開した説。浄化・排泄の意〕
(1)悲劇を見ることによって日頃鬱積(うつせき)している情緒を解放し、それにより精神を浄化すること。
(2)精神分析で、抑圧された感情や体験を言葉や行動として外部に表出して、心の緊張を解消すること。

だそうですが、こういう感動は、特に宗教的な演出に限らず、作り出せるわけです。

この前、顕正会に入会したという17歳の高校生と話しました。「なぜ、入会したの」と聞くと「友達に誘われたから」というサークル感覚の答えが返ってきました。「いいことあった?」と聞くと「勤行したら、その日にお金を拾った。功徳が出たと思って感動した」ということでした。

ですから「お金を落として困っている人がいるんじゃないのかな」と質問すると「その人は罰で、私は功徳」という答えでした(笑)

まあ、そのように教え込まれたのでしょう。

またあるとき、統一協会を脱会したメンバーから「どこか、納得のいく話を聞かせてくれる“まともな教会”はありませんか」という相談を受けたことがあります。そこで、知り合いの神学者(カルト問題では殊に有名な方です)「脱会をした人がいるんですけど、いい教会を紹介していただけませんか」とお願いしました。すると、その先生は「ともかく、納得のいくまで、自分の足で歩いて教会を探すこと」と言って、たぶん日本基督教団でその人を知らない教会があるわけもないのし、特定の教会を教えてくれることはしませんでした。その代わりに、探すときの基準を教えてくれました。

「『私は初めて、ここに来ました』と挨拶して、ものすごく歓迎してくれて、拍手喝采で、無条件で受け入れてくれるようなところはやめなさい」ということでした。「『はじめてです』と挨拶をして、席ぐらいは勧めてくれるけれど、特に特別扱いしない、そんな対応で、けれど、話をよく聞くと“自分に合っている”と思えるところを探しなさい」ということでした。

その先生は相手がどんなに高名な人であっても、いま路頭に迷う人であっても、同じようにまったく変わらなく接する方でした。

与えられるものでもなく、特定の事、特定の場所で演出されるものでもないこと、一つの基準になるような気がします。

505 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/07(水) 11:34

>新メンバーは、それまで味わったことのない、自分が主人公になったような、すべてを受け入れられたような喜びと感動に包まれることになります。こんなテクニックは自己啓発セミナーなんかでも使われる(いちりんさんが詳しそう)し、創価学会でも、法華講でも使われるわけです。

わたしも、かつては自己啓発セミナーをばんばんと受講したり、あるいはアシストしていた時期がありましたから、そのあたりはよくわかりますね。

人間って、いわば「自動反応機械」のようなところがあります。自動的に反応してしまうメカニズムとしての器……それが人間というわけです。

こうしたら怒り出す、こんなことしたら泣き出す、これは寂しがる、あれは感動する、と。それは、自分をよく観察すれば、気がつきますね。

たとえば、結婚式で、場内を暗くして両親が立っていて、花束贈呈みたいな。かあさんの歌とかでも流せば、ほとんど泣いてしまう、みたいな。まあ、その程度の、演出のテクニックがたくさんありますよね。

自己啓発セミナーあたりでは、そういう曲目のリストがありまして、こういうときには、こういう音楽、照明はこの程度、ナレーションの原稿は……という感じで、とても整理されています。まあ、アメリカの教会あたりも、似たようなところがあるかもしれません。

ナチスあたりは、ドイツの「ゲルマン民族の精神」を鼓舞するために、ワーグナーの楽劇を盛んに使ったり、とても巧みでありましたよね。

ブッダの道は、ある意味では、「自動反応機械」としての自分に気がつくこと。反応として、心が、感情が、身体が動いてしまう自分に気がつくこと。そこを、示しているんだと思います。

瞬間、瞬間において、反応に使われている自分に、気がつくこと。それが苦しみから脱する道であると。そういう言い方もできるかもしれません。

506 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/07(水) 13:03

> 瞬間、瞬間において、反応に使われている自分に、気がつくこと。それが苦しみから脱する道であると…

そのとおりでしょうね。
「『自動反応機械』としての自分に気がつくこと」というのは、すごくわかりやすいと思います。つまり、「反応させることによって人を操るのはブッダの教えではない」ということですね。

言ってみれば社会の仕組みそのものが賞罰、地位、名誉、階級、役職なんかというもので構成されていて、そんななかで喜んだり、落胆したり、自分が偉く見えたり、惨めに見えたりする世界ですね。資本主義では金銭によって人々は動かし、宗教団体は罰と功徳、憎悪と感動で動かすわけですね。

結局、この人心操作、あるいは心の仕組み本質からわかったのがシャキャムニであって、さらに仕組みを理解するだけでなく、ではどうすればよいのかまで示されたのでしょう。聖人が

賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり。をを心(むね)は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり

という辺りは、そんなことに通じるのだろうと思っています。

507 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/08/07(水) 13:20

78021 ゲットしました。

508 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/07(水) 13:22

八風におかされないのが賢者である。
しかしながら凡夫は、八風におかされないぞと、いくら頑張っても、八風におかされてしまうわけですよね。

で、お題目を一所懸命に唱えれば、八風におかされないのかどうか。そこは、いろいろ自分も含めて身近な実例を観察しますと、なかなか困難な道みたいですね。

で、ブッダはいいました。
賢者と愚者の違いは、どこにあるのかと。

もしも愚者が、みずから愚であると知れば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」である。(ダンマ・パダ 63)

ここは、ソクラテス「無知の知」みたいですね。

わたしたちは、どんなに頑張っても、八風におかされてしまうものである。まず、そこの自覚が第一だろうと思いますよね。どんなに、真実の教えだとか、偉大な指導者だとか、正義の法をたもっていたとしても、それはとても難しいことであると。

で、そういう自覚があって、日々の、日常の生活の中で、いつも自分自身をよく観察していく。すると、瞬間瞬間に、八風におかされている自分がいる。

あ、いま有頂天になっている、いまイライラしている、いまこんなちくしょうと思っている、いま焦っている、いま勝ちたいと思っている……と、その瞬間に気づいていく。
その気づきにおいて、八風におかされないということができるかと思います。

で、なにをいうか。そんなこと、とっても観念的じゃないかという人が多いと思いますけど。
この瞬間瞬間、自らに気づく(つまり、それがブッダ=気づく、目覚める、という意味)という実践法が、とても具体的に誰でも行える方法が、きちんと残されているのであります。

509 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/07(水) 15:38

聖人が本尊抄に

瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏(みょうぶく)して現はれざれども委細(いさい)に之を尋(たず)ぬれば之有るべし

などというのは、天台の観念観法の系譜であって、ある面、いちりんさんが記されるようなことを天台も聖人も記しているわけです。先に挙げた八風の賢人というのは、資料は当たっていないんですが、受ける雰囲気としては仏教というより儒家のように思えます。

初期経典に通じそうな部分ですが、今の時代の石山系の僧俗を見ても、ぜんぜんそんなふうには出来ていないという感想になるわけです。もちろん、私を含めてです。

いっったい、これはどういうことなのかと思うわけです。

ものすごく題目を唱えたり、活動に熱心な人が、生活破綻者であったりすることもあるわけです。

題目を唱えること、活動をすること、仏教を学ぶこと、そのもっと根本にあるものが忘れられているのだろうと類推できるわけです。


> 実践法が、とても具体的に誰でも行える方法が、きちんと残されている

ということ、是非お伺いしたいと思います。

510 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/07(水) 22:23
独歩さん

八風については、詳しいことはわかりませんが、原始経典にありそうです。
れいのわたしの知り合いのスリランカの坊さんが、これに関して説法しておりましたので。この八風は「世の法則」(ローカ ダンマ)というのだというてました。

ダンマ・パダにもこういうことばがあります。
「 一つの岩の塊りが風に揺がないように、賢者は非難と賞讃とに動じない」(81)

人間というものは、「快」(いいなあ、もっともっとという渇望の方向)「不快」(いやだあ、避けたいという嫌悪の方向)によって自動的に反応してしまうというわけです。

その代表的なものが、八つと。
渇望の方向……利(うるおい)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・楽(たのしみ)
利とは、利得。物事がうまくいく、成功する、全てが順調にいくこと。誉とは、名声。社会に認められること、高い立場にあること。称とは、賞賛。成功して賞をもらったり、褒められたり、有名になったり。楽とは、幸福。豊かで健康的で家庭円満で、楽しく生きられる。

嫌悪の方向……衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)
衰とは、不利得。失敗すること、損すること、衰退していくこと。毀とは、不名誉。立場を失うこと、批判されること。譏とは、非難。失敗したり過ちを犯して厳しく非難され、否定され、社会から追い出されること。苦とは、不幸、苦しみ。

「快」を感ずるものには、もっともっと欲しくなる。「貪る」わけです。
そして、「不快」を感ずるものには、いやだいやだと避けたい、認めたくない。これは「嗔り」だろうと。原始仏教における、「嗔り」は、いわゆる怒りではなくて、「対象を受け入れにれずに対立する働き」を言いますね。

そして、「快」「不快」という方向に知らず知らずに反応してしまうことに、気づいていないこと。それが「痴」(おろか)というわけです。

「三毒」というものを、「快」「不快」に反応してしまうことに気づかないでいることと説明できるんですね。で、この三毒を断ち切る実践は何かというと、「気づき」ということになります。

> 実践法が、とても具体的に誰でも行える方法が、きちんと残されている
ということ、是非お伺いしたいと思います。

その方法が、たとえば「三十七菩提分法」のなかの、「四念処」ということになります。
この場合、「念」とは、「念ずる」という意味合いではなく、パーリ語のSATI、つまり「気づき」「アウェアネス」「マインドフルネス」ということです。詳しくは、また別の機会にでも。

511 名前: 無徳 投稿日: 2002/08/08(木) 05:03
独歩さん今晩は:

>御義口伝には歓喜という言葉がたくさん出てきます。

>我が心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名づく。
>所謂南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり

>と言った具合です。歓喜が大きな尺度になっているのでしょうね。
>しかし、これは尺度にしてよいものか。

 とのことですが、三枝充悳氏が随想『仏教と世間と』(第三文明社)の中で
<<『法華経』を拡げて、その一字索引により「歓喜」の語を丹念に数えあげ
てみると、何と計90回にも達する。そんなところにも、『法華経』の一種独
特な雰囲気が浮かんでくるのではないかしら。(なお「歓喜」は浄土教典や華
厳経などにも重視される。また元来、大乗仏教の菩薩の第一段階は「歓喜地」
と称する)>>としています。

  また、この「歓喜」は仏教においてはカンキと読むのではなくカンギと読む
のが正しく、岩波の仏教辞典には「歓喜といふは、歓は身をよろこばしむるな
り、喜は心をよろこばしむるなり、得べきことを得てむずとかねてさきより喜
ぶこころなり」とあります。

 更に仏教辞典には、十地経には菩薩の初地を歓喜地と呼ぶとあり、また歓喜
を「踊躍歓喜」というように用いられるときもあるとしています。

 どうやら、大乗仏教においては「歓喜」なるタームに特別な意味合いを与え
ていたのかも知れません。              無徳

512 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/08(木) 05:55

無徳さん:

> 大乗仏教においては「歓喜」なるタームに特別な意味合いを与えていた

そうですね。そのとおりであると思います。無量義経、妙法華経を含めて、初期天台資料80文献で検索してみたところ、なんと918もヒットしました。

歓喜はまた、密教系では歓喜仏などという使われ方もし、真言立川流「大楽」などと類型をなす用法もあります。煩悩全面肯定的な用法ですね。

語彙としては色々なところで登場しますが、使われる意味内容はまちまちである点は注意されるべきであろうと思います。法華経の「諸仏歓喜」と、歓喜仏が同じ意味合いであるはずもありません。

私は歓喜を感動という面から記したものでした。

513 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/08(木) 05:59

いちりんさん:

> 八風…原始経典

ほお、そうですか。八風抄の八風の主語が儒家から導入されたと見られる「賢人」という語で始まっていたので、そちらの系統かと思ったのですが、原始経典に見られますか。どこに出ているのでしょうね。

514 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/08(木) 09:23

犀角独歩さん

>「賢人」という語

もともと儒教あたりで、よく使われることばだったのでしょうか。
白川静さんの辞書で調べてみますと、「瞳に手を加えて眼晴を破り、神に仕えるものをいう」などとありました。

原始経典では、Pandita (賢い、博学、智者、賢者)という言葉を使っているようです。

ダンマパダでは、第6章はPanditaavagga(賢者)という章になっています。

---------------------------------------

深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。82

多く説くからとて、そのゆえにかれが賢者なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、――かれこそ〈賢者〉と呼ばれる。258

真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。79

---------------------------------------

……などと、14箇所ほど使われていました。
なかなか、ブッダのことばは、いいですね。

八風のもととなる原始経典は、こんどスリランカの坊さんに聞いてみます。

515 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/08(木) 11:15
独歩さん

>題目を唱えること、活動をすること、仏教を学ぶこと、そのもっと根本にあるものが忘れられているのだろうと類推できるわけです。

そうですよね。それって、なんでしょうかね。

まあ、わたし自身を振り返ると、「正しさ」の執着みたいなところが強くて、そのため「間違っている」(レッテレルを貼ったり、指導されたり、思いこんだり)ものに対して「裁き」が出てくるんですよね。つまり、法華信仰は、なんとも傲慢になりやすいのかなあ。

「自分たちが正しい」というエネルギーと「間違ったものを裁く」というエネルギーが、どうも人格を育てないみたいです。

そこには、「思いやり」が生まれないし。
考えの違う人に対する「寛容」とか「寛容」とか生まれないですもんね。

自分の仲間内だけの「思いやり」「寛容」「寛容」があって、
考えの違う人たちに対して、「裁い」たり「軽蔑」したり「憎んだり」してしまう。

それで、さらには、ヘンな「殉教意識」みたいなものがありますでしょ。法のためにいのちを捧げる、広宣流布のために一身をなげうって、みたいな。自己陶酔チックな人が多いですし。

あるいは、国家諫暁みたいな、「誇大妄想」というか夜郎自大みたいな、ヘンなヒロイズムがあったり。
そうして、「現世利益主義」でしょう。出世とか金儲けとか権力を握ることが功徳みたいな意識があるし。

いわゆる日蓮主義は、自分の心を見つめるといことをしないみたいです。自分の駄目さに気づくというところを言わないで、正しさばかり強調するから、「我」が強くなってしまうみたいな。わたし自身を振り返りまして、そう思いました。

516 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/08(木) 11:32

514 いちりんさん:

>> 賢人
> もともと儒教あたりで、よく使われることばだったのでしょうか。
> 白川静さんの辞書…神に仕えるものをいう

儒家というより、道家なのかもしれませんが、いわゆる中国古典思想の用語だと思いますね。「竹林の七賢人」なんて言葉があります。
天台文献などでも賢人・聖人は用語として使われています。用法として三乗にわたっています。

儒・道などは世紀前5世紀ぐらいのものでしたか。それに対して、仏典の漢訳は紀元2世紀ごろから始まりますね。当初、インド原典に該当する漢字がなかったために儒・道の用語を借りて仏教を説明することが行われた。格義仏教ですね。この頃に、賢人・聖人などという言葉が仏教的な意味も持つようになるのであろうと思います。まあ、それがそのまま日本に特に儒・道、仏教の区別無く伝わってきたのであろうと。
引用の白川静師は、むしろ、ここに記したようなことを著述を通じてわたしに教えてくれた人でした。

引用されている辞書の内容は、日本語化した賢人ではないでしょうか。神に仕える人が眼を傷つけるというのは日本の古代から見られた風習ですね。これに賢人を充てた説明のように思えます。

やや横道ですが、個人的には賢人・聖人という言葉は仏教とは親和性がないと考えます。仏教では理想は仏で、それに準じるのが菩薩、二乗もだめで、六道輪廻などというわけですね。人は人界で上下の中間に位置するという設定ですね。この“人”の字を採って賢人・聖人などというのは親和性がないと思えるわけです、人に賢聖を求めるのではなく仏菩薩に理想を置いているわけですから。

中国を経由した仏教は、ここら辺がごちゃごちゃのまま、日本に入っていると感じるわけです。日本ではここにさらに神仏習合までしていくわけです。日蓮の言葉でも「仏は聖“人”」と言ったり、自分の弟子に「聖人」号を贈ったりするわけですが、こういう使い方と十界の立て分けに、私は整合性、親和性が見られないと思うわけです。

まあ、以上のようなことを考えて、賢人は中国古典思想が起源であろうと書いたわけです。

Panditaavagga はしかし、中国古典思想に影響を与えたものではないでしょうね。
そんなこととは裏腹に、引用されるダンマ・パダはほんとにすがすがしいですね。

八風の起源、よろしくお願いします。楽しみにお待ちしています。

517 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/08(木) 12:27

515 いちりんさん:

記されているところ、よくわかります。

私が唱題の根本ということを書いたのは、なんだか呪文化していると考えてきたからです。「題目を唱えれば」的な呪術性の強調みたいなことが表立ちすぎているという反省です。

よく引き合いに出すのですが、聖教新聞社初代編集長で、のちに池田さんに反旗を翻した石田次男氏は、唱題でも、教学でも、その心根に反省と自覚が無ければだめだということを盛んに強調していました。

反省と自覚、言葉は内容も違いますが、いちりんさんが仰る部分に近いものを私は石田さんの言葉にも感じてきました。

題目を唱える事が主になってしまっていると思うわけです。本来の目的、反省(懺悔)・自覚(精進)、いちりんさんの言葉で言えば「気づき」、心の浄化のためと言った肝心の中身がない、本当に題目を唱えるだけになっていないのかと思うわけです。

そういう態度が生活から信仰に至るまで随所に見られるわけです。石山の登山会など、内拝では、より前に座ろうと席の取り合い、会場から出るときは我先に、夜寝るに当たっては場所と布団の争奪戦という笑うに笑えない修羅場が展開され、そのために輸送班を結成して、整理・誘導・警備をしなければいけないことになっているわけです。

要するに唱題、内拝、参列という儀式上っ面だけが功徳を積むことと誤認され、そのことを行う心の位置が忘れ去られている。これでは宗教にならないと私は思うわけです。

石山は石山で輸送の担当者などを配置して、いかに効率よく、たくさんの人員・金銭を集めるかに腐心するだけ、そして、もっともらしい演出をして泡沫の感動を与えて、帰していく。本当に空しい、中身のないものであるわけです。

たとえば苦行なんかは、苦行することだけが目的になってしまえば、単なるマゾヒズムですね。そうかと言って放埒に生きれば堕落がある、そんななかで苦楽中道を言ったのはシャキャムニでした。そして、心の問題のための実践法を唱えたのであろうと、私はとらえています。

法華信仰に連なる石山のこういった中身のない空洞化の原因はしかし、いちりんさんが仰るように、日蓮に由来するのか、法華経に由来するのか、私も困惑しています。

法華経には多くの差別発言、善悪に言論、脅しという捨て去るほかない内容も多くあるわけです。反面、不軽菩薩のように採るべき内容もあります。その影響を日蓮ももちろん、受けているわけですね。本当に考え直さなければいけないところだと思います。しかし、法華経にせよ、日蓮にせよ、中身を説いたのは事実だとも思うのです。

いちりんさんが上げる「殉教意識」ということも、これが高じて精神障害を来した症例を小田晋師は論文にまとめているわけですよね。

このことにも関連するのですが、メシヤ・コンプレックスということがあるといいます。私は、この言葉を始めて聞いたとき、少なからぬショックを受けたのを覚えています。

「誇大妄想」という点は、他でも引きましたが「世界没落体験」と妄想の関係、点検しなければならない点だと思うのです。

いずれにしても法華経とその信仰の延長にある唱題、中身が無くなっているのであれば充填し、法華経思想に差別その他の毒があればそれを抜き、善い面を全面に出して再構成するべきであろうと私は思います。

「そんな法華経、日蓮ならば捨て去ればよい」というのは簡単ですが、40年も関わった自分は、仮に捨て去るにしても、ここら辺の整理をしないで気が済まないと言う思いがあります。

518 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/08(木) 22:13
独歩さん

法華主義、日蓮主義の歴史的な人物をながめてみると、国家主義者とか権力主義者とか権謀術数とか闘争にあけくれたような人とか、毎日のように勲章と名誉をもらい続ける人とか、なんとも寂しい風が吹くわけです。

しかし、一人。もしかしたら、たった一人かもしれませんが、煌めいている人がいますよね。
その煌めきは、ますますこれから輝いていくと思われる人。

わたしは、その方は、宮沢賢治だと思っています。
宮沢賢治がいるということで、『法華経』は捨てたもんじゃないんだあんと思ったりするほどです。

もっとも、わたしは宮沢賢治は日蓮主義とは思えないのですね。出発はそうでも、日蓮主義から法華主義へと昇華されていった。

そうして、その「法華」は「華厳」に通じていく世界であったと。

519 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/08/09(金) 20:55

78514 ゲットしました。

520 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/09(金) 23:01

いちりんさん:

ぜひ、いちりんさんの言葉で少しでもいいですから、宮沢賢治のことを書いてください。

521 名前: 求道 投稿日: 2002/08/09(金) 23:23
> いわゆる日蓮主義は、自分の心を見つめるといことをしないみたいです。自分の駄目さに気づくというところを言わないで、正しさばかり強調するから、「我」が強くなってしまうみたいな。わたし自身を振り返りまして、そう思いました。
> 日蓮に由来するのか、法華経に由来するのか、私も困惑しています。

自分が知った日蓮主義が誤ったものであったから、法華経も日蓮聖人の教えも疑ってしまう。阿含部にある譬え話のような愚かなことだと思いますね。

522 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/10(土) 00:10

求道さん:

疑ってみるのは、まず自分のこと。これが基本。
なに過激に、凶暴になっているんですか。

冷静、静かに、落ち着いて、仏様の境地を考えながら、人を批判するのではなく、自分を反省しながら、といきませんか。

523 名前:投稿日: 2002/08/11(日) 13:48
ツブヤキすれっどなので、話の流れに関係ないけど、勝手にカキコ。
こんなの見つけマスタ。

http://tron.um.u-tokyo.ac.jp/tachibana/first/05minj/4.html

524 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/11(日) 14:26

523 あ さん:

『不完全性定理の拡張』、面白いですね。
まるで「空」「無常」の解説を読むようです。

> オウム真理教の教義などは非常にうまく作られた内部構造を持っており、入り込むと抜け出すのが容易ではない。それぞれの体系はもっともらしい公理を並べているが、公理をきちんと分析すれば体系に対する批判が出来る

以上を、石山に当て嵌めて書き直すと、

石山の教義などは非常にうまく作られた内部構造を持っており、入り込むと抜け出すのが容易ではない。それぞれの体系はもっともらしい公理を並べているが、公理をきちんと分析すれば体系に対する批判が出来る

ということになるのでしょう。私は賛成です。

> 結局この証明からひきだせることは、「永遠絶対の真理体系はない」「真実性の絶対的保証はどこにもない」ということである。ある意味では、不完全性定理は人間の知の世界において真実性に対する相対性原理として機能しているともいえる。

至極、もっともなことであろうと思います。
もっとも、ここの掲示板に添う記述は、以下の部分ですね。

学問の中にも、科学の定義に当てはまったり外れたりするものがある。例えば精神分析学は、方法論からいえば自然科学とは異なる。厳密な意味での科学ではないので、ユング派・フロイト派など流派が多数あり、それぞれ主張や分析結果が異なる。これは様々な流派が自分の信念に基づいて公理系を構築しているためであり、その根拠を求められても流派に属する人が信じているということに他ならないという答しか得られない場合が多い。

「根拠を求められても流派に属する人が信じているということに他ならないという答しか得られない」、まさにそのとおりであって、なのに、この定理が下種三宝の肯定に使われることは、やはり、私は頷けません。まあ、ツブヤキということですが。

525 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/08/12(月) 10:07

79000 ゲットしました。

526 名前:投稿日: 2002/08/12(月) 14:21
      どっぽ様。
     「絶対に間違いない」「これだけが正しい」なんて先入観を持つと、ヌカルミに足をとられますよね、やっぱ・・・

      ふーん、ふむふむ、「空」とか「無常」とかだかに似ているんですかぁ・・・
      そーすると、
     「やはり仏教は正しい。日蓮は正しい。ゆえに我が宗派は絶対に正しい」なんて言い出す人が出てくるのかな?
      あ、これは、単なるジョークです。

527 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/12(月) 15:44

526 あ さん:
> 「空」とか「無常」とかだかに似ているんですかぁ・・・

似ているような気がした…、程度ですが。
仏教では四句分別なんていう、まあ現代で言う論理学のような考え方をしていくわけですね。しかし、これは不完全性定理なんかに限らず、西洋的な思惟法と相容れないものであるとは思います。けれど、けっこう、結論になってくる部分は似通っているなと思った程度です。

> …単なるジョークです。

うーん、このジョークは恐ろしい。私も軽々と感想を記しすぎました(笑)

528 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/12(月) 19:06

ちょっと、言い訳がましいことを記せば、「空、無常に似ていると感じた」と記したのは、不完全性定理が、ユークリッド幾何学を基礎とする論理学“以後”であるという記述を見たからでした。

かつてハイゼンベルグの不確定性原理を知ったとき、仏教における空観に似ていると思った印象があったので、不完全性定理に類型の論理性を見たからです。

ただし、初期天台の資料を渉猟するに至り、その論理的アプローチに四句分別が用いられていることを知り、それらの考えは違っていたことは思い知らされるところとなりました。

まあ、そんなことをぼんやり考えながら、「空、無常に似ている」と口走ったのですが、悠長に構えているようで実は切れ味を見せるあさんは見逃しませんでした。一本採られた気分です(笑)

ただ、引かれている神を証明するための論理学なるものは、私はまるで意義を感じません。「スピノザの言う神を信じる」と言ったのはアインシュタインでしたが、私は科学者として、神と真っ向から向かい合い、結局、その存在を否定したまま、逝去したアーサー・C・クラークを尊敬しています。

『NEWSWEEK』1997.4.9号の切り抜きを、私は今も大切に取ってあります。

昨年、借しまれつつ早逝した著名な天文学者のカール・セーガン。
あくまで科学の人であった彼は、病に倒れても最後まで、そして誰にも、自分のために祈ってくれとは頼まなかった。
それでもニユーヨークの聖ヨハネ大聖堂には、彼の回復を祈る人々がたくさんいた。彼らの祈りは、セーガンが生涯かけて探しても見つからなかった天国に届き、セーガンがついに信じなかった神の耳にも入ったはずだ……もしも祈りが天まで、そして神の耳まで届くものであるならば。
そして、もし神が存在するならば、神は善男善女の祈りを無視してセーガンを天に召した。62歳の早すぎる死。彼が愛した地球には、妻と5人の子供、未完の仕事が山ほど残された。
だがセーガン自身にとっては、悔いのない死だったかもしれない。誘惑には、ついに負けなかったのだから。
もちろん彼も、神の国に無関心ではなかった。宇宙の起源や人間の意識、進化の謎などに自由な思索をめぐらしたセーガンは、この10年ほど、宗教界の人たちとの対話に多くの時問を費やしてきた。
神は存在するのか、とセーガンは問うた。存在する「証拠」がないかぎり、その存在を肯定するわけにはいかない、というのがセーガンの立場である。
この大胆な問いかけを受けて立ったのは、主としてリベラルな聖職者たちだった。聖ヨハネ大聖堂のジェームズ,パークス・モートン師、全米教会評議会のジョーン・ブラウン・キヤンベル師らの名前がある。またロバート・サイプルのようなキリスト教保守派の論客とも渡り合った。
キリスト教の教えは2000年も前に死んだ人たちの一言画行録に基づいているが、その記述の真偽は今さら立証しようもない。そんなものをなぜ、科学の恩恵に首までつかっている現代の教養人が信じるのか。

529 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/12(月) 19:07

―528からつづく―

・NASAでは変人扱い

あるときセーガンはキャンベル師に、「賢いあなたが、なぜ神を信じる?」と尋ねている。
キヤンベル師は驚いて問い返したという。誰も見たことのないプラックホールの存在を、いとも簡単に信じてしまえるほど「賢いあなたが、どうして神を信じられないのですか?」。
だがセーガンとて、最初から神を否定してやろうと意気込んでいたわけではない。こんな手紙が残っている。「全知全能で慈悲深い神に見守られているという考え方は、最初は居心地よかった。だが[信仰を支える]証拠が言い伝えでしかないことに気づいたとき、疑いが生じた。……しかし、もしも神が存在する証拠があるのなら、それを見つけるのは私の義務だと思う」。
実際、最初のうちはセーガンも積極的に神を探していた節がある。20年前、NASA(米航空宇宙局)で火星探査船バイキング号のプロジェクトに携わっていたセーガンは、地球以外の惑星に生命体が存在する可能性をしつこく説き、同僚から変人扱いされたものだ。
愛の存在も証明できない。もちろん、セーガンは「可能性」を信じていただけだ。だから火星深査機が石ころしか発見できなかったのを見届けると、セーガンはそれを「証拠」として受け入れた。
また金星に関しては、温度が高すぎて生命は存在しえないという論文を発表している。
「科学に貢献するたびに、彼の期待は打ち砕かれたの」と言うのは、仕事上のパートナーでもあった夫人のアン・ドルーヤンだ。
もしも神の存在を否定する証拠を前にしたら、信者も信仰を捨てる勇気が必要だと、セーガンは考えていた。そんな異端を是とする宗教があれば、彼も帰依していたかもしれない。
1995年の著書『悪魔に憑かれた世界』では、子宙人に「誘拐」された人の話や黒魔術など、アメリカ社会にはびこる迷信から科学を擁護する論陣を張った。そして慎重に言葉を選びながらも、信仰の根拠とされるものも迷信と大差ないのではないか、と問いかけている。
こうした飽くなき「証拠主義」に、最初のうち宗教界は防戦一方だった。だが、ある日、キャンベル師の投げかけた一つの問いで形勢は逆転したのかもしれない。「あなた、愛を信じますか?」と師は尋ねた。
「もちろん、と彼は答えました。奥さんを心から愛していましたからね。そこで私は言ったのです。「愛の存在は立証できます?」。
最初はできると言い張っていた彼もやがて祈れ、信仰と同様に愛も証明不能だけれど、存在しないとは言えないと認めたんです」
それでもセーガンは、信仰の組織化としての宗教を認めなかった。
そして神が「全知全能」で「慈愛」に満ちているなら、なぜ祈る必要があるのか、と主張した。祈らなければ神は信者の病気に気づかず、信者を救ってくれないのか。そんな神が全能と言えるのか……。
95年冬、セーガンが骨髄異形成症候群(白血病に似た病気)と診断されたのを知るとバイトン師は彼のために祈りはじめた。
「祈りは確かに効く。どう効くのかは、私にもわからないが」とモートン師は言う。だが、少なくとも「祈りはカールを精神的に元気づけた。そして心が元気になれば、体の機能も改善されるものだ。祈りの力が体の分子構造を変化させるなどという主張は、まったくナンセンスだが」

・自分の信念を貫いた死

モートン師よりずっと保守的なサイブルは、もっと具体的な祈りの効果を信じている。だから骨髄移植を受ける直前のセーガンに病状を詳しく尋ね、「より的確に祈る」方途を探ろうとした。「私は君のために祈っている。祈りは神と人の間の溝を埋めるものだから」。師は病床のセーガンに、そう説いたという。
昨年の夏ごろ、セーガンは一時、快方に向かっているように見えた。
そのころ夕食をともにしたキャンベル師によれば、「順調そうだね、と言って、彼はほほ笑んで「そう祈って・」と答えました」。
しかしセーガンは、放射線治療の副作用で肺炎を併発。友人たちの祈りにはますます熱がこもったが、セーガンは最後まで「神が存在する証拠」にこだわり続けた。
「死の床でも掃依しなかった」とドルーヤンは言う。「神にすがらず、死後の世界にも期待せず、私たち二人が二度と会えないことも、ちやんと認めてました」
神を信じたいとは思わなかったのだろうか、と未亡人に聞いてみた。返ってきたのは明快な答え。
「信じたいとは思ってなかったただ、知りたかっただけ」
(文・ジエリー・アドラー)

530 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/12(月) 20:25

528、529は、OCRを使用したので、細かい変換ミスがあります。ご判読ください。

誤)宗教界の人たちとの対話に多くの時問を費やしてきた
正)宗教界の人たちとの対話に多くの時間を費やしてきた

誤)キリスト教の教えは2000年も前に死んだ人たちの一言画行録
正)キリスト教の教えは2000年も前に死んだ人たちの言行録

誤)1995年の著書『悪魔に憑かれた世界』では、子宙人に「誘拐」された人の話
正)1995年の著書『悪魔に憑かれた世界』では、宇宙人に「誘拐」された人の話

…など、他にもあると思います。

長い引用ですが、この文章のタイトルは、検証『神が存在する証拠を追い続けた科学者』故カール・セーガンは死の床でも祈りを求めなかった(NEWSWEEK 1997.4.9 P52)からの転載です。

531 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/12(月) 23:33
犀角独歩さん

『NEWSWEEK』1997.4.9号の切り抜きのご紹介、すごーくいい内容ですね。
決して洗脳されない自分の考えで信念を貫く人というのは、本当に魅力的です。
セーガンももちろん魅力的ですが、受けてたったモートン、サイブル、キャンベルもまた魅力的です。

「信じたいとは思ってなかったただ、知りたかっただけ」という言葉、信じたいから始るのではなくて、知りたいから始る、これこそ、真理の探究、求道の原点だと思います。「信じたい」という願望から始ってはならない。そんな気がします。

また神の存在を認めないセーガン氏が病に倒れたからといって、それが神の裁きなどとは誰も言わず、それどころか自分の信じる手段で彼のための最善の祈りを捧げようとする。また決して帰依しないセーガンも、そのことを拒絶しない。学ぶ点多いですね。

このような好敵手の関係って、本当にいいなぁと思うんですね。議論そのものはどこまでいっても平行線かもしれませんが、それでもお互いの存在がお互いを刺激しあい牽制しあうことで、それぞれが高まっていっている、本当に切磋琢磨の関係だと思います。

話は横道に反れますが、私は日蓮聖人に対して、北条時頼を好敵手だとイメージします。宗門から発刊されている「正伝」によると、立正安国論を幕府に提出する前に、北条時頼と聖人は直接会談されたことがあると記されていました。史実的に本当のことなのかどうか、それこそ知りたいところです。もしも本当ならば、年頃も同じ二人が、どんなことを対話されたんだろうかと、いつも想像は果てしなく膨らみます。
名君名高い北条時頼のことは、地獄に落ちたなどと言いながらも、恐らく聖人の晩年まで、それこそ立正安国論を講義する度に懐かしくも思い出され、どこまでも良き好敵手だったのでは‥と思うんですね。ちょっとかなり情緒的ですが、ツブヤキすれっどということで記してみました。

532 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/12(月) 23:51
わたしの危険領域は、ひとことで言って「意識」の占める割合です。宗教的意識、もっと厳密いえば、人間関係も含めたお寺への意識ばかり、四六時中頭から離れない状況になってしまった時期、振り返るとこの時期を「危険領域」だったなあと思うのです。
まず最初は、お寺の行事に自分が常に支配されるようになりました。今日は、勉強会が夜の7時からある。行かなきゃと思い、行こうと決めると、逆算すると3時以降からは仕事への意識が中途半端になるのです。急なアポは「魔」だと思い、なかなか入れられません。また、どうしても拒否できない急な仕事が入ると、それまでの自分の福運のなさが示されたようでガックリしたりもするのです。もちろんこんな状態が続けば、結局は、仕事への意欲は衰退していきますし、実際に仕事上のミスも出ます。早い話が、上の空で仕事しているようなものですね。
仕事だけではないです。お友達が私の家に遊びに来ることになっていたのを、お寺の行事によって忘れてしまっていたことがあります。関西から遥々と親が来ている時でさえ、お寺の行事を優先したこともありました。懐かしい話が山ほどあるというのに、話なんかなくても、空間と時間を共有することを楽しみにきているというのに、それどころか、なんとか親を折伏しようと、そんな話にもっていこうとばかりしてました。その時期のことを思い返すと、なんともいやな人間性でしたね。
大事なことが何も見えなくなっていました。それでも、頭ごなしに私の信仰を否定する人は誰もいなくて、みんな見守っていてくれていたのかと思うと、人の心も知らずに、上からものを言っていた自分を恥じるばかりです。
私にとっての「危険領域」とは、意識が完全にお寺の中のことに囚われてしまっていた状態だったと思います。

533 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/12(月) 23:54
アネモネさん
>みんな見守っていてくれていたのかと思うと、人の心も知らずに、上からものを言っていた自分を恥じるばかりです。

この一節、とてもいいですね。
わたしも、そういう時代がありましたですね。いまもそうかも。

534 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/12(月) 23:55
すみません。532)はスレッドを間違えました。
管理人さん、お手数をおかけしますが、削除して下さい。

535 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/12(月) 23:59
いちりんさん、ありがとうございます。

いちりんさんがせっかく書き込んでくださったので、534の削除の件、撤回します。ややこしくて本当にすみません。

536 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/13(火) 00:52
いちりんさん

>わたしも、そういう時代がありましたですね。いまもそうかも。

いまの掲示板のいちりんさん、上からものをいう人には全然感じませんよ。
むしろ、そういう戒めを教えてくださっていて、私など本当にいつも学ばせて頂いています。
それに、きちんと体系的に仏教を学んでこられた方は、むしろ私のように教義をわかっていない人には、ある程度上から教えないと、聞かないということもあります。

私が上からものをいっていた時期というのは、なんとまあ、入信して1〜2年の頃なんですよ。何をわかって上からものを言っていたというのでしょう。どう考えても、傲慢だったですね。もともとの生意気な性格に磨きをかけてしまったような時期でもありますが、それこそ、その磨きだけは今も残ってしまっていて、私こそ、いまだにそうかもしれません。

だけど、それがとても危険なことであり、むしろ成仏の妨げとなること、いちりんさんのこれまでのレスから随分と教えられたんです。本当に感謝しております。

537 名前:投稿日: 2002/08/13(火) 01:20
    きゃっ、レスがドバドバ・・・ビックリした。
    あーん、単なる軽いジョークですってばぁ。あちき、難しいことわからないんだから。うえーん!(泣)

    どっぽ様、カール・セーガン博士の追悼記事を大事にとってらしたんですかあ。
    あちきは、この人については映画『コンタクト』の原作者、ということで名前を知った程度です。
    博士の最後の著作を文庫本で読みました。
    博士の追悼記事をとっておくなんて、厳しく仏教を研サンしてこられた、どっぽ様らしいと言うべきなのか・・・ 
    ・・・お、お、重い・・・ズドーン・・・

    アネモネさん、こんにちわー。

538 名前:投稿日: 2002/08/13(火) 01:34
537は531に続いております。タイミングずれました。

   いちりんさん、こんにちわー。

539 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/13(火) 10:18

ちょっと気分転換に、禅の坊さんのおはなしです。日蓮系と違いまして、なかなか味わいがあります。

こないだ書いた村上公照さんがお師匠さんとされたのは、澤木興道という禅(曹洞宗)の老師でした。
この方は、まあ達人というような老師で、禅の世界ではとても有名な方です。
生涯、寺というものを持たずに、「寺なし興道」と呼ばれて、全国を行脚しながら、説法されていました。

村上さんは、京都大学の大学院で理論物理を学んでいるときに、澤木老師に出会って、出家の道を歩まれたんだそうです。それ以来、師と同じように、寺を持たず(ほんとに貧しいぼろぼろの庵はひとつありますが)、いつもリュックを背負って全国を行脚されています。

澤木興道師のことばですが、「禅に聞け」(櫛谷宗則著・大法輪閣)「澤木興道 聞き書き」(酒井得元著・講談社学術文庫)から、少々引用してみます。

…………

仏法は餌食拾いの方法ではない。自分の本質がいきる生き方である。もしも、食がさずからなかったら、食わずに死ぬという覚悟が、そのころからできかけた。

食うために生きるくらい、なんでもないことである。みんな生活が大変だ大変だとよく言うが、なうに食うだけなら屁ともない。しかし、そんなことに一生を費やしては、もったいないじゃないか。

道のためには生命を全うしなければならぬが、道のために食えなければ飢え死にするまでのことである。十八のとき、わしはこう一生の方針を決めることにした。



うっかりすると、仏法を、階段をのぼることのように思うてしまうが、そうじゃない。
いつでも今。一歩踏み出したところが「一行一切行」「一切行一行」である。

ええことをすると「ええことをした、ええことをした」と、ベッタリそれがひっつく。
悟れば「悟った、悟った」と、またこれがベッタリひっつく。ええことをしたり、悟ったりせんほうがええんじゃ。サッパリしておらねばならぬ。

必然に向かって、文句なしに受け取るのが悟りである。大悟とは「必然が必然と決まったこと」である。必然とは、宇宙とつづきだからである。

逃げても限りなく、追うても限りはない。現在ぐずぐず言わずに、ただ坐禅している。

仏になりたい? 仏になんぞ、ならいでもいいんじゃ。
今が今、自分が自分ですればいいんじゃ。ここを捨てて、どこへ行くというのじゃ。

…………

村上さんのところで、澤木老師の坐禅しているときの写真を拝見しましたが、とても美しいものでした。枯淡であり、茶目っ気があり、とても素敵な爺さまでありました。

540 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/13(火) 19:22

531 アネモネさん:

NEWSWEEK の転載、たぶん、アネモネさんは賛同してくれるだろうと思いました。
本当に、セーガン氏を語る夫人の一言「信じたいとは思ってなかったただ、知りたかっただけ」これですよね。

あさんも紹介されていた『コンタクト』、あの内容って、まさに宗教(宗教団体ではなくて、純粋な意味での宗教)そのものであると私は感じました。いい物語ですよね。主人公が宇宙旅行で亡父と会うと、感激しながらも宇宙人であるとわかるシーン、あの辺りが本当によかったですよね。

私は創造者信仰というのはまったくピンとこないのですが、でも、あの宇宙人が亡父の姿を借りるという設定がセーガンが説明する神概念であるような気がします。もちろん、宗教なんて、そんな偏狭な概念を超えたところですね。

541 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/13(火) 19:25

537 あ さん:

あさんの読書傾向って、私と似ていますよね。私もセーガン氏の翻訳本は殆ど読んでいます。先の『1984年』…まだ、読み返し続けています(笑)…にしても、なんか引用されるものなんかを拝見すると、「おお、そうそう」と思うものが多いですよ。

542 名前:投稿日: 2002/08/13(火) 21:25

犀角独歩さん

あ、いやいや、あちきは、本、あまり読まないでげすよ。犀角独歩さんみたいに難しい本は読めないし。
セーガン博士の本は、最後の著作を読んだだけです。

セーガン博士は、死後の世界も神も信じなかった。しかし、人を愛していた。
自分の死後に生きる人たちのために、最後まで妥協せず全力でオカルトと戦った。
この精神のありようはスゴいもんだ、と思いました。もう、あちきは平身低頭するだけで・・・

543 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/13(火) 21:47

542 あ さん:

そんなに謙遜しないでください。あさんの感性は確かなものであると思います。

544 名前: モモ 投稿日: 2002/08/14(水) 11:20
私もコンタクトは見たことがあります。狂信的なキリスト教徒たちに基地を
壊されたあと、こっそり日本の北海道にもうひとつ基地を作っていたのが
印象に残っています。日本の北海道というのが受けました。

545 名前:投稿日: 2002/08/14(水) 15:23
セーガン博士の生涯は、神という概念が無くとも、愛も正義も希望もあることを証明した。
博士こそ、真の科学者らしく、「不完全性定理」を、そのまんま生きた人だった。

(けっこう、あちきも、執念深いな)

546 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/14(水) 16:05

545 あ さん:

まったく同感です。

547 名前:投稿日: 2002/08/14(水) 19:30
頭悪いんで、メチャメチャなこと書きますけど・・・

人がこの地球星の地面の上に家を建てるときは、ユークリッド幾何学を使って、非ユークリッド幾何学は使わない。
非ユークリッド幾何学を使ったら、柱はナナメになっちゃうし、ドアが閉まらなくなってしまう。
ユークリッドも非ユークリッドも正しいのだけど、どの場面でどっちの幾何学を使うか、それを決めるのは人間です。

宗教も似たようなもんではないのか?
どんなに、その宗教の教義が完璧で美しく見えても、そのことは人を幸せにしてくれる保証にはならない。
どの宗教が人を幸せにしてくれるか、それを見極めるのは人間です。

うーん、もうちょっと何か言いたいんだけど、うまく言葉が出てこないな・・・

548 名前:投稿日: 2002/08/15(木) 15:14
あーん、バカなこと書いちまった。
こんなこと書くと、「人間主義の日蓮仏法」とか言ってるナントカ学会の支持者と間違われてしまうな。
ジョーダンじゃないよ。昨日までは日蓮本仏論を唱えて、他宗、他門を「邪宗教だ、謗法だ」と攻撃していたくせに、
今日は「凡夫本仏論」で「邪宗教だ、謗法だ」とやってるのかい?
あそこの信者とは一緒にしてほしくないね。

549 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/15(木) 18:45

> 548

(爆)

550 名前: モモ 投稿日: 2002/08/16(金) 00:13
不完全性定理のレス、遅くなりました。

犀角独歩さん

私がここで不完全性定理を持ち出したのは独歩さんの論調の中に大石寺の三宝義
は間違っており、真筆からは証明できない、という論調だったので取り上げた、という
ことがあります。教理だから論理的に証明できるはずだ、という議論に一石を投じたま
でです。レスが沢山きて非常に驚きました。

私が思うに独歩さんは「大石寺の三宝義は間違っている」という信念から一切の議論が
開かれているように感じます。

まさしく「犀角独歩さんの教義などは非常にうまく作られた内部構造を持っており、入
り込むと抜け出すのが容易ではない。それぞれの体系はもっともらしい公理を並べてい
るが、公理をきちんと分析すれば体系に対する批判が出来る」
ということになるのでしょう。

そして御戒壇様の存在すら今の独歩さんの心には入っていかないのでしょう。私は自明
なことには証明は必要ではないと思います。

日蓮大聖人が仏である証拠として龍の口法難が挙げられます。種種御振舞御書に
「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戌亥の
かたへひかりわたる。」
とあります。南東から北西に月のように光る物体が現れた、というのです。
また御本尊様が人法一箇の法体でなければなぜ「南無妙法蓮華経 日蓮」と示されてい
るのでしょうか。血脈相承についても「聖典」の695ページに12箇条の法門があり、
甚深の血脈である旨、示されています。そして血脈相承の本体とはまさしく戒壇の大御
本尊のことなのですよね。

長く信仰してきてこの自明なことに納得がいかない、となったのも所属寺院や大石寺で
深く傷ついたのが原因だと思います。私も所属寺院の活動で傷ついたことがあります。
移籍のお願いもしたことがあります。しかし正宗をやめようとは思いません。そして一
連の独歩さんの書きこみを拝見して大石寺を大事に思う気持ちと大石寺に対する批判心
の両方を感じるのです。

アネモネさん

長いレスを頂いてありがとうございます。しかし正直いって私にはいまいちピンときま
せん。がっかりさせるようで申し訳ありません。ただ宗教を客観的に眺めることは大事
だと思います。ただ不完全性定理は「真理とは公理からなる論理で示すことができない」
ことを示しており、そこに真理を「信ずる」ことの重要性を逆に示しているのでは、と
思います。そして大石寺にとって真理とは南無妙法蓮華経である、と教えるわけです。
そしてそれをアネモネさんお示しの通り論理的に証明は出来ないわけですね。
一般論として言えば、いちりんさんのお示しのとおり
「真理(真実)かどうかは我々にはわからない」のかもしれません。

551 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/16(金) 04:07

モモさん:

550に記している私への反論が全部、自分にも当て嵌まっていることに気が吐いています?
それと、大きな誤解、私は戒壇様が本物であったらいいなと思っています。
下種三宝義が本当だったらいいなと思っているんですよ。
でも、それを証明できる三証を何一つ持ち合わせられないから、否定的な意見を述べることが正直であると考えているのです。
わかりますか、この正直という意味が。

552 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/16(金) 04:28

重ねてモモさん:

>
人法一箇の法体でなければなぜ「南無妙法蓮華経 日蓮」と示されている

だから、なんで、そう言っているのに本尊三度相伝には、そう書かれていないのかと私は疑問を呈しているのですよ。

> 「聖典」の695ページに12箇条

これはなにを指すのですか。精師の家中抄の文章?
精師は板曼荼羅の木が七面山の池に浮かんで光を放ったって言うけど本当でしょうか?
お肉牙が広宣流布の時にピカーッと光りを放つ(ウルトラマンじゃないんだから)と言った人だけど、そんなに全面的に信じて言い訳?
精師は聖滅350年頃の人、おまけに要山出で、亨師もかなり批判的に見てますよ、いいんですか、そんな信用して。

> 血脈相承の本体とはまさしく戒壇の大御本尊のことなのですよね

これはかなり不正確ですね。応師が『弁惑観心抄』に「法体の血脈とは戒壇の大御本尊」とは言っています。さあて、ここのクイズ、この言葉は、同抄のどこに出ているでしょうか?

法体相承、血脈相承を言うのであれば、興師の文章を挙げないとダメですよ。

モモさん、知っています? 私、日蓮から唯授一人の血脈受けているんですよ。
証明できないけど、否定できないでしょう?…と言ったらどうします?(笑)

553 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/16(金) 09:40

重ね重ねにモモさんへ:


正しい正しいとオウムのように言ってばかりいないで、下種三宝を経・釈・御書、あるいは相伝書でも何でもいいですから、文証を挙げて説明してください。

モモさんは「「大石寺の三宝義は正しい」という信念から一切の議論が開かれているように感じます」となるわけです。

> 犀角独歩さんの教義

わたしは教義など持ち合わせていませんが。

> 非常にうまく作られた内部構造を持っており

故に内部構造は持っていません。
事実を並べた資料の提示があるだけです。

> 入り込むと抜け出すのが容易ではない。それぞれの体系はもっともらしい公理を並べているが、公理をきちんと分析すれば体系に対する批判が出来る

私はどこにも入り込んでいませんよ。外郭から、資料を並べることを「入り込む」とは言いません。入り込んでいるのはモモさんでしょう。

私は下種三宝義は祖源できないというばかりで、厳密に言えば、「間違っている」と言っているわけではありません。

方や、モモさんは「正しい」というわけですから、入り込んでいるのはモモさんと言うことになるでしょう。こんな簡単なことがわからないのですか。


> 御戒壇様の存在

戒壇之曼荼羅の存在?って、なんですか。
その存在は有師より遡れない、それ以前に存在していた証拠はないものか、というのが一連の議論ではありませんでしたか。

> 私は自明なことには証明は必要ではないと思います。

ぜんぜん、自明ではないから古今以来、議論になっているのでしょう。

それに証明の必要がないのであれば、なんたら定理がどうと言い出す必要もなかったのでしょう。相手を批判するために定理は必要であるけれど、自分には証明は必要ない、これが“モモさんの論理学の正体”でしょう。

モモさん、下らない言葉の遊戯はやめませんか。
正直、「正しい、正しい」の呪文を唱えることほど、時間の無駄はありません。
堂々巡り、ハツカネズミが回し車のなかで必至に走っているように、いつまで経っても、進展も何もなく、ただ「私の信じているものは正しい」と呪文を繰り返しても、仕方がないでしょう。「正しい」というのであれば、証拠を示せばよいのです。その必要性を感じられないから、いつまでも同じところで回り続けているのでしょう。

今回のモモさんの書き込みを読んで、これではモモさんの言う下種三宝とやらは、オカルト、UFOの類を信じるのと同程度のものであるように思えてきました。

しかし、私に低俗な批判を投げかけるのであれば、徹底して受けて立ちますよ。

554 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/16(金) 12:00
横レス失礼致します。

皆様お盆のお休みはいかがお過ごしでしたか。私ははるばる九州まで行って、ここの掲示板で使い過ぎた脳みそに休暇を与えてきました。九州の雄大な景色はとても素晴らしかったですが、脳みその方は休暇を与えても回復していません(回復してても前と同じアホです。アシカラズ)
行く前に、ある法華講員さんの息子さんの初盆のお参りに行きました。そこで戒壇本尊と各家庭安置の御本尊の仏滅年数の違いを教えてあげたのです。法華講員さんいわく「何が違ってて悪いの?」
『奉書写之』というのは、ご戒壇様をそのままお写ししたという意味だと言っても「それがどうしたの?歴代の猊下の都合で変わったんじゃない、何がアカンの?」という始末。「五月雨さんは組織に付いていないから悩乱してる」とまで言われました。私はこれじゃあ、学会員の自前本尊を法華講員は批判できないなと思いました。教義については深く知らなくていいし、そんな難しい事を考えているヒマもないそうです。

久し振りに掲示板を開いたら、モモさんのレスが目に入りました。読みながら、お盆前にあった会話を思い出した次第です。

>教理だから論理的に証明できるはずだ、という議論

とても大切な事だと思います。それに大聖人様の仏法は「イワシの頭も信心」ではなく、論理的に証明出来るからスゴイんだと聞かされ続けてきました。「無疑曰信」この言葉の意味は、疑って疑って疑い抜いて疑問を晴らした処に「信」が残ると教わりました。(正しい意味はどなたか解説をお願いします。)ただ単に“疑い無きを信と云う”では偉大な仏法の意味が無くなると思います。三証というものもありましたっけ。文証・理証・現証だったと思います。この三証が揃わない宗教は邪宗であると石山の教えだったのではないですか。ところが「戒壇本尊」「下種三宝義」「血脈」について文証で証明できないと独歩さんからのご指摘があるのです。私は独歩さんのように頭も賢くないし、難しい本を読むのは苦手ときていますが、ただ「戒壇本尊」の仏滅年数の違い、讃文が書かれていない事実に「これはおかしい」と思う冷静さはあって当然ではないですか。前述した法華講員さんのように「なんでアカンの?」というのは、『盲信』以外の何ものでもないと思います。宗教は自分の人生に関わる大きなものです。その宗教をただやみくもに信じる危険性を、人生の先輩である独歩さん始めここの掲示板にレスされるひとりひとりの方が、モモさんを心から案じているのです。
 モモさん、私にもモモさんと同じ年齢の時がありました。今は人生の折り返し地点をとうに過ぎていますが、あの頃を振り返るとモモさんと同じ年齢で子供を産んで、誰も知らない見知らぬ土地で何かを探していた時にこの仏法に巡りあいました。何も疑問に思わずただ言われるままに信心活動してきた二十年。今はこの信心に巡り合わない人生を送りたかったなと思っています(アネモネさんに前向きにならなくちゃと言われているのに又、振り返って後悔している私をご勘弁ください)

「若さ」の素晴らしさを最近しみじみ感じるおばちゃんとしては、まだまだ若いモモさんが、「若さ」を無駄にしてしまわないかと老婆心ながら心配しています。自分の人生は自分で大切にして欲しいな。 今日はなんだか姑気分のレスになってしまいました。

555 名前: やーこ。 投稿日: 2002/08/16(金) 15:01
犀角独歩さん(お久しぶりです)、モモさん

ちょっとやりとりを拝見させていただきましたが、
観点、基本的なものの見方が異なるお二人がたたかってもしょうがないと思います。
犀角独歩さんは基本的に客観的な視点から、
モモさんは主観的な信者の立場から見ていると思われます。
宗教哲学では、客観的な視点から見るのが一番よいのですが、
その際事象を批判的に見なくてはなりません。モモさんは自分の体験から正しいと思って
論じている。
これでは、らちがあかないとおもいますよ???…モモさん。
という訳で、私は犀角独歩さんに1票を入れたいです。

あと、それから、ufoとかオカルトを一緒の次元にしてもらいたくは無いです。
同じufo信奉者でも、科学的事象や事実の検証などから見ている人と、
基本的にufoがいると信じてロマンを広げる人の2種類に大きく分かれると思います。
両者とも数多くいます。
私はufoやミステリーサークルはあまり信じませんが、宇宙人の存在、文明について
事実を追っている一人でありますが、既存の某サークルの存在論には見向きもしません。
地球だけが人類の文明を持っているという考えはおかしいというコンセプトから来ていますが、
ここは宗教掲示板。これ以上のことはここでは展開したくありませんが、とにかくオカルトと一緒にしないでください、
ということだけ、ご理解下さい。宇宙人を追うという行為は、まじめな公的研究機関でもやっておりますし。

556 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/16(金) 19:13

やーこさん:

お久しぶりです。オカルトの件、了解しました。

ただ、誤解があるといけませんので、少しだけ弁明しておきます。

宗教問題において、オカルトは重要なテーマです。宗教において、オカルトは大きく二つの扱われ方をします。一つは、いわゆる秘教として、神秘主義の中心を為して扱われるます。しかし、もう一つは完全なトリックで人々を煽動するだましのテクニックとして扱われます。私はいちおう、神秘主義批判論者(実際、個人的には数々の神秘体験はあるのですが)なので、この点から、日蓮の考証においては批判を向けることはあるかもしれません。また、もちろん、後者においては糾弾の対象とすることもあるかもしれません。

次にUFOについて、私自身は個人的に多くの目撃体験を持っていますので否定的ではありません。しかし、これが直ちに地球外生物の乗り物であるか否かは議論が分かれます。この点については慎重に考えられるべきであろうかと思います。ただし、地球外生物、あるいは文明について、私は否定的ではありません。尽きぬ興味を持っています。

ただ、このUFOがカルトにおいて、利用され集団自殺をまねていた事例があるのです。このような場合は批判の対象としなければなりません。あるいはチャネリングなどで、いわゆる宇宙イタコという現代的な憑依例が報告されており、これらもまた、慎重に考えざるを得ないものであると思っています。

ある面、オカルトとカルトは相乗性をもっており、オカルトの流行の影にカルトの流行もあるという相関性が見いだされるときがあります。このような場合、批判の対象としなければならないこともあります。

これらカルト・UFOと下種三宝義を同等に扱うべきではないと記したのは、オカルト、UFO関係は今のところ、現状証拠としてそれを証明しようとするアプローチであるのに対して、下種三宝義は日蓮門下における確実な資料を時系列に基づいて整理検証すれば、その実否を問うことができるので、その意味において、まったく同等に扱うべきではないからです。

それにもかかわらず、下種三宝義をオカルトの如く、秘密裏に伝えられた、信仰でしか獲得でき無い秘教の如く扱うことはナンセンスであると、私は言いたかったのです。

557 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/16(金) 19:21

五月雨さん:

お久しぶりです。
ところで五月雨さんは、私のサイトにアップしてある『大石寺本尊真偽問答』はお読みになりましたか。

『大石寺本尊真偽問答』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/n_kusuyama_001.html

私のサイトでは他には執行海秀師の優秀な論功をアップしていますが、こちらはかなり難しい。それに比較して、上述の文章は実に簡潔で、わかりやすいものです。

558 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/16(金) 22:32
独歩さん

『大石寺本尊真偽問答』を読ませて頂きました。実に説得力のある文章です。肌で感じる現実感があって頭の中では分かっていた事なのに、やはり少々ショックがありました。独歩さんもUFOと遭遇されたご経験がおありとか、私もらしき物を見た事があります。その時の驚きよりもこのショックの方が大きいです。石山のまやかしが段々見えてくるショックの数々にはしんどくなります。これならなーんにも考えず、戒壇本尊のトリックなぞ「それがどーしてアカンの?」などと言いつつ、信心していた方が楽なような気がしたりしています。
モモさんに偉そうに意見したクセに、そんな思いが頭をよぎりました。

またいろいろとご教示ください。

559 名前:投稿日: 2002/08/16(金) 22:48
五月雨さん、こんにちわー。
「不完全性定理」ってのは、よーするに、「イワシの頭定理」なのら。
五月雨さんは、「不完全性定理」という言葉を知らなかったけど、
常識人だから、それが「イワシの頭定理」であることを、見抜いてしまったのら。

カール・セーガン博士は地球外生命の存在を信じる科学者だった。
しかし、オカルト信奉者ではなかった。徹底的に証拠を探した。
それが、自説を否定する証拠であっても、受け入れた。
あちきも、地球外生命の存在を信じるよ。しかし、そいつらが、UFOに乗って地球にやってくる、というのは、話が違うと思うね。

UFOの話、やめる。この掲示板がオカルト板になってしまうから。

560 名前: モモ 投稿日: 2002/08/17(土) 03:50
犀角独歩さん

レス拝見しました。最近は私のことを揶揄したような内容が多いですね。
折角なのでこの際私が独歩さんのことをどう思っているかを述べておこうと
思います。一言でいうと私は独歩さんのような方から親しくレスが頂けるこ
とを非常にありがたく、誇りに思っています。単なるお世辞を言っている訳
ではありません。富士桜さんも初めはなんか怖くて近寄りがたい、なんて言
ってましたがこんなに立派な方から親しく教えていただいてきたことは本当
にありがたく思っています。だからこそ犀角独歩さんが大石寺を離れてしま
ったことは個人的に非常に残念に感じるのです。このことはきっと私だけが
感じていることではないはずです。そして一連の独歩さんのレスからは御戒
壇様への渇仰恋慕がにじみ出ているように感じるのです。犀角独歩さんには
法華講の信心の先輩としてもっと活躍して欲しいと個人的には思っています。

561 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/17(土) 09:17

モモさん:

私はあなたを揶揄などしていません。
ただ、こちらが資料を挙げ真面目な考証を行っているのに、石山正系資料を出すでもなく、ただ信じることを訴えるような文章はルール違反であろうと記しているのに過ぎません。

また、私を「法華講の先輩」と考えてくださるお気持ちは有り難いのですが、しかし、私の在籍期間はわずか数年。当時、住職から「自分の代から法華講になったような信者は法華講なんて言えない。大石寺の根檀家は700年来の法華講なんだから」と言われたことを思い出します。

つまり、生々世々に法華講の家に生まれないような俄講員は法華講衆の数に入らないということのようでした。まあ、一所懸命、役に立つなら、誉めては上げるという程度のことでしょう。

「御戒壇様への渇仰恋慕がにじみ出ている」というのは買いかぶりです。私は日興上人を通じて、日蓮聖人、そして、はるかシャキャムニへの渇仰恋慕の念はありますし、聖人の御筆漫荼羅を尊重はしますが、しかし、観ているものは、その図が示す心のほうです。その意味で板漫荼羅信仰は、とうに卒業しています。

ただし、それら由緒のあるものを軽々に扱ってよいと考えているわけではありません。伝わってきたものであれば、大切に扱えばよいと思います。しかし、それを、一時の感動を演出し、人寄せ・金集めに使うことには反対です。「宝蔵に納め、広宣流布の暁まで秘蔵厳護する」という元来の石山義に従うべきでしょう。(旧奉安殿が建つ以前、御宝蔵の前の、石畳に座り、受けた内拝は、義に叶っていました)その意味で、数千人も入る愚かな建物を造り、内拝などと偽り公開をすることは、重大な化儀違反であろうというのが私の意見です。これが石山義に基づく意見です。(「時の猊下が決めることに従うのが信心だ」というのは日蓮に遡源できない奴隷向けの議論に過ぎません)

ついで、戒壇之漫荼羅の真偽を検証することは別のことです。どんなに私が強硬に偽作論と論っても、確たる証拠をどなたかが示せば、真作論は公に認知されることになるでしょう。しかし実際は、まったくそのような証拠が示されたことはない、故に信者以外は認知しないというだけのことでしょう。

つまり、これは偽作論を言う側に非があるのではなく、真作の証拠を示せない側に非があるという点で、信仰する僧俗はちゃんとした責任を果たすべきであるというのが私の主張です。この責任をモモさん、ご自身を背負っているはずです。

562 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/17(土) 09:26

五月雨さん:

> なーんにも考えず、戒壇本尊…信心していた方が楽…

そう。人は常にイージーゴーイングを選びたくなります。けれど、いつもそこには真実はなく、あるのは偽りの感動と、自己満足があるだけ。そして、考えなしは、操作する側にとってもっとも都合のよい民衆心理でしたね。

既に五月雨さんはパンドラの箱を開けてしまったのでしょうね。箱を決して閉じないけれど、一隅に「希望」は残っているはずですよ。

563 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/17(土) 09:54
あ さん おはようさんです。

「不完全性定理」は「イワシの頭定理」ですかー。なるほどなるほどこれは分かりやすいです。アホな頭で考えてもたまにヒットすることがあるんですね。今度学会員と法華講員のバリバリさんに「あなたのそれは「不完全性定理」よ」と言ってみます。
私も難しい言葉を覚えられて、ウレシイワァ。モモさんおおきに。

564 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/17(土) 10:09
独歩さん

>パンドラの箱を開けてしまったのでしょうね。箱を決して閉じないけれど、一隅に「希望」は残っているはずですよ。

まさしくそんな感じです。独歩さんは人の心を表現されるのがお上手ですね。本人よりも分かっているのではないでしょうか。
私も大聖人様の仏法をずっと信じてきましたから、今、一すじの「希望」を手さぐりで探しています。

ところで、前々から不思議に思っていたのですが、何故「日蓮大聖人様」と言わず「日蓮聖人」と表わされるのですか。そういえば
お会式の申し状でも「日蓮聖人弟子日興云々」と言ってるのに、何ゆえに現石山では「日蓮大聖人様」と言うのでしょう。しようもない疑問ですが、できれば教えて下さい。

565 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/17(土) 11:06

五月雨さん:

> 「日蓮大聖人様」と言わず「日蓮聖人」と表わされるのですか

理由は至って簡単で、日蓮ご自身が『聖人知三世事抄』に「日蓮は一閻浮提(いちえんぶだい)第一の聖人なり」と記され、また、五月雨さんも引用される申状等に、興師、また目師等も「聖人」をもって尊称とされているからです。

では、石山では、何故「大聖人」というかと言えば、寛師『六巻抄』文底秘沈抄に

何んぞ当門流のみ一り日蓮大聖人と称するや。
答う、是れ即ち蓮祖の自称、亦是れ佛の別号なるが故なり。撰時抄下に云わく、南無日蓮聖人と唱えんとすとも南無と計りにてや有らん、不便と云云。
又(撰時抄下)云わく、日蓮當世には日本第一の大人なり云云。
大人なり、聖人なり、豈大聖人に非ずや。
聖人知三世抄二十八に云わく、日蓮は一閻浮提第一の聖人なり等云云。第一と云うは即ち大の義なり。
故に開目抄上十一に云わく、此等の人々に勝れて第一なる故に世尊をば大人と申すなりと云云。聖人の名通ずる故に大を以って之れを簡ぶなり。
應に知るべし、大聖人とは即ち佛の別号なり

ということに拠るのでしょう。ここで、すぐにお気づきになると思いますが、私と同じ『聖人知三世事抄』を引きながら、寛師は「大聖人」としている点です。つまり、寛師には論理の飛躍があるわけです。この論理の飛躍とは「大聖人とは即ち佛の別号」という点です。私はこの寛師の 大聖人=仏 という己義に反対の立場ですから蓮・興・目の祖意に基づいて「聖人」と呼んでいます。

現在では、石山に限らず、他山でも「大聖人」は使いますが、例えば朗門であれば日蓮大菩薩の意味を持って使っているのでしょう。しかし、大聖人号は寛師の言に拠れば石山独自であると言いますが、保田妙本寺(郷門)でも『化儀秘訣』では大聖人の称号は見られます。また、石山の許可をもって発刊された熊田葦城著『日蓮上人』では書名が示すとおり、「上人」が用いられています。

いまでは、大聖人と呼ばなければいけないと言った風潮がありますが、これは創価学会勃興後の定着であると思います。

566 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/17(土) 12:03
独歩さん

詳しい解説をして戴きまして有り難うございます。寛師『六巻抄』文底秘沈抄を引用されていますが、私も古い記憶の中で読んだ事がありました。すっかり忘れていました(こればっかりです)

>應に知るべし、大聖人とは即ち佛の別号なり

この御文も記憶にあります。日寛上人は大聖人様(慣れていますのでこう表記いたします)からの血脈を受けられているので、「文の底」が分かるんだと妙な感心をした覚えがあります。でも視点を変えてみれば、いいように解釈すればどうにでもなるという事でもありますよね。こんなに『己義』を構えまくった方なのに、どうして当時の僧侶は日興上人の遺戒置文を守って「用いざる事」にしなかったのでしょうか。まあ今の世の石山も同じですが。
醒めた目で見てみると、残念ながら「無謬神話の血脈相承」はすっかり壊れていました。

567 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/17(土) 13:45

五月雨さん:

寛師は、当時出そろった諸説をよく精査し、うまく整理統合したわけですよ。よおく、まとまっています。読み物としては、実に面白いし、魅惑的ですね。まあ、それだけですが。

568 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/17(土) 16:05
独歩さん

日寛上人の事をあまり詳しく知りませんが、たしかもうそろそろご命日ですね。二年前に寛師会に行って、相撲を見たり、花火を見ました。
何の意味があってそういう事をされているのかは知りません。ただの地元のお祭りみたいな雰囲気でした。
日寛上人は、おそばが大好きで臨終前にそばを打たせて食したほどのそば好きだったらしいですね。しかし死にそうになっているのにもの凄い食欲だとこの話を思い出すたびに思います。
どーでもいい話ですみません。

569 名前: モモ 投稿日: 2002/08/17(土) 16:42
80000ゲットしました。
リロード結構押しました。

570 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/17(土) 22:19

567 五月雨さん:

ああ、もう、“にっかんさん”ですね。(地元の人たちはこのお祭りをこう呼ぶそうですね。石山では“にちかん”が正式な読みですが。がっかいも「にっかんしょうにん」と言いますね)8月19日が祥月命日でした。

臨終で蕎麦で「凄い食欲」ですか。いいですね、この感性(笑)

571 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/17(土) 22:25

唐突ですが、ここツブヤキすれっどは、管理人さんが「独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!」としているのですね。

この掟をいつも破ってしまうのは私ですが、今後、管理人さんの決めごとを尊重し、会話になりそうなことは「素朴な疑問」スレッドでやりませんか。それで、話が込み入ってきたら、独立したスレッドを立てることを管理人さんに要求という手はずで。

掟違反の責任を取って、提案させていただきます。皆さん、どうでしょうか?

572 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/18(日) 00:12
本当は“最後まで食い意地の張ったじい様”と表現しようとおもったのですが、敬意を表したつもりなのです。普通は辞世の句なぞ読むのが一般的かと・・

>「独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!」

賛成でございます。このレスもこっそりツブヤイております。

573 名前: モモ 投稿日: 2002/08/18(日) 02:12
五月雨さん

日寛上人が臨終にそばを食した、という話は羅什三蔵の舌が焼けなかった話に
由来しています。すなわち日寛上人は「私は死ぬときに好物のそばを食して、
題目を唱えて死ぬだろう」と。臨終正念の大事を示しているのだと、私は拝し
ております。

574 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/18(日) 06:53

羅什火葬の舌の焼け残り、寛師臨終の蕎麦は、自分が説いてきたことが事実であれば、そうなるという予言。

羅什の訳は達意で必ずしも事実を伝えず、明らかに自分が懐いていた教義に基づいて改訳している。寛師の記述は自由奔放の創作。どこか共通するものがある。そして、臨終にまつわるエピソードは、要するに極端に「真実である」ことを強調する“作為”がつきまとう。

美談に騙されず、真実を見極める眼を持つことが大切であると思う。

575 名前: やーこ。 投稿日: 2002/08/18(日) 08:18
そう、そう、蕎麦、蕎麦。
にちかんさんシーズンですもの。
私はざる蕎麦大好きです。
いつも大盛り。
今日は所属寺院でかんしえですが、仕事で行けません。
あそこのお土産の蕎麦最高です。次に永坂更級、そじ坊、箱根そば、の順。ずばり、
遺言は「臨終に蕎麦を食いたい。万が一間に合わなくてもむりやり口に突っ込んで。蕎麦はこしのあるもの、最高級のブランドでね、」

576 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/18(日) 08:31
へぇーすごい意味があったんですね。“食い意地云々”は撤回いたします。私には「臨終正念の大事」とは受け取れませんでした。偶然に目の前で人が死ぬのをみた事がありますが、安らかに眠るようにだったので、死ぬ前に「食」の発想がどうしても出来ませんでした。

やーこ。さんのお寺は蕎麦を配るのですか?関西では聞いた事がありません。イイですね。

577 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/18(日) 10:36

○寛師と蕎麦は実話か

寂の日に先に言っていたとおり、お側付きに蕎麦を打たせて、それを七箸食べて「ああ、おもしろや寂光の都は」と言って笑った。そして、「臨終に当たっては舌がこわばるから、共に唱和するように、けれど、他言はなしないこと」と言って大漫荼羅に向かって、唱題の中、安らかに少しも動ぜず息を引き取ったというのが、その物語です。

(あの奇怪書とも言われる『大石寺明細誌』を記した)量師が記したとされる『日寛上人伝』の物語です。文政8年(1825)、つまり、寛師寂(1726)後の100年を経て記され、さらに正本はなく、富要の記載は転写?本によると言います。その虚実は如何ばかりのものでしょうか。

重大な点は、このように伝説化されたものを、なんら考証もせず、教えられたとおりに“鵜呑みにする姿勢”にあります。

578 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/18(日) 10:38

…おっとまた、対応してしまいました。しかし、寛師の蕎麦は本当か?などというスレッドの提案は、どうもできません。
今後、書くことがあれば、「素朴な疑問」スレッドにします。

579 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/18(日) 11:42
ところで、日蓮さんの臨終の様子というのは、あんまり伝説化されていないようですね。
なにか、辞世の句とか、ことばをのこしたのでしょうか。
相承書みたいな、つまらない党派性のエゴの産物みたいなものばかりが流布されているのすが。

580 名前:投稿日: 2002/08/18(日) 15:17

犀角独歩さん

>重大な点は、このように伝説化されたものを、なんら考証もせず、教えられたとおりに“鵜呑みにする姿勢”にあります。

応酬禁止のスレッドだから、私の発言もルール違反なのでしょうが、独歩さんのご意見にはホントに同感です。
伝説を嬉々として話す信者は、未入信の者にとっては、実に奇妙で薄気味悪く映るものです。
しかし宗教教団の中に入ってしまうと、伝説の真偽を問うことは許されず、頭から信じこまなければならないような雰囲気があります。
入信すると、その雰囲気に知らず知らず慣らされてしまって、いつしか、自分の頭で考えられなくなっています。

ツブヤキ、ですっ!

581 名前: 顕正居士 投稿日: 2002/08/18(日) 16:34
日蓮入滅伝承

元祖化導記「御入滅の事業並びに六上足のこと」
http://www.ginpa.com/karagura/kedoki2.html#27

他に、池上邸の桜が秋なのに花開いた(蓮生桜滅)。辞世、遺戒等はなく、
六上足制定が遺志。最後の言葉は身骨住延山。であるように見えます。

582 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/18(日) 17:00

そう。で、私もツブヤキなのですが、要するに寛師の蕎麦の話はそれなりの伝承はあったのかもしれないとは思うわけです。まあ、それはそれで有り難い話だろうと。そこまでは譲っても好いのです。でも、もうちょっと確実な資料はないものかという思いはあります。

ただ、この有り難い話が…、予言通りに寛師は亡くなった、羅什が説いたことが真実なら火葬して舌が焼けないといったことと同じだ、だから、寛師の説いたことはみんな真実だと、ポンポンと論理が展開していくとなると、「ちょっと待ったあ」と言いたくなるわけです。

こういう仕掛けを寛師の蕎麦の話は仕組まれているぞと注意を促しているわけです。わかってもらいたいところです。…というツブヤキです。

583 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/18(日) 17:56

まあ、しかし真偽のほどは不明ですが、亡くなるときに、ソバというのは、なかなかいい感じですね。
ソバって、するするする、と入ってしまう。
これが、「うどん」となると、ずるずると、なんかもったりしますね。(わたしは讃岐うどんは大好きですけど)

関係ないけど、信長が桶狭間の戦いに出るときに、「敦盛」を舞って、それからお茶漬けをさらさらとかっこんで、さあ出陣じゃ。ものども続け! と出かけるんですよね。

あの「お茶漬け」もいいなあと思いました。
これが、「お餅」だと、むしゃむしゃと、やはり雰囲気が出ないかなあ。

するする、さらさら、ずるずる、さらさら、むしゃむしゃ、ということで、つぶやきでした。

584 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/18(日) 21:19

ちなみに、道元の最後の句です。

《五十四年、第一天を照らす。
 箇のぼっ跳を打し、大千を触破す。
 口夷(いい)。
 渾身もとむるなし。
 活きながら黄泉に陥つ。》(「三祖行業記」) ※難しい漢字が多いので、入力しきれていませんが。

五十四年の生涯、わたしはこの宇宙を照らしてきた。
一個の人間として、坐禅に打ち込み、すべての俗界をうち砕いて大きく飛翔した。
おお この渾身のどこにも、もはや求めるところはない。
さあ 活きながら黄泉に陥よう。

五十四年の間、仏の教えを学び、自分とは何か、ほとけとは何か、悟りとは何かということを解き明かして真実を知った。一個の人間として、多くの人々を教化してきた。懸命に生きたこの渾身にさらに何を求めよう。これで思い残すことはない。さあ次の世界である黄泉が自分を待っている、いまさっぱりと別れを告げよう。

なかなか、かっこいいですよね。
日蓮さんも、なんか生涯をまとめたことばみたいなものを残されていたらなあとも、思ったのです。

585 名前: 富士桜 投稿日: 2002/08/19(月) 17:03
ちょっと遅い夏休みに入りました。

日蓮正宗法華講において信心を始めて約2年ちょっと。
今年の夏の盛りに、折伏をし、一緒に信心してきた彼女と別れました。

「好き」と言う気持ちはとうの昔に消えていました。彼女が「信心」を始めたというたった一つの気持ちで「なんとかしなきゃいけない」と苛立つ気持ちを「信心が足りないからだ」と、自分自身に言い聞かせるよう勤行、唱題に励み、月に一度、二度、行事がある時には車をかっ飛ばせて大石寺に向かい、折伏(?)もその元彼女、会社の上司、元創価学会の後輩の夫婦と続けざまに励み、自分の親も何とかしようと思って信心していました。

その気持ちの消えていた彼女も、それでも結婚の話が半年以上も進めていたので、「信心をすれば」と自分に言い聞かせ、偽りの自分なのか、何が自分なのか。どれが本当の自分なのか苦悩し続けました。

自分に折伏をした先輩は「お前の信心は何年分も遅れた人生を物凄い勢いで取りかえしている、俺の範囲を超えた!」とありがたいような、ありがたくないような。。。そんな見方で回りからも「この子は凄い信心だ!」と言われ、いい気になっていました。

春期、秋期登山会、御大会、寛師会、御虫払い法要、特別大法要にはとにかく出させて頂きました。そしてある日は顕正会の青年部に囲まれたおばちゃんを夜の夜中に助けに行ったり、創価学会の友達とも激論。お互い自分は「脱会届け」、向こうは「脱講届け」を持って来て「書け!」としまいには殴り合いになるまで毎度毎度やってました。

でも、心の中で「いつまでこんな事を続けなくちゃいけないんだろう。信心ってこうしていつも戦うことなんだろうか。御書すらまともに読んでない自分がいったい大聖人の何をわかったつもりでやっているんだろう。」

彼女への思いは消えている自分に、これからどんな結婚生活が待っているのか。そして本当の信心っていったいどういう事なのか。創価学会の暴露本や他宗派を破折する本ばかり増えて、一向に教学には程遠い信心になっていました。独歩さんに昔の登山の仕方、昔の信心の状況、しつこく聞いたのはそう言う思いでした。

彼女と結婚を破談にするまでには色々あったのですが、心の中でもうすでに好きな人の存在もあったので、これ以上はもう無理、と別れを決めました。

それを知った法華講の先輩、または他の方々もうって変わった反応でした。
「お前を折伏したのは、俺の最大の汚点だ」と言われた時には本気で御本尊を御巻きして辞めてしまおうと思いました。
俺は100万単位で御供養している。おまえもそのうちにそうなれるように努力できるはず。信仰して良くならないのはお前の業だ。

上げたり下げたり。
いったい何なんだこれは。。。

それ以来、勤行も唱題もしていません。もう半月以上にもなります。お水だけは毎日変えて、帰って来た時だけはお題目を唱えるくらいです。

新しい彼女と付き合ってよく言われる事があります。
「笑顔がないよ!笑って!」と。

いつもいつも「自分の行動は真面目に信心しているから正しいんだ!」と知らず知らずのうちに思い込んでいた自分に、いくつも年下の女の子に教えられた事は「笑顔」でした。

仕事でも改革を迫られ、「自分は正しい」と思わなければやってられない時期でもあり、突っ走った結果は。
笑顔を忘れ、官僚のような答えを出すしか出来ない自分でした。

なんかただの身の上話になってしまいました。
あんまりここにそぐわないお話かも知れませんので、初めてここを見る人は勘違いしないで下さいね。(笑)

586 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/19(月) 17:48
何だか身につまされるお話です。その苦悩の一端が分かるだけに心が痛みます。
 いっぺん気持ちをチャラにして、じっくり考えてみるのもいいかも知れない。私はそうしてます。心は複雑ですが、気持ちは軽いです。

587 名前: やーこ。 投稿日: 2002/08/19(月) 17:58
富士桜さんへ。

いろいろあるけどがんばれ、といいたい気持です。
自分も実はかきこみに似ている感じです。プライベートにかかわることですのでここではこれ以上言えませんが(また別の機会に。)。
私は、組織と信心は別物と捉えるよう考えています。
今の現法華講には、モラルも何もない、という意味、日蓮正宗のあるべき信心とかけはなれていると絶望し、切り放して生きています。
が、この信心は信じる私にいい影響を与えてくれた。だから、組織と闘いながら信仰を続けています。

588 名前: やーこ。 投稿日: 2002/08/19(月) 18:00
続き。

多大なる金額を迫る者、信心を持ちながら威張る者などには必ず天罰が下ります。私はこういう方を沢山見てきました。

安心してください。

589 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/08/19(月) 21:16

80566 ゲットしました。

590 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/19(月) 21:42
やーこ。さん

ここは「ツブヤキすれっど」ですので、やーこ。さんへの質問を「素朴な疑問」に載せています。お考えを聞かせて下さいませ。

591 名前: 富士桜 投稿日: 2002/08/19(月) 22:24
やーこさん
お久し振り!ありがとうね!嬉しかったです。
でも自分もだらしない所あるのでもう少し「自分探し」します。
なんだか色々疲れちゃったみたいだから、少しのんびり行きます。(笑)
でもね、法華講って言う組織に恨みはないんだ。
俺みたいな未熟者が「この仏法はなんだかわからないけど正しい!」って言ってる方がよっぽどやばいかもしれない。ほんとに。。。
もう少し自分の為にお題目を唱えたいって思ってます。

五月雨さん
はじめまして。
最近は独歩さんと五月雨さんととの対話がとても自然で、自分も読みやすいですね。自分はなにも知らないお馬鹿さんな法華講です。ほんと御書すらまともに読んでいない割に、裏話ばかりを追っかけて肝心な事を何も知らない奴なんです。
不器用なので、気持ちを切り替えるのは難しいです。
チャラにはならない事も引きずっているので(笑)そんな自分も大切にしながら、色々考えて、行動したいと思います。ありがとうございました。

592 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/19(月) 22:52
富士桜さん

はじめまして ご挨拶が遅れてすみません。ここはつぶやき専門なので、問い掛けは自粛しておりました。由にやーこ。さんへのご質問も素朴な疑問に載せました。挨拶もしない無作法な人間と思われたとおもうのですが、そういう事なのでご了承下さい。

>自分はなにも知らないお馬鹿さんな法華講です。ほんと御書すらまともに読んでいない割に、裏話ばかりを追っかけて肝心な事を何も知らない奴なんです。

何をおっしゃいますやら。アホは私に任せてください。信心二十数年していますが、全く何も知らないのは今までの書き込みで、恥ずかしながら暴露している私です。
富士桜さんも、いろいろと大変な事がおありの様子ですが、解決の糸口のひとつに「真実」を見つめるというのもあると思います。真実は真実として素直に受け止めていく中に、道は開けていくのではないでしょうか、と自分ではそう思っています。お互いに前向きにやっていきましょう。
これからもどうぞよろしくお願い致します。

593 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/19(月) 22:59

富士桜さん:

お久しぶりです。いただいたお花、花は終わり葉ばかりになりましたが、青々と元気です。余計なことは書きませんが、いろいろとお有りだったのですね。

いちばん大切なこと、それは「距離感覚を掴むこと」です。宗教と距離、同一信者との距離、寺院との距離、法華講との距離、時には本尊との距離も含めて、それぞれの自分との距離感覚をしっかり掴んでいくこと、これが大切なことです。

熱狂的な信仰というものは、しかし、この距離感覚を麻痺させ、一体感を煽るものなのです。この距離感の麻痺は人間関係、生活全般に及び、人生を狂わせます。その時の処方箋は唯一つ、距離感覚を掴み直すことですよ。

594 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/19(月) 23:39

593に関連しますが、真跡中には「異体同心」という語は一度たりとも、使用されていないのですね。

595 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/20(火) 00:38
富士桜さん

富士桜さんのレスを読ませて頂きました。
もしかすると富士桜さんには酷なことかもしれませんが、レスを読んでどうしても私が最も同情してしまうのは‥、富士桜さんの別れた元彼女なんですね。
別のレスでも書いたと思うのですが、女性が信仰に突っ走るキッカケの多くに、「心の孤独」が多いものだと感じるのです。今一番、心の孤独と必死で向き合っているのは、元彼女ではないでしょうか。そのつらさが痛いほど私にはわかるだけに、富士桜さんを信じて入信した法華講に彼女がひとり取り残され、今どうしているのかが逆に気にかかってしまったところです。
法華講の信心のまやかしに翻弄されてはいないのでしょうか。自分の結婚が破談になったことを「過去世の業だ」などと思ってはいないでしょうか。思っていなくても、講中の他の人からそんなことを吹聴されたりしていないでしょうか。

人を好きになる、嫌いになる、心が惹かれてしまう、離れてしまう。これらは基本的に、計算してコントロールすることの不可能なことですね。こうした心の変化が優先されることが恋愛の掟であり、一方で優先することのできない、しがらみや情を培っていくのが結婚のある意味で醍醐味なのだと思います。
恋愛と結婚の違いを突き詰めると、ここにあるものだと私はつくづく自分の経験から思います。

富士桜さんとの別れを迫られた元彼女は、今、自分の人生のためにその現実を時間をかけてでも受け入れるしか道はないことでしょう。
せめて結婚という社会的な契約に至る前であったことは、お互いに不幸中の幸いで良かったのだと思います。
だけど元彼女がそのような達観した境地に至るまでには、大変な時間がかかることと思います。もしかすると自分の人生の一切を共に一緒に背負って包み込んでくれる新しい出会いがあるまでは、完全には立ち直れないかもしれませんね。ただし、そのお相手は少なくとも富士桜さんではなかったということをまず、彼女は冷静に受け入れなければならないんですね。それが受け入れられるまでは恐らく、消えてしまいたいくらいつらく苦しい孤独な日々を送ることと思います。

だけど、それは富士桜さんのせいではないのです。恋愛に心を注いだ人は誰しも、そのリスクを負うことを覚悟しなければならないんですね。そこがまた逆に恋愛の醍醐味であると私は思っています。

596 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/20(火) 00:41
(595からつづき)

そのうえで私は富士桜さんの選択を最大限尊重しますし、自分が自分らしく幸せになろうとすることは、どこかで誰かの心の犠牲を強いるものだと思います。

だけど一方でやはり、同姓として元彼女のことも気になり、そのことを富士桜さんに伝えたい衝動にもかられ、余計なことと思いつつ書いております。

富士桜さんの信心活動の心の変遷と、元彼女への心の変化とは別に考えてあげたほうが良いのではないでしょうか。彼女への気持ちの変化は、本来、信心の変化とは関係のない、恋愛上のエゴだということ。そしてそこに目を向けられ気がつくことが出来たのは確かに信心の変化によるところだったかもしれませんが、これらは富士桜さんの中では関連したことのようであっても、元彼女にとっては本当は関係のないことだと思うのですね。もしもそこが関連したものとして彼女に別れが告げられているならば、恐らく彼女は今もそのことで苦しみながら信仰の場に身を置いているならば、それはとても可哀想なことだと思うのです。

恋愛とは基本的に心がエゴイストであることが許されるものであると思うんです。社会的契約に裏付けられた結婚であっても、相手の内心の変化まではどうすることも出来ません。どんなに生活を共にしても、どこで誰に心を寄せてしまうかというところまでは、誰も束縛することはできませんね。仮に相手の命を奪ったって、心まで奪うことは出来ません。
もしもそこに信仰者としての振る舞いを考えるとするならば、一切の気持ちの変化を相手に隠し通して、さらに行動を抑制すことしか道はないかもしれません。
恐らくそれがこれまでの富士桜さんの状態だったことでしょう。
だけどそれは、心が正直な人には大変難しいことですし、また信仰などで直感力を下手に培ってしまったりすると、どうしても相手の心の変化が読めてしまい、お互いにもっとつらいものがあったりもするものですね。

余計な恋愛論を連ねてしまいましたが、本当に心の底からの「笑顔」が取り戻せないのは元彼女なのだと思いますね。そんな傷心の彼女がそのままカルト教団に残るということは、最も危険な状態にあるのではないでしょうか。
だけど、もはや今の富士桜さんにはどうすることも出来ないことでしょう。私は恋愛上は富士桜さんに同情の気持ちは持てず、どこまでも元彼女に同情の心を寄せてしまいます。だけど、富士桜さんの人生の選択は尊重し賛同するものです。誰に何と非難されようとも、自分の心の変化に気がついたときに事態をひっくり返す勇気は必要です。そのことは法華講の人でなくても、一般的に非難されるものかもしれません。その点は元彼女に同情するところなのです。だけどその非難を覚悟で自分の気持ちに正直になれた富士桜さんにもまた、私は心からエールを送ります。
そして今は苦しみの中にいる彼女もいつかきっと、富士桜さんの選択を自分にとってもプラスだったと思えるときが必ず来ることと思います。

597 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/20(火) 00:46
夏休みで、しばらく家を留守にしており、久しぶりに掲示板を開きました。盛りだくさんの内容で、どこからレスしていいか戸惑ってしましたら、一番に心を動かされたのは富士桜さんのレスでした。
他に返信を頂いていながらすっかり間が空いてしまって、失礼してしまっております。追々、書き込んでいきたいと思います。

598 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/20(火) 12:05

以下のこのツブヤキは富士桜さんとはまったく関係のないことです。まずそう断っておきます。

大石寺系グループの人たちから「折伏を受けた。どうすればよいのか」という相談が、よく私のところへは寄せられます。そのなかで、いちばん多いのは「結婚問題」あるいは「恋愛問題」に絡んだ相談です。

「結婚しよう」と言われて喜んでいると「結婚するのには条件がある。自分と同じ信仰をもってほしい」という形の折伏です。なぜか、この手の相談が全体の8割強を占めています。それも創価学会、顕正会、法華講に共通してこの相談があるのです。

「結婚」という言葉は強い説得力を伴いますね。異性の、好感を抱いている人から言われる言葉は強烈な力を持っています。折伏する本人に悪意があるかどうか憶測の域を出ませんが、この「結婚」をエサに、次々と異性を折伏する被害の報告を受けるわけです。ひどい場合は、複数の相手に結婚話を持ち上げて折伏するなどという不届き者もいます。

「私は法律的な見地から対処したほうがよい」と助言することにします。なぜならば、これでは結婚詐欺紛いにしか見えないからです。

私がかつてお世話になった講頭はこの手の折伏に対しては実に厳格でした。「結婚を前提に折伏したら絶対に結婚しろ。途中で投げ出すんじゃない!」鉄工所の親父さんだったその講頭は普通の2倍もありそうな太い腕を振り回しながら、青年に教訓していたものでした。

話が終わり、青年を帰すと、講頭は私のほうに向き直り、「まったく下半身から折伏なんかしやがって、信心をなんだと思ってんだろうか」と大きな溜息を吐くのが常でした。この講頭は、この手の折伏を…言葉が悪いのですが…「下半身折伏」と呼んで、特に嫌っていたものでした。

私は結婚を前提に折伏をすることを直ちに悪いというものではありません。しかし、それら条件に基づいて折伏をすることは、けれど不純であるとは思います。

しかし、もしそのように、結婚を前提を折伏し、入信させ結婚することもあるでしょう。それでも、そのグループをやめることになるときもあるでしょう。であれば、折伏をしたときと同じように心を尽くして話して、共に脱会するべきであると思います。(ところが実際は折伏されたほうがかえって熱心になっているなどという事例は多いのですが)

前にも書きましたが、オウム真理教であったという私の友人は、300人もオウムに入れました。脱会後、その300件の家族を訪問し、脱会を進め、謝罪して歩いたといいます。もちろん、すべての脱会に成功はしませんでした。家族や本人から罵倒され、蔑まれ、恨み言を投げつけられながら、それでも彼は自己責任を果たし続けたのです。
私は彼に心から敬意を表しています。

599 名前: 富士桜 投稿日: 2002/08/20(火) 13:28
つぶやきスレッドでの独歩さんの提案を過去ログで見ました。
五月雨さん、独歩さん、アネモネさんへ素朴な質問に御返事書かせて頂きました。

犀角独歩さん

いらっしゃっていたのですね。
このお話は自分の身に当てはめて読ませて頂きました。

600 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/20(火) 21:00
富士桜さん

ご返信ありがとうございました。「素朴な疑問」でご返信を頂いておりますが、あちらは話題が別な観点に移っておりますようですので、こちらでご返信させて頂きます。

>「業」と言われるのは自分の方です。

私が言うまでもないことと思いますが、富士桜さんにしたって業なんかじゃないですね。仏教上でもしもなにかがあるとするならば、きっとそれは「縁」なのだろうと思ったりします。

>カルト教団なのかどうかは今の自分に判断は出来ません。

これは私の印象で決め付けてはいけませんね。ましてや富士桜さんは、今そのことを自分の目で見極めようとしている真っ最中なのだと拝察します。私の断定的な言葉など気にせず、時間をかけてでも、自分の目でとことん見極めて下さい。そしてもしも私と違う結論になったら、そのことを掲示板で教えて下さいね。

>アネモネさんの文面から、自分に同情は持てない事はよく分ります。

お寺の中での富士桜さんの置かれた立場には、とても同情しますよ。だけど恋愛については、恐らく今の富士桜さんは、きっと気持ちが充実されているのではないかと思ったりもします。それは同情ではなくて、共感に近いのかな?いや、今の私が恋愛で充実しているわけではありませんが‥。
いずれにしても新しい彼女との出会いを通して、いろんなことをお互いに吸収していかれていることと思います。きっと新しい彼女の方は、法華講組織とは関係のない立場の方とお見受けしますが、かえってそのことが富士桜さんの心の再生に良い影響を与えているのではないでしょうか。そのような気持ちの充実感は、同情ではなくてとても共感を覚えるのです。今のその気持ち、そして今の彼女の存在を大事になさって下さいね。

>ですが、恋愛のみに目を当てるのだとしたら、男女どちらも原因はあると思います。

まさしく恋愛の厳しい掟ですね。結婚を前提に長く付き合っていくうちに、安心感からいつしか緊張感もなくなり、相手を思いやる気持ちも薄れていくものです。そのことに先に気付いた方に、次の出会いという「縁」が早く訪れてしまうのは自然なことかもしれませんね。別れがきて、相手の心が自分から離れてしまっていたことにようやく気付き、そして相手のことをいかに大事にしていなかったかということにも気が付くものです。そして本当はいかに大事だったかということにも気が付き後悔もするのです。
だけど覆水盆に返らずで、もはやどうにもならない現実に自分を悔やみ、運命を恨み、相手を罵り、そして嫉妬する。そうやって七転八倒しながら、ようやく実は縁がなかったんだと思える時がくるのだと思います。
富士桜さんのおっしゃるとおり、恋愛はフィフティ・フィフティだと私も思いますよ。
601 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/20(火) 21:01
600からのつづき)

>一時期の誘惑に乗った考え方ではありません。何年もかかった結果です。彼女が出来たからと言って僕も本当の「笑顔」になれるのは時間はかかると思います。

彼女の前では心のままに笑顔でいていいんですよ。なんてことを言うと、私も富士桜さんのこと、上げたり下げたりしていることになるかもしれませんね(笑)ごめんなさいね。
だけど済んだことをいつまでも引きずっていては前へ進めないです。また元彼女に変な期待を持たせるようなことにもなりかねません。かえってそれは元彼女を益々不幸にするだけです。
私が富士桜さんに対して同情しないというのは、うーん、もっと適切な言葉でいうと、心配しないといったほうがいいかもしれませんが、普通の感覚みたいなものを取り戻しつつあるように見受けられるからなんだと思います。掲示板にも参加され、カルトとまでは断定できなくても、大石寺のまやかしに対しても向き合っていらっしゃり、ある程度掴んでいらっしゃる。少なくとも、現状に目を向け問題意識を持ち、掲示板に投稿しながら他の人の言葉にも耳を傾けていらっしゃる。
それこそなんか上からものを言うようですが、そんな富士桜さんには心配しないのかもしれません。

まして人間性をある程度取り戻したところで、新しい出会いを育みはじめていらっしゃる。大変な中傷を講中で受けていらっしゃるようですが、こういう被害を受けることによって教団への距離感を持つキッカケにもなるんですね。私ももちろんそうでしたし、五月雨さんにしても、また独歩さんにしてもそういう非難を経ているわけで、これは振り返ると、実に有り難い「難」だったということになるんですね。

ところが一方で、元彼女は、信心に盲信してしまうかもしれない状況にあるなぁと感じるんですね。独歩さんの別のレスにもありましたが、折伏を受けた方がかえって熱心になるケースが多いというやつ。私が最も心配するのはそこなんですね。恋愛はフィフティ・フィフティですが、この点は元彼女はかなり無防備・無警戒だったのではないかと思います。
私だって入信のいきさつには「心の孤独」がつきまとっていたことは否めませんし、私の友人にも夫婦仲がうまくいかないことからある信仰に盲信しまった人もいます。また、私の所属するお寺にもそういうケースがあります。厄介なのは、本人は愛する人を失った悲しみを抱えて真剣に信心をしようとしているというのに、住職や幹部は、そんな彼女の熱心さに乗じて、その人の病気の親を折伏の頭数に入れようと必死なんですね。彼女の心の孤独も苦しみも、なにも考えてない。本当に無神経なんです。だけど彼女は、心無い住職や幹部の言葉に必死で従っているんです。そうしなければ、自分の不幸は続いてしまうと思っているのです。見ていて本当に痛々しかったです。
そのときの彼女には、実際には折伏などのような活動の気力などほとんどないんです。寝込むほど意気消沈していたんです。日に日に痩せ細っていき顔色も血色がなく、本当に痛々しかった。私にもそんな日々があったのでよくわかるのです。

602 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/20(火) 21:03
(601からのつづき)

そのときの彼女に本当に必要なのは、完全な同情なんですね。それも下手な慰めでなくて、同じ心の苦しみを経験した人の生の慰めの言葉がなによりもの癒しになるんですね。この苦しみと孤独を経験しているのは、自分だけじゃないんだというある種の悟りが必要なんですね。本山で彼女と少し話しをすることがあり、そのことを強く感じました。
そして、それはどんなに唱題や折伏や活動をしても、決して悟れるものではないと、それこそ私は悟りましたね。「悟り」ではおこがましいので、「掴み」のほうが適切かもしれません。
だけど彼女には、住職や幹部にせかされる折伏の使命みたいなものがのしかかっていたのだと思います。当の住職や幹部は、彼女の心の苦しみなど全然解っていない。せいぜい、それは本人の宿業だから折伏すれば変わるんだみたいなところです。デリカシーのかけらもない。これ以上彼女に余計なものを背負わせないでほしいと思いましたよ。本当に心が壊れてしまいます。だけど、いつしか彼女はお寺にも来なくなってしまいました。なにがあったのかは、私にもわからないのです。私も同様ですから、それで良かったのだと思います。
私は、日蓮聖人の心細やかな信徒へのお手紙が大好きなのですが、お寺の彼らの中に、そのような心優しく細やかな聖人の姿を見ることは全く出来ませんでした。難しい教義のことは私には言えませんが、だけどこれだけははっきり言えますね。日蓮聖人の面影がこの教団のどこにもないということです。このことはお寺の人にも随分言ってきました。

>ですがアネモネさんの御意見には目をそらさないよう大切にしたいと思います。本当にありがとうございました。

偉そうにわかったようなことを書き連ねた私に対して、お礼の言葉を返されるなんて‥、どれだけ今の彼女とのご縁を大切になさっているかがよく伝わりました。どうか今の気持ちを大事になさって下さい。
重ねて書きますが、非難を覚悟で苦渋の選択をした富士桜さんに、私は心からエールを送りますよ。こうみえても私は、恋愛至上論者を自負してます(ちとオーバーですが)。だから同情こそしませんが、富士桜さんの心の理解者のつもりです。
私的なことだって構わないじゃないですか、これからもどうか心の内、レスを続けて下さい。

603 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/20(火) 21:05
(602からの続き)

独歩さんへのレスですが、不遜ながら少しコメントさせて頂きます。

>一時的に意識して離れてみます。

とても良い方策だと思います。物理的な距離をとることが有効なんですね。そうすることで、教団や信徒の実情の姿が見えてくることと思います。

>両極端な性格に時には自分でもコントロールが難しい時もあります。

よくわかります。思い込みの激しい私もまさしく同じです。だけど、そのことに気がつくことが重要ですね。よく言えば、情緒豊かで、感受性が強いということでもあるんですね。その性格のマイナスの面とプラスの面を知って、自分の心がどちらに働いているかを自分なりに観察できるようになるといいんですね。それでもどうにもならないこともありますが、だけどわかっていれば、後からの反省も早いです。

>現実を見失わないよう、この距離の意味を自分なりに探してみようと思います。

なんでもそうですね。人との関係もその距離感を掴むことは難しくも大事なことだと思います。距離感が掴めないうちは、その関係に翻弄され振り回され、それこそ執着してしまいます。結局は、なにごともバランス感覚なのだと思います。「過ぎたるは及ばざるが如し」ですね。何かを思い込み、極端に走りそうになったとき、そのブレーキの役割を果たすような信仰のあり方みたいなもの、私も模索しています。

604 名前: 富士桜 投稿日: 2002/08/21(水) 00:05
アネモネさん

御返事をありがとうございます。
ですが、さんざん書き込んで申し訳ないのですが、これ以上自分個人の身の上話をこの掲示板に書き込むのは相応しくないと感じますので、よろしかったらメールをください。アネモネさんへの返答を書き込みたいと思います。

605 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/21(水) 01:33
富士桜さん

なにか私も個人的なことに意見ばかりしているようで、すみません。
ご挨拶方々、メールお送りいたします。

606 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/08/21(水) 20:59

81013 ゲットしました。

607 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/22(木) 01:55
550)モモさん

ご返信を頂いておりながら、夏休みで旅行などに出ておりまして、レスを拝見するのが遅くなりました。

>長いレスを頂いてありがとうございます。しかし正直いって私にはいまいちピンときません。がっかりさせるようで申し訳ありません。

いいんですよ。同じものを見ていても、それをどう感じるかは人それぞれですね。今のモモさんは、大石寺の三宝義が真理なのだと信じられるのだろうと思います。一方の私は信じられない。まずそこがはっきりしていることです。

最近は私自身がお寺に参詣しなくなったこともあって、宗教についての議論というのは、ここの掲示板でする他には、時々訪ねて来るエホバの人との会話くらいになっているんです。いろんなエホバの人が来るのですが、マニュアルがあるんでしょうね。必ず言うことは、「真理はひとつのはずですね」から始ります。なにげに「ですね」と言われると、素直な人は、頷いてしまうものです。だけど実は、頷いてしまう素直な人というのは、たいてい何も考えていないんです。話の調子をあわせているだけなんです。私はそれなりに相手の話を聞いていますから、「私はそうは思いません」と返します。
真理がひとつだということ自体が真理かどうかは私にはわかりません。しかし、エホバの人はそれを証明するためにひきあいに出すことは、「1+1=2ですね。だから真理はただひとつです」なーんてことを言うわけです。モモさんは数学はご専門ですから、笑ってしまうのではないでしょうか。私だって吹き出しそうになりながら、「それは十進法での話で、仮に二進法になったら1+1=10ですから真理はひとつじゃないってことになりませんか?」と返します。すると相手の方は、「だけど、一般的な私たちの生活では1+1=2と決められているわけで‥」と辻褄あわせに必死です。

なにげない会話ですが、盲信する人の心理が出ていると思うんです。1+1=2という十進法の世界だけに通じる真理でものを考えている。それだけでも視野が狭い。私からしたら、真理の追究が甘いと言いたくなるんですね。
十進法の1+1=2は、いわば固定観念です。固定観念に捉われている間は、真理の探究は出来ないと思うんです。日蓮聖人にしても、お釈迦さまにしても、イエスにしても、ソクラテスにしても、共通するのは固定観念の打破だと私は感じるんですね。
そういう点では「信」から始っているのではなくて、「疑」から始っているという見方も出来ると思います。
本当に自分自身が真理を掴もうと思うならば、疑うことを恐れてはならないと思うんです。疑いから始った「信」ほど揺るぎないものはないと思います。それを日蓮聖人はされたということを見習うべきだと思うんです。そして、大石寺の三宝義を本当に信じたいと思うならば、まず大石寺の三宝義を疑うところから始めるべきではないかと思うのです。

608 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/22(木) 01:56
(つづき)
モモさんも「コンタクト」をご覧になっていたようですが、真理の探究とは、「信」と「疑」の両刀使いの冒険ではないでしょうか。その冒険の果てに本当に真理が証明されるならまだ良いほうです。だけど、実際には変人呼ばわりされて信じてはもらえない。それを信じさせるためには、何を実証しなければならないか。信じさせるということは、簡単なことではないんですね。簡単なことではないから、「信」が大事だとして信じさせる。この論法、トリックを悟らなければならないと思うんです。

だけどそんな理屈はともかくとしても、ある人がひとつの真理のために探究し冒険する信念に心打たれて「信」に至る人も出てくるのです。ほとんどの宗教開祖の最初の教団の成り立ちはそうだったと思います。

そこで、モモさん自身がどれだけその探究という冒険をされたでしょうか。もっといえば、750年間の大石寺がどれだけ真理の探究をしてきたでしょうか。主張するのは、血脈相承だけ。伝えられてきたことだけなんですね。それだって真偽が定かではないことが逆に証明されてきているわけです。伝えられてきたことは守ってきたとしても、さらなる真理の探究や冒険がないということです。私の言葉でいえば、日蓮の姿もなければ蓮長の姿さえもないということです。

話しをエホバに戻しますが、要するに、「真理はひとつのはず」ということを、エホバの人は信じたいだけなんです。信じたいことが、信じていることと錯覚し、それが真理として人にも信じさせられるものと思っているわけです。

結局、「真理はひとつ」は私には通じないと思って話題を変えるのですが、私も聖書の言葉は懐かしいものがあるので、時間があればひとしきり会話に付き合うのですが、最後に私から話すことは、「要は、あなたはこれが正しくて唯一の真理だと言っているけど、結局は好きだから信じているに過ぎないんじゃないかしら。人間は不完全な存在だと言ったのはあなたで、不完全な存在のあなたが、正しいとか、唯一の真理だなんて言ったって説得力ないし、結局、正しいからというよりも、その教えが好きだらあなたは信じられる。それだけじゃないの?」って言うんです。すると相手は、完全否定されるよりはマシで頷かれます。だけど私はさらに言います。「じゃあ、正しいからとか真理はひとつだとか前置きして伝道するんじゃなくて、私はこの教えが好きだから聞いて下さいって伝道なされば?そのほうが良心的だと思います」って言うんです。

結局、信じることが大事といっても、なぜそれが信じられるかは、その教えが好きか嫌いかになると思うんです。つまりそこは感性の問題ですね。

同じことをモモさんにも言いたいんです。モモさんは大石寺の三宝義が好きなんだと思います。だけど、好きに乗じて自分の力で探究していない。そうではないですか?大石寺の言葉、それに完全に寄りかかっていませんか?

609 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/22(木) 01:57
(つづき)

>ただ不完全性定理は「真理とは公理からなる論理で示すことができない」
ことを示しており、そこに真理を「信ずる」ことの重要性を逆に示しているのでは、と
思います。

私は数学は弱いので、論理的なことも文学的に捉えることしかできないので、私流で感想を述べることを許して頂きたいのですが、もしもモモさんの言われるように、不完全性定理が「信ずる」ことの重要性を逆に示すために「真理とは公理からなる論理で示すことができない」と理論立てられたものであるならば、それは単なる探究不足の逃げ口上だと思うんですね。

思い切って科学的見地から、「信ずる」ことの重要性というものを疑ってかかってみてはどうでしょう。信ずることが重要だというならば、「信じさせる」ことはもっと重要なことだと思うんです。
疑ってはならないと教えられているかもしれません。だけど、考えてもみて下さい。日蓮聖人が「日本一の智者となし給へ」という請願を立ててから、立宗までの間の遊学の期間、「信」と「疑」のどちらの比重が大きかったでしょう。私は半々だと思うんですね。私はこの期間の聖人にけっこう惹かれるんですね。ところがこの期間のことはなかなか語られてません。だけど私は、この期間こそ重要だと思うんです。立宗に至るまでの聖人の遊学という真理の探究。この姿勢こそ、私は見習いたいなと思うんです。だから、疑ってかかってみるんです。自分なりの結論が出るまでは疑うことが大事だと思うんです。その探究の末に見出した自分の真理を、最終的に信じればいいと思うんです。それが本当の信念ではないでしょうか。

>そして大石寺にとって真理とは南無妙法蓮華経である、と教えるわけです。

そうですね。だけど、そのことを人に話すときどのように話されますか?日蓮聖人の時代とは状況が違います。いきなり、「南無妙法蓮華経は真理だ。それを唱えれば幸福になれる」そんなことを言って信じさせること出来ると思いますか?そんなふうだと、聖人が必死で掴んだ真理が、ただの呪文として広まるのではないかと私は思います。五月雨さんも書いているように、聖人の真理を「鰯の頭」にしているのと同じなんですね。日蓮聖人の真理を鰯の頭にするかしないかは、私たちも含めた後世の人の更なる真理の探究に左右されると思うんです。

もう数年前になりますが、まだ私が大石寺の活動をそこそこやっていた頃、仕事で出向いた先からの帰り電車をホームのベンチで待っていたとき、私と同年代の女性が倒れこむようにして隣に座り込んだのです。その人が横に来ただけで、強烈な薬の匂いがするんですね。様子がどうもおかしいのです。「大丈夫ですか?」と声をかけると、消え入りそうな声で「大丈夫です」と返答されました。電車の中で隣り合わせに座ったのですが、たぶん精神障害、恐らく鬱病なのではないかと思います。何かの縁でしょうか、ふた駅ほどの期間でしたが、彼女は病院に行くところだとか、失恋が原因でこんな状態になってしまったとか、いろんなことを話しておられました。時には私の持ち物や洋服などにも興味を示したりと、話があちこちに飛びながら、ずーっと彼女は喋り続けていました。私はとにかく彼女の話を聞いてあげたいって思ったんですね。
明らかにその人は幸せな状態ではありません。私は大石寺の信者として、彼女に南無妙法蓮華経と大石寺のことを教えなければならないだろうかと、彼女の話しを聞きながら、短い時間でしたが随分と悩みました。だけど、結果的には私は何ひとつ仏教のことを彼女には話さなかったです。その理由は、まず呪文のような形で題目を伝えたくはないということ。もうひとつは、大石寺が彼女を救えるとは思えなかった。この2点が理由です。
私には「信」がないからだと思われるかもしれませんが、私は無責任なことはしたくないんですね。無責任なことはしたくないのですが、今の自分に出来る最大限のことはしたいのです。それは、彼女の会話に付き合うということでした。

610 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/22(木) 01:59
(つづき)

>そしてそれをアネモネさんお示しの通り論理的に証明は出来ないわけですね。
一般論として言えば、いちりんさんのお示しのとおり
「真理(真実)かどうかは我々にはわからない」のかもしれません。

そうですね。大石寺の三宝義が真理かどうかは、いわゆる数学的な論理で証明されることは出来ない。だからといって、真理ではないということも断定できない。証明できない真理もあるということですね。だけど正しいと宣言する以上は、論理的にしろ情緒的にしろ、それを証明することが迫られるものです。
となると、次は自分の感性で証明するしかないですね。それを、モモさんは、御開扉の感動で示そうとされたわけです。だけど、既に私のようにしらけている人もいるわけです。となるとそれは「信」がないからだということで、また不完全性定理が出てくる堂々巡り。
堂々巡りからそれこそ解脱するには、「信」があるか否かではなくて、信じられるか否か、信じさせられるか否か、ここに意識を向けられてどうでしょうか。モモさんが信じられるならば、それを自分の感性から、自分の言葉で信じられる理由を訴えればいいんです。それに共鳴すれば、あらためて大石寺の三宝義を信じる人も出てくるでしょう。

もうひとつ記しておきたいことがあります。
信じている人は、疑いを持つことの謗法をものすごく恐れているんですね。この掲示板での大石寺のまやかしというある種の結論に、頭の片隅でそれなりに納得はしても、それでももしも大石寺が正しかったら大変な謗法になってしまうという恐れがものすごくあるという人も多いと思います。モモさんもその一人ではないかと思います。そういう畏敬の念も大切かもしれません。しかし逆にもしも正しいと信じていることが万が一間違いであったら‥という恐れはほとんど抱かないんですね。こちらの場合の謗法も大きいと思うんです。たとえ自分が強引な折伏などをしていなくても、与同罪というのもあるわけですね。自分が正しいと思っていることがもしも間違っていたなら‥という危機意識。このことも真剣に考えることは大事だと思います。これが正しいという真理は、あせることなく一生をかけてみつけていけばいいのではないでしょうか。あせって、間違った真理を真理と思い込むことの恐れというものも、目を向けて頂きたいなと思います。

長々と書きましたが、もしもご返信が頂けるならば、モモさんにお聞きしたいなと思うことがひとつあります。それは、モモさんの入信のいきさつです。もしも差し支えなけはれば、レスして頂けないでしょうか。

611 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/22(木) 02:51

どうでも好いかも知れませんが、私は日蓮の教えを語るのに、どうも「真理」という言葉は馴染まないですね。

事の仏法とか言いながら、なんで真“理”なんでしょうか。
事法門と真理というのは、元より親和性がないのだろうと思います。

南無妙法蓮華経は、少なくても真“理”ではないですね。事の法門でしょう。

アネモネさんが語るエホバの勧誘者との会話、興味がひかれます。

以前、社会心理学の博士と話をしているとき、私がなにげに「真理は一つでしょうからね」というと、その先生は「それは自然科学の話でしょう。人文科学ではそうはならないんですよ」と教えてくれました。人間の心はいくつもの真理を兼ね持てるキャパがあるということですね。

私は一念三千という言葉を真理だとは思いませんが、ここでも一念に三千の解があることが示されています。しかし、それは三千ではなく不思議一である、けれど、一でもないとナゾナゾのような記述が続くのが天台の釈でした。

612 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/22(木) 13:02
犀角独歩さん

>どうでも好いかも知れませんが、‥

いえいえ、とんでもない。どうでもいいことであってはなりません。ご指摘くださってありがとうございます。
常々独歩さんは、この「真理」と「事の法門」についての違い厳格に記されておりました。
私は、自分の言葉で語りすぎるところがありますね。自分の感じたことはそれでいいとしても、教義についてはそうはいきません。どうぞこれからも遠慮なく間違いをご指摘ください。

613 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/22(木) 16:57

612 アネモネさん:

けっしてアネモネさんのご発言について申し上げたわけではないのです。
大石寺系グループ全体にこのような傾向があるなと言うことです。
いつも、余計なことを記してしまい申し訳なく思います。

614 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/08/24(土) 09:24

81534 ゲットしました。

615 名前: モモ 投稿日: 2002/08/26(月) 00:39
真理=法身と理解しておりますが、違うのですか?

616 名前:投稿日: 2002/08/26(月) 02:21
[ゲーデルが証明した形式論理体系の不完全さを閉める数学の定理。直感的にいえば、「世の中には正しいとも正しくないとも判定できないことがいくらでも存在する。そして自分自身の論理の中だけでは自分自身の正しさを証明することもできない」という内容である。…(後略)]
イミダス1996 、 集英社より

「不完全性定理」を持ち出すならば、石山義が無矛盾の公理系であることを示さなければなりません。
今、問題になっているのは、果たして石山義が無矛盾の公理系であるかどうか、です。
「石山義は、大聖人の義を正しく伝えている」と「石山の三宝義」が無矛盾であるのか、ここが問われているわけです。

さて、石山義が無矛盾の公理系であることが証明されたとして、それで何がわかるかというと、実は何もわからないわけです。
だって「不完全性定理」とは、「自分自身の論理の中だけでは自分自身の正しさを証明することもできない」という定理なのですから。

617 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/26(月) 09:59
モモさんが、いかようにしても石山の定理?が正しいと思いたいというお気持ちは、痛いように分かります。
「日蓮大聖人様の仏法=日蓮正宗は絶対に正しい」と、私も思い込んで、または、思い込まされてきました。絶対に正しい信心をしているという思い込みが、自身の自負心になり、変な選民意識に昇華して、信心していない人を軽んじてみたり、果ては学会員に「地獄に堕ちる」と言ってました。
今思うと赤面の至りなのですが、そう信じている時って気付かないものです。
モモさんは、きっと少しは石山の教えに疑問がおありなのでしょう。でも信じたい気持ちの方が勝って、真実から目をそらしているように見えます。真実を見据えても、大聖人様の教えが消えるわけではありません。私は法華講という組織から離れてはいますが、信心をやめてはいません。大聖人様の本当の教えを探しながら、大聖人様に帰依しているのです。
大聖人様の教えの真実は模索中ながら、今の石山には無いというのは分かりました。
ひとつの証明として、今やってる三十万登山があります。個々のお寺に割り当て人数がありますね、ウチのお寺は158人の割り当てです。世帯数が80あるかどうかというお寺で、お寺に参詣する世帯は40も無いでしょう。総人数でやっとこさ170人のお寺に158人の割り当てはどう考えても無理です。ひとりの人間がリピーターにならなければ、数をこなす事は出来ません。お年寄りが何度も登山する姿に、どうしてここまで無理をさせるのかと憤りを感じました。無論参加する年寄りは、何度も登山する事の大事を吹き込まれているから、喜んでしていますよ。だけども立宗750年の慶祝に、無理やり登山させるのは何が目的かと言いたいのです。「ただいま、本山では立宗750年の慶祝記念行事をしております。篤信の信徒の方々もどうぞご自由にご参加下さい。」と何故言えないのでしょうね。
無理強いをはたらく石山は、大聖人様の教えに適っていますか。

618 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/08/26(月) 15:08

82004 ゲットしました。

619 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/26(月) 15:43

> 真理=法身

私はまるで違うと思っています。

620 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/08/26(月) 20:59
無知な人間のクダラナイ戯言を少しばかり・・・

昨日、渡辺照宏氏の著書「仏教(第二版)」(岩波新書 1974年)を読み終えました。仏教の起源等について記されていましたけれども、私の正直な感想はと言えば、インドで当時釈迦が説いた仏教と、今現在の日本における仏教とでは、何かまったく趣を異にするものであるかのような印象を受けてしまったといったところなのでございます。
釈迦は実際のところ、いったい何を悟り、何を言わんとされていたのか?と・・・

日蓮聖人は、釈迦の本意・真実の教えは法華経であると判断されましたが、しかし、その法華経自体が釈迦滅後、ずいぶん経って大乗仏教の推進たちにより作成されたという事実。それに、サンスクリット語から漢訳された際、本当に正確な訳であったのか?といった疑問も。鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」、竺法護訳の「正法華経」、闇那崛多・達磨笈多による共訳「添品法華経」等の間に、微妙な相違があるといった事について、どのように考えるべきであるのか・・・?
また、法華経に限らず他の経典にしたって、いったいどこまでが真実であるのか?と・・・
疑って行くなら限がございませんけれども、法華経は、本当に釈迦の真意であったのか・・・? そして、釈迦の説いた仏教そのものにしろ、本当に間違いないものであったのか?と・・・

日蓮聖人の説かれた法華経―南無妙法蓮華経と、釈迦の教えとはまったくの別物であるかのように思えて来ます。
何だか、わからなくなってまいりました。
それでも、尚且つ南無妙法蓮華経と唱えるしかない、もはや別の宗派・宗教に改宗する気になどなれない、他に信じるものがないという自分なのであります。
自分にとっては、仮に日蓮仏教が釈迦仏教でなくて、日蓮教であったとしても構わない、そんな事さえ思ってしまうのでございます。
あるいは、日蓮聖人が法華経を真実の教えであると悟られたその理由は、もしかすると、単に経典に拠る判断のみではなく、そこに何らかのインスピレーションのようなものを感じ取られたが故ではないのか?と、ずいぶん独り勝手な事を思ってみたりもするのですが・・・

真実は、いったいいずこに存在しているのでありましょうか・・・?

621 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/26(月) 23:46

ドプチェクさん:

ついでに同師の『日本の仏教』も推薦します。こちらも秀逸な一書です。

620にお記しのところ、かつて私も通過した難題でした。

622 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/08/27(火) 01:08
犀角独歩さん

>>621

ありがとうございました。
ご推薦の書籍、近々購入して読んでみます。
少しずつではあっても、自分なりに何かを掴んで行けるようにと。

623 名前: モモ 投稿日: 2002/08/27(火) 02:39
アネモネさん、五月雨さん、レス拝見しました。
私が「疑うことを恐れている」との指摘ですが、そんなことはないと自分では
思っています。ただ、主観的信仰の上ではテキスト通りどこまでも人法一箇・
本門戒壇の大御本尊を根本とし、御相承を拝信する信仰の上に立とうと今は思
っています。むしろ私はこの一年間、この掲示板が理由で大石寺の三宝義に疑
問を持っていたのです。それを脱却したのが毎月の御登山と「証明できない真
理がある」との例の不完全性定理です。血脈相承とは御書で証明できるような
教義ではなく、かといって「間違いである」と断定できるとは思いません。
客観的学問的には大いにさまざまな考察をなし、日蓮仏教学の興振につとめる
べきなのだと思います。

624 名前: モモ 投稿日: 2002/08/27(火) 02:51
>皆さんを「さん」付けで呼ばせて頂くのは多少憚れますが、独歩さんからの
>提案に甘んじてそのようにさせて頂きます。

私も同感です。掲示板で私が「さん」付けなのはむしろ違和感を感じます。

625 名前: モモ 投稿日: 2002/08/27(火) 02:53
× 掲示板で私が「さん」付けなのはむしろ違和感を感じます。
○ 掲示板で私が皆様を「さん」付けで呼ぶのはむしろ違和感を感じます。

626 名前: モモ 投稿日: 2002/08/27(火) 03:57
アネモネ様

>モモさんにお聞きしたいなと思うことがひとつあります。それは、モモさんの入信のいきさつです。

私に入信の動機なんてありません。親が創価学会で気が付いたら平成3年の時に
学会からいつのまにか法華講に移籍してました。子供の時から勤行はしています。
いまでは時々遅くなって夕方に朝勤行をしたり、夜が明けてから夕勤行をしたり
なんてことはありますが、ほぼ毎日の勤行はしてます。決められたことをしない
というのは気持ち悪いものです。

627 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/27(火) 11:21
モモさん

「それはそれでエエンデないかい」ちょっとこれは東北弁風、関西弁なら「あーそうなん、それやったらエエんと違うの」四国弁もいきましょか(笑)

ちょっとおちゃらけましたが、モモさんも肩肘張らずにリラックスが必要かなと思ってしまいました。

>血脈相承とは御書で証明できるような教義ではなく、かといって「間違いである」と断定できるとは思いません。

他の方は知りませんが、私は間違いであると断定出来ます。大聖人様から日興上人への血脈相承があったという証明に、石山は「二箇相承書」を引き合いに出していました。学会からの疑難を破折した文書に何度も何度も載っていて、それを私は覚えたわけです。学会員にそう言われた時には、御書の「二箇相承書」を示しながら「あんたらがどう言ったって大聖人様の血脈は大石寺にあるんだから、往生際が悪い事言わんの」と当然のごとくに、鼻高々に「エヘン、正義はここにあり」とやってました。ところがこの掲示板で「二箇相承書」の嘘を教えていただき、
まさかと思いましたが、御書の目次がそれを証明してくれました。大石寺には真蹟も無ければ、写しもないと書いてあります。ところが私は石山のお虫払いでそれを見たのですよ。頭の中が混乱しましたが、この掲示板の皆様方のお話で、徐々に気持ちの整理が付きました。
今は真実を静かに見つめられるようになりましたよ。

>本門戒壇の大御本尊を根本とし、御相承を拝信する信仰の上に立とうと今は思っています

いいのですよ。そうしたいというお気持ちを否定するものではありません。人間は経験してみないと分からない事はいっぱいあります。
ウチの子供もモモさんと同年齢です。「言っても言っても聞きゃぁせん」と嘆きつつ、痛い思いをしないと分からないだろうと半分諦めています(笑)
若い時ってそんなものです。私にも覚えがありますから。それで後悔しているからモモさんに忠告したのですが、矛盾してるかな。
広い視野を持ちながら、信心していって下さい。

628 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/08/27(火) 12:13

> 客観的学問的には大いにさまざまな考察をなし、日蓮仏教学の興振につとめるべき

ですから、証明できない真理、登山の実感などという主観を持ち出さず、客観的に考えるべきです。まったく言っていること、やっていることが矛盾しています。私はこのような卑怯な姿勢は許しません。

つまり、証明できないなどとい逃げ口上を言わず、その真理とやら語ることが折伏でしょう。証明できない逃げ道に入って、何も言えないのであれば、黙っていればよろしい。お互いに証明できないと言い合うだけであれば、掲示板は意味をなしません。証明できないという言葉を発した瞬間、議論としては敗北宣言をしたも同様です。

私には負け犬の遠吠えにしか聞こえません。

「証明できな真理」というさもたいそうなもののように聞こえますが、そもそもこの考えが石山教学に違反しているわけです。石山の教学は三証に基づく、事の仏教であるというわけです。ですから、説明できない理を宣べているわけでありません。

モモさんは石山教学を固執しながら、結局はその石山教学の根本姿勢に背いています。10年前、私が法華講の役員であったときであれば、このような不届きなことを言い出すものに対しては、私は厳しく「言っていることは間違っている」と叱責したことでしょう。

石山教学の在り方からみても、モモさんの言うことは残念ながら外れているのです。

なんどの種々の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべし

とは日蓮聖人の御聖訓です。モモさんは日蓮の門下を名乗るであれば、恥を知るべきです。

堂々と、理路整然と説明するところに正義があります。
何度も記しているとおり、正しいというのであれば、なぜ下種三宝が正しいか説明するべきです。

モモさんの書き込みは日蓮他派門下の冷笑を買うだけの情けないものであると私は思えます。

629 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/27(火) 13:38
まあまあ独歩さん、キビシイ事をおっしゃらずに。モモさん、独歩おっちゃんは(失礼)はちょっときついね。けどね、本当に心からモモさんを心配してくれているから、キビシク言ってくれているのよ。五月雨おばちゃんは優しそうな物言いで実は突き放しているのだから、騙されてはダメよ(笑)
独歩さんのキビシクも温かいレスをしっかり読んで、またお気持ちを聞かせて下さい。

独歩さん、横レス失礼いたしました。

630 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/08/27(火) 13:54

モモさん こんにちは

いつも書き込みありがとうございます。

『智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべし』

僕は、この御書が大好きです。日蓮門下もこの道を歩むべきであると考えています。そして、僕は、現在は、大石寺戒壇板本尊は聖人の御建立とは考えることは出来ず、後世の偽作であると結論づけています。根拠は、いっぱいあります。逆に、聖人の御建立であるという根拠は、現在の所、何も見いだせていません。

631 名前:投稿日: 2002/08/27(火) 19:18
「不完全性定理」は、証明できない真理がある、という定理ではありません。
真理である保証など無い、という定理です。

632 名前:投稿日: 2002/08/27(火) 19:40
>血脈相承とは御書で証明できるような教義ではなく……

つまり、大聖人の義ではない、ということか。
大聖人の御書でも証明できず、他の文書でも証明できず……
……それなら、いったい、何やの、コレ?

633 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/27(火) 20:25
あ さん

こんばんはー!

634 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/27(火) 20:26
モモさん

ご返信ありがとうございます。
また入信のいきさつなどぶしつけなことを公の掲示板で、お尋ねしたりしてごめんなさいね。

>この一年間、この掲示板が理由で大石寺の三宝義に疑問を持っていたのです。それを脱却したのが毎月の御登山‥

そのような経緯なのですね。疑問からの脱却とのですが、モモさんは大石寺の三宝義の疑問への脱却の道を、そのまま大石寺に求めてしまったわけですね。そうなると、疑問を消されてしまうのは当然だと思うのです。大石寺が大石寺の三宝義の疑問を深めるほうに導くわけがありません。モモさんはそれを疑問が解決されたと思っているかもしれませんが、私からしたら、疑問に蓋をして隠してしまったとしか思えないですね。

今モモさんは、一年前に疑問に思っていた頃のことを振り返ってみて、どんなふうに思われますか。

私は、モモさんが科学的な思考の術をお持ちで、本当に厳しく疑問の真の解決を求めてみようと思うならば、その答えを大石寺以外のところから、出来れば社会を通して答えを見出してみるようなお考えを持たれてはどうかと思います。それがモモさんにとっては「不完全性定理」ということになるかもしれませんが、それでは机上の話ですね。一面それで説明がついたとしてもあくまで一面ですから、それで納得せず、モモさんの目から社会全体を通して、大石寺をご覧になってはどうでしょう。今までは、大石寺を通して社会をご覧になっていたことと思います。だけど、大石寺の三宝義への疑問を、いったんでも持ったならば、社会から大石寺を見てみることも重要だと思います。

ただし、私がひとつここで懸念することは、モモさんは、気がついたら信心を親からしつけられているということなんですね。「行」が習慣となっていて、やらなきゃ気持ち悪いという思いで毎日勤行をしている。私は、これは本当の渇仰恋慕の信仰とは言い難いのではないかと思います。これが行き過ぎると強迫観念にとらわれてしまうことになると思うんです。また気を悪くさせることを書いて申し訳ないのですが、どうか私に付き合って読んで下さい。

入信のいきさつがそういうものであるならば、ではモモさんが自らの心で仏法を求めたときというのはありますでしょうか。大石寺の荘厳さに心動かされたといういのがキッカケでしょうか。そういう目に見えるものではなくて、自分の心の中の問題でそのような求道のキッカケはなかったですか。

635 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/27(火) 20:27
(つづき)
世間の一般の人が宗教を求めるときというのは、モモさんの場合とは異なりますね。そういう目に見えるところからの発露とは違うと思うんです。もっと切実な心の問題である場合が多いです。個人的なその人の悩みや苦しみや迷いから、救いを求めて入る場合が多いものです。
また逆に、そうした人の苦しみや悩みや迷いにつけこんで信徒の数を増やそうする宗教教団も多いですね。私なんかは、大石寺もその数のうちだと感じてます。

モモさんは生まれながらに大石寺の信仰のもとにあって、そんな自分が大石寺の仏法によって護られてきたと思い、その福運を有り難く思っていることと思います。ならば、そんなモモさんが社会に目を転じられたとき、何を感じられますか?
大石寺の信徒の大半の人は、世間においてそういう悩みを抱えている人たちのことを謗法の人だと軽ろんじ、見下すようなところがあると私は感じるのです。モモさんの心の中にもそういう見方があるのかないのかは、私にはわかりません。だけど、私はそういう信徒の心根を知るだけでも、大石寺の教えのどこかが間違っているのではないかと疑いを持ちました。

もう少し、人が信仰を求めるキッカケについて私の経験からレスしたいと思います。
私が信仰というものを自ら求めた最初は、小学校2年生のときです。もう何度もこの掲示板で書いてきていますが、その宗教はキリスト教でした。お友達に日曜学校に誘われたのがキッカケなんですね。私の父親は商売をしているので、日曜日は家にはいません。そして母親からは「日曜日はどこのお友達の家にもお父さんがいるから、遊びにいくのを我慢しなさい」って言われてました。そんなときに、お友達から日曜学校に誘われて行くようになったのです。そのお友達とバスに乗って教会に行くのはちょっとした冒険気分でしたよ。そして、そこで聞くお話は、学校では教えてもらえないようなことばかりでドキドキしました。帰りには、聖書の言葉と綺麗な絵が書かれた小さなカードがもらえるんですね。そのカードを集めるのも楽しかったです。そのカードで自然と聖書の言葉を覚えていきます。

だけどこれは、表面的なことです。それよりは、その当時の私の心の内を聞いてもらいたいのです。

小学生の私が毎週教会に行っていたのには、それなりの理由が当時あったんです。一言で言って、「良い子になりたい」からです。それも切実な思いがあったんです。私の両親は当時、とにかくよく喧嘩してました。今でこそ母親の妻として、母としてのイライラもわかるのですが、小学校2年生の私がそんな両親の喧嘩に何を感じていたかというと、「きっと私が悪い子だから2人はいつも喧嘩しているんだ」っていう思いなんですね。しかもこのことは誰にも言えません。心の中で打ち明けられるのは、教会で話し掛ける神様だけなんです。一生懸命に神様にお手紙を書いたこともあります。私の祈りは決まってました。「良い子になります。だから、お母さんとお父さんが仲良くなりますように。」これだけです。これだけですが、切実な私の願いだったんです。

636 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/27(火) 20:27
(つづき)
私は子どもの観察が好きなのですが、子どもは言葉に表すことは出来なくても、その小さな胸に抱えきれないほどの大きな思いを抱えていることあるんですね。その想いを発露に子どもなりの信仰を求めることがあります。広宣流布といった遥か遠くの願いでなどではなくて、親や兄弟、お友達のために小さな手を合わせて必死で祈ることをするものです。
それは、親からしつけられたお仕着せの信仰ではなくて、とても強い主体的な信仰だと思うんです。行かないと気持ちが悪いという強迫的な習慣というものではないんですね。
行かずにはいられない、祈りたいことがある、主体的発露の信仰なのです。

モモさんは、「信」の大事さをこれまでずっと書かれてきました。だけど残念ながら、これをやらないと気持ちが悪いというのは、本当の「信」とは言い切れないのではないでしょうか。ただの習慣性の潔癖な強迫観念だと思います。寝る前に歯を磨かないと落ち着かない。それと同じですね。求めてやまない信仰とは言い難い気がします。

だけど、生まれたときから信心をしつけられたことそのものを否定しているのではないのです、しつけられた信心であっても、人間として心の問題と向き合い、本当の信心に目覚めるときがくる場合もあります。モモさんにそれがあるなら、聞かせてもらいたかったのです。つまりそれは、モモさんが主体的に「信」を求めたときのことですね。そのキッカケです。それがもしも、「気がついたら親からしつけられていた」以上のものが思い当たらないならば、残念ながら、モモさんは私の目から見て、まだ主体的に信仰を心から求めたことがないのではないかと思います。
主体的に信仰を求めたことがないとすれば、そんなモモさんが、ここのところずっと主観的な「信」を訴えてきたその言葉に、説得力がなかったわけが納得できる気がします。

そして、話を戻しますと、私の子供の頃のキリスト教での願いは、実は叶えられたんですね。父と母は離婚することなく、結局今だに喧嘩はよくやってますが、すっかり息のあった漫才夫婦みたいになって今日まで続いてます。叶えられたから、キリスト教が正しいということが言いたいのではありません。
そんな私が大人になってから、次に仏教に信仰を求めました。これも人から「これが正しいから」と勧められてというものではないのです。主体的に求めずにはいられなかった理由があるのです。

そしてもっと大事なことは、そんな主体的な願いをもって信仰を求めながら、その教えに導かれるわけですが、そのなかで、自分自身にどんな心が培われていくかが最も大事なんじゃないかと思うんです。

637 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/27(火) 20:29
(つづき)
私が最も大石寺の信仰でおかしいなと思うのは、教義のこともさることながら、信仰を求めてきた人たちが、御本尊や猊下やお寺はとても大事に思うのに、人に対して心を踏みにじっても全く平気だというところです。それはモモさんも感じられませんか?そうやって見ていくところが社会から大石寺をみるということだと思うんです。
本当に正しい三宝義がありながら、なぜそこに集う人がそんな心無い人になってしまうんでしょう。三宝義が力を為していないということにはなりませんか?心のありようとして慈悲の心に導く力を為していないとは思えませんか?
私はそう思えるのです。ならば、大石寺の三宝義はもはや正しくはないと私は見極めます。
人に優しい心持ちになれない宗教や三宝義なら、私は主体的に捨て去ります。

気がついたらしつけられいた信心を確信するために、この世の終末観にモモさんが関心を持たれようなことを、どこかのレスで読みました。ぜひ終末と思うこの世の現状を自分の目でしっかり見てみて下さい。そのとき、生まれつきの信心によって培われた自分の心がなにを感じるかです。慈悲を感じるのか、軽蔑を感じるのか。もっと別のものなのか。なによりもそこが大石寺の三宝義が正しいか否かを証明できるところではないかと思います。

どうか、どんな些細なことでもレスして下さい。モモさんの心の中を、私は知りたいと思います。

638 名前:投稿日: 2002/08/27(火) 20:46
しつこいけど、不完全性定理の説明、もう1個挙げときましょ。

「結局この証明からひきだせることは、「永遠絶対の真理体系はない」「真実性の絶対的保証はどこにもない」ということである。ある意味では、不完全性定理は人間の知の世界において真実性に対する相対性原理として機能しているともいえる。」

639 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/08/28(水) 12:50

82552 ゲットしました。

640 名前: TAKE 投稿日: 2002/08/28(水) 13:14
ここの掲示板で感じたこと。組織から離れている人のほうがずっと人間的でいい人だなって思いました。
なんだか組織に縛られている人の書き込みはぜんぜん心に響かない。響かないどころか嫌悪感のほうが先に立つ。

641 名前: 一講員 投稿日: 2002/08/28(水) 13:29

皆さん こんにちは。

久しぶりに書き込みます。

TAKE さん

>組織から離れている人のほうがずっと人間的でいい人だなって思いました。

同感。モモさんに語りかけているアネモネさんの書き込み、本当に心に響くね。あんな体験発表あったら、仕事休んでも聞きに行くよ。それにしても、ここの掲示板、小難しくって、読むの大変だけど、特に独歩さんの書き込みなんか、半分も判らないけど、まじめな良い人だってことだけはわかるよ。ここは良い掲示板だと思うよ。やっぱり、いい人が集まっているんだよなぁ。そう思うよ。

642 名前: 一講員 投稿日: 2002/08/28(水) 13:43

問答迷人さん

前に、掲示板のチャートを作ってほしい、って言いましたけど、その後、どうなってますか。なにか手伝うことありませんか。

643 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/08/28(水) 14:30

一講員さん こんにちは

書き込みありがとうございます。チャートの件、ここ一ヶ月ほど、仕事が忙しくて進んでおりません。夏休みが終わると、少しは暇が出来ると思います。まぁ、年内には何とか形を付けたいと思っていますが、なかなか作業が繁雑で進んでいません。もう少し、ご猶予ください。お手伝いお願い出来る段階に来ましたら、メールでお知らせいたします。今後とも、よろしくお願いいたします。

644 名前: 現時点 投稿日: 2002/08/31(土) 00:39

ほんとうですね。一講員さんのいわれるとおりです。

わたしも、こんな体験発表なら、仕事をやすんでいきたいです。

アネモネさんの小学生の時の話を、さきほど、妻に見せました。

子供って、こんなふうに親をみているんだなぁって話しました。感動しました。


それと、五月雨さんが参加されてから、ここの掲示板、すごく良くなりました。前から

いいですが、さらにという意味です。よく学会は婦人部でもっているって昔から言われてましたが

ほんとうにご婦人のパワーはすごいですね。大臣もいっそのことみんな女性にしたら日本は

よくなると思うな。

645 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/31(土) 11:27
現時点さん

お誉めの言葉を有難うございます。でもあまり誉めると「豚もおだてりゃ木に登る」という格言?がありますように、関西のオバちゃんはすぐ調子に乗りますので、誉めすぎにはご注意ください。
私は教学には真っ暗ですし、言葉遣いも良くないのはじゅうじゅう承知しております。自分で経験した事しか話は出来ませんが、そう言って下さることを有り難いと思います。これからも素っ頓狂な事をいうかも知れませんけれど、どうぞよろしくお願いしますね。

646 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/31(土) 21:39
TAKEさん はじめまして。
一講員さん お久しぶりです。
現時点さん こんにちは。

私の長いレスを読んで下さって、ありがとうございます。

>ここは良い掲示板だと思うよ。やっぱり、いい人が集まっているんだよなぁ。そう思うよ。

私も本当にそう思います。なにが良いかって、みんな個性豊かなところだと思います。それぞれが自分の言葉というのを持っていらっしゃる。そして、その言葉に触発されて、お互いに切磋琢磨していく感じがこの掲示板にはありますよね。
自分には語れない言葉を、他の人が表現されている。それに感応した人がまた自分の言葉で語る。すごくいいなぁって思います。
懐の深い掲示板で、だから私も、徒然レスができるんですね。

>それと、五月雨さんが参加されてから、ここの掲示板、すごく良くなりました。

なんか活性化してきましたよね。
私なんかは、自分の言葉はふんだんにあるのですが、肝心の教義的な言い回しがわかってなくて、質問したいようなことがあっても、どう聞いていいものかわからないんですね。だけど、そのフラストレーションを五月雨さんがどんどん解決してくれています。
同じ関西人という親しみもあって、‥五月雨さん、頼りにしてますよ!

647 名前: アネモネ 投稿日: 2002/08/31(土) 21:41
>子供って、こんなふうに親をみているんだなぁって話しました。感動しました。

子供を観察していると、発見することたくさんありますね。
私のお隣のお宅には、小学校2年生のお兄ちゃんと、3歳の弟がいるんですね。二人とも赤ちゃんの時から知っているのですが、上のお兄ちゃんが3歳くらいの頃、早朝にお父さんが出かけるとき、パジュマ姿のままお母さんに連れられてよく玄関先からお父さんを見送ってました。「バイバーイ、バイバーイ」ってずーっとその姿が見えなくなるまで見送ってるんですね。こり声に、その子の気持ちがすごーく顕れているんです。

思い返せば、ウン?十年も前ですが、私にもそんな時がありました。やはり三歳くらいの頃でした。毎朝、家の窓から父親が出かけていくのを「行ってらっしゃーい、行ってらっしゃーい」とずーっと見えなくなるまで見送っていたんですね。父親もその声に答えて、何度も振り返って手を振ってくれてました。
これは、大事な大事な、子供にとってある意味の、「儀式」なんですね。
ところがです、時には、ちょうど父親で出かける時間に、3歳の私の排泄の時間と重なってしまうことがあったんですね。けっこう何度もありました。見送らなければならないとあせりながらも、3歳児の生理現象にはとても勝てない。そんなジレンマの中、やることを終えて窓辺にヨタヨタと急ぐのですが、もうそこには父親の姿は見えません。
そのとき、3歳の私が感じることはといえば、「絶望」。
絶望で始まる一日だったのです。

そんなことをいろいろ思い返してみると、子供にとって出勤する父親を見送る行為とは、宗教的儀式に近いものがあるなと感じます。
経典にも聖書にも、父と子のたとえ話がたくさんありますが、子供のときに最初に宗教的感覚を覚えるのは、父親の存在からなのかもしれないなと、思ったりもします。
仕事に出かけることで、確実に父親の姿が見えなくなる。見えなくなるのを見送り、そして再び帰ってくる。最近では母親も仕事を持っていて、子供の前から姿を消す場合があるわけですから、そこはまた父親に限ったことではないかもしれませんが。

でも不可抗力とはいえ、その見送りという儀式が実行できなかった日は、間違いなく子供なりに「絶望」という情緒を覚えるんですね。だけど、見送らない日であっても、ちゃんと父親は再び帰ってくる。絶望を覚えた子供はそのとき、「信頼」と「希望」の情緒を覚えるんですね。
時々、父親の帰宅に子供が小躍りするように喜ぶときがあると思います。それは紛れもなく、「信頼」と「希望」を感じているときなのだと思います。

私の隣の家のお兄ちゃんは、小学校に行くようになってからは、朝の儀式がなくなっていました。自分のことで精一杯になってきたのでしょう。ところが、最近またその声が復活してきたんですね。なんと、下の弟の声なんです。かつてお兄ちゃんのときには、その儀式に母親が付き添ってましたが、下の弟の付き添いはどうやらお兄ちゃんのようですよ。
この声が聞こえてくると、私もなーんか幸せな気分になるんですよ。

648 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/31(土) 21:55
アネモネさん

よっしゃあ、頼りにしてよ!!恥じも知らんと質問し続けまっせ。

独歩さん、問答迷人さんご回答のほどよろしくお願いします。

649 名前: 五月雨 投稿日: 2002/08/31(土) 22:12
上記のレス、今日の私はずい分壊れていますね。頭疲れています。失礼しました。

650 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/31(土) 22:36
アネモネさん

>子供のときに最初に宗教的感覚を覚えるのは、父親の存在
>「信頼」と「希望」と「絶望」

いろいろと、考えさせられました。

651 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/31(土) 22:43
ドロシー・ノルトさんの書いたベストセラーですが、書名は忘れました。
「子どもを育てる魔法のことば」みたいなタイトルでしたか。

「アメリカインディアンの教え」という加藤諦三さんが書いた本がありますが、それにも紹介されてました。わかりやすくて、なるほどなあと感じさせることばでした。

---------------------------------------

子供たちは こうして生き方を学びます

批判ばかり受けて育った子は 非難ばかりします

敵意にみちた中で育った子は だれとでも戦います

ねたみを受けて育った子は いつも悪いことをしているような気持ちになります

心が寛大な人の中で育った子は がまん強くなります

ほめられる中で育った子は いつも感謝することを知ります

はげましを受けて育った子は 自信を持ちます

人に認めてもらえる中で育った子は 自分を大事にします

---------------------------------------

なかなか、いいでしょ。
じつは、かなり宗教の本質を衝いていると思います。

652 名前: アネモネ 投稿日: 2002/09/01(日) 10:46
いちりんさん

>なかなか、いいでしょ。
じつは、かなり宗教の本質を衝いていると思います。

とても素敵な内容なので、HPで検索してみました。
正式な本の名称は「子どもが育つ魔法の言葉」(PHP研究所)でした。さらに検索して、「子供たちはこうして生き方を学びます」も、英語の原文とともにありましたよ。

http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~chifuyu/kaoru/poem1.html

かつては誰もがみんな子どもだったんですよね。子どものときの気持ちを経験してきているのに、大人になるとその気持ちを忘れてしまっているんですね。でも、子どもを観察していると、かつて自分が子どもだったときの心象が甦ってきます。そういうのも、自分を知り、自分をみつめる、そんな手かがりになるものかもしれないなぁって思います。

653 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/01(日) 19:04

五月雨さん:

> 独歩さん…回答のほどよろしくお願いします

どうぞ、歓迎です。

654 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/02(月) 07:47

【推薦図書】

増補改訂版 故高木豊師著『日蓮 その行動と思想』

客観的な定本
日蓮聖人伝
伝説のヴェールに包まれた
日蓮聖人伝を排し、
厳格な考証によって
その行動と思想の特色を論じ、
歴史としての客観的な
日蓮聖人像を作り上げた
高木仏教史学の画期的な到達点。
旧版に「<二人の日蓮>改稿」、
「『立正安国論』再考」を増補した
決定版
(帯の紹介文から)

「執筆中、これから日本人の心のなかに、
日蓮はどのように生きていくのであろうかというおもいが、しきりに去来した。
冬の時代のなかで、日蓮はふたたびかつてのように復活するのであろうか。
それとも、その時代に生きていかなければならない人びとの支えになるものを、
日蓮はなおももちつづけることができるであろうか。
かつて日蓮がしたように、自らのなかで、『問うて曰く』、『答えて曰く』と、
問と答えを累積していかねばならないと思うのである。」
(「はしがき」より)


亨師を師とも仰いだ故高木師の、この一書は日蓮を考えるすべての人の必読書たり得ると思います。推薦します。

655 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/02(月) 08:04

↑ 654 高木豊師著『日蓮』は太田出版からです。

656 名前: モモ 投稿日: 2002/09/02(月) 14:42
確かここのスレッドは「つぶやきスレッド」だったと思われます。

「応身」とは衆生の機根に応じて出現する仏であると理解しています。

今の大石寺に仏法を感じられない、という人が多くなったのもきっと
衆生が仏法を真剣に求めなくなったひとつの証拠だと思います。
求めない衆生に仏は法を説きません。

657 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/02(月) 15:22
モモさん

>今の大石寺に仏法を感じられない、という人が多くなったのもきっと衆生が仏法を真剣に求めなくなったひとつの証拠だと思います。

私は真剣に仏法を求めていたと思っています。真の大聖人様の仏法を求めて大石寺に行ったのに無かったのです。

>求めない衆生に仏は法を説きません

もう説かれきっているのではないのですか。新“仏”でも出現するのですか。ふうむ、これは面白い、仏の新しい法が聞けるのかな。そしたら是非とも利益追求型の教団運営は止められて、大きい建物で信者の目を引いたり、立宗○○年ですからと割り当て参詣人数で信徒を苦しめたり、大白法9月1日号に「一人より一人への折伏」と訳の分からない大見出して゛折伏をしなくてはならないという強迫観念を植え付けたりしないでほしいと思います。求めない衆生には仏は法を説かないらしいから、現役法華講員さんの強盛な信力・行力で是非とも法を説いて貰って下さい。私ですか、真剣に仏法を求める日々を送っています。

658 名前:投稿日: 2002/09/02(月) 16:15
モモさん

応酬禁止の掟をやぶってしまう。

ちょとカチンときました。

> 衆生が仏法を真剣に求めなくなった……

衆生とは誰のことを指しますか? 未入信の人たちのことですか?
未入信の人たちが「今の大石寺に仏法を感じられない」というなら、それは法華講員、石山僧の責任でしょうが。
それとも衆生とは法華講員、石山僧のことですか?
いずれにしても、それなら、モモさん、あなたのせいじゃありませんか。

「求めない衆生に仏は法を説きません」などと高みから見下ろすような信徒の居る教団より、
未入信の人たちは避けるでしょうね。

659 名前:投稿日: 2002/09/02(月) 16:25
訂正前:「求めない衆生に仏は法を説きません」などと高みから見下ろすような信徒の居る教団より、
訂正後:「求めない衆生に仏は法を説きません」などと高みから見下ろすようなことを言う信徒の居る教団を、

確かに、求めない衆生に仏は法を説かないでしょう。当たり前のことに思います。
「仏」が「法華講員」であってほしいと思います。
30万登山だなんて言って、折伏あおりたてているのは、どこの宗教団体でしたっけ?

660 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/02(月) 16:45

五月雨さん:
あ さん:

まあ、そんなに熱くならないで(と、私が言うと笑われそう)

答えは出ているじゃないですか。応仏は釈迦仏は石山人には見えないのですよ。
もちろん久遠釈尊も見えないでしょう。(日蓮は久遠本仏じゃありません)
モモさんの言うことは石山批判なのではないでしょうか。

661 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/02(月) 17:29
独歩さん

独歩さんに止められるとは(笑) ではモモさんもかなり冷静に物事が見えてきたということなのでしょうか。それは喜ばしい限りです。では私の657のレスは取り消します

662 名前:投稿日: 2002/09/02(月) 18:48
学会員さんが「組織的登山の必要はありませんね」と言ってた。それに関連するツブヤキ。

今、学会は「組織的登山の必要はない」と言ってる。ということは裏返すと、以前は「必要あった」ということじゃん。
入信したばっかりの時さあ、オバちゃんに「登山に行かない? 空きがあるの」と聞かれた。
「申し込み者が多くて、信心歴の長い人でも、めったに登山はできないのよ。どう? 行かない?」
自分の身辺が慌しい時だったので、「今度の機会を待ちます」と遠慮した。

今から考えるとよ、
「あなただけに、この稀少なチャンスをあげます」というのは、悪徳セールスのテクニックじゃんか。
そんなに登山のチャンスが稀少なら、入信したての新人にそのチャンスをくれるわけがないだろーが。
クッソー! 騙されるところだったぜ!

663 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/02(月) 22:08

あ さん:

> 組織的登山の必要はありませんね

正本堂内拝料は本山からバックマージン、登山は輸送会社からバックマージン、それがなくなった途端に、団体登山は不要論という構造を見るのが正しい理解(笑)

そこから、「団体登山は不要なんです」という口コミが広まり、「そうなんだ。団体登山は意味がなかったんだ」と個人レベルでは理解されるようになったわけです。

怖いのは、この心理操作の手口だと、私は思うわけですよ。

組織に言うことなのに、自分で考え出した結論だと思っている個人の集合、組織は責任を負わなくてもすむのに、個人は自分で決めたと思っている。

こんな恐ろしい仕組みの部分は、しかし30万登山にもあるし、国立戒壇をいまのいま、戒壇之漫荼羅も見たこともない何十万という子どもたちを中心に煽動されているわけですよ。

これはね、宗教の問題ではない、搾取と心理学の問題なんです。

団体批判から離れて、ちょいとそこらの観点から一緒に考えませんか。

664 名前: モモ 投稿日: 2002/09/03(火) 00:13
ひとつの自己反省です。
しかしなぜ私がレスすると10倍になって返ってくるのでしょうか(笑)。
完全に私のキャパを超えているのでレスしきれません。

665 名前: モモ 投稿日: 2002/09/03(火) 00:41
>いずれにしても、それなら、モモさん、あなたのせいじゃありませんか。
まさしくそのとおりです。といっても今の私には何も出来ませんが。

666 名前: モモ 投稿日: 2002/09/03(火) 01:12
先日所属の寺院に参詣したのです。したら土曜日の昼間なのに真っ暗なのです。
所属の寺院のことを悪くは言いたくはないのですが、「これは信者も僧侶も
仏法を求めていないのでは」と思ったのです。ゆえにふとそんなことを感じた
までです。自分が変われば、信者が変わればそれにふさわしい所属寺院や大石寺
になってくれると思います。それを願うのが信者の分だと思います。

667 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/03(火) 08:40
ひとりごと・・・・・

昨日、お寺に登山の書類を取りに行った。庫裏でバリバリと紙を剥ぐ音がする。すみませーん、こんにちわと何度声をかけても気付いてくれない。声を限りに張り上げたらやっと気付いてくれた。
彼とは約10ヶ月振りに会う。指導教師と信徒の関係のふたりですが、挨拶もしない。登山の書類を手渡してくれながら、「中に書いてある順序通りに登山してください」と卒なく説明する彼を見て、とっても事務的な応対に、まるで昔の役所の人みたいやなぁ。そっか事務員さんやってんわ。それに今日は珍しく私服やったし、僧侶と思えば、信徒に対しての冷たい態度に腹も立つけど、事務員さんならあの対応は当たり前と思いながら、車に乗った。滞在時間は3分くらいか。
 ウチの法華講員は皆揃って住職の人間性の冷たさに悩まされている。最初からそうだから、もう11年も続く悩みに、皆諦めの境地です。だけどやっぱり「僧侶」の形をしていて、指導教師と大きな顔をしているから、人間としての情を求めてしまうのも無理からぬ話やと思う。もうちょっと温かみのある人間になってほしいと役員は何度直訴しても無理やった。信者が変わればそれにふさわしい所属寺院になるんやろか、それを願うのが信者の分だと思って願ってもきたけど、全然変わらへん。お寺から離れていく人、続出や。お寺から何人離れてもどこ吹く風の住職の姿は、信徒が変われば以前の話やと思う。  長いひとりごとやわ・・・・・

668 名前:投稿日: 2002/09/03(火) 13:36
モモさん

失礼いたしました。モモさんの書き込みの真意を、私、読み間違えていました。
しかし、弁解させてもらうと、あの書き込みは、読み間違えされるスキがあると思います。

実はあの時、「ちょとカチン」ぐらいじゃすまなかったですよ。
読んだ瞬間に「怒ッカーン!!!」と爆発しました。
懸命に信心してきて、その結果、疲れ果て心を傷つけられ、やむなく組織を離れていった人たちに対する、
冷たい見下した非難の言葉と、私は受け取ったのです。
しかし、これは読み違いでした。失礼しました。

669 名前:投稿日: 2002/09/03(火) 13:51

ところで、モモさんのレス番号、666なの知ってた?(笑)

670 名前:投稿日: 2002/09/03(火) 14:21
……しかし、やっぱ、ちょっと気になるなあ。
誰かが指摘しとったけど、石山とは、僧侶とその家族の共同体であって、講組織はその労働源に過ぎない、という構造的な問題。
それから、「本来は組織は悪くないんだ。自分さえ変われば、組織は良くなるんだ」という、「自分さえ変われば」の信者特有の心理……。

671 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/03(火) 16:18

> 本来は組織は悪くないんだ。自分さえ変われば、組織は良くなるんだ

ハッサン氏は

「グループへの 完全に献身してなかったことが罪だったと感じさせられる」(マインド・コントロールの恐怖P100)

反面、

「(グループの)運営の仕方だけは我慢できないという人々が何千人もいる。この人たちは心の中で、いつか自分たちが戻れるよう、グループが方針を変えてくれる日を待っているのだ」(同P304)

この両極端が、メンバーをグループに縛り付ける二元論なのでしょう。

672 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/05(木) 18:23

84502 ゲットしました。

673 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/05(木) 23:05
また、お久しぶりです。全部読みきっていません。
忙しくてへとへとなので全部読んでいません。なので、私に質問をされた方、
答えきれなくて申し訳ございません。

実は、668のあさん他が怒ったのには、なんとなくよく分かる気がします。
私もその中の一人です。30万登山の啓蒙…ていうかこれでは勧誘。
母。ついにノイローゼになってしまったのです。で、今の所属寺院に
怒り爆発です。でも、そんなこと、叩きつけられないよぉ…。
だって、信者でありたいんだもん。大石寺に普通にお登山したいんだもん。

だから、これからはお寺に行かず、内得信仰で行こうと思います。
私は、正直言って、モモさんの書きこみに、疲れました。もう、休もうよ。

宗教は信じる人の勝手でいいと思います。信じたくなければそれでいい。
私は信じられない体験を身近に感じてきたから、やめられません。演出ではなく
普通ではありえない、真実の出来事でした。…さようなら、法華講。

674 名前:投稿日: 2002/09/05(木) 23:30
やーこ。さん:

お母様がノイローゼになってしまったって……あわわ、あわわ。
大変でしたね。気の毒で言葉のかけようが無い。

675 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/06(金) 06:03
「疲れた」のはモモさんだけの書き込みではありません。
訂正させていただきます。失礼いたしました。
正しくは、正宗を正しいと信じさせたいモモさんと、他の方の書き込みによるやりとりです。
双方の考え方は、どちらもいいのではないか、と思います。
ただ、根本的な考え方が違うので妥協点がないからしょうもないのでは。だからもうやめようって思いました。
今の正宗ははっきり言ってカルとですが、正宗についての思い入れはモモさんに近いものがあります。

676 名前: アネモネ 投稿日: 2002/09/06(金) 10:05
やーこ。さん

こんにちは。

>双方の考え方は、どちらもいいのではないか、と思います。

本当に、信じるのも自由なら、また信じないのも自由ですね。「内心の自由」「信教の自由」ということ、とても大事だと思います。
なのに、なぜか不毛な議論になってしまうんですね。恐らく、そこに「正しい」という主張が出てくるからなんだろうなぁと思います。これはモモさんが、ということではないですよ。宗教やその信仰の主張とは、そういうものですね。
だけど本当は、正しいか否かの議論ではなくて、正しいということを信じるか否かの話なんだと思います。だけど、それは個人の自由だというのが到達点なのでしょう。

それにしても、正しいか、正しくないかの議論は、本当にエネルギーを消耗してしまいますね。やーこ。さんが疲れてしまったのも無理はないと思います。
だからこそ、その正しいという訴えや主張というのは、本来の担い手である僧侶が率先してやってほしいものだと、つくづく思います。
世間に生きる信徒がその担い手になることが、当たり前のように指導され受け継がれ、それを延々にやっていたのでは、ただでさえ世事に苦しんでいる信徒は、さらに疲れ果ててしまい、これでは何のための信心なのかということになりますね。

正しいと信じるか信じないかは、そのどらも自由でだということが保証されている現行憲法、私は好きです。今の世の中は、憲法のほうが人々を救っているのではないかとさえ思ってしまいます。

やーこ。さんも、またお母様までも、大変な思いをされているんですね。私のお寺でも、いわば執拗な勧誘とそれに伴う言葉の暴力によって、ノイローゼ気味になった人多いですよ。実際にお電話番号を変えてしまった方もいますしね。
私もそんな気分になったときもありましたが、なんとか引っ越すほどの精神的ダメージは受けなかったものの、でも、もしもこの先、家を引っ越すことがあったとしても、たぶんお寺には新しい住所はお知らせしないだろうなと思います。

678 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/06(金) 15:39

久々に私のサイトの『日々雑記』を書きました。2カ月近くも空いてしまいました。
ご高覧をいただければ有り難く思います。

スピリチュアル・アビューズという視点
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/zakki_01.html#020906

679 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/06(金) 23:26
>双方の考え方は、どちらもいいのではないか、と思います。

うぅむ・・・それでは、「あなたの考えは考えでそれでいいのよ」「そういうあなたの考えもそれでいいのよ」じゃ何で、この掲示板があるんだろ?真実は一個しかあらへんで。

標準語と関西弁でのツブヤキでした・・

680 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/07(土) 21:21

85004 ゲットしました。

681 名前:投稿日: 2002/09/08(日) 00:02
>うぅむ・・・それでは、「あなたの考えは考えでそれでいいのよ」「そういうあなたの考えもそれでいいのよ」じゃ何で、この掲示板があるんだろ? 真実は一個しかあらへんで。

「あなたの考えは考えでそれでいいのよ」「そういうあなたの考えもそれでいいのよ」という人が、たくさん増えてくれれば、世の中は平和。
「どっちでもいいのよ」と言いながら「でも、真実はひとつなのよ」と言う人がいるんだよね。

わけわからなくなってきた。

682 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/09(月) 14:46
あ さん

>「どっちでもいいのよ」と言いながら「でも、真実はひとつなのよ」と言う人がいるんだよね。

世の中ではそれでいいと思います。でもこの掲示板ではどうでしょうか、と言いたかったのです。言葉足らずでゴメンナサイ。

宗教に騙されて人生を無駄にしてきたから、そういうのを見るとほっとけない気分でした。だけど騙されてても本人が幸せならいいんだと放っていてあげるのが思いやりなのかも知れませんね。無責任かと思っていたのですが・・どっちがいいんでしょうかね。

683 名前:投稿日: 2002/09/09(月) 23:29
五月雨さん

いいえ、五月雨さんが言葉足らずではなく、私の方が言葉足らずでした。

……どっちがいいのか。放っておくか、言ってしまうか。悩む……。

684 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/10(火) 11:06

85536 ゲットしました。

685 名前: いちりん 投稿日: 2002/09/11(水) 09:18
日蓮宗のお坊さんの前で、たとえば創価学会について、わかりやすく話すというのは、それなりに勉強になりますね。

お坊さんたちは、なにを知りたいと思っているのかが、つかめないと話ができないのですよね。
お坊さんたちの意識というものを理解してないと、話が伝わらない。

わかにくい(知りたい)のは、どうして創価学会がそんなに発展したのか。その原動力はどこにあるのか、というところでしょうか。

日蓮宗のお坊さんたちは、日蓮正宗の坊さんのことは、なんとなく肌でわかるんでしょうね。おんなじ立正大学に通ったりしていたわけだし。寺があって、袈裟衣を着て、檀家がいるという職業宗教家というところでは、おんなじですから。

ところが、創価学会というのは、日蓮宗のお坊さんには、なかなかわからないんでしょうね。

まあ、教義的には、日蓮本仏論や板曼荼羅、日興さんが唯一の正統というあたりは、理屈ですから、説明すればわかるんですね。わからなくても、どんなことを言いたいのかその土俵は、わかるわけです。

ところが、わかりにくいのは、創価学会の会員の意識ということでしょうね。

日蓮宗の坊さんがイメージする、信徒像というのは、日頃、出会うのは檀家さんですから、その檀家さんですよね。で、檀家さんは、毎朝毎晩、勤行などするはずもないし。御遺文を、すらすらと読めるはずもないし、だいたい御遺文を持っていないでしょう。それから、お題目をきっちり唱えるわけがないんですね。

創価学会の人には、あったりまえの、勤行、唱題、御書の学習(いまは当たり前でもないか)というのは、しかし、すごいことなんですよね。よくもまあ、そんなにお題目を唱えるもんだとか、よくもまあ、そんなに御遺文を暗記しているもんたむとか、びっくりするわけです。
それから、座談会やら、家庭指導だのと、よくもまあ、そんなにばりばりと活動するのかと。

いわゆるお寺さんは、出かけていかないんですね。来るのを待っているというか(待ってもいない)、営業をしない。営業(布教、檀家指導)をしないし、じつは販売する商品(自分とこの宗教の魅力)について、よく知らないんじゃないかと思います。そもそも、販売する気がないのだから、仕方がないともいえますし。

よく考えると、お坊さんというのは、だいたいは「家業を継いでいる」んですね。
自分で進んで入信したわけじゃなくて、たまたまお寺の家に生まれたので、坊さんになった。というか、いやいやならされた。まあ、そこに被害者意識とか、あきらめとか、いろいろあるんですね。小さい頃には、やーい坊主のせがれ!とかいって、必ずバカにされていたと思うし。

でまた、そのために、ヘンな理想というか、がんばるぞー! みたいな無理したこだわりがないから、それなりに、つきあいやすい人たちなんですね。

などと、雑感つぶやきモードでした。

686 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/12(木) 00:05

きょうは9月11日でした。いま、過ぎたところです。
昨日の午前0時からいま0時まで、どなたか書き込みをされるかと見ていましたが、どなたもされませんでしたね。

687 名前: モモ 投稿日: 2002/09/12(木) 03:46
そして昨日はテロ事件の日、一年経ちました。
今日は龍の口法難の日です。

あと私は別に終末論は信じてはいませんが興味があることは事実です。
そんな「心配する」ほどのことではありません。

6500万年前に巨大隕石が地球に衝突して恐竜が滅びた、
という説がありますが、それを裏付けるかのようにユカタン半島に
半径10kmほどの巨大隕石の跡と大津波の跡があるそうで、このことは
学術的にも研究されています。

結局「終末論を唱えることが終末論を呼び寄せる」のだそうです。
なるほど。

688 名前: モモ 投稿日: 2002/09/12(木) 03:54
http://www.eps.s.u-tokyo.ac.jp/jp/gakubu/chigaku/about/about_page8.html
http://www.ncsm.city.nagoya.jp/class/j_school/science/kyou.html

参考にどうぞ

689 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/12(木) 06:38

おお、モモさんだ。この次のオフ会でお会いできるのを楽しみにしています。

イリジウム隕石による恐竜絶滅説、最近では反論も出ているようですが、なかなか信憑性がありますね。品川のIMAXシアターの3D、新しくはじまったT−REXはまさに、6500万年前、隕石が飛来するシーンを立体で体感させてくれます。これは面白かった。ここでの併映の3DはNASAのスペースシャトルなどの実写・立体映像、いずれも科学的なコンセプトに基づくものですね。つまり、隕石による恐竜の絶滅は支持されている学説と言うことになるのでしょう。科学的な実際証拠に基づいていますね。

http://www.princehotels.co.jp/info1/shinagawa-executive/cinema_imax/site/jotyu.html#imax

最近は恐竜ブームなのか、幕張メッセでは「世界最大の恐竜展2002」も開催されています。これもすごい。

http://www.dino-expo.jp/index.html


恐竜と関係あるかどうかわかりませんが、人類の先祖は650万年ぐらいまで遡れて、遺伝子研究から、現人類の直接の祖先は200万年前のただ一人のアフリカの女性から始まったということでしたね。この女性のことを、何イブというのでしたっけ? もっとも、3人という説も出されていましたね。

たった200万年、650万年。残念ながら、五百塵点劫には人類はいなかったことになります。もっとも生命体は地球起源ではなく隕石などによる宇宙平井説を唱える人もいます。フレッド=ホイル・チャンドラー=ウイクラマシンゲ共著『宇宙からの生命』は面白い本でした。いまは絶版になってしまっているのでしょうかね。

さて、私はアメリカ同時多発テロを、まったく終末論としてはとらえていません。でも、あの現場にいた人たち、ご家族からすれば、世の終わりを実感したような事件であったでしょうね。ただただ、冥福をお祈り申し上げるばかりです。

「終末論を唱えることが終末論を呼び寄せる」、こんな心理効果はたしかにあるでしょう。反面、終末論などの唱えるグループ、あるいはメンバーの、終末論を含む予言が外れたあと、どのように考え、自分を正当化していくかを記したものに、『予言がはずれるとき』があります。お薦めの一書です。

http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/syohyo1.htm

690 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/12(木) 06:39

【689の訂正】

誤)宇宙平井説
正)宇宙飛来説

691 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/12(木) 06:42

もう1カ所、間違っていました。

誤)もっとも、3人という説も出されていましたね
正)もっとも、30人以上という説も出されていましたね

そう、これはミトコンドリア・イブでしたっけ。

692 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/12(木) 07:30

そういえば、学生の時に必至で英語原文で読んだ科学的証拠を元に書かれた小説があって、原題は忘れたのですが、それがあとになって邦訳出版されていました。W・ゴールディング『後継者たち』(小川和夫訳、中央公論社、1983年)です。

この書の存在を知ったのは、昭和50年代初頭のこと、かれこれ30年近く前で、ホログラフィの発明でノーベル賞を取ったデニス・ガボールが記した『成熟社会(Mature society)』という本の中で引用されていたからでした。当時、外国では既に話題になっていた本なのに、邦訳はなかったものでした。

ここでショッキングだと思ったのは、旧人類は複数の種(しゅ)がいたのに、我々の祖先が友好的で、戦争を好まない、他の種を駆逐して、自分たちだけが生き残ったという内容でした。考えさせられた一書でした。

輪廻転生は、十界衆と分類されるそれぞれの衆生(サットバ)が永遠の過去からの存在であるという前提に基づいているのですよね。進化論なんかは思いもよらなかったのでしょうね。

693 名前:投稿日: 2002/09/13(金) 02:11

しっつもーん。
龍の口法難の、9月12日という日付は、旧暦ですか、新暦ですか。

694 名前:投稿日: 2002/09/13(金) 03:06
あっのー……
「終末論を唱えることが終末論を呼び寄せる」ってのは何でしょうか?
終末論を唱えれば、確かに、終末「論」を呼び寄せるような気はしますが……。
よく、わかんなかったす。別にイチャモンつけようというのではなくて。

695 名前: いちりん 投稿日: 2002/09/13(金) 08:24
龍の口法難というのは、どこまでが真実なんでしょうね。

---------------------------------------
四条金吾が「お師匠さま、ただいまです」と慟哭する。
日蓮はいう。
「不覚の者だなあ。法華経のために首を切られるなんて、これほどの喜びがあるか。
おまえさんに、いつも言っていたのがこれだよ。この喜びを、笑いなさい」

すると、江の島のあたりから、月の輝くように光ったものが、すーっと流れた。
その夜は、人の面も見えないほどの暗さだったのに、光りものがあらわれて、人々の面も見えるようになった。

首を切る太刀取役人は、目がくらんで倒れてしまう。
さむらいたちは、びっくりして恐れをなして、逃げ出す。
馬から降りてかしこまる者もいる。馬の上にてうずくまれる者もいる。

日蓮は大声で叫ぶ。
「わたしのように罪人から、どうして逃げ出すのだ。近くに寄りなさい。さあ、近くに寄りなさい。」
しかし、誰も日蓮に近寄ろうとはしない。

日蓮は言う。
「夜が明けたら、見苦しいぞ。はやく、首を切りなさい。さあ、はやく」
---------------------------------------

「種種御振舞御書」あたりでは、こんなことを書いていますが、ほんとうなんでしょうかね。
「種種御振舞御書」は、真偽未決の書ですよね。
日蓮さんにしては、ちょっと語りがうますぎるというか、
まあ日蓮さんが書いたとしても、自分のことを神話的に表現してしまうとこがあるから。。

講談あたりになると、首を切ろうという瞬間に、稲妻がびかびかびかっと刀に落ちて、刀がばきばきばきっと折れてしまうのですね。あれは、観音経の一節から、そうなるんでしょうけど。

696 名前:投稿日: 2002/09/13(金) 12:05
はぁぁ……。龍の口法難って、石山系に限らず、全ての日蓮系の信徒にとって重要な出来事ですよね。
そのことを書いてある御書が真偽未決なんですか。
お坊さんは真偽未決であることを知ってるけど、信徒には教えない、ということですか。
ひどい話……。

697 名前: いちりん 投稿日: 2002/09/13(金) 12:45
いや、龍口の法難は、歴史的な事実なんですけどもね。
上に書いたような現象は、どこまでが真実かなあ、と。

真偽未決というのは、偽書ではありませんですね。真筆でもない。ようわからんけど、どうも偽書っぽいというところでしょうか。

真筆にしても、日蓮さんという人は、自分のことをものすごくオーバーにいっちゃったりするんですね。劇の中の人物のように書いてしまうところがあるんですね。10人に襲われたのを、100人に襲われた、それをちぎって投げ、ちぎっては投げ……という表現をする人ではあります。

身延とか、たしかにとても寒いんだろうけど、「この身に八寒地獄を感ずる」などと言っちゃうんですね。

わたしは、日蓮さんというのは、「神話に生きた人」であり「神話をつむぐ人」だなあと思うことがあるんですよ。

「神話に生きた」というのは、『法華経』という神話・ファンタジーに生きたということですよね。

それと、「諸法実相抄」にしろ「生死一大事血脈抄」にしろ「阿仏房御書」にしろ「日女御前御返事」にしろ、見事な名文・名調子というのは、わりと偽書の臭いが強いこともあったり。

698 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/13(金) 12:48

「種種御振舞御書」は身延曾存ですね。何枚かに別れていたので、全てが真跡であるかどうかには、疑問が残る部分もあるそうですが、一応、真跡扱いと言うことだと思います。燃えてしまったので、もはや、判断の方法がありませんね。

身延曾存ということは、身延の火災で灰燼に帰したわけですが、その前に写しが取られているそうです。

699 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/09/13(金) 19:31
真偽未決といった大きな問題がございますけれども、日蓮聖人という方は、かなりオーヴァーな表現を用いられる事が多かったのかもしれませんね。
末木文美士氏も、自著『日蓮入門―現世を撃つ思想』(ちくま新書 2000年)の中で、『種々御振舞御書』について「自ら紡ぐ神話」とか、「ほとんど自伝的小説であると言ってよいものである」といった見解を述べられていました。

あの有名な「龍の口の法難」における奇跡的な出来事は、はたして真実であったのでしょうかね・・・?
学者・研究者の間では、賛否両論のようですが、しかし、紀野一義氏の著書『日蓮―民衆と歩んだ不屈の改革者』(廣済堂出版 1995年)において、次のような注目すべき記述もございます。

=======================================
『星の記録』(岩波新書207)を書いた斉藤国治氏は、この光り物について、

  「この光り物については、すでに広瀬秀雄氏の研究があり、このときおひつじ・お
  うし座流星群の一流性が出現したのだと解釈されている。この流星群は太陽暦で十
  月下旬ごろ活動し、しばしば明るい流星を出現させることで知られている。その母
  彗星はエンケ彗星で、この彗星がその軌道上にそって落とした一小片が偶然にも日
  蓮のいのちを救ったといえよう」(110頁)

 といっておられます。
=======================================

もしかすると、通常では起り得ぬ信じられないような出来事が、その時、偶然にも?起った可能性は、なきにしもあらずではないのか?と、思ってみたりもするのですけれど・・・

700 名前: アネモネ 投稿日: 2002/09/13(金) 19:40
>首を切る太刀取役人は、目がくらんで倒れてしまう。

当時の人々の神仏に対する信仰心というのは、現代の私たちの信仰心とは比べものにならないくらい、それはそれは篤く深いものだったでしょうね。本当に心の奥底から神仏の存在を信じていたことでしょう。そして、その仏に仕える僧侶に対する思いも、今の法華講だって及ばないないくらい、並大抵のものではなかったのではないかと思うのです。それは何宗の僧侶だとかなんとかは関係なく、僧侶とは仏様に仕えるありがたーい存在であり、ましてや日蓮は比叡山を出ているわけですから、まあ、僧侶としての格もある。
いくら命令とはいえ、そのような僧侶の首を切らねばならない首切り役人の気持ちは、どんなだっただろうなぁということを考えてみると、見えてくることがあると思います。
恐らく神仏の怒りに触れるのが、それはそれは恐ろしくて怖気づき、とてもじゃないけど、太刀など振り下ろせるものではなかったのではなかっただろうと。
もしも自分の振り下ろした太刀で、仏に仕える僧の首など切ろうものなら、必ずや大罰が自分の身に降りかかり、それは子々孫々の代まで続くことだろうと、本当に信じていたでしょう。それはさぞかし怖かったと思います。手も足もガタガタに震えて、腰砕けになっていたのではないでしょうか。天空からのひかり物などあってもなくても、それこそ仏罰が恐ろしくて、とてもじゃないけど、切れなかったことと思います。

ひかり物が現れたということが本当のことなのかどうかはわかりませんが、そのことで救われたのは、むしろ太刀を降ろせなかった首切り役人かもしれないですね。ひかり物の出現という超常現象ということにもなれば、とりあえず面目も立つというもの。
その脚色を誰がしたのか、聖人ご本人なのか、それはわからないですが‥。とにかく後世まで命拾いし救われたのは、首切り役人かもしれないなぁと、思ったりします。

それにしても、案外と今の青年たちの多くが、この伝説というか奇跡を通して信仰を深めているんですね。奇跡に裏づけされた宗教こそホンモノだと思ってしまう信仰心。
ひとつの伝説の物語として受け止めるならともかく、それを絶対的な信仰の裏付けとして中心に据えてしまっているならば、それは少し危ないかもしれないなぁと思いました。もっと違うところからのアプローチで信仰を深められるよう、導いていく周りの大人たちの信仰への姿勢が必要かもしれませんね。

701 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/13(金) 20:09

種々種御振舞御書には、次のような箇所もあります。

「いかに月天いかに月天とせ(責)めしかば、其のしるしにや、天より明星の如くなる大星下りて、前の梅の木の枝にかヽりてありしかば、ものヽふども皆ゑん(縁)よりとびをり、或は大庭にひれふし、或は家のうしろ(後)へにげぬ。やがて即ち天かきくもりて大風吹き来たりて、江の島のなるとて空のひヾく事、大いなるつヾみを打つがごとし。」

ここを読んで、正直なところ、このようなことがある筈がない、と思ってしまいます。もし、ご真跡なら、聖人は誇大妄想の持ち主では無かろうかと思うわけです。『天より明星の如くなる大星下りて、前の梅の木の枝にかヽりてありしかば』などと言うことはあり得ないことのように思えます。第一、どうやって梅の木に大星が掛かるというのでしょう。僕は、この部分は特に聖人の真跡とは考えられないと思うのです。そしてまた、このような箇所を以て、日蓮本仏の証と考えるのは、大きな間違いであると思います。

702 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/13(金) 20:14

>699

古い記憶ですが、このエンケ彗星説は、学会・池田さんも肯定した説でしたね。
誰かとの対談で、“池田さんの言葉”として書かれていたのを読んだ記憶があります。本の題名は忘れました。…『御書と四条金吾』だったような、すると対談相手は、原島嵩さんか、いまこう書くと、ほとんどブラック・ユーモアのようになってしまいますが、その意図はありません。

703 名前: いちりん 投稿日: 2002/09/14(土) 09:42
「種種御振舞御書」には、諸天善神を叱りつけるところが出てきますよね。

まずは、八幡さま。
八幡さまというのは、いわば源氏の守護神ですよね。それを、叱りつけるわけです。

>日蓮云く各各さわがせ給うなべちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か

このあたり、「平家物語」みたいな筆致ですよね。戦記文学のようです。

日蓮は、日本第一の法華経の行者である。

その法華経の行者が、いままさに、殺されようとしている。
そのときに、八幡よ! おまえは、ただ黙って指をくわえてみているのか!

八幡よ!
お前は、そもそも法華経の守護神なのだ。
ということは、法華経の行者を守護する役目があるのだ。

その役目を放棄して、安逸に流されているとしたら、あとでお釈迦さんに叱られるぞ。
三世の諸仏に叱られるぞ。
どうなんだ! 返事をせい! 返事を!

……というように、怒鳴りつけます。

ここが、痛快というか、すごいですね。
なにしろ、八幡宮は、源氏の本拠地です。
源氏の守護神ですよ。いちばん大切にしている神さまです。
この八幡宮を聖なる拠点として源氏のエネルギーの結集をしていたわけです。
そのご神体である八幡神を叱りつけるわけです。たんなるクソ坊主が、です。

そして、お月さまを叱ります。

>いかに月天いかに月天とせ(責)めしかば、

実際に、日蓮さんはそういうことを、されたんでしょうね。
そして、記述のとおりの現象かどうかはわかりませんかせ、なんらかの現象は起きたのだと思います。

このあたりの、諸天善神といいましょうか、神霊界のエネルギーを動かしてしまうような、逞しい・勇ましい日蓮さんがいますよね。

そうしてまた、弟子の手紙に涙を流したり、寒さにこごえ死にそうだと言ってみたりする日蓮さんがいますよね。

704 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/14(土) 11:28

○お知らせです

JDCC(Japan De-Cult Council = 日本脱カルト研究会)が第3回公開講座を開催します。
http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/2002.jpg

今回のテーマは『カルト集団における虐待』
日時;10月12日(土)午後1時から5時
場所:上智大学3号館 521大教室
   千代田区紀尾井町7−1
   JR四谷駅から徒歩3分
費用:学生500円 / 一般2000円

●あいさつ
 宗 正孝(カトリックセンター所長・上智大学教授)

●報告
 『虐待の精神病理』
  高橋紳吾(精神科医、東邦大学助教授)
 『破壊的カルトにおける虐待事例と考え方』
  紀藤正樹(弁護士)
 『人権侵害的な宗教思想』
  志村真(牧師)

●パネルディスカッション
 司会:西田公昭(社会心理学者、静岡県立大学講師)
 パネラー:パスカル・ズイヴィ(マインド・コントロール研究所所長)
      オウム、統一協会、エホバの証人、ライフスペース、ヤマギシ会から

 問い合わせ:神奈川県大和市中央2-1-15
        TEL 046-263-0130
        http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/
        (またはカトリックセンター TEL 03-53238-4161)

705 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/14(土) 13:01

701 問答名人さん:

> 天より明星の如くなる大星

この大星の大きさなんですが、これは天空の星の見かけ上の大きさをいうのではないでしょうか。宵の明星、明けの明星の地平線に見える時の大きさです。他の星から見れば、かなり大きく見えますでしょう。でも、月ほどではない、せいぜい小豆大、それもちょっと大げさで0.5カラットから1カラットにも満たないダイヤモンドぐらいの大きさ、これを「大星」と表現したのではないでしょうか。

となれば、梅の枝に留まることは不自然ではないように思えます。どうでしょうか。

まあ、なんであるのか。なにより事実かどうかは別として、あくまで大きさだけのことです。

706 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/14(土) 13:39

犀角独歩さん

>これは天空の星の見かけ上の大きさをいうのではないでしょうか。宵の明星、明けの明星の地平線に見える時の大きさです。

そのあとの「前の梅の木の枝にかヽりてありしかば、ものヽふども皆ゑん(縁)よりとびをり、或は大庭にひれふし、或は家のうしろ(後)へにげぬ。」と言うことがどうして起こったのでしょう。この表現からは、まさしく、庭に大きな星が現れて、それに驚いた、という繋がりしか、考えられないと思いますが如何でしょうか。

707 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/14(土) 13:54

そう。ここなんですが、私は小さいものでも、動き回る光る物体が現れただけで、恐れをなすのではないかと思うのです。

「かヽり」は「懸かる」ですね。辞典を参考にすると

物がほかの物に取り付けられたり、支えられたりしてそこにある。《懸・掛》
(1)上方に掲げられる。ぶらさがっている。「壁に絵が―・っている」「凧(たこ)が木の枝に―・る」「大きな看板が―・った店」「戸口に表札が―・っている」「のれんが―・っている」
(2)中空にある。「月が中天に―・る」「天の川が夜空に―・る」
(3)〔自在鉤にかけて火の上に置いたことから〕鍋などが火の上にのせられている。「ガスコンロに鍋が―・っている」
(4)〔竿秤(さおばかり)の鉤にかけて重さをはかることから〕秤で重さが量られる。「重すぎてこの秤には―・らない」
(5)もたれる。よりかかる。「手すりに―・って休む」「もたれ―・る」「しなだれ―・る」「かきおこされて人に―・りてものす/蜻蛉(上)」

などとなっています。もちろん、意味はもっと多様ですが、「梅の木の枝にかヽりてあり」ですから、枝にぶら下がる程度、どんなに大きくても果実ほどのものをいう記述で、しかし、その前文が「天より明星の如くなる大星」ですから、大きさはダイヤモンド程度ということになるのではないでしょうか。

実際、そんな大きさのもので、兵士が驚くかどうか、それはわかりませんが、この程度の大きさを示していると思えるのです。

708 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/14(土) 15:27

「明星の如くなる大星」の、この“明星の如く”というのは、何を表す比喩かという点が、気になります。

私は星の明星の大きさ程度、つまり、光の強い蛍の少しでかいものが降りてきたのではないのかと考えたわけですが、たしかに問答名人さんの仰るように、そんなもので武士兵士が一斉に逃げ出すものかという疑問は残るわけです。ただし、仮に光り物の記述はすべて事実であったとして、兵士達が龍口の光り物を見ていれば、もう過敏になっていたでしょうから、ちょっとした光の動きでも逃げ出したかもしれません。そんな憶測は成り立つかもしれません。

「明星の如く」、この表現は、しかし大きさを表したものであるかどうか、別の可能性も考えられなくもありません。そんなことを思いながら、ちょっと検索したら、以下のような文章が引っかかってきました。

日蓮聖人「立教開宗」における妙見尊と虚空蔵菩薩の関係
石川 修道(現代宗教研究所研究員)
http://www.d1.dion.ne.jp/~janis/gensyu.html

この最初の項目が「明星天子の本地は虚空蔵菩薩なり」とありました。
この根拠は上述の文書を参考にしてもらいたいのですが、仮にこの説を受ければ「明星の如く」は虚空蔵菩薩のようなと読むことは可能かもしれません。

あと、先の御書をもう少し前から引用すれば、

いかに月天いかに月天、とせめしかば、其しるしにや、天より明星の如クなる大星下リて前の梅の木の枝にかかりてあり

「いかに月天」と責めた結果ということになりますから、やや拡大して考えれば、月のような大きな光となって、虚空蔵菩薩が降りたとも取れることになります。

はたして、「明星の如く」は何を形容するものか、私のように大きさと決めつけるのは即断なのかもしれません。

709 名前: 川蝉 投稿日: 2002/09/14(土) 18:07
種々御振舞御書について

「種々御振舞御書」の偽作説は、「こんな奇跡は有り得ない」と云う意識がもとになっているようです。宗門にも偽作説を採る人が結構居るようです。
高木豊教授もそうとの事です。
最近では、今成元昭博士が日蓮宗現代宗教研究所刊の「現代宗教研究台33号」において、偽書と断じています。
理由は、「『平家物語』(下関神社の赤間神宮から出た長門本)に、平家の滅亡後に、捕らえられた平盛久が由比が浜で切られるところで、光り物が飛んできて、太刀打ちの太刀が折れ、富士の裾より光りが二すじ、盛久の身に差した、と云う場面がある。日蓮聖人の龍口の物語はこういうベースの上に成り立っていると云うことになるわけである(取意)」(79頁)
と、云って偽作と断じています。

真蹟は身延曾存となっています。
「種々御振舞御書」(19紙一巻)
「佐渡御勘気抄」(21紙一巻)
「阿弥陀堂法印祈雨抄」(10紙一巻。ただし初めと中と一枚程不足)
「光日房御書」(文末)
を足し一編としたのが、所謂「種々御振舞御書」です。

身延山12世日意上人の「大聖人御筆目録」(昭和定本第三巻・2742頁)に記載されています。21世日乾上人の「身延山久遠寺御霊宝記録」(昭和定本第三巻・2787頁)にも記載されています。
あと、焼失以前に対照した小川泰堂居士も「我れ延山に於いて三軸の真蹟を並観して」と云って、真蹟としています。

茂田井教亨師によると、「日乾上人の目録は、何枚目の紙が足りないとか、この字が落ちているとか、途中とことどころ虫が食っているとか、他筆が入れば他人の筆でこれこれの書き込みがある、というようなことまで詳しく記録している。しかし、種々御振舞御書については、そうした注意書きがなされていない。自分が乾師目録を拝見したとき、種々御振舞御書の字を見て御真蹟と見違えるほどであった。身延に曾存した御真蹟の目録を見ると、どれも真筆を思わせるような筆致で書いてあり、日乾が日蓮の真蹟を見ながら目録を書いていったものと推測される(取意)」(日蓮の行法観、13〜15頁)と云うことです。
日意上人、日乾上人、小川泰堂居士の目を信じれば「種々御振舞御書」は真蹟であると云う事になり、龍口の奇跡は、流星あるいは気象変化(雷雲)による光球(プラズマ現象)であったにせよ、不思議な現象があったと云うことになりますね。

偽書とする理由として他に、自伝に自ら「御」を付ける筈がないと云う意見があるそうですが、茂田井教亨師が「私は、日蓮の傍らにいた弟子がそのような書名をつけ、やがて日蓮もそう名付けたのではなかろうか、と思うのである」と返しています。

ドプチェクさんが699 番の指摘によると、末木文美士氏が『日蓮入門―現世を撃つ思想』(ちくま新書 2000年)の中で、『種々御振舞御書』について「自ら紡ぐ神話」とか、「ほとんど自伝的小説であると言ってよいものである」といった見解を述べているとのことですが、実際に起きなかったことを日蓮聖人が書いたとしたら、弟子達は「嘘つき宗祖」と思い尊敬の念を懐き続けなかったのではと思われますね。

710 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/14(土) 22:11

86522 ゲットしました。

711 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/09/15(日) 01:54
犀角独歩さん 川蝉さん その他の皆さん

ご教示、ありがとうございました。

犀角独歩さん

>>702

>古い記憶ですが、このエンケ彗星説は、学会・池田さんも肯定した説でしたね。

そうなんですか。それは初めて知りましたし、ちょっと意外でした。自著において引用されています紀野一義氏などは、多分、その説を信じられているのではないのか?と思っているんですけれど、学会と池田名誉会長もそのような考えであったとは・・・
それにしても・・・

>誰かとの対談で、“池田さんの言葉”として書かれていたのを読んだ記憶があります。

これが本当なら、パクリと言えばパクリですよね。
こちらの主旨から外れてしまいますので、どうでもいい事なのかもしれませんが、他の掲示板でお聞きしたのには、学会って結構、立正佼成会のイミテーションをしているようなところがあるとも。
学会の場合、そういうのって、昔から多いんでしょうかね・・・
何だか関係のないお話になってしまいまして、すいませんでした。
このお話は、あまりお気になさらないで下さいませ(^^;)。

川蝉さん

>>709

>ドプチェクさんが699 番の指摘によると、末木文美士氏が『日蓮入門―現世
>を撃つ思想』(ちくま新書2000年)の中で、『種々御振舞御書』につい
>て「自ら紡ぐ神話」とか、「ほとんど自伝的小説であると言ってよいもので
>ある」といった見解を述べているとのことですが、実際に起きなかったこと
>を日蓮聖人が書いたとしたら、弟子達は「嘘つき宗祖」と思い尊敬の念を懐
>き続けなかったのではと思われますね。

私は日蓮聖人にお会い致した事がございませんけれども(当然の事ですが^^;)、ただ、少なくとも宗祖という方は、嘘・偽りを言ったりとか、自らの権勢欲などの為に他者を騙したり、陥れようとしたりとか、そんな事をするような人ではなかったと思っています。
今、私が少しずつ読んでいます渡辺照宏氏の『日本の仏教』(岩波新書 1958年)におきましては、日蓮聖人に対して結構批判的な見方がされています。無論、批判的考察は大事であると思いますし、宗祖とて飽くまで血の通った生身の人間であったわけなのですから、欠点はあったと言うべきではないのかと。
ただ、それでも、あのキリスト教信者であった矢内原忠雄氏が『余の尊敬する人物』で記していますように、日蓮聖人に欠点はあったものの、飽くまで真実に生きた人であったと思うのです。昨年のNHK大河ドラマ『北条時宗』の中でも、奥田瑛二の演じていた日蓮は、「偽りを生きてはおりませぬ」と述べていましたが(あのドラマにおける日蓮のキャラクター設定は、故石川教張氏であったそうです)、もしかすると宗祖の実像というものは、あれに近いところがあったのではないのか?と。

712 名前: sunya 投稿日: 2002/09/15(日) 03:30
 川蝉さん、お久しぶりです。sunya です。(^^゙

 最近の研究では、その一部にせよ「種々御振舞御書」が聖人の真跡であると
いうことは、研究者たちにおいても・どうやらコンセンサスが得られて来たと
いう状況、のようですね。
 川蝉さんが的確にご指摘くださったように「実際に起きなかったことを日蓮
聖人が書いたとしたら、弟子達は<嘘つき宗祖>と思い尊敬の念を懐き続けな
かったのではと思われますね」とは、わたしもその通りだと思うのです。

 その一端を挙げれば、龍ノ口の死罪より八日後の文永八年九月二十一日に、
聖人は本間邸から四条金吾頼基に宛てて書状(四条金吾殿御消息)を出してお
られるのでした。
 「さても・さても・去る十二日の難のとき、貴辺・たつのくちまでつれさせ
給い、しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ、不思議とも申すばかり
なけれ」と、そして「三光天子の中に、月天子は光物とあらはれ・竜口の頸を
たすけ」と。

 四条殿が龍ノ口の「頸の座」に在ったことは、他の聖人の御抄からしても疑
う余地はないことでしょう。その「龍ノ口」の目撃者・生証人である四条殿に
宛てて、「腹を切らんと」したこととともに、あえて「月天子は光物とあらは
れ・竜口の頸をたすけ」と、聖人は述べられたことでした。
 もしやそれが嘘であり脚色であるのなら、<鎌倉武士の鏡>と称された四条
殿が黙ってはいなかったことでありましょう。( 後に、四条殿は聖人滅後は身
延に在って、輪番制を守らぬ老僧とは別に終生、聖人の御墓を護って生涯を終
えられたのでした )
 また、富木殿・太田殿・曽谷殿・波木井殿といった鎌倉武士たちとても、た
またま・その場(龍ノ口)に居合わせなかったとしても、様々な手段でただち
に龍ノ口の関係者に対し、その<事実>を問い・確認することは可能だったこ
とでありましょう。

 一部の歴史学者の先生にあっては、「当時の貞永式目の制度では、僧侶は斬
首されないのだ」として、聖人の龍ノ口の「頸の座」をも伝説・脚色とするこ
とでしたが、それは当時の鎌倉幕府の振舞・行動を知らぬ<思い入れ>という
の他はないことでしょう。
 鎌倉幕府は、承久の変では天皇・上皇を島流しに処し、蒙古からの「国書」
に返事も返さず、朝廷が発した蒙古への「返書」をも握りつぶし、ついには蒙
古からの正式な<外交使節団>をも、例の<龍ノ口>で斬首したことでした。
 これだけでも、当時の幕府が「貞永式目」はおろか、百も承知の上で「外交
の常識」すら遵守しなかったことは、明白でありましょう。

 さすれば「僧侶は斬首されない」なる掟が、日蓮聖人に対しては鎌倉幕府に
おいて遵守されたはずといういう、あくまで一部の学者先生の「思い入れ」の
説とても、いささか根拠薄弱と言わざるを得ないことでありましょう。
 されば、以て「光物とあらはれ・竜口の頸をたすけ」なる事実を否定するこ
とは、やや根拠薄弱に過ぎないだろうか..、とわたしに思われるのでした。

713 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/15(日) 09:04

ドプチェクさん:

> “池田さんの言葉”として書かれていたのを読んだ記憶があります。
> これが本当なら、パクリと言えばパクリ…

私が池田さんを弁明するのは変ですが、パクリというより、参考文献を提示しなかっただけでしょうね。池田さんは天文学者じゃない、彗星の研究をやっているわけじゃない、けれど、それを知っているとすれば、ニュースで知っているか、文献で読んだか、誰からか聞いたということになります。その出先を記していなかった、まあ、それだけのことでしょう。学会ではよくある話でしょうね。

ここら辺の一連の対談は、原島さんなどを中心に盛んに行われて、たくさんの書籍になったものでした。ドプチェクさん当たりでもご存じないということは、原島さんやら、みんな脱会してしまったので、学会ではこの手の書籍を一掃してしまったのでしょうか。

まだ、後藤さんが東洋学術研究所の所長をしていたころで、そこに掲載している学者の説なんかも、よく“池田さんが語る”形で記してありました。『私の天台観』であったと記憶しますが、「天台は自分の生きている時代を末法であると自覚していた」なんて、仏教学会では常識(中国では末法元年は西暦にして552年説)ながら、日本では日蓮の諸説を覆すことになる(日本では末法元年は西暦1052年)のに、この点を紹介していたわけです。

東洋学術研究、また世界の知識人と盛んに外交をはじめた頃でした。たぶん、この頃から、世界水準の学問を学会は意識するようになり、それと積極的な融合をはかりたかったのでしょう。けれど、石山の原理主義がその前に立ちはだかった。池田さんは、この時点で大石寺の教学はダメだと気付いていたんでしょう。併せて戒壇之漫荼羅も内心では捨てていたのでしょう。ただし、これは批判ではなく、当時の知的水準が一気に上がった学会上層部と池田さんからすれば、当然の帰結であったと、いまは思っています。

しかし、恥ずかしながら国立戒壇論で正本堂は建てた“大功労者”としての看板は捨てたくはなかった、どっちも強請りの気持ちは学会・池田さんにはあっただろうから、宗門向け対策と世界へ向けての対策が分離して現在に至っているわけでしょうね。東洋学術研究所、レグルス文庫の学的立場と、聖教新聞、大百蓮華では天地雲泥の差がある、なのに学会員からはなんらブーイングが上がらない、私は不思議に思っていたわけです。要するに読んでいないからなんでしょう(苦笑)

こんなことは古くは故岩本裕師(創価大学名誉教授)、最近では菅野博史師(創価大学教授)といった人たちにも言えるわけです。彼らの学説は完全に学会の教学を否定するものであるけれど、逆に学会の知的水準の広告塔になっているという不可思議な矛盾があるわけです。

まあ、ちょっと、話がずれましたが、そんなことは池田さんは百も承知でしょう。ですから、私は池田さんを仏教界最大の合理主義者、進歩主義者であるというわけです。これはしかし、批判というより、意外かも知れませんが肯定的な意味も含めて、です。

714 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/15(日) 09:33

sunyaさん:

はじめまして。横レス失礼します。
また、はじめての問いかけなのですが、ケチをつけるような形になります。悪気はなく、単に疑問を書くだけです。ケンカを売っているわけでも、sunyaさんを貶しているわけでもないので、ご容赦ください。

ここのところ『種々御振舞御書』に関する議論が続いており興味深く拝読していました。川蝉さん、そして、sunyaさんの<嘘つき宗祖>という視点も「なるほど」と思いながら読ませていただきました。

ただ、一点気になったのは、『種々御振舞御書』につき、その真偽を論じているところで、sunyaさんが引かれた四条書は真偽未決書であるという点です。たしかに名文であって、聖人の文とも思えるところもあるのですが、真偽を論じる証左として、真偽未決書の提示は危うくないかという思いが私にはあります。

真跡書で見る限り、「三光天子」「光り物」ではヒットはなく、「光物」は『種々御振舞御書』に出るばかりです。同書についての真跡考証なので、真偽未決書の証左とする点には私は痛痒を覚えるわけです。

ただし、だからといって、光り物を私が否定しているかというと、そういうわけではありません。以下はsunyaさんに特に申し上げることではありませんが、富士門以外の方、と言っても、皆さん、富士門資料に通じているので、蛇足の観も禁じ得ませんが、門下最古の伝承『御伝土代』には、以下のような記述があります。道師真跡を残す資料です。

 文永八年太歳かのとひつじ九月十二日、御勘気を蒙る、平の左衛門の郎従少輔殿と申す者走り寄て日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取い出して面を三度さいなみ散々と打ち散らし、又九の巻の法華経も兵者打散らして、或は足に踏み或は纒ひ或は板敷畳二三間に散さぬ所もなし、大音声を以て只今日本国の柱倒るる云云。
 十二日の夜武蔵殿の御領にて頚を切らん為に鎌倉を出づ、中務三郎左衛門尉と申す物のかたゑ熊王と申す童子を遣はしたりしが急ぎ出ぬ、今夜頚切へ罷るなり、此の数年が間願つる事是なり、此の娑婆世界にして雉と成る時は鷹に掴まれ、鼠と成る時は猫に殺され或は妻子の敵に身を失う事大地微塵劫よりも多く、法華経の御為には一度も失う事無し、去れば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養の心足らず国の恩報ずべき力なし、今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に廻向せん、其の余りを弟子檀那等に省く可しと申せし是なりと申せしかば左衛門の尉兄弟四人・馬の口に取付て腰越竜の口に行ぬ、爰にてぞ在らんずらんと思ふ処に案の如く兵物ども打繞りしかば、左衛門尉只今なりと泣しかば、日蓮申す様不覚の殿かな・是程の悦をば咲へかし、如何に約束をば違へるぞと申せし時、江島の方より月の如く光りたる物鞠の様にて辰巳の方より戌亥の方へ光り渡る、十二日夜の明闇人の面も見えざりしが、物の光月夜の様にて人の面皆見え、兵士ども興醒て一丁許り馳せ除きて、或ひは馬より下りて畏こまり、或は馬の上にて蹲まる物もあり。
 相模の依智とゆふ所へ入らせ給へと申す、馬に任せて行く午の時許りに依智と申すに行き付きぬ、本間の六郎左衛門の家に入る、九月十三夜なれば大に晴てありしに、大庭に出て月に向ひ奉りて自我偈少少よみ奉り諸宗の勝劣法華経の文あらあら申して、抑もいまの月天は法華経の御座に列なりまします名月天子ぞかし、宝塔品にして仏勅を受け付属品にして、仏に頂きを摩られまいらせて如世尊勅当具奉行と誓状を立し人ぞかし、仏前の誓ひは日蓮なくば虚しくてこそおわすべけれ、今斯る事出で来たれば急ぎ悦ひをなして法華経の行者にも代り仏勅をも遂げさせ給はん、いかにいまに験しのなきは不思議に候ものかな、いかなる事も国に無くしては鎌倉へも帰ると思わず、験こそなくとも嬉し顔に澄渡らせ給ふはいかに、大集経には日月も明を現ぜずと説れ、仁王経には日月度を失ひと説れ、最勝王経には三十三天各生瞋恨とこそ見へたるに、いかに月天月天と責しかば其験しにや天より明星の如くなる星落て前の梅の木の枝にあたりしかば、武士ども皆椽より下りて或ひは大庭に平臥し或は家の後に逃ぬ、やがて即天かき曇り大風吹きて江島の鳴とて空響事大なる鼓みを打が如し。(富士宗学要集 5-4)

非常に長い引用で恐縮です。御伝土代はもとより、土代(土台)つまり、下書きですが、聖滅52年の書であるようで、もしこれが道師真筆であるとすれば、記述については、叙用に耐えるところであり、龍口・依智の光り物はそれが何であるのかは別として、史実としてとらえてよいのではないのかと、現時点では私は思っています。

715 名前: いちりん 投稿日: 2002/09/15(日) 12:12
>最近では、今成元昭博士が日蓮宗現代宗教研究所刊の「現代宗教研究台33号」において、偽書と断じています。
理由は、『平家物語』(下関神社の赤間神宮から出た長門本)に、平家の滅亡後に、捕らえられた平盛久が由比が浜で切られるところで、光り物が飛んできて、太刀打ちの太刀が折れ、富士の裾より光りが二すじ、盛久の身に差した、と云う場面がある。日蓮聖人の龍口の物語はこういうベースの上に成り立っていると云うことになるわけである(取意)」(79頁)
と、云って偽作と断じています。

川蝉さんが引用されたところですが、おもしろいですね。

平盛久が、由比が浜で切られる
光り物が飛んでくる
太刀打ちの太刀が折れる
富士の裾より光りが二すじ、盛久の身に差した、

とても似ていますよね。
やはり、こういう物語の記述を土台にして、日蓮さんの偉大さを表現しようとしたという可能性もあるかなあと思ったりします。

日蓮さんの四条金吾への手紙には、真実性を感じますけど。

《返す返す今に忘れぬ事は、頸切れんとせし時、殿はともして馬の口に付きて、なきかなしみ給いしをば、いかなる世にか忘れなん。
 設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも、用ひまいらせ候べからず。同じく地獄なるべし。
 日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ》(『崇峻天皇御書』)
──返す返す忘れられないことは、わたしが龍の口で頸を切られようとしたとき、貴殿は、わたしの乗っていた馬の口にとりすがって、哭き悲しんでおられた。そのことは、いかなる世になろうとも忘れません。
 かりに貴殿が罪深くして地獄に堕ちたとしても、釈迦仏がいかに日蓮を仏にして下さると言われても、わたしは貴殿とともに同じ地獄に行きましょう。
 わたしと貴殿が同じ地獄に行くならば、釈迦仏も『法華経』も、地獄におられるでありましょう──

716 名前: いちりん 投稿日: 2002/09/15(日) 13:49

>後に、四条殿は聖人滅後は身延に在って、輪番制を守らぬ老僧とは別に終生、聖人の御墓を護って生涯を終えられたのでした

このように sunya さんが書かれていますが、「その後の四条金吾」については、よく知りませんでした。

四条金吾といえば、日蓮さんの門下のなかでも、もっともすがすがしい印象があります。
日蓮さんのお手紙の中でも、四条金吾に宛てられたものは、生活の細部に渡って指導されていて、生活即仏法、信心即生活のお手本みたいな。。

日蓮さんに、常陸の湯での療養を勧めたのも、四条金吾でしたし、池上までお供もしたことでしょう。そして、日蓮さんの最後を看取ったのも、主治医のような四条さんであったと思います。

その四条さんは、日蓮さんの滅後、どうなったのかいなあと思っていました。
日興さんとは、うまくやっていたのかなあ。
他の五老僧たちとは、どうであったろうか。鎌倉にいたのなら、そこを拠点にしていた日朗さんとは、どうであったろうか、とか。

717 名前: 川蝉 投稿日: 2002/09/15(日) 18:03
sunya さん本当にお久しぶりです。

ブロバイダーを変えたので、大分前から、sunya さん主催の仏教思想フオーラムの方は閲覧出来なくなってしまいました。
ここは冨士門流信徒の掲示板と云うことですが、たまに発言させて貰っています。
sunya さんような思慮深い方が参加されるようになれば、この掲示板も一層、有意義な掲示板になると思います。
私は主に、顕本法華宗のShamonさんの「法華行者の会」と、日蓮宗大阪市布教師会の「BBS-sangha」に参加しています。
みなさん私信みたいな書き込みをお許し下さい。

718 名前: 無徳 投稿日: 2002/09/15(日) 22:44
 sunyaさん本当にお久しぶりです。

お元気でしたか?伝え聞きですがお体を悪くされたとのこと心配しておりま
した。

 私も偶には、この掲示板に書き込みさせていただいています。川蝉さんが
云われたようにsunyaさんが参加されたら、更に充実した掲示板になるものと
確信します。

 体調には充分気を付けられて再度の投稿を期待しています。

719 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/16(月) 18:59

いちりんさんのところを覗いたら「天命庵」のスレッドがあるのを改めて知りました。

少し前のことですが、大正大学人間学部の弓山達也師の講演を聴く機会があったのですが、この時、天命庵の伊藤青年さん(この言い方は不適切?)と佐藤初女さんを取り上げていました。

弓山師はスピリチュアリティの目覚め、また日本人のスピリチュアリティの危機を題材に論じながら、その危機の中でこの2人が注目を浴びている点を紹介していました。

弓山師を知っている人ならば、目に浮かぶと思うのですが、伊藤青年さん、佐藤初女さんの物真似を交えながら、まあ大きな声で、まるでパフォーマンスのような、恰も漫才のような講演でしたが、途中で、聴衆の一人である現役天理教信者が異を唱えるなどという一幕もありましたが、私はそれなりに考えさせる内容でした。

いちりんさんの創価学会講義の時に、「創価学会では池田さんが死んだあと、どうなるだろうか」という短い議論があったのですが、日蓮宗の年配の坊さんは「学会にとって危機を迎える」といい、反対に学会経験者であるHさんは「乗り越える」と主張していました。私はHさんに賛成で、池田氏の死という混乱は会員の動揺という異常事態、換言すれば、次なるカリスマを熱烈に希求を最高潮に達しさせることになるので、必ず次のカリスマが生まれ、危機を乗り越えるだろうと想像しています。あるいはこのカリスマは複数で、分裂を伴うものとなるかも知れません。

また、伊藤青年さんのように天理教の本来のスピリチュアリティを復権する組織外コミューンにおけるカリスマ…、カリスマという表現が悪ければスピリチュアリティの具現者(と目される)を中心とする小グループを発生させるかも知れません。

何度も書いてきたことですが、95年のオウム真理教の地下鉄サリン事件以降、日本人は神秘体験を看板にするグループ、個人に対して、実に臆病になったと私は思っています。知識人として認定されようと思えば、キリスト者であっても神秘主義については否定的な意見を述べる風潮を私自身、肌で感じてきたわけです。まして間近でカルトによって命を落としたり、命を狙われた人がいる環境であればなおさらのことです。

一連のカルト問題、オウム真理教、加江田塾、ライフスペースと言った異常事件が連続すると、神秘主義というか、霊的教義をもつ宗教に対する過敏さは増し、ひいてはスピリチュアリティそのものまで、否定するような流れが出来上がってきてしまったように思えます。そういう私も霊性を口をするにはかなり勇気を要します。スピリチュアリティの訳語として霊性を充てるのは的確かどうかは意見が分かれるところなので、私はスピリチュアリティという語のほうを使います。

WHOで、この霊性について取り上げたのは記憶に新しいことです。

"Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."

「健康とは,単に疾病または虚弱でないだけでなく,身体的,精神的および社会的に健全な状態である」

という健康の定義を,

"Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."

  「健康とは,単に疾病または虚弱でないだけでなく,身体的,精神的,霊的および社会的にダイナミックで健全な状態である」

http://www6.ocn.ne.jp/~comichi/comichi1/definition_of_health.html

とする点です。

伊藤青年さんや、佐藤初女さんがなぜかくも人のこころをとらえたか、それはたぶん、今の肥大化した宗教団体はスピリチュアリティを持ち合わせていないからに他ならず、それよりなにより、各人のスピリチュアリティを傷付け、奪い去るものになっているからであろうと思います。シニカルな言い方をすれば、伝統教団は在家に向かっては葬儀と埋葬を通じて搾取し、新宗教以降の教団はそのスピリチュアリティを疎外し、隷属化させることによって搾取する存在であるからに他ならないと思います。

講演で弓山師も挙げたのですが、藤田庄一師が、この現代宗教に横たわる悪しき本質を「スピリチュアル・アビューズ」と言った指摘は、富士門流そのものにも確かに当て嵌まると私は思います。

720 名前:投稿日: 2002/09/17(火) 02:09
日蓮宗のお坊さんは創価学会をどう考えているんでしょうか。「池田さんさえいなくなれば、創価学会はなくなる」とでも思っているんでしょうか。
学会経験者のHさんが、どういう未来を想像しているのか、詳しく書いてないのでわかりませんが、私も、例えばすぐさまバラバラに分裂する、とは思えません。
既成仏教に求めて得られないものがあったから、学会はそのニーズに応えて大きな組織に育ったのでしょう。
池田さんがいなくなれば、会員たちは夢から覚めて既成仏教に帰ってくる、なんてことをお坊さんたちが考えているなら、甘いと思います。
学会員は御書もお経も読めますし、政党も作りましたし、今までお坊さん無しでやってきました。
幹部が舵取りを誤らなければ、この民衆のパワーは、結束して教団の危機を乗り越える方向に向かうと思います。

721 名前: 三学無縁 投稿日: 2002/09/17(火) 12:24
087100ゲットしました。

722 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/17(火) 18:55

拉致によって他国で死亡した方々の冥福をお祈り申し上げます。

それにしても、今回の小泉首相の訪朝は、顕正会の北朝鮮アナウンスにどのような変化をもたらすのでしょうか。

723 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/17(火) 23:36
独歩さん同様、他国で亡くなられた方に慎んでお悔やみ申し上げます。

しかし拉致にしては不思議な拉致でした。よど号の日本人は何故無関係な日本人を拉致したのでしょう。北朝鮮は敵国の筈の日本人を何故必要としたのでしょう。何故被害者は日本並の生活が出来なかったとしても北朝鮮同様苦しみながらでも就職や結婚や育児が出来たのでしょう。
普通拉致といったら悪事に巻き込まれ、すぐ殺されるとか取引に使われるというイメージがあるのにとても不思議です。
複雑な気持ですが、世界の安全と国交正常化とを両立しなければならない小泉氏にも。

724 名前: sunya 投稿日: 2002/09/18(水) 00:06
 RE:714
 犀角独歩さん、sunya です。
 
 もちろんわたしも、引用した「四条金吾殿御消息」が、真偽未決書であるこ
とは承知しています。そして、犀角独歩さんも「たしかに名文であって、聖人
の文とも思えるところもある」と、おっしゃるのでしたね。(^^;
 
 わたしはこの「四条金吾殿御消息」の文章を拝読・熟読するにつけ、そこに
かけがえのない、日蓮御房の刻印・息吹を感じるのです。日蓮御房以外の誰人
が、かかる文章を記すことができることだろうか..と。
 本弟子の六老師にしても冨士の諸師にしても、その文体において比類できる
ような文章を、わたしは知りません。

 また、そうした真偽未決云々の意見もあろうかと、あらかじめ龍ノ口の目撃
者であった四条金吾殿の晩年の振舞を、語り添えたことでした。
 追腹切って霊山に御共つかまつらんとの純粋捨身の思いと共に、思いもよら
ぬ御房の「頸の座」における、生涯忘れ得ぬ奇瑞を目の当たりに目撃した衝撃・
感銘の大きさ。それこそが四条殿をして、晩年・身延に在って日蓮御房の墓所
を護らせた動機だったのではないだろうか、わたしはそう思うのです。

 いずれにしても、犀角独歩さんもおっしゃるように「龍口・依智の光り物は
それが何であるのかは別として、史実としてとらえてよいのではないのか」と
いう結論においては、わたしもいささかの相違もないことでした。

 さて、『種々御振舞御書』の真偽問題の経緯について、未だこのサイトでは
語られていないようですので、機会があればわたしの知るところをご紹介いた
しましょう。(^^;

725 名前: 無徳 投稿日: 2002/09/18(水) 00:32
 我々現在の日本人は現代社会における規範に沿って物事を判断していると思って
いますが、北朝鮮の人々は果たしてどうなんでしょうか?

 未だに日本による植民地支配にノーを突きつけているように思います。嘗て日本
は多数の朝鮮人を強制連行して過酷な労働に就かせていたとされています。

 更には、日本語を強制的に使わせ天皇崇拝さえ強要したとされています。そのこ
とは植民地の人間だから許されるのでしょうか?

 そんな過去のことを言い立てても仕方がないじゃないか、との声が聞こえてきそ
うですが、我々日本人もアメリカの原爆投下には未だに納得出来得ないものを感じ
ていると思います。

 だからといって北朝鮮の拉致問題が許されたり正当化できるものでは全くありま
せん。しかし、北朝鮮という国家の在り方や世界の中で置かれている状況を日本人
はあまり理解出来ていない様に思われます。

 小泉首相の訪朝を機会に我々日本人も北朝鮮を良く知る機会とすべきであり、本
当に両国が近くて理解し合える間柄になる事を願わずにはおれません。

726 名前: sunya 投稿日: 2002/09/18(水) 00:43
 RE:717
 川蝉さん、いつも御高説を拝見させていただいております。(^^゙

 わたしも、これからたまには「冨士門流信徒」の端くれとして、このサイト
で一言・言わせていただくこともあるか、と存じます。
 わたしたち冨士門徒の、これまでのあまりの「傲慢・不遜」は恥ずべきこと
でした。しかしてその反動として、やや行きすぎたことだとわたしに思われる
このサイトに見られるような、あまりに「自虐的な言明」にはわたしは、ちと
違和感を覚えるのでした。

 敢えて<自己否定>を先とする「リリシズム」は、また「自虐」との区別・
識別が困難であるのでしょう。「冨士門流信徒」として、それはなかなかバラ
ンスの難しいところ、なのかもしれません。
 川蝉さん。ではまたわたしも、時にはこのサイトにも出没をいたしますので、
その節はどうか、よろしくお願い申し上げます。

727 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/09/18(水) 03:02
昨日17日の日朝首脳会談の結果は、ショックでした。
北朝鮮に拉致された人たちの大多数が、すでに亡くなられていたなんて・・・

北朝鮮のやった非道な行為は、あまりにも酷いとしか言いようがございません。日本は、あんな野蛮な事を平然と行う国に対して、これまで及び腰になり過ぎていたと思います。小泉首相の姿勢にしろ、まだまだ甘いところがあったようにも。
今後は、下手にあの国に対して甘い顔を見せず、今までと違って、もっと強きの態度で臨んでもらいたいものです。
ただし、無関係である大勢の在日朝鮮系の人たちを巻き込む事だけは、絶対に避けねばならないと。

それと、14年前の春先、「サンデー毎日」に掲載されていた記事で目にした事があるのですけれど、鹿児島で拉致されたカップルである、市川さんと増元さんは創価学会員であったというお話なのでした。
もし、それが本当なら、信仰していても、あのような目に遭うのか?と、何とも言えない気持ちにさえなって来ます・・・

とにかく、亡くなられた方々のご冥福をお祈り致します。

728 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/18(水) 07:38

724 sunya さん:

> 日蓮御房以外の誰人が、かかる文章を記すことができることだろうか

このリリシズムはわからなくもないのですが、私はこの鑑別法は賛成できないのですよ。日蓮の文章を熟読し、文章作成の余る才能を持っている人であれば、時には、日蓮以上の名文を書くことができることもあると私は仕事柄思います。

文章のすばらしさは真偽鑑別とは別の問題です。

たとえば多くの大乗経典は釈尊の言葉を「如是我聞」として記しています。つまり、仏にあらざれば悟ることのできない教えを載せているという建前です。しかし、その数多の大乗経典が仏の直接の説法であると考える人はいないでしょう。仏でない、後世の人々が仏と見まがう教説を創り、人々を感動させ、人々を導くこともしたわけですね。

ここ2000年来経典を読誦してきた人は、この教えは仏にあらざれば説けるものではないという認識に基づいて経典を崇拝してきたのでしょう。創作者はそれだけの筆力を持ち合わせていたことになります。

『四条金吾殿御消息』が果たして、日蓮の記述かどうか、その実否は科学的な証明を待つほかありませんが、それが誰が記したものであれ、たしかに名文であり、人々に感動を与える名作であることは、もちろん、否定しません。

> 『種々御振舞御書』の真偽問題の経緯

これは是非、開陳いただきたく存じます。

729 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/18(水) 07:46

↑ ちょっと、わかりづらいところがありますね。

現在は、大乗経典を仏の直接の教説と思う人はいない。しかし、
過去、2000年間は、みな仏の真説であると思っていたという意味です。

730 名前: アネモネ 投稿日: 2002/09/18(水) 09:47
昨日の日朝首脳会談に先立って開示された、拉致被害者の安否情報を見ながら、つくづく私が思ったことは、やはりマインドコントロールの恐ろしさでした。
拉致を実行した人の中には、よど号犯の妻である日本人もいました。平穏な日本での暮らしが、一瞬のうちに帰ることのかなわない遠い国のこととなり、人生が引き裂かれ、異国の地で与えられた任務を余儀なく受け入れ生きていった人たち。そして死んでしまった人たち。そして愛する家族が行方不明となった日から時間が止まった日々を送り、それでも希望を捨てず、いつか会える日を信じて年を重ねてきたご家族。
こんなにも悲惨なことを起したのは、北朝鮮という国家だということ‥ではあるのは間違いないけれども、それ以前に、同じ人間が起したことだということを忘れてはならないと思うのです。
金正日総書記は会談の中で拉致事件の経緯について、「妄動・英雄主義」という言葉を言っていました。そのための特殊部隊が存在し、そのもとで行われたことだと弁明した形でした。最高責任者としての責任回避にもとれる言葉ではありますが、それはともかく、拉致を実行した人々は、妄動・英雄主義のもとマインドコントロールを受けていたことは考えられるでしょう。そしてそれこそが、北朝鮮という国の恐ろしさだったのだろうと思うのです。
つまり、絶対者のために、自分でものを考えることを喜んで捨て、全体主義に身を投じ、そしてマインドコントロールされていく。これは、なにも北朝鮮という国の姿だけではないということを考えさせらた一日でした。

しかし、なぜここへ来て、北朝鮮は拉致事件を認めてまで日本との国交正常化を望んだのかということを考えていくならば、それは昨年のアメリカによるアフガン空爆を目の当たりにして判断したと考えられます。最新兵器による空爆の威力は、北朝鮮にあるといわれる地下要塞を十分に破壊するものであり、またアメリカをそれを見せ付け、そして悪の枢軸国と北朝鮮を名指しした。それに脅威を感じて、昨日という日を迎えたならば、この大きな歴史の変化をもたらしたのは、9・11のニューヨークテロだったということにもなります。あれから一年が経って、何が変わったのかと見てみると、タリバン政権が崩壊し、北朝鮮が国際社会に歩み出ようとしているということ。
そのテロを起した人々もまた、宗教のもとでマインドコントロールを受けていたわけです。その彼らの破壊行為が、歴史を動かしてしまった皮肉をどう自分の中で折り合いをつければいいのか、考えがまとまらないまま一年が過ぎました。今も答えは出ません。
戦争反対とかテロ反対は当然の思いなのですが、でも私は、その前に同じ人間が引き起こしているということを、しっかり考え心に刻んでおきたいと思うのです。つまり、マインドコントロールを受け破壊活動をしてしまうような要素は、恐らく自分の中にもあるということ、これをしっかり考えておかなければならないと思うのです。
人間とは、マインドコントロールされてしまう動物であるということ、これをしっかり見据えないといけないのではないでしょうか。

政治の思惑のために宗教が利用され、宗教のために信者が利用され、そして関係のない人が巻き込まれていわば人柱となってしまうこの世の現実。その破壊エネルギーとマインドコントロールこそ、因果関係にあるとも思えるのです。

自分の心をみつめるという教えが仏法であるならば、今こそ人々に求められる教えなのかもしれません。ところが自分の所属する既存仏教教団そのものが、これまた信徒をマインドコントロールした全体主義の姿。30万登山とは、その体質を自ら示した行事だったのではないかとつくづく思わされます。

北朝鮮拉致事件と組織信仰は、同質のものだと感じた一日でした。

731 名前: 柳! 投稿日: 2002/09/18(水) 23:41
いちりんさんにお誘いを受け、初めてお邪魔をいたしました柳と申します。
大変に素晴らしい掲示板ですね。本当に勉強になります。無徳さんとは法華
オフで数度お会いしています。ご無沙汰しております。
皆様、これからも宜しくお願いいたします。

732 名前: いちりん 投稿日: 2002/09/19(木) 00:00
あれまあ、柳さん。ようこそ、です。

733 名前: sunya 投稿日: 2002/09/20(金) 02:08
 RE:718 無徳さん、sunya です。お久しぶりですね。(^^゙

 わたしの「問題意識」も無徳さんと同じような、「言語」に関わることでし
たし、「言語」や「制度」という「共同幻想」をわたしたちはどう見据え、そ
し折り合って行くけるのか。
 わたしは今なを、ラディカルにそれを「問うて」行きたい、そう思い続けて
います。

734 名前: 無徳 投稿日: 2002/09/20(金) 19:17
 柳さん今日は、お久しぶりです。

法華オフで何度かお会いしたことは覚えていますが、お名前だけでお顔が想い
出せません。(すみません)

お差し支えなかったら柳さんのお立場やお考えを開陳していただければ、もし
かしたらお顔も思い出すかもしれません。

どちらにしてもまた何かの折にお会いすることがあるかも知れませんので今後
とも宜しくお願いします。

735 名前: 無徳 投稿日: 2002/09/20(金) 19:24
Sunyaさんレスありがとうございます。

<「言語」や「制度」という「共同幻想」をわたしたちはどう見据え、そし
て折り合って行けるのか。>

 とのこと、私も吉本隆明による「共同幻想」と言うタームに出会ってから
全く同じ問題意識を抱き続けて来ました。私にとって「制度」とは29年間
も所属した創価学会と言う「共同幻想」を紡ぎ出す組織のことでもあり、
「言語」については仏法と現代思想との関わりを那辺に求めることができる
か?と言う問題意識でもあります。

 更に「制度的言語」といった側面からは日蓮仏法における「可能性の中心」とも言うべき「本尊」
(南無妙法蓮華経)の問題でもあります。つまり、日蓮仏法を修するとされ
る教団に依って制度的言語化(共同幻想化)されてしまったともいえる、南
無妙法蓮華経(本尊)という日蓮仏法にとっての中心的言語をどう扱いどう
理解し、いかに「信」ずるか?という課題でもあります。

 私は東洋思想とも言うべき仏教と言うパラダイムにのみ執着して、西洋思
想の到達点でもある言語思想や現象学、更にはポストモダンと言われるいわ
ゆる現代思想との往還なしには、仏教が真の意味で世界思想とはなり得ない
のではないかとの問題意識を持っています。

 しかし、テーマが広く大きすぎて私の思考のキャパシティーを遙かに越え
てしまう問題と言わざるを得ません。ただ、幸いにも現代はインターネット
というインタラクティブな情報交換の場を与えられていますので、少しでも
先の課題に挑戦しつつ今生を終えたいと念願しています。

 これからも、常々その力量に感嘆するsunyaさんの読解力をお借りして、様
々な問題を学んでまいりたいと思いますので、今後とも宜しくお付き合いの
程お願いします。

736 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/21(土) 09:24
学会元キョウガク部長原島さんがシュウモンについての本を出したそうですが、どなたか知っている方知りませんか?

737 名前: いちりん 投稿日: 2002/09/21(土) 10:21
日新報道から、出たヤツのことでしょうかね。
こないだのオフ会には、その本を企画した方が、来られてましたですね。

738 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/21(土) 16:15

87912 ゲットしました。

739 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/21(土) 18:27
実はうちの職場で言動から多分けんしょう会とおぼしき職場の後輩がしゃくぶくらしき事をしてトラブルになっている。
組織に入れさもなくば地獄に落ちる、となんとダイレクトでめちゃくちゃである。
多分ノルマの為だと思われるが、組織問わず若者の暴走的なしゃくぶく「とはいえない」には困った。

740 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/21(土) 20:24
富士山大爆発の前兆!?

今日本山に行った者の証言によると、最悪の地震雲があったようだ。

742 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/22(日) 11:35

88085 ゲットしました。

743 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/09/22(日) 22:25
犀角独歩さん

レス、大変遅くなりまして、申し訳ございません。

>>713

>私が池田さんを弁明するのは変ですが、パクリというより、参
>考文献を提示しなかっただけでしょうね。

会合などにおいて池田名誉会長の口から発せられる話の内容というのは、先ず間違いなくブレーンと言うべき人がいて、それを基にしてものが結構多いのかもしれませんね。ただ、それらの話の中でも、学会員以外の人間であるなら、「?」と思ってしまうようなところがございます。
例えば、中国に対して過大評価している(媚を売っている?)と思えるようなところがあったりとか、また、ペレストロイカ以前の全体主義体制にあった、旧ソ連時代の元首相コスイギンや、同じく、東欧改革以前のブルガリアの最高指導者ジフコフに対する評価と言い、いったい何故そこまで?と大いに疑問を抱いてしまうばかりですね。中国にしろ、コスイギンやジフコフにしろ、批判されるところが、かなりあるにも関らず。
かつて池田名誉会長が会見したルーマニアのチャウシェスク、パナマのノリエガの事につきましては、今ではさすがに触れられませんけれども(意図的にそうしているのでしょう)、コスイギン、ジフコフとの会見に関して書かれている書籍は、現在でも発売されています。
とにかく、歴史上の人物や海外の著名人たちに対する学会や池田名誉会長の評価・見解に接していますと、何かあまりにも一方的な思い入れが強すぎるところがあるような印象を受けてしまいますね。
そういった傾向は、日蓮仏法の教義的な解釈にしろ、同様ではないのか?と。

>ここら辺の一連の対談は、原島さんなどを中心に盛んに行われ
>て、たくさんの書籍になったものでした。ドプチェクさん当た
>りでもご存じないということは、原島さんやら、みんな脱会し
>てしまったので、学会ではこの手の書籍を一掃してしまったの
>でしょうか。

私が入会した20年前には、原島氏はすでに脱会した後であり、福島源次郎氏もそうではなかったのか?と思われます。ですから、多分、原島氏たちの絡んでいる書籍は、その時点ではすでに絶版になっていたのではないのでしょうかね・・・

東洋学術研究所というのは、現在の東洋哲学研究所の事なんでしょうか?
昔はあまり気にもしていなかったのですが、ここ数年間思うようになりました事は、学会は教義的な解釈に関して(特に11年前の宗門との決別以降)、実にあやふやで中途半端と言いましょうか。自分たちに都合の良いような解釈をする事は、確かであると思いますけれども、しかし、それとて、明確でないと。
今年春の会則変更で、若干ニュアンスに変化が生じて来たのではないのか?という気が致しますけれど、それでも、ずいぶん前から漠然と思っていましたのは(宗門と決別する以前においても)、学会は一応、基本的には日蓮正宗の教義に依拠しているにも関らず、学会教学部や池田名誉会長の発言に接していると、日蓮仏法の解釈の仕方にかなりの違いがあるような感じが。

更に、東洋哲学研究所の人たちによる発言の数々に至っては、もはや明らかに正宗教義とは一線を画している(もっと言うなら、独歩さんのおっしゃっていますように、学会教学とも)としか思えませんね。
その極端なものが、あの松戸行雄氏の提唱した凡夫本仏論ですが(独歩さんは、あまり好意的に見ておられないのですね^^;)、それ以外でも、松戸氏ほどではないにせよ、『日蓮大聖人の思想と生涯』(佐藤弘夫・小林正博・小島信泰 第三文明社 1997年)の内容に接していても、正宗教義は無論の事、学会教学とも、ずいぶん懸け離れた解釈をしているようですし。

一般の会員たちの多くは、一部の人たちを除いて、それらの大なり小なりの矛盾に気づいていないと言いましょうか、あまり関心がないのではないか?と(そう言うこの私も、偉そうな事は言えませんが^^;)。
東洋哲学研究所の人たちのそれは、学会にとって、一つの広告塔の役割をも果しているという事になるんでしょうかね・・・? あるいは、もしかすると海外のメンバー(SGI)向けのものであるとも、言えているのではないのか?と・・・

とにかく、学会の教義に関する問題というのは、本当に謎?と矛盾だらけであり、明確なものがないように思えますね。
でも、そういった実に中途半端でいい加減なものではあっても、別の視点から見てみるなら、もしかすると却って結構リベラルな考え方ができ、今後新たなる展開が生じて来る可能性を含んでいると言えなくもないのではないか?と、そんな風に好意的な見方もしてみるのですけれども(別に、学会を擁護するわけではないのですが)。

744 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/23(月) 08:45

ドプチェクさん:

>東洋学術研究所というのは、現在の東洋哲学研究所の事

そうです。

> 実に中途半端でいい加減なものではあっても、別の視点から見てみるなら、もしかすると却って結構リベラルな考え方ができ、今後新たなる展開が生じて来る可能性を含んでいる

これは、そのとおりなんだと思います。
このような場合、異質の価値観に対する寛容の精神が起こるわけですね。それで実際、そんな交流もあるわけです。
ところが、同じ大石寺系グループとなると、途端に目くじらを立てて、憎悪で動き出すわけです。この点がなぜなのかを考える必要があります。また、この憎悪における異常行動を乗り越えない限り、リベラルは放逸としかとらえられないことになるでしょうね。

745 名前: いちりん 投稿日: 2002/09/23(月) 10:32
「近親憎悪」という体質がありますね。これは、人間の病理なのかもしれませんが。
とくに「一神教的な思想」を強く持っている団体に顕著なんじゃないかと思います。
そのいいサンプルは、創価学会ですね。それと、共産主義がそうですね。

共産主義は、似たような考えを持つ人と激しい争いをしてきました。ソビエトで言えば、トロツキストに対するスターリンの憎悪ですね。日本にあっても、共産党と新左翼の争い、そして新左翼の各派の争い。

創価学会は、「自分と似ているもの」「自分のアイデンティティを脅かすもの」を、いつも攻撃してきました。

戦後の初期のころは、おんなじ新興宗教の団体。なかでも、霊友会、立正佼成会。これらは、おんなじ日蓮主義でしたから。そして、共産党。これは、未組織労働者の団体で、組織体質がそっくりでした。

そして、いまは日蓮正宗。もうまったくおんなじは教義なわけです。そして、もと顧問弁護士の山友氏、竹入元公明党委員長。もうまったく身内でありました。

創価学会の彼らに対する攻撃の仕方が、とても執拗で(なにしろ10年以上も、ほとんど毎日悪口を言っています)、なりふりかまわない、残忍である、喜んでやっているようなところがある。
そういうところを見ていると、これは「病理」「狂気」ですね。どうみても、フツーではありませんね。

これは、池田さんという指導者の体質がそうなのか。
あるいは、日蓮本仏論という一神教的な思想が、原因なのか。
あるいは、日蓮さんそのものに源泉にあるのかなあ、などと思います。

746 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/23(月) 17:59
母がやっと、原島さんの本を手にいれました。ありがとうございます。

747 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/24(火) 06:01

88518 ゲットしました。

748 名前:投稿日: 2002/09/24(火) 09:36
いちりんさん

そうですねー。攻撃的なのは、自組織のアイデンティティを、自組織に対して証明するためなのか、という感じがします。

749 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/24(火) 13:19
本物のあさんへ、がんばってください。にちゃんではコテハン、他の人が使えないようにする事ができるのですが、ここではどうでしょう

でも い もどうですか、何だか胃っぽいし中途半端。
ちょっと笑えました。

750 名前: 柳! 投稿日: 2002/09/24(火) 19:16
柳!です。
>創価学会の彼らに対する攻撃の〜これは「病理」「狂気」ですね。
>どうみても、フツーではありませんね。

学会の中にいて、一般の会員として活動している私としては、まったく逆に
捉えております。(会員も幹部も、)一生懸命に怒りを持続させているって
感じです。かなり意識的に煽らないとすぐに「まーいいんじゃない」となる
ので、戦略として宗門への攻撃があると考えています。

また、ドブチェクさんのカキコも大変に興味深く拝見しました。私は、学会教学
のこの十年の変化の仕方もすべてかなり高度に計算された戦略だと捉えています。
もちろん、旧ソ連等の過去のVIPを褒めるとか無視するとか、中国に対しての態度
も含めてすべてが(学会なりの広宣流布感があり、そのための最も最短だと考えて
いるルートを通るための)戦略と思っています。
もちろんすべての戦略が成功するかどうかは別問題ですけどね。

751 名前: 通りん坊 投稿日: 2002/09/24(火) 20:09

怒りを持続させるなんて仏教の名目のやることじゃないね.
何がそんなに肯定されるもんなんだか、
「俺たち、怒るは地獄の衆です」って宣伝しているようなもんじゃないか.

釈迦に提婆、大聖人に左衛門、善智識ととられえているからええんじゃないか.
怒りの持続に、でたらめ教学が戦略.あばたのえくぼも、ここまでくるとお笑い創価学会.

752 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/24(火) 21:19
柳!さん 通りん坊さん はじめまして

柳!さんは学会員でいらっしゃるのですね。宗門攻撃は怒りの持続とお書きになっていますが、見てて聞いてて楽しいですか。また学会教学は高度な戦略だということですが、何の為の戦略なのでしょう。一体学会は何を目指しているのですかね。
平和、人権主義と叫びながら、どうしてそんなものが必要なのでしょう。大いなる宇宙大の疑問です。

通りん坊さんのご意見はエッセンスの凝縮された面白くて、全くその通りのご意見だと思います。私の創価学会員時代もまったくお笑いです。笑いとばさないと辛いものが・・・あります

753 名前: いちりん 投稿日: 2002/09/24(火) 21:20
まあまあ、通りん坊さん。
そんなに、いわなくても、、、。
わたしは、柳さんがいう「一生懸命に怒りを持続させている」って感じはわかります。
個々の学会員と会いますと、そんなに憎悪をたぎらせているわけではないんですね。

しかしまあ、あんなに毎日、聖教新聞で、罵倒の内容ばかりだと、さすがの学会員にしてもうんざりなんでしょうね。書いている記者もうんざり。たぶん、幹部もうんざりなのかなあ。
そういうふうにみると、聖教の、罵倒にも迫力が感じられませんもんね。

まあ、しかし、みっともない愚劣な新聞であることを、毎日、宣伝しているわけですね。

754 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/24(火) 22:00
いちりんさん

創価新報9月18日号の11面にこうあります。「異様!不吉!醜悪!奉安堂はカラスの巣窟」50羽100羽と“真っ黒な大群”
この見出しから始まる記事に書かれるカラスが可哀想です。石山は山の中だからカラスもいるでしょうし、ただ奉安堂の屋根に止まっただけです。それにカラスは黒くて当たり前でしょう。異様!不吉!醜悪!だなんて言い掛かりですよね。くっだらん事を大袈裟に書き、これが正義と法華講の人間に持ってくる学会員もいるのです。その神経を疑います。

いちりんさんの言われるように学会員全員が今の悪口三昧の学会にうんざりしてくれたら、マトモな道を歩いていけると思うんですけど。柳!さん、すこし言い過ぎました、ゴメンなさい。

755 名前: 柳! 投稿日: 2002/09/24(火) 22:48
いやはや、まったく!ここの板は、いちりんさんがいらっしゃるほどだから
紳士的に意見のやりとりが出来ると思ったのですが、いきなり罵倒されて
しまい唖然としております。私は、会員として感じたことをご紹介したので
すが・・・。もしかして、ここってトラップになってて、書き込む学会員をなぶ
り者にして楽しもうっていう魂胆ですかい?
なーんてね。気にしちゃいませんよ。ホントは。慣れっこです。
だって、ネットの掲示板で学会員ですって書き込むと、それに対する罵倒の
言葉の辛辣さは聖教座談会の比じゃないですから。(笑)

756 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/24(火) 23:18

柳さん、はじめまして。

たぶん、こういうことでしょう、罵倒の理由は(笑)
ここでは、自分の所属には辛く、他には理解を示そうという紳士的な在り方が発言者の基本にあるわけです。

問答迷人さん、五月雨さん、アネモネさんなど、法華講に席を置きながら、ご自身の所属団体の非を説いているわけです。ここに自己責任を果たす形があるからであると評価しています。

私はかつて創価学会、そのあと、法華講で、信仰的には、大石寺系グループの所属、日蓮・日興を祖と思うスタンスから、特にそこに対しては厳しく見直しています。まあ、この私の在り方をsunyaさんは自虐的と評されたのですが、私からすれば自己責任を果たしている自覚なのです。

いずれにしても、自分の所属に厳しいというコンセプトがあります。そんな中で柳!さんのご発言は、自己組織の弁明と肯定と映じたのではないでしょうか。

ですから、言葉が悪く、礼節を欠く通りん坊さん(失礼)の口調は賛成しかねますが、言いたいことはわかります。五月雨さんが言われたことは、もっとわかります。

自己組織の弁明を記すより、その組織に属する柳!さんからみて、ご自身の組織、あるいは長、あるいは教学、(私は嫌いな言葉で、仏教には不適切な表現であると思いますが)戦略に、どんな間違い、欠点があるかを披瀝されれば、要らぬ反発を受けることはなかったのであろうと思うわけです。

まあ、学会絶対信仰者ならば、こんなところに参加される必要はないでしょうし、その必要があるとすれば、法華講のあら探し、学会礼賛宣伝となるのでしょうが、いちりんさんのご紹介でお見えになった方、そんな組織奴隷者であるはずはないでしょうね(笑)

罵倒されることに慣れっこなんて、それこそマゾヒスティックな自己分析(笑)はわかりましたので、是非ともご自身の組織の見直しを、大石寺系グループという共通項でお聞かせいただけることを期待しています。

まあ、創価学会・池田大作さんは絶対で記すことはないと仰るのであれば、私は無謬性・絶対信仰を私は唾棄する立場ですから、私は通りん坊さんより、もっと手厳しく突っ込むことになりますが(笑)

757 名前: いちりん 投稿日: 2002/09/24(火) 23:26
こちらの掲示板では、組織を背負った代理戦争みたいな論議は避けたいですよね。

法華講であろうが、顕正会であろうが、創価学会であろうが、日蓮宗であろうが、○○宗であろうが、
──それぞれが「個人」として発言している──
わけですよね。なにも組織を背負って、発言しているわけじゃないんですよね。

学会と宗門とバトルをやっている掲示板をながめていると、個人対個人としてのやりとりが少ないですよね。学会はけしからん、宗門はとんでもない、あーだこーだと。

結局、なんというか「わたし」と「あなた」というやりとりが、ないんですよね。

「わたし」と「あなた」というやりとりをしているようでいて、
「あなた」の背後にある組織を責めている、「わたしの」の背後にある組織、教団を背負ったりしている。それで、バトルになるともいえましょうかね。

わたしなどは、背負うべき教団も主義みたいなものもないものだから、まあ気楽なんですけど。

758 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/24(火) 23:39

88703 ゲットしました。

柳! さん はじめまして

御参加、まことにありがとうございます。

>ネットの掲示板で学会員ですって書き込むと、それに対する罵倒の言葉の辛辣さは聖教座談会の比じゃないですから。(笑)

そうなんですか。それは大変ですね。まぁ、創価学会という看板を背負って発言されると、そういう結果が待っているかもしれないですね。ところで、この掲示板ですが、掲示板を始めようと提案して下さって、設定とか、色々と骨を折って下さった方は、学会員さんなんです。『創価学会独立独歩』というサイトを主宰されている、チョンガーさんなんですよ。今は、こちらには参加されていませんが、そういう経緯がありますから、この掲示板は、全然、創価学会員だからと言って、排除も、敵視も、していません。掲示板のルールが「管理者からのお願い」スレッドに掲げてありますが、そのルールの範囲での運営を行っているつもりです。

どうぞ、ごゆつくりなさって下さい。よろしくお願いいたします。

759 名前: 柳! 投稿日: 2002/09/24(火) 23:59
犀角独歩さん、いちりんさん、問答迷人さん。ご丁寧なご配慮に感謝します。

>柳!さんのご発言は、自己組織の弁明と肯定と映じたのではないでしょうか。

激しく納得しました。(苦笑)私として学会の宣伝マンをしようなどという意
識は無かったのですが、確かにここには相応しくない表現だったと思います。
自分で言うのも何ですが、真面目な学会員です。しかし風変わりな学会員です。

本部職員の官僚化を嘆き、一般会員のレベルの低さをぼやき、対宗門への対応
を憤るのが常です。しかし何より自身の信仰心の心許なさを最も不安に感じて
いる一壮年部員でございます。

勿論池田名誉会長を尊敬しておりますが、無謬性とは正反対であると自負し
ております。日蓮さんも池田さんも単なる人間であり、失敗だらけの凡夫で
あるとの考えがベースです。

兎に角、僅かしか読ませていただいておりませんが、皆様の書き込みは本当に
刺激的で、啓発されます。とうりんぼうのような書き込みは例外だと思っており
ますので、これからも宜しくお願い申し上げます。

760 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/25(水) 00:19

柳!さん:

お考え、よおくわかりました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

761 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/25(水) 09:24
いちりんさん、
全く私も同感です。
似ている事ですが、
法華講の中で、批判的なかきこみとか意見を持ち出すと、学会からのソースでもなんでもないのに、
学会の陰謀だ、という。妙観講でもそういう。
内容からしても、学会らしくない内容なのに。
悪い事は全部学会のせい、とする変な罠。(けんしょう会でも同じ場面に遭遇する。何故か他の団体や原因とすることもない。)
これもおかしすぎて困ってしまうが。
正宗系(学会以外)って変ですね。始めて気付いたのは組織を離れてから。
組織にいると、自分の正常な思考が出来なくなるみたい。

762 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/25(水) 11:00

やーこさん:

横レスごめんなさい。

> 始めて気付いたのは組織を離れてから。
組織にいると、自分の正常な思考が出来なくなるみたい

ここ、すごいポイントなんですよね。
離れて見えるもののほうが、はるかに多いし、価値的なんですね。
離れなくても、ちょっと、距離を置くだけでも、視野は一挙に広がるんですね。

763 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/25(水) 13:53

組織の代弁者となってしまうこと、これは『服従の心理』でミルグラムが定義した“代理状態”で説明できるように思えます。

この代理状態でいちばんの特色は、個人の責任感の喪失です。
嘘を薦めた勧誘をしても、もはや個人は責任を感じることはないと言うことです。「嘘も方便」がまことしやかに語られるのも、この状態にあるからでしょう。

以下、引用します。

「権威組織にはいった個人は、自分自身を自分の目的のために行動しているのではなく、他人の要望を実行している代理人と見なすようになる。ひとたび個人が自分の行動をこの観点から考えるようになると、彼の行動および内的機能様式に深い変化が起こる。この変化はきわめてはっきりしているので、個人は、この態度の変化によって、ヒエラルキーに組込まれる前にいた状態とは別の【状態】におかれたのだと言うことができよう。わたしはこの状態を【代理状態】(agentic state)と呼 ぶことにする。それは、個人が自分自身を他人の要望を遂行する代理人と見なしている状態である。この用語は、【自主性】、すなわち、個人が自分自身を自分の意志で行動している見なしている状態と対比して用いられるよう」(『服従の心理』(河出書房新社)スタンリー・ミルグラム P65)


富士門風に言い換えてみましょうか。

○○会に入会した信者は、自分自身を自分の目的のために行動しているのではなく、猊下、あるいは先生の要望を実行している代理人と見なすようになる。ひとたび個人が自分の行動をこの観点から考えるようになると、彼の行動および内的機能様式に深い変化が起こる。この変化はきわめてはっきりしているので、個人は、この態度の変化によって、和合僧団、「戸田の命より重い」という組織に組込まれる前にいた状態とは別の【状態】におかれたのだと言うことができよう。わたしはこの状態を【代理状態】(agentic state)と呼ぶことにする。それは、信者が自分自身を猊下、先生の要望を遂行する代理人と見なしている状態である。この用語は、【自主性】、すなわち、個人が自分自身を自分の意志で行動している見なしている状態と対比して用いられるよう。

764 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/09/26(木) 00:54
犀角独歩さん いちりんさん あさん

>>744

>ところが、同じ大石寺系グループとなると、途端に目くじらを
>立てて、憎悪で動き出すわけです。この点がなぜなのかを考え
>る必要があります。また、この憎悪における異常行動を乗り越
>えない限り、リベラルは放逸としかとらえられないことになる
>でしょうね。

この事につきましては、755でいちりんさんが実に鋭いところを衝かれていますね。
日蓮系でも富士門流系は、元々極端に排他的で攻撃的、非寛容な傾向が強いという事ですが、その同門同士の中にあっても、11年前から未だに止む気配もなく延々と続いている宗創戦争の有様などは、あまりにもヒドイと言わざるを得ず、目を覆いたくなるばかりで、いい加減ウンザリして来ますよ。
こちらの掲示板に集って来ておられます方たちは、その一方の側である法華講の人が多いようであり、私はもう一方の側である創価学会に属している者なのでございますけれど、しかし、私が1年位前から思うようになりましたのは、(学会側の人間である私から見て)それが間違っているか否かは別と致しましても、とにかく自分たちの考え・主張ばかりを前面に押し出すばかりで、自らを正当化・絶対化し、敵対する相手を一方的に攻撃して屈服させようとするという、そんな事をして、いったい何になると言うのであろうか?と・・・

宗門・法華講の方におきましては、具体的にどのような感じであるのか存じませんが、少なくとも私が直接的に接している学会のやっている事を見ていると、いちりんさんのおっしゃっていますとおり、相手への批判・攻撃には、どのように考えてみても、到底尋常とは思えないところがあまりにも多すぎ、何かがおかしい、どこかが間違っている、否、ああなれば、もはや狂っていると言うべきではないのか?と思ってしまいます。
私が目にする限りにおきましては、宗門・学会間の教義的な解釈の相違とかいった事など、事実上ほとんど無関係であるようですね。彼らの根幹を成しているものの中で、他の何にも増して大きいと思えるのは、とにかく、「自分たちの方が(自分たちだけが)絶対に正しい」「相手の方が(相手だけが)絶対に間違っている」「自分たちは絶対に間違っていない」「相手は“間違っている=悪”だから、叩かねばならない」という考えなのであり、会員の中には実際のところ何もわかっていないのに、あるいは何も考えずに、「○○倒せ!」に同調しているんですから。
無論、これは宗門への攻撃に限った事ではなく、○○の部分には、その時々において様々な攻撃のターゲットが当てはめられてしまいます(自分たちと敵対関係にある宗派・教団・政党・出版社などという組織レヴェルのものから、彼らが退転者・反逆者と位置付けている人間たち、並びに、その他の批判者などという個人レヴェルのものまで)。
これらの異常な体質・傾向性を生み出している原因は、やはり、いちりんさんのおっしゃっていますように、「近親憎悪」的なものが大きく働いているという事になるのでしょうかね・・・

いちりんさんのお話の中で、共産主義の事が出ましたけれども、かつてのソ連や東欧の共産党とか、文化大革命時代の中国、それに現在の北朝鮮においては、自分たちの仲間の中から敵・スパイ・裏切り者・反動分子などといった存在を見つけ出す、もしくは、無実の人間にわざと悪人・犯罪者のレッテルを貼って、攻撃の的にするという事が行われて来ましたよね。ちょっと極端なお話であるのかもしれませんが、学会のやっている事、そのやり方を見ていると、どこか、それらと似ているようなところがあるように思えて来るのです。

これは、私事なのでございますけれども、最近、某掲示板でちょっとした成り行きから、北朝鮮の事に絡めて学会の非民主的な体質を批判した私を(内容は、まったくの取るに足らないものであったのですが)、「故意に学会を貶めようとする悪意を持っている人間である」と一方的に決め付けて、攻撃して来た人物がいたのです。その時は、確かに私の方にも他者に誤解を与えるような、表現に行き過ぎのところはありました。しかし、ネット上での事とは言え、その人物は私の事を何も知らないのに、こちらを一方的に“悪”と決め付けて(本人の単なる思い込み・邪推でしかないにも関らず)、「悪は徹底的に叩かねばならない」を繰り返すばかりであったのです。

また、その人物は、他者の意見・言い分・注意・忠告などに対して、謙虚な姿勢で耳を傾けている様子が、書き込みからはほとんど感じられませんでしたね。とにかく、飽くまで「自分の方が正しい」を前提に話を進めているんですから、それでは到底マトモな話し合いになるわけがないにも関らず、頑としてその姿勢を変えようとはしないのです。

<次へ続きます>

765 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/09/26(木) 00:55
犀角独歩さん いちりんさん あさん

<前からの続きです>

そして、学会にとっての不都合な発言(あるいは、その人間自身にとってもか?)があった場合、相手を激しく執拗なくらいに攻撃し、時には乱暴な言葉遣いもするという有様。

その人物は、私や他の人たちの書き込みにおける言葉遣いや、表現的なものを取り上げて糾弾してもいました。ところが、その人物の他者に対する批判内容というものは、実は誰あろう、批判しているその人間自身に、ほとんどそのままピッタリと当てはまっている事が多かったのです。
それに、私が北朝鮮と比較して学会の非民主的な体質を批判した事を糾弾しながらも(その人物に言わせると、“学会は、北朝鮮とはまったく異質のものであり、非民主的な体質ではない”という事になるのだそうですが)、その人物の私への一方的な決め付けによる攻撃というものからは、それこそ、本人が頑なに否定している北朝鮮のやり方(あるいは、かつてのソ連や東欧、中国などの)を連想させられてしまいましたね。
とにかく、その人物の場合、自分自身の姿というものがまるで見えていない、何もわかっていない・・・と。

あさん。
初めまして。・・・と申しましょうか、お名前はすでに前から存じております。
確か以前、どこか?のスレッドでレスして下さいましたのに、その時には私の方は、レスせず仕舞いであったのを憶えています(スイマセン)。
いきなりでございますけれども、横レス失礼させていただきます。

>>748

>そうですねー。攻撃的なのは、自組織のアイデンティティを、
>自組織に対して証明するためなのか、という感じがします。

う〜ん・・・ そのような見方も出来るんでしょうかね。何だか、私にはちょっと難しいお話であるのかもしれませんが(^^;)。

私は、いわゆる“敵を想定(仮想敵)”する事によって、それらの打倒に全力を上げるという共通の目標へと向わせ、教団全体の士気を高めて行く為に、指導者たちが意図的にやっているところもあるのではないのか?と、思っているのですけれど。
そういったやり方も、昔、共産党支配下の国々において、よく用いられていたのではないのでしょうかね。

私の場合、創価学会に属している者なのでございますから、富士門流に関しての問題となりますと、どうしても学会の事が中心、もしくは、学会を通してのそれとなってしまいます。ですから、私が述べています事柄の中には、もしかすると学会特有の問題が多々含まれており、富士門流の問題として捉えるべきではないものもあるのではないのか?と思っています。

ただ、それでも私が数年前から漠然と疑問を抱いていますのは、本家本元である日蓮正宗(大石寺系)にしろ、そこから派生した創価学会や顕正会にしろ(もしかすると、正信会も?)、富士門流系の各宗派・教団が、何ゆえ、何れも極端に排他的・攻撃的・非寛容であり、また、個人崇拝的・全体主義的な体質を生じさせてしまう事になるという、大なり小なりの似通った傾向性を持っているのか?と・・・
もしかすると、各宗派・教団が基本的に依拠している日蓮正宗の教義自体に、何らかの欠陥がある(後世の人たちによって曲解されてしまった?)とか、あるいは、教義の解釈の仕方や日蓮仏法の捉え方といったものなどに、大きな誤りがあるからではないのか?と、思っているのですが。

少し変なたとえになるのかもしれませんけれど、共産党のお話が出ましたついでに申させていただきますと、ロシアでレーニンによって誕生した共産党は、どこの国のそれであっても、基本的に似たり寄ったりの体質であるという事ですよね。何故、皆が皆、同じようになってしまうのかと言うと、結局、何れも、その大元であったロシアの共産党の血を引いているからであるといったお話を、書籍で読んだ事があります。
もしかすると、これは富士門流のそれにも当てはまっている事なのではないのか?と、思っているのですがね。

長々と、独り勝手な事ばかり申させていただきまして、すいませんでした。

766 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/09/26(木) 01:46
ただでさえ書き込みの遅い、マイペース&チョー亀レス人間の私であるのですが(スイマセン)、一昨日(24日)の夕刻以来、一日以上見ていない間に、まぁ、何とも多くの方たちが新たに書き込まれていたもんなんですねぇ・・・(・・)
こうしている間にも、またどなたかが来られていたりして・・・(^^;)

まぁ、何はともあれ、皆様方、頑張って下さいませ。
一言、申しておきたかったものでして(^.^)。
それでは、これにて失礼させていただきます。

767 名前:投稿日: 2002/09/26(木) 03:52
ドプチェクさん。あちきのような、チンケな下衆のことを覚えていてくださって、ありがとうございやす。
ドプチェクさんの「プ」は「ブ」じゃなくて「プ」、テンテンじゃなくて、マルでしたね。

768 名前:投稿日: 2002/09/26(木) 04:49
あ、そうそう、あちきは難しい理屈はわからないのですが、ドプチェクさんのお話に共感します。

769 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/26(木) 06:13

89004 ゲットしました。

770 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/26(木) 10:08

ドプチェクさんが「…と思う」と記されたことは、私は「…である」です。

メンバーの煽動の基本が「憎悪」であるわけですね。だから、そんなものは仏教ではないというのが私が言ってきたことです。どこの組織がどうというより、「憎悪」で人を煽動することが悪であると言ってきたわけです。

ドプチェクさんは現役会員だから、消極的な表現にならざるをえないのかも知れませんが、他者から見れば、憎悪で動くグループは軍隊と変わらないわけで、そこの構成員は兵隊と変わらないと見られてしまう。私が脱会した理由でもあります。

ドプチェクさんはなかで一所懸命考えている、その点は評価できるけれど、結局、その構成員の一人です。つまり憎悪で動く組織の一人です。これは決してドプチェクさんを批判することではないから、冷静に聞いて欲しいわけです。

憎悪で動く集団にいて、いくら非を説いても、他人は、その人を憎悪グループの一員であるとしか見做さないものですよ。例になるかどうかわかりませんが、殺人グループがあって、その中の一員がいくら「殺人はよくない」と言っても説得力がないようなものです。

だから、「おやめなさい」と言いたいのではないですよ。この自分が見られている厳しい現実を、しっかりと認識すべきであると申し上げているわけです。

ただ、私は経験から申し上げますが、悩んでいる間にも人生はどんどん消費されていくということです。
771 名前: モモ 投稿日: 2002/09/26(木) 20:15
最近思うのですが、今の世の中において人間の霊的成長に宗教はもう必要でなくなるのかもしれません。
独歩さん仰せの「久遠の釈尊」とは無宗教の時代を示唆しているように感じます。

772 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/26(木) 20:20

こんばんは、モモさん。お元気ですか(笑)
もしかして、私に賛同してくれているのですか、嬉しいなあ。

773 名前:投稿日: 2002/09/26(木) 22:48
確信的な無神論者ではなくて、どの宗教を信じていいかわからなくて、今のところ宗教団体に属していない迷える子羊の疑問。

今の世の中において人間の霊的成長に宗教はもう必要でなくなるのかもしれない、と思っているなら、
ゲーデルの不完全性定理なんかで、石山の三宝義の無謬性を主張しなくてもいいだろうに。

「久遠の釈尊」とは無宗教の時代を示唆? 
「久遠の釈尊」って、キリスト教でもイスラム教でも、無神論、無仏論でもないと思うけど。宗教そのものじゃん?

宗教信じている人間の言ってることって、わけわからん!、というのが迷える子羊の正直な気持ち。
あちきら無知な人間を惑わすのはやめてくれよ、信者さんたちよ。

774 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/26(木) 22:54
モモさん

恥じを忍んでご質問いたします、あのー「人間の霊的成長」って何ですか? 人の魂みたいなものなんでしょうか。

775 名前: モモ 投稿日: 2002/09/27(金) 03:58
深い意味はありません。「精神的成長」という程の意味です。

欲望をある程度までに押さえ、足るを知る、奉仕の精神を持ち、
自分の「生命」が大宇宙の一部であることを理解し、
宇宙の道理にかなった生き方をする、三悪道の生命状態を抑え、
出来るだけ「菩薩」の「生命」状態で生きることを勧める、
というようなことです。

新興宗教の教義みたいですが、このようなことは宗教でなくとも
実践できることなのでは、と思うのです。

人間は本質的に神や仏、「カリスマ」を求めるところがあると思います。
故にある精神的レベルの集団にとっては宗教がその集団を精神的に引き上げる
ことに有効に作用すると思うのです。

そして、今の大石寺の教義で常識ある現代人を納得させられるかは難しい
のでは、とも思います。五座三座の勤行ひとつとってみても今の複雑な世
の中では実践が難しいのではと思います。(私はしてますが。)

この掲示板の、憎悪で人を動かすのは良くない、正宗系の人を見ていると正しいとは思えない、
などの指摘について一考した次第です。

776 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/27(金) 07:38

横レス失礼します

> 霊的成長

霊的、まあ、これはどちらかというとキリスト者なんかが使う、あるいは○○系が使う言葉ですけれど、今風の言い方をすれば、スピリチュアリティということでしょうね。

この霊という言葉は引っかかりのありますが、精神的な、あるいは心理的な(これだけでは全部、意味を含ませられないのですが)という意味合いの言葉でしょう。

スピリチュアリティは「霊性」と訳されるのですが、ちょっと、この訳は誤解を招きやすい。けれど、的確な訳語がないのでしょうね。

どうも霊というと幽霊をイメージしやすいのですが、幽霊と言うより、霊魂、霊魂というより魂。魂は「たましい」と読みますが、これは神(たましい)とも書きますね。この神は神様ではなくて、現代語で言えば、精神ということになります。

ではスピリチュアリティは精神か?というと、ちょっと、意を尽くしません。言葉というのは、難しいですね。

777 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/27(金) 16:00

771 モモさんへ再度:

> 今の世の中において人間の霊的成長に宗教はもう必要でなくなるのかもしれません。

これは、私風に言い換えれて、「今の世の中において人間の霊的成長に宗教“団体”はもう必要でなくなる」と、教団不要論として賛成です。

> 「久遠の釈尊」とは無宗教の時代を示唆しているように感じます

そう感じていただけたとすると、嬉しく思いますね。
ここもまた、「『久遠の釈尊』とは無宗教団体の時代を示唆」ということになりますね。

778 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/27(金) 18:13
みなさん、おばんです。
ごめんなさい!五月雨さんたちへの返事、遅くなりそうです。長いからパソコンでないとかけないです。
最近仕事の合間縫って携帯からのみアクセスしていますので。家に帰ると急にダウンっていうか。
実は、会社のあるスタッフがトンデモ勧誘を不特定多数にしてしまい多方面から苦情が寄せられ彼女は辞めざるを得なくなりました。
彼女はある富士門流に所属しておりました。自分の両親が前いたし、ある程度事情を知っていたし、彼女のいたエリアで仕事をしていた関係上、情報が入っていたので会社の調査に協力していました。

779 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/27(金) 18:27
(続き)その団体に関係するホームページをネットサーフィンしていたら、偶然彼女の名前を見付けました。今年始め団体の教学部登用試験合格者の所でした。
考察すると、彼女は入り立てのようですが、かなりの活動(?)者でもありそうです。
勧誘されそうになった「被害者」の話を聞いているうちに唖然としました。
彼女の折伏というものは、とてもそう言えたものではありませんでした。
勧誘の会話は、リーダーや日蓮大聖人の事を素晴らしい、といってはいるけど、何処が素晴らしいのかを言っていない。
それから御書の文章等一言もなし。(続)

780 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/27(金) 18:41
流れとしては、現場にいた人にその場又は電話をかけ食事や遊びに誘う→会った時点で話し始める→政治や他国侵ぴつ等でまくしたて危機感を煽る→一応因果の関係、十界を話すが少しだけ→入会を迫る→断ると脅迫→長時間の束縛→脱出というパターンが多くて、末期には誘いの過程を省略してあたりかまわずやろうとした模様。被害者の中には恐怖におびえている人もいました。で、その中の一人が会社に辞めたいと訴えた事により発覚しました。
舞台は神奈川県某所ですがヒントを申しますと、ミニオフ会私がいた所。(特定されるので)考察などはのちほど。

781 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/28(土) 09:08
やーこ。さん

お仕事大変そうですね、私への返事など気にかけて頂かなくていいですよ。気がむけば書いてくださればいいし、書かなくてもいいし、ご無理のないようにして下さいネ。
やーこ。さんの会社の方は、中々大変ですね、でも彼女も組織から折伏勧誘しろと言われての必死の行動なのでしょう。理解出来る気がします・・・彼女も組織被害者なのでしょうね、可哀想に思います。

782 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/28(土) 09:32
そう、大変でした。個人名と組織名は伏せて、若者の危険な勧誘について警戒を持って欲しい、と緊急横レスしました、失礼しました。
彼女については加害者でも被害者でもあると思います。先輩達から適切な指導を受けられておらずとても残念に思います。
昨晩、会社の飲み会で横浜にスタッフ数名集まったのですが、私と横須賀の女性以外全員やられそうになった、と口を揃えていいました。
他にもかなりいたみたいです。
しかし一人が多くを誘おうとしたのには驚きました。
またレスします、みなさんの考えを聞かせて下さい。

783 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/28(土) 09:57
やーこ。さん

>彼女については加害者でも被害者でもあると思います。先輩達から適切な指導を受けられておらずとても残念に思います。

先輩達というのは、会社の先輩ですか、それとも組織での先輩ですか。

やーこ。さんは選挙の票取りしたことがありますか?選挙の数ヶ月間、毎日毎日、夜九時に幹部に報告の電話を入れなければならない、そんなに沢山の人を知らない私にはそれはそれはものすごい圧迫感がありました。
こんな話を聞いたことがあります。ある婦人部はスーパーに買い物に行ったら大きな声で候補者の名前を叫び、票を入れてくれとお願いするんだそうです、そしてその場に居合わせた客をざっと数えて、今日は50人、30人のF取りをしたと報告して有頂天になっていたそうです。ある団体ではFを多く取ると崇め奉ってくれるから、それはそれはいい気分です。きっと会社の彼女も同じ図式で会内では「モノスゴイ信心している」と誉められて、拍車がかかったのでしょうね。圧迫感とおだての二本柱で人を操っているのです。これが中にいると見抜けないのですね、厄介なもんです。

「加害者でも被害者でもある」確かにそのとおりだと思います。

784 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/28(土) 10:18

被害者がやがて加害者になって、次の被害者を作る無限連鎖が、もっとも社会悪を形成する部分ですね。

やーこさんはなかなか優れた分析をしていますね。

五月雨さん、「F」!ですね。懐かしく、恥ずかしく、そして、慚愧の一念に耐えないアルファベットの一文字です。

785 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/28(土) 10:48
学会ではありません。従ってFの経験はゼロですが、私が産まれる前の両親は学会でした。しかも公明党員。Fみたいな手口はしませんが、電話をかけまくったそうです。
ちなみに母は寺院のしょうだいを聞いて 入信を求めたつもりですが入ったのは学会。当時寺院組織は小さかったからただそれだけのこと(爆)
先輩は組織の先輩の事です。すたれた教育、育成といった感じか。
両親があの組織にいた当初はちゃんとなされていましたよ。ただ、一部でイジメがあったみたい。

786 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/28(土) 11:14
やーこ。さんは学会の経験が無くて良かったですね。

>両親があの組織にいた当初はちゃんとなされていましたよ

随分前の話ですよね、学会は52年路線を境目にして、ものすごい変貌を遂げてしまいました。私はその境目以降の入信ですから、古い学会員から「昔の学会は良かった・・・」みたいな話はよく聞いてました。だから今の学会にはマトモな指導がある筈は無いですね。
会社の彼女の行動は「ご指導どおりの行動」なんだと思います。だから指導は受けているのですよ。それがマトモでは無いというお話でしょう。
「脱会者を自殺に追い込め」と“主役のあの人”が言ったとか言わないとか、そんな世界なのです。

787 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/28(土) 11:32
すみません、あの組織も学会を指しているのではありません。
両親は学会を抜けた後、あの組織に入り、平成になって学会破門後寺院所属になりました。
学会以外の三つの組織のうち、どれかがあの組織です。
ヒント「入会しないと地獄に落ちる」などの脅しが今は有名

788 名前: お暇庵 投稿日: 2002/09/28(土) 11:33
初めまして、お暇庵といいます。現在法華講のカルト系にいますが
ほとんど活動していません。やーこさんのお話しは現在所属してい
る所の信仰指針ととても似通っていて興味があります。
皆さんのご意見は、かつて通過されてきた体験を元として話されて
いるのでとても説得力がありますね。52年度路線とか私は知らない
のですが、あの当時の空気は今よりも、もっと過激だったんでしょ
うか?

789 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/28(土) 11:57
やーこ。さん

これは私の早とちりでしたね、ただあの○○○会に馴染みが無く、つい一緒に思ってしまいます。関西では○○○会はあまり盛んではありません。
でも、言ってる内容は同じでしょう、やってる事が同じなのだから。だって地獄に堕ちると脅すのは、学会が入信しないと罰が当たると言ってるのと使用する言葉の違いだけですよね。ふたつの組織ともロクな組織ではないのは確かです。

790 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/28(土) 12:22
お暇庵さん 初めまして、五月雨と申します。

>現在法華講のカルト系にいますがほとんど活動していません。

法華講のカルト系というのは初耳なのですが、どんな組織なのですか。

>52年度路線とか私は知らないのですが、あの当時の空気は今よりも、もっと過激だったんでしょうか?

どうだったのでしょう、私が人から聞くところによると、まあこれは市の本部幹部クラスの人間に聞いたのですが、下の方の会員は学会がいろんな策略を練って逸脱してたことには気が付かなかったと言ってました、気が付いた人は脱会したようですが、ほとんどの人は、「勤行要典が変わって、会館で塔婆供養をするようになった、葬式もするのか」と疑問にも思わずそれに従っていたみたいです。学会がそれらを撤回した時も別段何も思わなかったと言ってましたから、怒涛のごとく組織に波風が立ったみたいではありません。お詫び登山の実態も、組織で教義の訂正をしたことも会員には分らないようにあまりきちんと流さなかったみたいです。これを知らない人は沢山います。
ただ、その後にはかなりの方向転換があったと思います。それは金集めに奔走したことです。私が入信した時には「広布基金は一口一万円」と決められていました。一万円以下は受け付けないということです。かたや「ご供養は真心から」と言い、それでいて御供養に名を借りた広布基金に金額の設定がある、この矛盾を口にする人は結構いたけれど、誰も表立っては批判しませんでした。
そして学会の矛盾を口にする人は「信心がおかしい」とレッテルを貼られて、振るい落とされていき、何も考えない人達が今の学会を支えているのだと思います。

これは関西の小さな町での出来事です、また違った体験をされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

791 名前: お暇庵 投稿日: 2002/09/28(土) 12:58
五月雨様、私如きにご挨拶、有り難うございます。
法華講のカルト系とは大きな声ではいえません。ただ、存在のあり方が諸兄ご指摘の所と言う
ことで推察してください。カルトの特徴は一元発想、認識であることは独歩さんご指摘の所で
す。質問いたしました某団体が逸脱しながらの52年度の組織防衛が、五月雨さん曰く

>ただ、その後にはかなりの方向転換があったと思います。それは金集めに奔走したことです。
>私が入信した時には「広布基金は一口一万円」と決められていました。一万円以下は受け付け
>ないということです。かたや「ご供養は真心から」と言い、それでいて御供養に名を借りた広
>布基金に金額の設定がある、この矛盾を口にする人は結構いたけれど、誰も表立っては批判し
>ませんでした。
>そして学会の矛盾を口にする人は「信心がおかしい」とレッテルを貼られて、振るい落とされ
>ていき、何も考えない人達が今の学会を支えているのだと思います。

何も考えないというのが怖いですね。誰がどのように事態の推移を把握して正邪を決めているの
でしょうか?また「信心がおかしい」という言は誰のどのような信心を基本としておかしい、お
かしくないの基準を決めるのでしょうか?其れはきわめて曖昧な感情が元となっているような気
がします。組織運営において邪魔になるものが悪で在れば、信仰・宗教の前提ではありませんね。
教義が組織貢献が善であり、運営上で障害になるものが悪という考えでしょうか、、。
化導は仏さんなり救済者がなさるもので、それに代わって意志を判断するので在れば、イタコみた
いに意志伝道者が要ることになってしまいますね。それって仏教でしょうか?某講中も其れに似
たことをやっているので、私はカルトと呼んでいるのです。大方の認識もそうみたいですが、、。

792 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/09/28(土) 13:19

89519 ゲットしました

793 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/28(土) 15:23
お暇庵さん

ここでは皆さん、「さん」付けでいいのですよ。

>法華講のカルト系とは大きな声ではいえません。

判りましたよ、私もここから出された本は山ほど買ってます。今読むとぞっとする内容です。並みの怪奇小説より気持ち悪いです。

>何も考えないというのが怖いですね。誰がどのように事態の推移を把握して正邪を決めているのでしょうか?

広布基金は御供養じゃない、と発言して支部長をクビになった方もおられます、それ以降元・支部長さんは学会の閑職に追いやられ、「あの人は昔はすごい信心をしていたものだ」とほんの1年あまりで語り草になってしまいました。学会にどんな判断があったのかは想像に難くはないと思います。「主役のあの人」の言葉に逆らうかどうかでしょう。

794 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/28(土) 16:02
今は山手線に間違えて反対方向に乗っていて、それまでは上野にいたのです。
レスを読み、あの脅し文句はあの会だけじゃないんだ、とショックを受けました。
ただ、ここの法華講系カルトでもありません。五月雨さんは○○○会、といい線を付いてますが○が一個多いです(笑)
数年前、某所で幹部が発砲した、とか未成年の勧誘が酷いとか各方面で報じられており、それについて会員達は学会の陰謀だ、とかいいますが、肯定も否定も、その根拠が残念ながら示されていません。しかし第三者による誹謗妨害も考えられるので何ともいえませんが、話題でした

795 名前: 五月雨 投稿日: 2002/09/28(土) 16:50
やーこ。さん

ホンマに○が一個多いです。○○会はどうも馴染みがなくて、アカンワ。またボケてたらご指摘くださいませ。

>あの脅し文句はあの会だけじゃないんだ、とショックを受けました。

脅し文句がある宗教は、宗教ではありません、気を付けないとね。

796 名前:投稿日: 2002/09/28(土) 17:54
先日、ある掲示板で、街の心理カウンセラーが批判されていた。権威的で宗教みたいで、カウンセリングを受けると高額のセミナーを勧められるというので。
このカウンセラーには会ったことがないが、この人の親と、ずいぶん昔に面識があった(何回か個人的に話をした、という程度だが)。
で、子が経営しているカウンセリング会社のサイトを覗いてみたら、全部のコースを受けると、かなり長期で、お金もだいぶかかる。
ボッタクリではないと思うが、こんな長期で高額なセミナーなんて、クライエントの心理依存が無ければ維持できないはずだ。
批判は、たぶん、真実であろうと思う。

この会社は親が興したものだ。「親子で道をふみはずしたな」と思った。尊敬していた人だけに、非常に残念で、すっかり気が滅入ってしまった。
街の心理カウンセリングって、けっこう怖い。

797 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/28(土) 18:12
あたいのせいで、ツブヤキすれっどがぁー
パンクしそうだぁー!
かなりのご意見が頂けてうれしいですが、このペースだとレスがやばいです。
カルト的なものまたは最近の組織宗教の問題点を分析、報告、とかのスレとか用意した方がいいかもしれない。
または、いつの間にかディープな話になっているツブヤキについては自動的に独立スレに昇格、とか。
どうでしょう。

これからは残りレス数に気を付けながらかきこみしていきたいです。それにカルトの実体などに関心を持ったレス、コテハンの方が増えているのでなんとか、、、。

798 名前: お暇庵 投稿日: 2002/09/28(土) 18:25
五月雨さん、レス有り難うございます。やーこさん、初めまして。
仰せの通り、組織宗教の独立スレは中身が濃くなりますので賛成です。
心理カウンセラーのお話も面白そうですね。ただ、以前に国家転覆を
謀った団体員の社会復帰は逆マインドコントロールというドグマに陥
ったりして一部の識者から批判がありました。もともと、カウンセラー
はアメリカでも効果の是非があり、カウンセリングする側の資質にも
影響します。そういえば、マフィアのボスのトラウマに関係した映画
がありました。デニーロが出ていたと思います。気の弱いカウンセラー
がボロボロになる話でした。

799 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/09/28(土) 19:05
犀角独歩さん

>>770

おっしゃっています事、今現在の私にとりましては、非常に耳に痛いと申しましょうか・・・
私は事情により、今でも一応、学会と関っている身であり、誘われれば会合に出席こそしていますけれど、しかし、すでに1年前から心はすっかり離れてしまっており、もはや学会の軌道から大きく外れているという、事実上は名ばかりの学会員なのでございます。無論、池田名誉会長を初めとする歴代の3代会長を崇拝したりとか、絶対視したりとかいった、そんな気持ちなど私には毛頭ございません。

組織の人間たちは、皆、例によって聖教新聞の推進や折伏、あるいは、選挙の時期になると公明党の支援活動に精を出すといった感じなのですが、しかし、私の場合、もはやそのような事をする気などまったくない、否、もっと厳密に申しますなら、内心ではそれらに対して大きな抵抗感があり、嫌悪感さえ抱いているという状態なのです。
「座談会」や「寸鉄」という、あのような破廉恥極まる記事を平然と掲載する新聞を他者に薦める事など、私には恥ずかしくて到底出来ませんし、また、学会のやっている選挙活動の実態には大いに批判的な考えであり、公明党にも魅力を感じていません。
そして、様々な問題のある学会に他者を引き入れてしまえば、却ってその人間を苦しめ、不幸にしてしまい、自分は大きな罪を犯してしまう事になるのではないのかと思っています。
そのような事をしてしまったなら、自己嫌悪に陥り、良心の呵責に苛まれるでしょうから。

それでいて、何ゆえ、そのようなところに未だ所属しているのか?と問われてしまうのかもしれませんけれども、様々な人間関係などといった今現在の私を取り巻いている状況、自らの置かれている複雑な立場ゆえに、なかなか自分の思いどおりには動けないというところなのでございます。家族の中で学会に入っているのは私だけなのですし、その気にさえなれば、脱会する事などすぐにでも可能です。
しかし、もしも私が抜けたなら、近所の学会の方(高齢の女性の方)と私の家の者(私の母)との個人的な親しい間柄にまで、影響を及ぼしてしまう事になるのかもしれない・・・
その学会の方は、所属している教団の行き方などといった事は別と致しましても、人間的には決して悪い人ではなく、むしろ、好感の持てる方なのであり、母とは宗教的な事を抜きにしての友人関係にあります(内心では、母にも学会に入ってほしいと願われているようですが)。
今の私にとりましては、それが最大のネックになっているのです。
また、その方以外にも、私や家族の者が色々とお世話になった方々だっていらっしゃいますので。

私のこのような考えは、他者の目には、甘いとか、ただ単に気弱であるとか、優柔不断なだけであると映ってしまうのかもしれません。現に私の友人(学会員ではありません)にその事を話した際にも、「おまえが脱会して、それで友人関係にひびが入るようだったら、それは本当の友人ではないという事になるんじゃないのか? おまえは、おふくろさんたちの為に入っているのか?」と言われました。
それは、よくわかっているつもりなのですが、しかし、それでも現実にはなかなか・・・
深刻に考え過ぎると落ち込んで来そうになりますから、普段はあまり気にしないようにしてはいるものの、正直、時々どこかへ失踪してしまいたい、そんな気持ちになってしまう事もあります。
本当に自由の身になり、独自の道を歩んで行きたいと・・・

ただ、もしも学会によって私個人の信条までもが侵されそうになった場合、その時には、決して安易な妥協などせず、飽くまで自らの信念を最後まで貫き通すつもりでいます(現に、ここ数年間、そのような行き方をして来ました)。以前、学会に対する数多くの不満や問題点を幹部の人たちに向って、ズバズバと指摘した事もございましたけれども、しかし、現実にはそうおいそれと変って行くものではありません。
近い将来、“学会員としての”今の自分の状態から更に後退して行き、何れは本当に離れてしまいたいと思っています。もはや、学会員としての自覚など皆無に近く、そして、特定の宗派・教団にこだわらない道を歩んで行きたいと思っている私なのでありますから。
たとえ正式に脱会こそしなくても、どうにか、無用な軋轢を起さずに身を退いて行く事は出来ぬものかと・・・

愚痴っぽいお話になってしまいまして、申し訳ございませんでした(^。^)。
でも、それが今の私の偽らざる心境なのでございます。

800 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/09/28(土) 19:06
あさん

>>767

>ドプチェクさん。あちきのような、チンケな下衆のことを覚え
>ていてくださって、ありがとうございやす。
>ドプチェクさんの「プ」は「ブ」じゃなくて「プ」、テンテン
>じゃなくて、マルでしたね。

>>768

>あ、そうそう、あちきは難しい理屈はわからないのですが、ド
>プチェクさんのお話に共感します。

これはこれは、どうもでございまする(^。^)。
あさんよりも、私の方が何もわかっておりませんよ。
ただ、変に理屈っぽいところがあるだけで、難しいお話になりますと(仏教・宗教の事のみな
らず)、正直、サッパリなんですから(^^;)。

ところで、私のHNって、あちこちでよく読み間違えられるんですよねぇ・・・
多分、そういう事では、“記録保持者”ではないのか?と、自負しているのですが(^へ^;)。
1968年にチェコスロヴァキアで実施された改革政策(民主化運動)「プラハの春」の指導
者であった、アレクサンデル・ドプチェクが好きで、それから採ったものなんです。
でも、私と来ましたら、ドプチェク氏の顔に泥を塗り、氏の名声を貶めているのではないのか
?と思えるような、稚拙な発言ばかりしていますので、そのうち、チェコやスロヴァキアの関
係者か誰かから、HNの使用中止でも求められるのではないのか?と、思ったりもするのです
けどね(^^;)。

まぁ、こんな私なのでございます(^ー^)。

801 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/29(日) 00:53

あ さん:

町中の心理カウンセラーのことを書かれていましたが、これは本当に危ないところがあります。そもそも浅見定雄師(『マインド・コントロールの恐怖』訳者)の分類では「心理カルト」というれっきとした分類があります。

タイムリーなことに、本日、元東大の臨床心理の先生の話を伺ったのですが、カウンセラー、また教室の選び方の目安として、「高額なところは怪しい」ということでした。

もっとも危ないのは「○○会被害」などと称するネットもサイトも大半は危なく、勧誘の手口に相談を使っているところも多いですね。

802 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/29(日) 01:05

お暇庵さん:

はじめまして。

「逆マインド・コントロール」というのは、たぶんデプログラミングのことを指されているのでしょうね。

カウンセリングのことについて、やや申し上げれば、日本の臨床心理士が行うカウンセリングの場合、宗教的な側面からアプローチされることは、基本的にはないと見たほうがよいでしょうね。ただし、ごく一部の意識を持たれた方はマインド・コントロール論は参考にされる方はいらっしゃるかも知れません。しかし、これは例外に属するでしょうね。

ただし、宗教者が勧誘を目的とせず、脱会(後)支援を行う場合、これもカウンセリングと呼ばれますが、反対にマインド・コントロール論と臨床心理学を頼りに関わることは多く行われていますね。このような場合、精神医、または弁護士連合会と密接な連絡関係を取って行われていますから、その信頼度はかなり高いと見てよいと思います。

けれど、一部、ジャーナリストは、マインド・コントロール論に統計的、かつ科学的な研究による反論ではなくて、感情的な批判を行っているわけで、私はこのような人たちに反対の意を表したいと思うわけです。

少し、お暇庵さんの書き込みからはずれてしまいましたが。

803 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/29(日) 01:07

ドプチェクさん:

私の書き込みで必要以上の弁明を強いた形になりましたことをお詫び申し上げます。
お気持ちはよくわかります。

804 名前: お暇庵 投稿日: 2002/09/29(日) 07:52
独歩さん、初めまして宜しくお願いいたします。

独歩さんはこの分野のエキスパートでしたね。

>ただし、宗教者が勧誘を目的とせず、脱会(後)支援を行う場合、
>これもカウンセリングと呼ばれますが、反対にマインド・コント
>ロール論と臨床心理学を頼りに関わることは多く行われています
>ね。このような場合、精神医、または弁護士連合会と密接な連絡
>関係を取って行われていますから、その信頼度はかなり高いと見
>てよいと思います。

この事柄は先の国家転覆を画策した団体以外にも悪徳商法を国内で
展開した団体の信者を社会復帰させる過程で見聞きしたことがあり
ます。ただ、私的には社会復帰させる事ももある意味、逆洗脳では
ないかと思うのです。
国家や社会従属、家庭・家族も別な観点から見ればこれはこれで一
種の集団幻想ですから。ああいう団体に走った方々はある意味そこ
が壊れかけた、ないし脆かった絆を突かれたわけですから。私の周
りでも、両親との軋轢が(無い人はいませんが)ある方や性的模範
・規範に脆弱なかたが、カルトに関わると行ってしまわれるみたい
です。もちろん、これは統計でもありません。あくまで私見です。

805 名前:投稿日: 2002/09/29(日) 08:28
796の、街中の心理カウンセラーについて、もう少し補足させてください。
私は、とある掲示板で批判された、そのカウンセラーを直接に知っているのではなく、その親に会っているのですが。
(ここ、宗教の掲示板だからって、宗教脱会のカウンセラーと誤解しないでくださいね、皆さん。普通の心理カウンセラーですよ。)

カキコをしたクライエントというのは、ある県の精神衛生センターで、そのカウンセリング会社を紹介されたというのです。
紹介者が公的機関であっても、絶対の保証は無い、ということですね。

親は講演活動をしています。私も講演を聞きましたが、素晴らしいお話をなさいます。社会事業もなさってます。もう、見るからに「人格者」という感じです。私は尊敬の念を抱きました。
そして親も子も、大学で心理学の専門教育をキッチリ受けてます。それでも、親の興した会社の方は、こんなもんなんですね。

本来、カウンセリングとかセミナーとかは、クライエントの自律を促すためにあるはずです。
「これじゃあ、講演で言ってることと、会社でやってることと、違うじゃんかよ」とガックリきちまいました。

犀角独歩さんの仰るように、料金見て判断するのが確かかもしれない。
「何か変だぞ」と思ったら、紹介者の言葉より、自分の直感を信じた方が良さそう。

806 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/29(日) 09:51

お暇庵さん:

> 「国家転覆を画策した団体」

私は、どこを指していらっしゃるのか、憶測の域がでないので、以下に記すことは、ちょっと正確な記述にはなっていないかも知れませんが。

> 私的には社会復帰させる事ももある意味、逆洗脳…国家や社会従属、家庭・家族…一種の集団幻想

逆洗脳と言うことは、いわば信念体系を変化させる、家族社会という集団幻想に変えるからだと仰りたいのでしょうね。

細かいことを言えば逆洗脳という限り、元の強制的な変化が「洗脳」であったということになるのでしょうが、これはあまりないケースですね。洗脳とマインド・コントロールと言った点は認識されるべきですが、まあ、この点は置いておきます。

ただ、社会復帰という点を逆洗脳で説明すると、集団幻想としての宗教団体、集団幻想としての家族社会という二つの幻想先を想定してのことであろうと思います。

けれど、通常、社会復帰といわれるとき、“引き籠もり”との対比で使われるわけですね。社会が集団幻想ではないのかという指摘は、私は反対しませんが、ただ、幻想であれ何であれ、社会で働き金銭を得ない限り、生きていくことはできないわけです。ところが引き籠もりは、労働を放棄して家族に依存した形で生きている状態を言うわけです。

ですから、この状態から、一人で生きていけるように道筋をつけることは当然なのであって、それを逆洗脳といえるかどうか、私は疑問が残ります。実際、社会復帰を促す場合、社会が完全なものである、理想的なものであるといった虚偽のイメージを与えられることはないでしょう。

> 両親との軋轢が(無い人はいませんが)ある方や性的模範・規範に脆弱なかたが、カルトに関わると行ってしまわれる

ここの意味がどうも、私には取りかねます。

以上、記すことはもちろんお暇庵さんが仰ることに対する批判でも、反論でもありません。友好的な議論ができればと思ってのレスであるとご理解いただければ有り難く思います。

807 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/29(日) 09:54

あ さん:

> 紹介者の言葉より、自分の直感を信じた方が良さそう

そうそう。これは言えますよね。
紹介者は情報提供者、その情報の質を判断する責任は、あくまで個人的なものですね。

808 名前: お暇庵 投稿日: 2002/09/29(日) 10:10
独歩さん、丁寧なレス有り難うございます。

国家転覆云々は現在審理係争中で何人かは結審された選挙に教主と
自治体から住民票移動拒否といえば、かなり具体的ですからお解り
かと思います。そういう前提ですれ違いましたので私は宗教といい
ますか、体系を持った世界観を共有する団体を指しました。
決して引き籠もりとかの未成年ないし、精神的未発達の社会参加を
さして言うことではありませんでした。誤解を生む表現をお詫びい
たします。よって、独歩さんが仰せの社会参加に伴う生活力確保と
いった事ではありません。あくまでも体系を持った思想性や体制、
システムといったことに対する批判、私見です。

以上の事柄から社会参加には一定の見識と制度に対する順応性が必
要とされます。そこには学歴や技術・能力参加等々が考えられます
が、そこには社会が要求するモデルが要りますよね。それが家庭で
あったり、地域や村、ひいては国家というシステムを構成する基本
形かと思うのです。そしてその恩恵と処罰はどうしても必要となり
ます。社会的な善と悪です。そこがすこし、壊れかけているのでは
ないかと思うのです。

809 名前: やーこ。 投稿日: 2002/09/29(日) 10:39
横レス失礼します。
このスレについて提案したいので、詳しくはスレッドテーマ提案用をご覧下さい。

810 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/29(日) 11:15

808 お暇庵さん:

ご指摘の点、もっともです。私も同様に考えます。
特定集団のこと、概ねの想像はつきました。有り難うございます。

熱烈な信仰で後先が見えなくなった人の信念体系を問うようなことを、私は度々行わなければならない場面に遭遇します。ただ、これは手前味噌なのですが、このような場合、逆洗脳という方法論を採るわけではありません。(もちろん、お暇庵さんが私をそう非難されているという意味ではありません。単なる経験談ですが)

カルトが提供する世界観はどんな理想的なことでもいえるわけですね。ところが一般社会は決してそんな魅力的なものではないという現実があります。仰るとおり、共同幻想ともいうべき場所であり、また総体の秩序のために賞罰という方法論も横行せざるを得ない状況がありますね。しかし、ここに元メンバーたちを返さなければならない、そうでないと引き籠もりしか残っていないという選択です。

ここでぶつかる壁は仰るとおり、家族社会の根本的な問題点です。悩みます。
この社会における幻想、ご賢察をお聞かせいただければと思います。

以上の点を、やーこさんのご提案もありますので、管理人さんが、別スレッドを立てていただければ、そちらで継続したいと思います。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

811 名前: お暇庵 投稿日: 2002/09/29(日) 12:15
独歩さん、レス有り難うございます。

仰せの通り別スレッドでお話しできればと思います。ただ、私如きが博識・冷静な
独歩さんのお相手になり得るとは思っていませんので諸兄にも参加戴き論議できればと思います。
今後とも宜しくお願いいたします。

812 名前: みかん 投稿日: 2002/09/29(日) 13:29
>>743
ドプチェクさん、犀角独歩さんがすでにお答えになっていますが、
東洋学術研究所は、改名して東洋哲学研究所になりました。
これは、諸橋大漢和の発行元の、大修館書店が主宰する同名の
研究所があるためだそうです。

814 名前: モモ 投稿日: 2002/09/29(日) 20:00
90000ゲットしました。

815 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/09/30(月) 21:14
犀角独歩さん

>>803

>私の書き込みで必要以上の弁明を強いた形になりましたことを
>お詫び申し上げます。

いえ、お詫びされます事など、まったくございませんので、どうかお気になさらないで
下さいませ(^^;)。
799で申しましたように、普段はあまり気にしないようにと心掛けてはいるものの、遅か
れ早かれいつかは必ずやって来る、自分自身でどうにか乗り越えて行かねばならない現
実なのでありますし、心の中で思っています事を吐露した形になってしまいました。

私は昨年夏に、以前住んでいた所から車で15分ぐらいの今現在の地域へと引っ越して
来たわけなのですが、以前の所属組織があまりにもひど過ぎたのに比べ、現在のそれは
決して悪い雰囲気ではないのです(無論、学会の基本的な行き方という事に関しまして
は、まったく別ですが)。しかし、皮肉な事にそれが自分にとって却って大きな負担を
もたらしてしまうなどとは、正直、夢想だにしていませんでした。こちらに越して来る
前から、すでに私の心はかなり冷めてしまっていたというのに、しかも、拠りによって、
こちらに移ってから母がたまたま知り合い友人になった方が、拠りによって学会員であ
られたとは・・・
以前のどうしようもない人間たちが主流の組織であるなら、幹部たちに向って痛烈な批
判の言葉と皮肉の一つや二つを言い残して、“ハイ!サヨナラ”も可能であったのです
けれど、今の所ではそれが出来ない状況なのでありますから、なんとも辛いお話です。

それでも、もはや明らかに間違った行き方をしている学会に、同調する事など、私には
到底出来ませんし、仮に将来的に変って行く可能性があったにせよ、それには相当の時
間を要すると思われますので、何れはどうにかして身を退かねばならないと思っていま
す。自分の気持ちをあまりストレートにぶつけるのが困難な今の状況を考えれば、私の
本意ではございませんが、何らかの巧みな方法で切り抜けて行くしかないと。

これ以上、愚痴っぽいお話をしてしまいますと、ますますご迷惑になりますから(^^;)、
このあたりにさせていただきますけれど、もしかするとその時がやって来るのは、もう
そんなに遠い事ではないのかもしれない?と、思ってみたりもしています。
しかし、たとえどのような事があろうとも、私は絶対に屈服せず、それらをどうにか乗
り越えて生き抜いて行きたいと思っています。自らの信念に忠実な生き方が出来る事を
目指して。

最後になってしまいましたが、お気遣い、どうもありがとうございました。

816 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/09/30(月) 21:15
みかんさん

>>812

お久しぶりでございます(こちらでは、お初でございますね^.^)。

>東洋学術研究所は、改名して東洋哲学研究所になりました。
>これは、諸橋大漢和の発行元の、大修館書店が主宰する同名の
>研究所があるためだそうです。

そうだったんですか。
確かに東洋学術研究所という名称は、他にもありそうな感じですよね。
東洋哲学研究所というのも、どこか別にありそうな名称のように思えて来ますが・・・

ご情報、わざわざありがとうございました。

817 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/09/30(月) 23:18
少し、話を戻します。
信徒除名と言うと、最近話題の「法運寺の今泉さん」の事ですね。
しかし、あの方の場合、猊下に手紙を出してから除名まで4年を経ているようです。
日蓮正宗の場合、キャパシティが広いですから、中々信徒の除名はしません。
創価学会員ですら、平成3年の解散から、平成9年に初めて「信徒資格喪失」としましたが、これですら除名、破門ではありません。
除名になると、簡単に信徒には戻れませんから・・・。
これも、彼(今泉さん)は責めていたようです。謗法与同であると・・・。
しかし、来るものは拒まず、去るものは追わずが寺院だと考えます。
寺院は昔から駆け込み寺的要素はありましたから、当然「駆け込んで当山教義に従うものは守る」となります。
しかし、寺も教義がありますから、教義を守れないものは出て行ってもらうというしか無いでしょう。
しかし、当宗は他宗に比べ、信徒を中々除名しない甘さもあるようです。

永平寺何かは、即座に破門されます。
僕の友人は永平寺系の檀家さんなんですが、本山に行って、少し騒いだだけで、破門でした。
墓を霊園墓地に動かしたり大変だったようです(埋葬法では居座れるんですが、胸糞悪いから出ました)。
そう言う処置は時間をかけますよね。当宗は・・・。

818 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/09/30(月) 23:35

> 法運寺の今泉さん…除名まで4年

ほお。この4年という年月は、いままで投稿では実感できませんでした。これはなかなか重要な指摘ですね。

819 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/10/01(火) 00:12
同じ事があります。
事情が違うので、一緒にするのは憚りましたが、浅井さんが宗門に「宗務御当局に糺し訴う」を提出したのは、昭和45年3月25日、そして
紆余曲折があり、宗務院から妙信講への通告書(弁疎を求める)が出されたのは昭和49年7月31日、これも大体4年ですね。

820 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/01(火) 05:34

菊水護国さん:

この「4年」という時間の共通点は、どうしてなのでしょうね。

821 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/01(火) 06:03

90508 ゲットしました。

822 名前: お暇庵 投稿日: 2002/10/01(火) 09:17
菊水護国さん

詳しい記述有り難うございます。しかし、先の件、4年という時間経過は
意図的なものなんでしょうか?学会の場合は都合6年かかっていますよね。
これは、処分する側が何らかの意思表示をまって、たまたまその時間経過
であったと考えた方がいいと思うのですが。52年度の正信覚醒の時の対応
は僧侶が中心ということもあって比較的迅速な対応であったと記憶するの
ですが、、、。私の周りのトラブルは一応、住職の単位で一年から二年、
様子を見られましたね。ただ、お寺単位で除名ということはなく、講中を
除籍程度でありました。その後直属信徒になって信仰状態を観察されて。
と言う段取りでしょうか。普通はこの段階で寺籍を変えられて何処かに移
られます。殆どが人間関係がトラブルの元ですので、聞く方も言う方も体
力はいります。法義の上からの問題というのは言い訳で、よおく聞くと所
作振る舞いの批判、もつれがその大半でしたねぇ。私の経験では。

823 名前: moka 投稿日: 2002/10/01(火) 17:49
今泉氏の信徒除名処置につき、確認させていただきます。
この度の宗務院からの除名処分の「通告書」や、今泉氏のホームページでも、
平成8年から今泉氏が日顕上人へ書簡等のアプローチがあったことが記されています。
最初に日顕上人に文書を提出し、また電話で直接会談したのは平成8年夏。
次いで平成11年10月から、質問書形式で度々送付するようになり、
平成12年9月には教学部へ「お尋ね」を送付しており、
本年(14年)も3回にわたり、書簡を送付しているようです。
この間、平成8年の電話以外、回答らしいものがなく、
突然、今年の9月16日に弁疏の通知が届き、
今泉氏が25日付で弁疏書面を郵送し、28日に除名処分。
以上のような経緯のようです。
弁疏とは、除名のための単なる手続きに過ぎないかもしれません。
果たして、これで教導しているといえるのでしょうか。
氏の表現が、挑戦的で過激で非礼に満ちていても、
あるいは仮に今泉氏が聞く耳を持たない方であっても、
僧侶側が何のリアクションもせず、徒に時を経るだけで、
その間に「黙れば信徒」「批判すれば除名」という対応はいかがなものか。
徒に時を経るのが、キャパシティとは思えません。
もし、宗門側が上記以外のリアクションをしている事実をご存知の方は
教えていただきたく存じます。

824 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/01(火) 18:11

石山宗門は今泉氏に対して行ったようなことをする団体なのでしょう。ただ、それだけのことではないのでしょうか

石山に何等、期待も、信も寄せていない側からすれば、至極当然の反応であると思うだけです。そんな団体に一体、何を期待しての議論なのでしょうか。不思議に思います。

826 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/01(火) 19:40

>石山に何等、期待も、信も寄せていない側からすれば、至極当然の反応であると思うだけです。そんな団体に一体、何を期待しての議論なのでしょうか。不思議に思います。

全く賛成です。

まぁ、大石寺が、『日蓮大聖人の正系門家だ』と錯覚するから、期待もし、議論もするのだと思います。

たとえば「法の華三法行」が立派な宗教であると思っていた人も、教祖の福永法源の逮捕によって、化けの皮が剥がれると、何のことはない、宗教マルチ商法に過ぎなかったと初めてわかったわけです。

僕は、大石寺も含めて、富士門流各派を、宗教マルチ商法の一種だと見ることにしています。富士門流に大体共通しているのは、聖職者は商売として僧侶、指導者を演じているのに対して、信徒はその宗教を信仰としてやっていると言うことです。だから、元々、聖職者と信徒とは、かみ合うはずはないのだと思っています。そのように理解するとき、今回の今泉氏に対する処置は、当然過ぎるほど当然の処分であると思います。

827 名前: モモ 投稿日: 2002/10/01(火) 20:53
犀角独歩さん、問答名人さん

そういう反応もありなのですね。少々驚きました。理解はできますが、
やはりまだ、私は心情的にそのレベルには至っておりません。
もう少し修行しなければ。

828 名前: いちりん 投稿日: 2002/10/01(火) 21:16

宗教って、信仰という「商品」を販売している「企業」とみたほうが、わかりやすいですよね。
創価学会も日蓮正宗も顕正会も、みんな企業ですね。

829 名前: やーこ。 投稿日: 2002/10/01(火) 21:27
修行について、あまりキき目はないのかと今宗門について私の昔活動したのを振り返り思いました。
だって自分が別人になれないと思うから。自分そのものは変わることは不可能だと思うから。
モモさんへ。

みなさんへ、台風大丈夫ですか?
私はそれで実家に戻ったきり帰れません。
とにかく暴風雨が酷く、人もラッシュより多くて。

830 名前: ワラシナ 投稿日: 2002/10/01(火) 21:55
no828 いちりんさんへ
*テーマ「存続させる為にわざと会社っぽく仕立ててある教団」

0、どの教団も容易につぶれないように拵えてあると思います。会社っぽいのが生き残ると思います。
だから、どの教団本部教会の建物を見ても表向ききれいごとが演出されていますが影では「効率・機能」が重視されている。

1、なぜ会社っぽくする事が一番大事かといえば、中にいる人間がどれほどクズの集まりでも「入金、出金システム担当者の真面目な情熱」さえあれば、絶対つぶれないのが会社と言うものだから。
他はどれほどめちゃくちゃでもいいのです。カネの扱いさえ真面目であればいい。
世間の小さな同族会社ではワンマン社長がめちゃくちゃな勤務ぶりしていて「なぜつぶれないのかなあ」と思う時が有りますが、その原因は「お得意先との取り引きが続いていてその支払いが期日通りきちんとしている事」だけ、です。

2、現代教団が大方この形を採りつつある、と思う。世間ではあんなひどい教団、と思っていても内部で金の流れが途絶えていなければ何時までもその看板を掲げていられる。

831 名前: お暇庵 投稿日: 2002/10/01(火) 23:14
いちりんさん、ワラシナさん、こんばんわ。お暇庵です。

ご指摘のように教団と教義は別物と考えたほうが合理的ですね。
教団は維持が目的でそのための布教であり、管理です。その根底に
教義は介在しますが教義そのものは本質的なところは共有できない
ですよね。共有できるもので有れば教祖はいらなくなりますから。
外郭情報は撒かれますが、本質的なところは知ることは出来ないシ
ステムです。この構造を理解して信仰と活動を建て分けないとシス
テムの歯車になってストレスが残るんですね。信仰は個人が主役。
活動はシステムカリキュラムが主役。

832 名前: いちりん 投稿日: 2002/10/02(水) 00:23

わたしは、「宗教」と「宗教団体」を分けて考えます。
さらに、「宗教」(宗教の教義)と「宗教性」も分けたりします。

で、わたしにとって、いちばん大切なのは「宗教性」なのかなあと。
これは、魂の世界ですよね。感動の、詩の世界のような。

「宗教」(宗教の教義)というのは、まあ理屈の観念の世界。これは、頭の、体系の、論理の世界。

そおして、「宗教団体」というのは、我欲の、利潤の、権力拡大の世界なのかなあ。。

833 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/02(水) 07:16

元来、教団というのは教義を護っていくために組織化されるものなのでしょう。少なくとも初期の仏教教団はそうであったでしょう。

でもいまの時代の、日本の宗教団体、とりわけ大石寺系グループというのは、教団と指導者を維持するために“教義を利用しているのに過ぎない”わけでしょう。自分たちの正当性を鼓舞するのに教義を利用している。リーダーの絶対性を鼓舞するために教義を利用しているという構造です。

もういい加減、メンバーは、そのレトリックに気がつかなければいけない。
「教義はただ一つの正しい教団と指導者にしか受け継がれない」と自己正当化を宣(の)べてやまないグループの、その説明原理が嘘であることに気がつかなければいけないのでしょう。

また、日蓮の教義が、ただ戒壇之漫荼羅だけに具わっているなんていう正当化論の嘘に気がつかなければいけないんでしょう。

よおく心を澄ませて考えてみればわかることです。それらはみんな特定の団体の、特定の個人が、自分勝手に「おれ(たち)は正しい」というために用意された嘘であるということです。こんなことは既に前時代でファンダメンタリズムという一言で一蹴された過去の遺物です。100年も前に進歩した人類の精神史から、100年遅れる前時代思考で一所懸命になっている大石寺系グループって、とても恥ずかしいアナクロニズムであることに、各人の、個人レベルで気付かないと、ほんとに馬鹿を見ることになるわけです。

かけ声かけられてその気になるのは煽動に乗っているだけ、そんなみっともない自分をやっているのは、もうやめにすることです。

834 名前: お暇庵 投稿日: 2002/10/02(水) 08:40
カルトとも関連しますが、教団の維持のための信者教育は、賞罰が分かりやすいですよね。
つまり、ご利益と罰ですね。それが最大利益の真理体得(解脱)に結びつくためのプロセス
であれば上等ですが、行動規則に落ちてくるとただの拘束みたいなものなってしまうんでは
ないかなぁ。わたしは独歩さんのように絶対性の無謬をつくのも方法論として立派だと思う
んですが、其れはそれで追求している真理の範疇発想というドグマに落ちてしまうんではな
いかと思うんですよ。いわゆるお釈迦さんの手のひらで遊ぶ孫悟空状態。

真理そのもののの相対化という手段が一番穏やかで、精神的被害が少ないのではないかと思
うんですが、如何でしょうか?もちろん、自分自身も相対化していかないとダメですけど。
絶対性の相対化といいますか。選民主義のエリート集団に対抗する思想はそれかなと、思っ
ています。あんたの真理は立派だけど、こちらにもあちらにも似たような真理が転がってい
るよ。と言うスタンスでしょうか。

835 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/02(水) 09:11

お暇庵さん:

少し私の考えているところを誤解されているんじゃないでしょうか。

私は、そもそも「真理の範疇発想」などしていないわけです。ここで書いてきたことを読み直してもらえば直ちに理解いただけると思いますが、ただの一度も真理の強調などしていないわけです。むしろ、真理という言葉自体使わないできています。また仏法を真理だとも思っていません。

> 真理そのもののの相対化という手段が一番穏やか

これをどんな意味で書かれているのか、ちょっと、私には理解できませんが、私は仏教を人類の精神の中の一つと考えています。また、厳密に言えば、仏教は元来、宗教ではない修道的な自律を目指すものであると考えていますから、精神史を機軸に相対化はしているつもりですね。

また、「カルトと関連する」ということを書かれていますが、この表現はお暇庵さんと私では語彙の使用が違うのではないでしょうか。私はカルトを宗教問題であると考えていないわけです。社会心理学上の、集団心理に掛かる問題であると考えています。ですから、各人が宗教信仰の結果であると思っていることは実は単なる心理操作の結果ではないかと考えてみる必要性を論じるのに、破壊的カルト・マインド・コントロール論を用いているわけです。

> 絶対性の相対化

これは言葉の響きとして何となくわかりますが、これだけではただのキャッチフレーズにしか読めません。具体的にはどんな意味で書かれていることですか。

836 名前: お暇庵 投稿日: 2002/10/02(水) 09:53
独歩さん、何か私の発言で気に障ることがありましたら、お詫び申し上げます。

誤解を生んだ事柄は、私と独歩さん間の言語の共有が出来ていないからと、思い
ます。私も独歩さんの発言すべてを読んでいるわけではございませんし、HPで
アップされているものは大体目を通しましたが、意図されている事柄を全理解は
残念ながらしておらないと思います。ただ、石山の極意の血脈や本尊を他文献を
用いられて、無謬性を科学的かつ合理的に立証されようという事に対して、未だ
石山の教義範囲で述べている事を指していったものです。もちろん、それがどの
ような意図を持ってされているかは知るよしもございません。そういった意味で
本掲示板に限った発言をみての印象をいったもので取り違えや私の読解力の差も
当然ありますので私が誤解しておれば、ご指摘の通り修正致したい所存でござい
ます。。

>私は、そもそも「真理の範疇発想」などしていないわけです。ここで書いてきた
>ことを読み直してもらえば直ちに理解いただけると思いますが、ただの一度も真
>理の強調などしていないわけです。むしろ、真理という言葉自体使わないできて
>います。また仏法を真理だとも思っていません。

今こうして見解を述べて戴き、私の語感、語彙使用が適切ではなかったという指摘
をこれから論議させていただければ、お互いのスタンスや考えが理解できるものと
拝察いたします。

カルトにかかわらず、宗教を人類の知恵としてとらまえることに異存はございません。
精神の発達史(ひょっとするとそうではないかも知れませんが)において、宗教や哲
学は自我の関わりと無縁でないことは確かです。広く言えば社会学でありますし、心
理学でも有るかと思います。仏教が修道的のみかどうかはひとまずおいて、絶対性の
相対化は、マインドコントロールや近代自我の問題でもありますので、少々お時間戴
いてゆっくりとお話しさせていただければと思います。恐らく、アプローチの違いだ
けで同じ指向ではないかと期待しておるのですが、併せてご容赦をお願いいたします。

837 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/02(水) 10:41

お暇庵さん:

いや、気に触るとかそんなことはありません。
ただし、重要な誤解でした。同じような誤解を懐かれている人もいるかもしれないので、レスしただけです。まあ、そんなに慇懃にならないでください。

石山教義を見直すうえで、文献資料(相伝・口伝も含めて)あるいは日蓮真跡、さらに天台文献を開陳することもありますが、私はそれを金科玉条の如く扱っているわけではないのです。石山が言っている内容がそんな資料と相違している点を指摘するために挙げているのに、過ぎません。

仏法…、むしろ仏教といったほうがよいでしょうが、実際、シャキャムニは法など説いていないのであろう思うわけです。説いたのは「教」であると思います。ですから、仏教で言う「法」とは教法ということのみであって、いわゆる「仏教の真理」と称されるものも煎じ詰めれば教なのでしょう。教法とも言うのでしょう。

ただし、シャキャムニは、その時代の一般的に認知されていた真理を法として扱ってはいたかも知れません。けれど、説いたのは教でしょう。如何に生きるべきか、考えるべきか、修行すべきかを教えたのでしょう。その教えこそ、経ですね。

しかし、その後の教団はその教えのみでは満足しなかったのか、膨大な「法」の記述に腐心していきますね。通常、理法といわれるもののほうです。しかし、これらが現代に通用するわけはありません。もちろん、空の概念が、数学上の「0」の発見につながったように、称えるべき面も数多くあるでしょう。しかし、我々は現代、そういった法理面は実証科学に追うわけですね。

この現代に、煩瑣に、しかも論理的に構築された理法と言われるものを信憑することは害悪面ばかりが表に出ることになるでしょう。(石山で言えば、その代表が寛師の六巻抄です)けれど、シャキャムニが説いた生き方、修行の仕方としての教えは、いまもって光り輝いているわけです。

ですから、100年前に科学の俎上に乗って潰えた法に拘泥せず、けれど、教経は捨て去らずに仏教を見直すべきであると私は考えてきたわけです。

お暇庵さんに私が書いてきたことを全部、読んで欲しいというのも酷ですから、簡略にまとめて記しているわけですが、この見直しの中で、破壊的カルト・マインド・コントロール論の成果も踏まえて、以下の点について大石寺系グループの有様を見直すべきであると私は書いてきたわけです。

概ね5点です。第1はカリスマ信仰、第2は聖物崇拝、第3は神秘主義、第4は宗教団体信仰、第5は絶対信仰ということです。

第1のカリスマ信仰とは、唯受一人やら、エレベータの中の血脈やらといった、たった一人のカリスマによる信仰支配から脱却すべきであるという指摘です。すなわち、依存した信仰から各人の自覚に基づく信仰への変換を促すことです。そのために、血脈相承などと言われる文献も引き、その虚構を糾弾してきたわけです。

第2の聖物崇拝とは、いうまでもなく、戒壇之漫荼羅、御肉牙信仰を突いたものです。うえにも記したとおり、そもそも法の論述など仏教の使命ではない、まして、宇宙の真理とやらが生命で、妙法蓮華経五字に収まったり板漫荼羅に具わり、さらにはそれが生きた日蓮であるとか、法体などといい、さらには歯と歯肉が生き続けているなどと言う現代科学の批判の対象になる考えを、仏教と思ってはいけないと言ってきたわけです。」

第3の神秘主義とは、見たこともない永遠の生命だとか、信じれば御利益があって、信じないと罰が当たるなどいう土俗信仰の呪詛みたいなことを信仰と思われている点を難じてきたわけです。

第4の宗教団体信仰は、殊にここのところ書いてきたことです。殊に大石寺系グループのメンバーは宗教団体を唯一絶対の存在であると信じることが信仰だと騙されてきたわけです。信仰とは仏を仰ぐものであって、団体を信じ仰ぐものではない。そもそも人が運営する集団が唯一正しいなどと言うことはできないわけです。ですから、団体信仰をやめ宗教そのものの信仰に戻るべき点を言ってきたわけです。

第5の絶対信仰とは、お暇庵さんも指摘している点です。この世にそもそも絶対と言うべきものはないというのが仏教の至極でした。空、あるいは三諦は西洋にも誇れるべき卓見であると私は思います。空はたぶん、シャキャムニに原型としては遡源できるかも知れませんが、後世の仏弟子といわれる人々の所産でしょう。そのような遺産を受け継ぐ仏教徒が絶対信仰などに溺れる愚を論じてきたわけです。しかし、お暇庵さんがいう絶対の相対化とはちょっとニュアンスが違うように感じます。

そして、以上の見直しからシャキャムニ教えから発展した菩薩道をもって、もう一度、生き直そうと呼びかけてきたのです。

838 名前: お暇庵 投稿日: 2002/10/02(水) 13:06
独歩さん、丁重なご指摘とご自身の指向開示ありがとうございます。

生きた時代も違いますし、体験も違うわけですから、当然認識が違ってくることは当たり前な
んですが、独歩さんが示された批判定義の

>第1はカリスマ信仰、第2は聖物崇拝、第3は神秘主義、第4は宗教団体信仰、第5は絶対
>信仰ということです。

は概ね、貴HPや本掲示版で記載されるところからも十分くみ取れます意図かと拝します。釈
迦が説いたものが真説かどうか、議論は分かれますが独歩さんが記述されたとおり仏教として
体系化された形の中に、今でも色褪せない認識法は空であり、縁起観である事は私も同意です。
大石門の話はすこし、煩雑になりますので今は対処外としますが。科学的に反証すべき事柄を
論外と放置してきた事実は仰せの通りです。

>100年前に科学の俎上に乗って潰えた法に拘泥せず、けれど、教経は捨て去らずに仏教を見直
>すべきであると私は考えてきたわけです。

私も、今風に言えば自我のあり方をどうすべきか?これが各いかなる教えとの向き合い方に繋が
る思うのです。(ここで使用する自我は仏教的な自我とは違います、念のため)救済や解放、進
歩が各教え(科学も含む)の根本であれば何を救い、解放進歩させるのかと言えば経済・社会、
制度的疾患であったり、因習、迷信等々ですが結局は個人の自我に帰着するかと思うのです。
この自我の安定、不安定に関わるカルト教団問題について、カルトにするもしないも個人の資質
と相関関係にあると別のスレッドで申しました。

この自我が不安定になることが何処からくるのか?安定とは何なのか?自我は永遠か?近代の悩み
ではなく人類永遠の悩みかと思うのです。精神肉体を借りれば、肉体は死ぬことは恐らく抵抗がな
いと思います。衰弱していくことには抵抗できないからです。しかし、自我は違います。死を恐怖
するのは自我が無くなることではないかと思うのです。あるかないか分からないが魂の行方に永遠
を求めるのは、釈迦が四門を見て四苦八苦を感じたと言いますが、実存としてあるものの認識法の
解決は今に生きる仏教の存在性でもあります。しかし、ぼんやりと認識できる自我は本当に有るの
かどうか、自我が不安定なのは作られたものだから、壊れやすいのではないか?といえば言い過ぎ
でしょうか?仏教の自我が構成要素として五陰仮和合と説くのは興味深いところです。

ただ、私が言う絶対性の相対化は言葉足らずですが、科学的という論述を背景とした宗教批判が科
学的という宗教化して同じ穴に落ちてしまうと言う事を言いたいのです。ご存じの通り、科学と言
っても物理、医学天文等々、基本は仮説検証のドグマを持っています。客観学総体は検証が基本で
普遍性追求ですが100%の実証性は伴えないはずです。いわば、証明過程の仮説学という乱暴な言
い方もできます。そういう意味では仏教は文学的です。初めから論証不可能の主観の概念から出て
くるものですからどだい、論証する場所が違うのかと思うのです。ただ、仏教学や社会科学として
の宗教は別です。また、考古学の批判に耐えない仏典は年代特定は考証事実として残っても、説か
れたものの本質とは次元が違うのではないかと思うのです。事実、年代特定も100年単位という大
雑把な時間差を推定しています。合理性とは言い難い側面もあるかと思うのです。
そういう意味で客観絶対性も危険かと(一般論です、独歩さんの説に対することではありません)
思うのです。意見が違うから論も弾むとも言えます。また、文中にお気に障るところ有るかも知れ
ませんが浅学ゆえんの不調法、ご寛恕のほど宜しくお願い致します。

839 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/02(水) 14:56

91010 ゲットしました。

840 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/02(水) 17:32

お暇庵さん:

まあ、世代格差、語彙格差はあるでしょうが、話が通じないことはないでしょう。なにせ2000年近く前の漢文を共有しているわけですから(笑)

> 釈迦が説いたものが真説かどうか、議論は分かれますが…体系化された形の中に、今でも色褪せない認識法は空であり、縁起観

認識法という語彙は気になりますが、なかなか適切な表現ですね。シャキャムニは空、縁起と体系・整理された形で説かなかったのでしょうね。けれど、遡源はできるとしないと仏教にならないわけです。私は生命といわれれば異論を述べますが、こう言われる範囲では許容範囲であろうと思っています。

> ここで使用する自我は仏教的な自我とは違います

自我というのはたしかに仏教としてはまずいでしょうね。
まあ、一般論として、仰りたい語彙を割り当てれば、「個」なのでしょうが、現代的な宗教心の意義と踏まえれば、スピリチュアリティということでしょう。

ただし、再生(転生)等を考慮すれば、我(アートマン)を使わざるを得ないことになるでしょう。私は無記で一貫していますから、この痛痒はありません。

> 科学的という論述を背景とした宗教批判が科学的という宗教化して同じ穴に落ちてしまう

なるほど。ただし、この場合で言う科学とは自然科学、人文科学、社会科学の何れを仰っているわけですか?

私は「生命」語の適用を忌避するのは、宗教は人文科学の範疇で考えることはできても自然科学とは親和性がないと判断するからです。自然科学の調子で、宗教で言う「法」を扱えば、まさに始めの一歩で躓くことになります。(そうですね、モモさん)

科学の宗教化というのは、つまり信仰の対象となるといった類の意味でしょうか。
発見、統計によって日々書き換えられていく科学が信仰の対象となることは、現代では違和感があります。けれど、たしかにピタゴラス派も、それは宗教であったわけですし、、ケプラーにしても宇宙の調和を神の摂理と考えたのは事実でした。ガリレオですら、神の御技として宇宙を観測していたでしょう。しかし、これはキリスト者の発想であって、仏教のそれではなかったわけでした。ところが明治以降、西洋化した仏教は、仏“法”を恰も、自然科学で言う法則の如く取り扱う過誤を犯したわけです。

この点をご指摘なさっているのならば、私は賛成です。教法としての仏教認識に戻るべきでしょうね。

> 仏教は文学的です。初めから論証不可能の主観の概念から出てくる

仏教が文学的というのは、私が人文科学の範疇と言うことと類型をなすのであろうと思いますが、それが「論証不可能の主観」か、という点はやや蛇足を付したいところです。

たとえば四聖諦観、八正道の実践は同様の心的経過を辿るでしょうから、目的モデルの提示は可能でしょうね。また、最近、瞑想、唱題などの脳波調査が行われるなど、心理効果として数理化する試みもあるわけです。しかし、そんな実証性はもちろん表象のことに違いないでしょう。つまり全体的には数理的証明には向かないというだけのことでしょう。

ただし、もちろん個人的な体験は、社会心理学でいう「個人的リアリティ」に属するわけですから、論証不可能な主観に留めることは科学的な在り方でしょう。仰っていることにさほどの相違はないのでしょうね。

なお、繰り返しますが、私は「気に触る」などという些細なことはあまり気にしません。ただし、自身の考えを誤認識されれば、その点に関しては明示します。しかし、そこに「怒り」が伴っているわけではありません。もし伴う感情があるとすれば、それは好奇心です。まあ、求道心(ぐどうしん)と言いたいところですが、僭越なので控えます(笑)

また、異説はアウフヘーベンされてこそ、面白い。その意味で異なった意見については、徹底記に突っ込みはしますが、実は寛容です。有意義な議論ができればと思います。議論は礼節を重んじてこそ気持ちいい。この点は共通の申し合わせ事項としたいと思います。

ここ2、3回のやり取りを拝見するところ、異なった意見に接すると、人身攻撃を始め、人格否定のレッテルを貼って「勝利宣言」をするような、大石寺系グループの熱狂的な方ではないようなので、その点は安心しています。私は正直言って、今泉氏と、その周辺のような論調非難に基づく諍論は望みません。まあ、記すまでもないことでしょうね。

841 名前: よしお 投稿日: 2002/10/04(金) 06:50

投稿日: 2002/10/04(金) 02:39

私は統一教会員なのですが、最近、顕正会という別の宗教に首を突っ込んでいます。それで思ったことなどを私のHPの「言いたい放題!」というコーナーに書いてみたので、興味があれば見てみてください♪

http://www.sailormoon.jp/~kakeru/jndex.html

842 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/04(金) 14:44

91524 ゲットしました。

843 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/06(日) 17:41

92088 ゲットしました。

844 名前: モモ 投稿日: 2002/10/08(火) 05:28
>私は「生命」語の適用を忌避するのは、宗教は人文科学の範疇で考えることはできても自然科学とは親和性がないと判断するからです。自然科学の調子で、宗教で言う「法」を扱えば、まさに始めの一歩で躓くことになります。(そうですね、モモさん)

自然科学はその基礎を論理学においていると私は理解しております。とすると、今までの
論理学では先に示した不完全性に突き当たるわけです。すると自然科学の発展のためには
もう一度論理学を見直す必要があると思います。

例えば自然科学では「愛の存在を論理的に証明できない。」と私は考えます。このことについて
異論のある人は多分いないと思います。
「コンタクト」で主人公の女性が「私は証明できないものは信じない。」というと、
その相手の男性が「(あなたは父親を愛していた、と言ったが)それを証明して見なさい。」
という場面があります。

あるフランスの物理学者によると「証明できないが明らかに正しい命題」というのを考慮すべきだそうです。このような命題があることは論理学で証明されています。

「不完全性定理ゆえに大石寺は正しい」
とは論理学的にはこじつけだったと思いますが、御書、あるいは真筆だけでは証明できない正しい教義があることを不完全性定理は示しており、私はそのことが血脈相承を示唆しているのでは、と考えています。

845 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/08(火) 08:14

92504 ゲットしました。

846 名前: みかん 投稿日: 2002/10/08(火) 08:27
モモさん。
>「証明できないが明らかに正しい命題」

実例をひとつ挙げてください。

>「不完全性定理ゆえに大石寺は正しい」
>とは論理学的にはこじつけだったと思いますが、御書、あるいは真筆だけでは証明できない正しい教義があることを不完全性定理は示しており、私はそのことが血脈相承を示唆しているのでは、と考えています。

お説に相当な飛躍、および恣意性があることを指摘しておきます。

849 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/08(火) 08:39

>私はそのことが血脈相承を示唆しているのでは、と考えています。

本当に唯授一人の血脈相承が、日蓮聖人が始められたことなんでしょうか、大いに疑問があります。また、関連して、二点疑問を感じています。

その1 大石寺第四世の日道上人は、日目上人から血脈相承を本当に受けていたのでしょうか。もし、そうなら、なぜ、蓮蔵坊に入らなかったのでしょうか。

その2 日目上人が日興上人から血脈相承を受けていたのなら、どうして、弟子を育成し、その弟子に血脈相承しなかったのでしょうか。ちなみに、日道上人は、日興上人の、新六と呼ばれた重須での弟子です。

850 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/08(火) 11:02

モモさん:

> 御書、あるいは真筆だけでは証明できない正しい教義がある

そりゃそうでしょう。ですが、それが下種三宝であるとは言えませんね。
ですから、この仮説は正しいけれども、この仮説が下種三宝を証明することにはなりませんね。

> 自然科学はその基礎を論理学においている

ちゃんと私の文章を読んでくださいよ。人文科学の話をしているのです。
日蓮教学は自然科学ではないでしょう。話をすり替えてはいけません。
また、不完全定理は、絶対に正しいと言うことも証明できないのではないでしょうか。
同じところで堂々巡りしていますよ。大丈夫ですか。精神的に追いつめられていませんか。

真偽未決ですが

日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候

とありますね。日蓮が不完全性定理、論理学を言いましたか。
血脈相承と不完全定理が関係あるというのであれば、論理学的に説明してみてください。
私は、あなたの書き込みは反論を受けたことに何も答えず、同じことを呪文のように繰り返しているだけにみえるわけです。しかし、あなたが唱えている呪文は論理学でも、不完全性定理でもないでしょう。「自分のやっている信仰は正しい。戒壇之本尊は正しい。下種三宝は正しい」という呪文なのでしょうね。心配しています。

851 名前:投稿日: 2002/10/08(火) 12:18
モモさん

>「不完全性定理ゆえに大石寺は正しい」
とは論理学的にはこじつけだったと思いますが、御書、あるいは真筆だけでは証明できない正しい教義があることを不完全性定理は示しており、私はそのことが血脈相承を示唆しているのでは、と考えています。

つまり……?
A「不完全性定理ゆえに大石寺が正しい」が、以前のモモさんの主張だったわけですね?
それで今は、
B「御書、あるいは真筆だけでは証明できない正しい教義があることを不完全性定理は示している」
が今のモモさんの主張なのですね?

AとBって、結局、同じことを言ってませんか?

「証明できない正しい教義」ですか? 不完全性定理って、そういう定理だったっけ?
不完全性定理については、あちきはシツコク、カキコしてたんだけど……、
あちきって、モモさんに無視されてたのだな。悲しい……。

852 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/09(水) 22:47

最近の書き込みの方々、現役・脱会の差はあれ、ほとんど顕正会関連者ですね。
すごいパワー、おまけに現脱問わず、どこか共通の基盤があるのでしょうね。私への反論、似通っていますね。あ、ツブヤキですよ、ツブヤキ。

853 名前: みかん 投稿日: 2002/10/10(木) 00:40
>>独歩さん

>最近の書き込みの方々

最近登場した私も入りますか? 私は顕正会とはまったく関係ないので念のため。
在籍したことは一度もありません。常盤台に一度、本を買いに行ったことがありますが。

854 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/10(木) 07:25

みかんさん:

いやいや、みかんさんのことは存じ上げません。

私は知っている事実に基づいて書いています。
たとえば検証30万登山のスレッドのごく最近の投稿者は、面識のある方がほとんどですが、その方たちから直接、お聞きした前歴に基づいて書いています。あと、面識のないガンコさんは顕正会であることをここに自認していますから含めてのことです。

みかんさんは組織論理で動いておられないことはわかります。また、お書きになられているところは独創的、かつご自身で考えつかれるところでしょう。
また、問われたことに対して確実にレスもされている点で異なります。

組織論理というのは怖いですね。一度、身に付くとその組織を脱会して、本人はやめた気になっていても、感情が高ぶったり、強い主張をしようとすると顔を出すことになります。そのために主張内容は表面的には違っていても、根幹で似通ってしまうわけなのでしょうね。

もちろん、みかんさんのことを申し上げているわけではありません。

855 名前: ガンコ 投稿日: 2002/10/10(木) 20:26
わたくしは、もっとも顕正会員らしくない顕正会員を自認してます。やや冷めているというか…。「護法の論陣」ってけっこう刺激的でしたかしら? その意味でわたくし、モモさんを応援したいです。

856 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/11(金) 19:53

93592 ゲットしました。

857 名前: 三学無縁 投稿日: 2002/10/11(金) 20:03
93600ゲットしました。はい。

858 名前: モモ 投稿日: 2002/10/12(土) 22:21
奉安堂の落慶法要に参詣しました。

中に入ると天井や壁は体育館のよう、席は青いいす席で映画館のようでした。
外観はなかなかそれなりに威厳のある雰囲気があると思います。少なくとも
正本堂よりましでしょう。しかし中はなんと言うか、はっきり言って安っぽい
と感じました。今の正宗の信心を象徴していると思います。

私としては御内拝の意義と荘厳さを醸し出す、重々しく、無骨な内装を
期待していたのですが。

あと、本堂の前には2000人が入れる待機場所があり「円信閣」というそうです。円融閣みたいですね。

あと、また御戒壇様が遠くなってしまったと思いました。距離と言う点では奉安殿のほうが
良かったと思います。

1時からの法要が始まる時は普通に御開扉が始まるように始まりました。奉安殿の外扉は黒でしたが
奉安堂の外扉は灰青色に見えました。外扉が開くと今度は上に上がる形式の中扉が開きます。
ちょうど正本堂の時も上に上がる形式の扉がありましたがそんな感じです。で、内扉は2重に
なっているのは今までの御開扉のときと同じです。

で、普通の御開扉のように方便品、寿量品の長行が始まりました。
で、「而説偈言」で御法主上人が「讃慶文」を奉読されました。
「南無本地難思・境智冥合…」という例のものです。
で、その時、次なる宗門の目標は立正安国論献上750年を目指すとのことです。
平成21年7月16日になりますね。

でその後、自我偈に入り、唱題3分。御祈念の後題目3唱。
その後、御大会やお虫払いの時と同じように御戒壇様、最初仏の御説法がありました。
「御戒壇様まします場所は事の寂光土」というような表現が印象に残りました。
事の戒壇ではありません。
その後、八木日照御能化、藤本総監、柳沢委員長の順に話がありました。
話の内容はあまり印象に残っていません。

その後鼓笛隊の演奏がありました。

お弁当はなかなかおいしかったです。こんにゃく、えび、みょうが、フライなど。30万登山の
時よりも豪華でした。メロンは入っていませんが。

859 名前: いちりん 投稿日: 2002/10/12(土) 23:00
モモさん
>最初仏の御説法

というのは、どういうことなんでしょうか。
最初仏(さいしょぶつ)のことなんですか?
ちょっとわからないので、教えてください。

860 名前: モモ 投稿日: 2002/10/12(土) 23:07
その通りです。御戒壇様を謹刻した時に三寸の御影様を造った、という話です。

862 名前: 妙薬 投稿日: 2002/10/13(日) 00:03
 独り言です。       
 モモさんが書かれた中にある、次なる宗門の目標が平成21年というのは
気になります。又、折伏攻勢や学会員の勧戒活動に力を入れるのですかね。
 個人的な意見ですが、「次の50年を目標とする」と言ってもらいたかっ
た。それにしても法華講連合会の新体制は出来るのでしょうか?心配です。

863 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/13(日) 10:31

94051 ゲットしました。

864 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/13(日) 11:13

造初御影というのは、私の知り限りもっとも旧い記述では精師『日蓮聖人年譜』、寛師・六巻抄までしか遡れません。寛師よりあとで上げる資料として旧いのは『有師物語聴聞抄佳跡上』で有師にかけて

「此最初亦造初御影とも六坪の御影とも看経所の御影とも号するなた、当山に之有り日奉の作なり」

というところでしょうか。このことから、精神の捏造であるとは思いませんが、しかし、本当に有師まで遡れるのか、疑問は残ります。

いずれにしても、戒壇之漫荼羅と同様、上代の資料には見られないもので、中世以降のものであろうと私は考えています。

865 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/13(日) 11:14

【864の訂正】

誤)精神の捏造
正)精師の捏造

866 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/15(火) 06:14

94620 ゲットしました。

867 名前: 三学無縁 投稿日: 2002/10/15(火) 18:53
94800ゲットしました。はい。

868 名前: 七師外道 投稿日: 2002/10/19(土) 20:42
96000

869 名前: やーこ。 投稿日: 2002/10/20(日) 19:07
フライデー千号特別記念号をご覧ください。
90ページに奉安堂の記事があります。しかもオウム教祖の妻の釈放記事の次です。
この記事では学会への意地と怨念、超豪華とある。
巨大な体育館、というのはここと変わらない。
明日ミニオフ会に忘れていなければ持ってきます。

870 名前: マチルダキサラギ 投稿日: 2002/10/21(月) 04:04
おっと、初めましてではありませんぞ。やーこ。の別コミュニティのハンドルネームです。
突然の宣伝メールですみません。今度アングラ系宗教哲学、社会現象、心等を中心とした掲示板、ホームページを作る事にしました。
アドレスは以下の通りですが、重たいし携帯からはご利用になれません。会員制サークルもつくります。
http://myhp.cafesta.com/@darkmoon0630

871 名前: 荒らし警報 投稿日: 2002/10/21(月) 14:27
2chの創価板で独歩さんのことが日蓮宗葵講の波木井坊竜尊(波木井家の末裔?)という
人物だと認定されていましたよ。まあそれだけだったらいいんだけど、
2ch在住の妙観人とそのシンパシーによる荒らしが心配です。

872 名前: 管理者 投稿日: 2002/10/21(月) 14:39

荒らし警報さん

貴重な情報、ありがとうございます。問題が発生しないように、注意深く見守りたいと思います。

なお、日蓮宗葵講の波木井坊竜尊さんと、独歩さんとは、レスの内容からしても、別人であると管理者は考えております。少なくとも、IPアドレスは違っています。

873 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/21(月) 23:49

> 871 荒らし警報さん:

独歩です。情報、有り難うございます。
知らないところで、噂になっているんですか(笑)

私が波木井坊竜尊さん? そんな有名人と間違えられているんですか。
そりゃ、ご本人に悪いですね(笑)

874 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/23(水) 13:17

97092 ゲットしました。

875 名前:投稿日: 2002/10/24(木) 23:14
あ! あちき、さっき、他スレで、97500、キリバンゲットしたぞ。ヤッター!

876 名前:投稿日: 2002/10/24(木) 23:31
え? 独歩さんと波木井坊竜尊さんを、混同するヤツがいるの?
両人を混同するなんて、シロウトなんてのは、はるかに超えて、頭破七分、悩乱しとるね。天然記念物級のバ○だね。

877 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/28(月) 12:35

98419 ゲットしました。

878 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/10/28(月) 13:19
波木井坊竜尊さんね。
ははは、独歩さんには会ったことがあるけど、比べるのも申し訳ないほどの方です。
波木井坊さんと独歩さんの書き込みを比べれば明らかだよ。
似てる要素全く無し。

879 名前: やーこ。 投稿日: 2002/10/28(月) 15:38
果たして誰が十万ゲットするのでしょうか。私ねらいまーす

880 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/29(火) 08:32

98629 ゲットしました。

881 名前: 三学無縁 投稿日: 2002/10/29(火) 18:28
98800ゲットしました。

882 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/30(水) 09:23

99022 ゲットしました。

883 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/31(木) 12:57

昨日、立正大学で開催された講演とシンポジウム『日蓮聖人―その行動と思想』でいちばん共感が持てたのは今成元昭師でした。

真跡から見る限り、日蓮が言う折伏は「折り伏せる」意味ではなくて、悪王、あるいは不信の衆生によって「折り伏せられる」難に逢うことであると言うのでした。
僧は不軽の如く摂受であり、反面、王などが折伏であるというわけです。

これは『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の「此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法」と矛盾しません。

不軽が折伏をなすとし、真偽未決書の如く、僧の折伏を論じることは真跡の記述に合わないと斥けていました。

殊に『開目抄』の

「無智悪人ノ国土充満ノ時ハ 摂受を前キトス、安楽行品ノ如シ 邪智謗法ノ者多キ時ハ 折伏ヲ前トス 常不軽品ノ如シ」

の「常不軽品ノ如シ」の一節が、添加であると点を指摘し、このような改竄によって論を構える愚を誡めていました。

こうなると「法華折伏・破権門理」も、法華経では不軽菩薩のように折り伏せられる難に逢うことによって、其の罪を畢え、権門の理が破すほどの意味になって、まったく違う解釈が広がります。

この点については小松法彰師は、かなり食いついていましたが、今成師の言に説得力を私は見ました。


また、先人の解釈を、無批判に受け入れる踏襲する愚を誡めるのに『兄弟(きょうてい)抄』の以下の一説を挙げて説明していました。

「心の師とはなるとも心を師とせざれとは、六波羅密経の文也」

この御書について、過去のいくつかの講義を挙げていました。

(1) 『涅槃経』云。願作心師不師於心。六波羅密経ニモ其ノ心アル歟(『兄弟抄私見聞』)
(2) 異本ニ六波羅密経ノ言無之。尤可為正。六度経(六波羅密経)ニハ其文ヲ不見(『録内啓蒙』)
(3) この文は六波羅密経になしといふ(『日蓮聖人遺文全集講義』)

と過去の講義では「心の師とはなるとも心を師とせざれ」が六波羅密経にないとしてきた事実を挙げていました。殊に著しい場合は真跡遺文そのものを書き換えてしまった例を挙げていました。

(4) 心の師とはなるとも心を師とせざれとは、涅槃経の文也(『日蓮聖人御遺文講義』)
しかし、『大乗理趣経六波羅密多経』巻第七 精進波羅密多品第八に

「常為心師不師於心」

の一説があることが知れたということでした。

「日蓮聖人像の正しい把握には、
 一、文献的に信憑性の高い遺文を典拠とすること。
 一、文学・語学的に精密な解読をすること。
 右の2点が必須の要件であることは言うまでもない。にも拘わらず、従来の遺文研究の中には、右の条件の欠落によって、日蓮聖人の実像を著しく歪曲しているという例を指摘することができる」(レジュメ)

という今成元昭師の姿勢は実に納得のいくものでした。

884 名前: やーこ。 投稿日: 2002/10/31(木) 20:10
ほんとのつぶやきです。

最近掲示板見ていて、どの質問がどのスレッドにあったっけ、誰かさんの回答はどこだっけ、って思うようになりました。

885 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/10/31(木) 22:22

99512 ゲットしました。

886 名前:投稿日: 2002/11/01(金) 03:24
http://www.sokei-net.com/bennri.htm#4
お守りご本尊ファンシージャケット、お守りご本尊マスコットホルダー
八葉紋額
ネーム入り念珠

こんなもの、あったんか……。

887 名前: いちりん 投稿日: 2002/11/01(金) 11:41
そのサイトを見ましたら、こおんなものもあるんですね。
---------------------------------------
御守御本尊マスコットホルダ-
かわいいぬいぐるみが、あなたの大切な御守御本尊様をやさしく抱きかかえてくれます。
御守御本尊様での新入会の方にぴったり、ご入信の御祝にもどうぞ。

御守御本尊キャリアケ-ス
旅行や長期出張、又御守御本尊様での新入会の方に最適、オリタタミ式でコンパクト、
ケ-スのまま収納できます。
勤行、唱題時は御本尊様のスタンドに早代わり、布製袋付。

888 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/01(金) 12:00

> 886〜887

こういう感覚をいまの学会員は受け入れられるのですかね。
私にはまったく理解できません。

889 名前: いちりん 投稿日: 2002/11/01(金) 12:42
かつては、創価学会は、自分たちで勝手に、本尊を発行できませんでした。
ところが、誰に遠慮もなく、本尊を制作販売できるということになったわけですよね。
この一点が、崩れることによって、(自由になることによって)もう、限りなく、安易な道に流れていくんでしょうね。
そのうち、車の室内にぶら下げて、運転しながらお題目が唱えられる本尊セットとか。
財務という寄付金を多額におさめた人には、グレードアップした本尊が渡されるとか。
つまり、本尊が、「売上げに貢献する主力商品」ということになったりしてくるんじゃないかと。
「本尊雑乱」じゃなくて「本尊粗濫」と。「本尊の粗製濫造」。

890 名前: やーこ。 投稿日: 2002/11/01(金) 14:34
なんなんだこれは。
どうも粗末に扱っている、商品としか思えない。
そのうちありがたみもなくなっちゃうんじゃないかと。

891 名前: セブン 投稿日: 2002/11/01(金) 15:42
はじめまして。学会員のセブンと申します。
向学のため時々拝見しております。

> 886〜887

写真自体はじめて見ましたが
御守御本尊マスコットホルダ-は私にも理解できません・・・。
一体、何を考えているのでしょう???
これは学会員からもかなりの反発をくうのではないでしょうか?

御守御本尊キャリアケ-スは理解できなくはありませんが・・・。
宗門と別れる以前から御形木御本尊の御本尊収納ケースというものがありましたので
その御守御本尊版でしょうか。
私は個人的に無差別的な御守御本尊授与には反対の立場です。
親の反対や寮住まいなどの理由により仏壇を安置できない人など一部に限定されるべき
と思っています。

892 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/11/01(金) 17:19
独歩さん
私も理解は出来ないのですが
「御守御本尊マスコットホルダ-かわいいぬいぐるみが、あなたの大切な御守御本尊様をやさしく抱きかかえてくれます。」
このかわいいぬいぐるみって言うフレーズが、結構好きだな。何か無邪気だよね。

893 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/01(金) 17:53

> 892

いい顔の御影様を探している菊水護国さんらしからぬレスに、こっちまで笑ってしまいましたよ(笑)

894 名前:投稿日: 2002/11/02(土) 03:02
御守御本尊ファンシージャケットとかマスコットホルダーとか、明らかに年端のいかない女の子向けの商品ですよね。
親の承諾があれば、普通の御本尊を安置できるはずでしょう?
「親にバレないで入会できるわよ」なんて具合に御守御本尊で未成年者を勧誘しているのではないか?
そこの所を心配しております。

895 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/02(土) 09:30

> 明らかに年端のいかない女の子向けの商品

私は憶測するに、今回の携帯本尊というのは二つのターゲットがあったのだと思います。
一つは顕正会が高校生を中心に勧誘を成功させたので、創価学会も若年層勧誘に乗り出した。もう一つは簡素化した本尊で手っ取り早く5000円徴収という経済効果です。

前者は顕正会のパクリですが、後者は得意の経済戦略。両組織の相違が垣間見られます。

896 名前: セブン 投稿日: 2002/11/02(土) 11:13
あさん、犀角独歩さん、どうも。

>894〜895

若年層勧誘に乗り出すなどという話は聞きませんね。
顕正会の件もありますのでそんなことを考えることはないでしょう。
選挙のことまで考えれば成人が良いに決まってますから。
まぁ完全に女子部の「荘厳」よりも「カワイイ」を受け入れる層を狙ったものでしょうね。
女子部や婦人部のヤングミセスにはそういう人たちがいてもおかしくないですしね。

>親の承諾があれば、普通の御本尊を安置できるはず

これまでの人たちの感覚から言えばもちろんそう思われておかしくありませんが
実際はそうでもないですよ。
承諾云々よりも住宅事情、生活事情、体面他の理由でしょう。
例えば、私の知り合いの女の子は短大の寮に入ってましたが、4畳半に2人住まいで二段ベットに
机二つ置けば残されるスペースに御厨子とは言え設置するスペースは無く、退寮しないと御本尊が置けない
状況がありました。もちろん親はバリバリの幹部で、本人が安置したくてもです。
また学生や社会人になっても、都会では家賃が高いため友人同居や兄弟同居というのは珍しくありません。
一人暮らしであっても2世3世の若い世代やその世代に折伏を受ける今の若い人たちは、
学会や信仰することは良くても、仏壇に違和感を感じる人が少なくないと聞きます。
彼氏や彼女、友人への体面・・・。
そんなものに気兼ねして仏壇を安置しない感覚がもはや私などとは違いすぎますが、それが現実なのでしょう・・・。

あと3000円や5000円で経済効果があるかどうかは知りませんが、御形木御本尊にして御厨子を
きちんと置けばそんな金額では済まないでしょう。御厨子、御厨子の下に置く台・・・
少なくとも2〜3万円はかかると思います。
私が18歳で顕師の御形木御本尊をお寺で下付していただいた時は確か自分のバイトしたお金でお寺に
1万円ご供養したのを憶えています。
まぁ当時は親から「お寺に行ったら御供養するのは当たり前」と教わっていましたから、高校生の頃から
バイト代やお年玉から年末年始はそのくらい御供養するのは当たり前の感覚でしたけど・・・。

897 名前: いちりん 投稿日: 2002/11/02(土) 11:17
創価学会という組織内の「評価」は、「がんばっているな」「よくやっているな」という抽象的なことにはありませんよね。
やはり「成果主義」でありましょう。
それは「折伏の数」「会合の出席者の数」ですね。選挙でいえば「勝つ」ことですし。「何票取ってきたか」ですね。
とくに、もっとも大切なのは「本尊流布の数」。「何世帯折伏をしたのか」ということは「何体の本尊を流布したのか」ということですね。
それで、組織を上げて、今月は、何世帯の折伏=本尊流布をしろ、ということになるんでしょう。

折伏といっても、「入信します」と決意させることはできても、「本尊流布」というのは、なかなか難しい。
曼荼羅を渡すだけじゃだめで、「仏壇」を用意させて、そこに「本尊送り」をしなくちゃいけない。
だから、「入信します」と決意しても、いざ本尊を安置するとなると躊躇する人はも、かなりいますよね。

ところが、お守り本尊という形態は、そのあたりはかなり容易になりそうですね。
「いいかにらいいから、このお守りを持っていろよ」「仏壇を置かなくても、これを持っていればいいんだからさあ」
……という感じで、「本尊流布」がかなりラクになったのではないかと思います。

で、ラクになった分、それは「安易になった」わけで、ポケットに入れておいて忘れて洗濯機にかけてしまったとか、ハンバーガー食べたときにマックに忘れた、無くしてしまった、、などということになりますよね。

家に本尊が安置してある学会員でも、形態本尊というのは、ほしいと思うことでしょうね。旅行の時に、勤行できるし、なによりいつも本尊を携えているのは、ありがたいということに。

898 名前: セブン 投稿日: 2002/11/02(土) 11:45
いちりんさん、どうも。

携帯と言いつつ、実際は持ち歩いている人は少ないのではないでしょうか。
私も先輩に聞いても家の仏壇に安置しているそうですから(笑)。
今のところは、それを持って折伏に出かける時ぐらいなのでは?とも思います。
ただいちりんさんのご指摘のようになるのは正直心配ですよね。普通の感覚ならば・・・。

旅行の時に勤行できる・・・だから欲しい・・って感覚はもう多分ないでしょう。
する人は東向いてやるでしょうし、しない人は「旅行の時ぐらい」ってやらない。
それが今の普通の学会員の感覚でしょう。
「勤行やらなきゃ罰が当たる」っていう昔あった強迫観念のような感覚はもうほとんどに無くなってきてます。
「勤行をやったらプラマイ0からプラスになる」ってなものでしょうか?
私は昔、風邪で3日寝込んで勤行できず合計29座の勤行をやったことがあります(笑)。今考えればアホですね。

>家に本尊が安置してある学会員でも、形態本尊というのは、ほしいと思うことでしょうね。

私はいりません(笑)。
私は中等部の頃「牧口先生は御本尊の前に座る時、羽織・袴すがただった」と聞いて一時、わざわざ学生服に着替えて
勤行してた時期があったほどでしたから。とてもとても気安くなれません(笑)。
実際に御形木以外に携帯本尊を持つのは男女青年部の一部の幹部と余程希望した人のようです。

899 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/02(土) 13:47

99961 ゲットしました。

900 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/11/02(土) 14:43
100000 ゲットじゃ。

901 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/11/02(土) 14:50
すごい。
29座の勤行って何時間かかりますか。
私なんて、五座ですら、寝坊したら休むのに。
もちろん、旅行先でも休むこと多いよ。
もっとも、御守があるから、旅先ではやりやすいね。
遥拝を続けてる顕正会って立派だな(爆)。

902 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/02(土) 15:27

セブンさん:

携帯本尊は若年層狙いである。
私のところには既にそのような被害報告が入っています。
あと、紹介者が代金(私の感覚からすればこんなものは代金以外の何ものでもありません)5000円を払って携帯本尊をくれた人が3人もいて困ったという報告。
いずれも10代から20代からの報告です。
この点については、今後、更に明らかになっていくでしょう

なお3000円と5000円に差は私は大きいと思います。
まず第一にあの安っぽいアクセサリーは原単価がラミネートものより安い上に高く売れるということがあるでしょう。

元来、印刷本尊の代金は寺院に入っていたものを学会が取れるようになった、さらに6割強の値上げです。

なお、厨子、ぬいぐるみのケースといったものは、学会の収入ではなくてグッズ屋の収入です。そのことを記したわけではありません。

いずれにしても携帯本尊…、本尊などと言う代物とは思いませんが、粗製濫造にして、さらに金儲けの道具とした以上の意味はなく、セブンさんのように、信仰レベルで語るものであると私は思いません。

もちろん、アクセサリーを拝もうがなにしようがそれは学会の勝手です。さらに低俗な信仰形態になっただけ、元会員としては恥ずかしい思いをすることが一つ増えたということではありますが。

903 名前: セブン 投稿日: 2002/11/02(土) 17:22
菊水護国さん、どうも。

>29座の勤行・・・
そりゃ大変でした(笑)。もっとも学生の時分でしたのでできたことでいまなら出来ません。
しかしうちのお袋はいまだに前の晩勤行できなければ朝8座します(笑)。

>遥拝を続けてる顕正会って立派だな(爆)。

確かに立派!(爆)。

904 名前: セブン 投稿日: 2002/11/02(土) 17:50
犀角独歩さん、どうもです。

>895 >顕正会が高校生を中心に勧誘を成功させたので、創価学会も若年層勧誘に乗り出した。
>902 >携帯本尊は若年層狙いである

まぁ第一に壮年・婦人部を含めた四者ではなく、男女青年部が勧めている話ときいてますから、
その相手も男女青年部の年代又は婦人部でもヤングミセスの年代では?と私は申しております。
これは確かに若年層でもありますけど、基本的には成人若しくは18歳以上だと私は思いますよ。
親の承認があれば新入会の高校生でも可能かもしれませんが、犀角独歩さんの報告には親未承認の
高校生以下の例はありましたでしょうか?

あと
>5000円を払って携帯本尊をくれた人が3人もいて困ったという報告。

とは、その方は携帯本尊を3体保持した、それで困った、という事ですか?
3件とも誓約書他入会カードをなどの書類をその3件とも記載し学会に提出したということでしょうか?

金額の件は了解です。私も先日「おかしいのでは?」と上の人に言いました。
御供養たるもの最低金額をつけるのはどうか?とも思います。
これは塔婆供養も同じくそう思います。

905 名前:投稿日: 2002/11/03(日) 00:28
セブンさん。一言だけ。
あちき、「御供養」という言葉にひっかかってます。誰に供養するんですか?
学会は在家の団体だし、会費を徴収してますから、それ以外にお金は要らないはずです。
御守御本尊の5000円は、正しくは「入会金」とか「寄付金」と言うべきだと思うんですけど。

犀角独歩さん。
あちきは、安易に入会させているのではないか、という所に注目したいと思います。
あちきが他掲示板で見つけた例は、本人に信心をする気が無いのに、御守をもらってしまった、という例です。
「御守をもらったが、これって、入会ということになるんですか?」という、あちきのような元・学会員から見ればトンチンカンな質問をしている人がいましたが、本人たちはこの程度の自覚なのです。
そして、もらった場所が、はっきりしないのです。
学会の会館で会員に取り囲まれて書類を書かされてしまって、後で御守を返そうとしたが、受け取ってもらえなかった人がいました。
ところが、「家に来い。そこで御守を渡す」と言われた人もいるのです。
必ずしも、学会の会館で渡す、という原則が守られていない疑いがあります。
「信心はしない」と宣言しているにもかかわらず、恋人から「持っていてほしい」と言われて、持たされた人もいます。
つまり、本人の意思にかかわらず、御守を持たせる、ということが既に決定していて、その御守は、学会の会館から自由に持ち出せる、という疑いがあります。
独歩さん、3人からもらってしまった人がいるそうですが、どういうことでしょうか。

906 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/03(日) 00:47

セブンさん:

私が若年層に乗り出したと書いたのは、顕正会のように、それまでの18歳以上の成人勧誘から、今後、高校生(15歳以上)へターゲットがスライドしていく序章が始まったという意味です。いま、現在、高校生を狙っていると書いたわけではありませんよ。

親未承認かどうかという点を問題にして私は記述していませんが、これはどのような趣旨の質問ですか。

なお、親の承諾と言うことについてですが、信教の自由に基づく入会は15歳以上であれば、法律的には親の承諾を必要としないということです。私はこの考えには反対ですが、現行法では、そのように判断されると言うことでした。知り合いの弁護士の言です。学会もたくさん弁護士がいるでしょう。そちらはそちらで確認してみてください。

> …3件とも記載し学会に提出したということでしょうか

持ってきた相手がどんな方法であるのかは知りませんが、実際に3つ集まってしまった被害者がいるという報告です。

印刷物の頒布、アクセサリーの販売、相手が若年層であれ、一般社会人であれ、どのみち、寛師漫荼羅の不敬には違いないことですが、他宗の血脈・歴代住職の漫荼羅を使う理由がわかりません。池田さんは漫荼羅を書く可能性は学会では取り沙汰されないのですか。漫荼羅の頒布はするけれど、他宗のものを使うことに学会員は不快感がないわけでしょうか。

塔婆料に限らず、御開扉料でも、広布基金でも、金額を決めることには、私も反対です。もっとも払う人間がいるから成り立つことですから、払う人間に対しても節操を持てといいたいわけです。

907 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/03(日) 00:56

あさん:

私もかなり安直に配布されているという印象を懐いています。
また、あさんも同様に感じていると思いますが、安直に配布すること以前に、こんなものを考えつく神経に問題があると思っています。

自団体の無信仰と、宗教ビジネスを公然と晒しているのは嗤うばかりです。

908 名前: セブン 投稿日: 2002/11/03(日) 01:30
あさん、どうも。
う〜ん。御供養というのは私自身の感覚の問題かもしれませんね。
御本尊下付の場合は宗門と別れる前でも「御供養」で、本来生涯で一度、二度のことでしょうから。個人的に違和感はありません。
立場が僧侶だったら、その言葉の使用OK、在家だったらNOとは思っていませんから・・・。
「身の供養」という言い方をする場合、私の感覚ではそれは「仏法のため」であり僧侶に対して為すことではないでしょう。
私の感覚では財の供養も同じです。但し確かに学会内部では「御供養」ではなく広布基金という名目が正式なのかもしれませんね。
私の場合は普通の学会員とはちょいと違うかもしれませんね。
宗教法人法上、何かまずいのでしょうか?
あとこれは嫌味でもなんでもなく、日蓮正宗では僧と俗云々と言っていますが、正直この時代にナンセンスだと思っています。
僧であれ在家であれ、立派な人は立派。ダメな人はダメ。立場や役割の違いはあれ、僧が妻帯して子供までつくり、寺族というものまである。
その寺族出身の僧が宗内で優遇されている現実は大聖人の仏法とは無縁のものではないでしょうか?
世界規模で見た場合、21世紀のこの現代さえ、世界には何十万人もの生涯独身を貫く僧侶がいます。
そういうことを貫き通せば確かに「出家」と呼べるでしょうけど・・・。

あと「会費を徴収」とは何でしょう?
私は会費名目では支払ったことがありません。
年末財務は「広布部員」という有資格者の有志のみでこれは強制ではありません。
未成年者などはなれません。ですから私が高校生の頃、御供養と言えばお寺が主体でした。
あさんは毎月「会費」などというものを払っていたのでしょうか?

あと、まぁ御守御本尊の他の掲示板での真意はわかりません。最初から悪意によるものもあるでしょうし、
真実のもの、事実ではあるものの書き込みや説明不足で真実とも言えないものもあるかもしれません。
私が知っているもので、原則会館で渡されるものが病院で渡されたものは知っていますが、恋人が云々というのは
「持ってほしい」と言われるのはわかりますが何の書類も書かずにいきなり渡されるというのは理解不能です。
悪意とも思えますし、半同姓同然のカップルがそこに泊まる機会が多いため(御本尊の大切さをよくわかってない人が)
「(自分の御本尊を)この部屋で預かっててほしい」という意ならありうるかもしれません。私なら例え恋人であっても預けませんが。
いずれにしても私は安易な御守御本尊の下付は反対の立場です。

909 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/03(日) 01:49

> 寺族出身の僧が宗内で優遇されている現実は大聖人の仏法とは無縁

これはまったくそのとおりでしょうね。
ただし、昭和52年度路線の時、池田さんは学会幹部は出世間の誉れ、学会幹部は現代の僧と公言したわけです。その現在の僧が妻帯しているのは一体どういうことでしょうか。

同様に池田カネさんや、息子さんが優遇されるのも、日蓮の教えとは無縁でしょう。

セブンさんは池田さんとその家族をしっかりと批判していると取っていいのでしょうか。

910 名前: セブン 投稿日: 2002/11/03(日) 02:06
>親未承認かどうかという点を問題にして私は記述していませんが、これはどのような趣旨の質問ですか。

これは顕正会が親未承認の高校生を入会させていることと、学会は未成年者は親承認が原則のためでしたが・・・・
(これがあったために私の先輩は大学1年の時、親の承諾を得ようとかえって勘当状態になりました。)

>なお、親の承諾と言うことについてですが、信教の自由に基づく入会は15歳以上であれば、法律的には親の承諾を必要としないということです。

これは知りませんでした。学会員の99.9%が知らないでしょう。勉強になります。

3つの件は学会が知ればかなり問題になるのではないでしょうか?

但し、御守御本尊の下付は、ご主人や家族の反対、表立って学会員とは知られたくなく、一人の信仰者として余り他の人に知られず受持したいなどの
要望に応じて授与をハデハデしくしないこともあるそうで、御守御本尊に関心を持って、集めることを目的に極秘に集めれば3つ集めることも不可能ではないかもしれません。
いずれ発覚する可能性は高いでしょうけど。自分から言わない限りかなりそれまでに時間はかかるかもしれません。
話では御形木御本尊の授与が地域を中心としたヨコ線の授与に対し,御守御本尊は昔のタテ線のような紹介者が最も太いパイプとなる(当初、地域に深く知られない)授与のようなものが可能とも聞きます。
でもその辺が問題が起きている原因のようにも感じますね。

911 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/03(日) 02:40

> 910

いや、そんなことがどうでもいいですが、池田さんにはどう思っているわけですか?

912 名前: セブン 投稿日: 2002/11/03(日) 02:49
現代の僧というのは在家の生活を前提にしての言い方でしょう。
僧よりも在家の方がむしろ弘教を先頭に立ってやっている、坊さんは俗と同じく妻帯している。
その意義において「現代の僧」のようなものだ。というようなもので、だからそこに差別はないというのが言いたかった訳でしょうから。
52年路線当事はともかくも、今では僧も俗もないですよ。私はどっちでもいい。在家で全然構いません。家族がいますから。「ただ無条件に僧が偉い」それはナンセンスだよ、ってことです。
でも在家でも最近は生涯独身も多いみたいですよ(笑)。意外と日蓮正宗の僧より多いのではないでしょうか?

カネさんは奥様であり、カネさんから別に私たちは指導を受けている訳ではないです。一緒にご苦労はされていると思います。
ただ息子さんが会長職に無条件になるとなるとやはり反発はあるでしょうね。
谷川さんとか他の方が将来会長になったとしたら、その時はその方を「先生」ともしかしたら呼べるようになるかもしれませんが息子さんならないでしょう。
末端では息子さんは、表彰などの際の代理・名代という立場しか顔がみえてきません。世界の舞台なら○○.Jrの方が他の人より良い場合もあるでしょうから
それを優遇とは私は思いません。むしろプレッシャーの方が大きいのでは?私ならイヤですね。
ですから今のところ息子さんは二百数十人の副会長の一人という認識程度です。
指導も受けたことがないですから何とも言い様がないでしょう。
池田名誉会長の息子さんのみならず、秋谷会長はじめ多くの副会長、学会幹部の息子さんもまた幹部の場合があるでしょうけど、
それはそれ、これはこれ、ではないでしょうか?
秋谷会長の息子さんは私たちの学生部時代の先輩で秋谷B之介と称されていました。
また、私はある複数の副会長さんのお子さんがほぼ同期にいましたが、優遇どころか「出来て当たり前」で苦労されていました。
役職が優遇などとも思いませんしね。但し誰であれ能力無く威張りちらしたり権威権力をカサにきるなら言語道断。いつでもどこでも批判しますよ。
それが例え池田名誉会長の身内の方でもね。

913 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/03(日) 08:02

僧も俗もないのならば、僧が妻帯しようが大した問題ではないでしょう。
指導を受けたことがないから言いようがないのであれば僧侶に対しても同じではないですか。

200数十にいる副会長の一人だから優遇じゃない?、冗談でしょう。800万世帯の中の200名だったら充分に優遇でしょう。だいたい、息子にどんな実績があるわけですか。副会長にはどのような理由でなったのでしょうか。私は知らないので教えてください。

自分のいる団体については、こんな大甘の味方をして、石山ばかりに辛いことをいうようでは、説得性はない。学会員に見られる「先生ご家族」特別扱いが骨の髄まで身に染みていながら、当人はまったく気づけないというよくあるケースです。

石山の坊さんの分析より、自分の所属団体の非をまず考えるべきでしょう。

> いつでもどこでも批判しますよ。それが例え池田名誉会長の身内の方でも

池田さん自身の問題点はどうですか。
ここで、どうぞたっぷり批判してみてください。
それとも池田さんも家族も批判するところはありませんか。

914 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/03(日) 10:49

> 役職が優遇などとも思いません

ということですが、この点について、私は大いに異論があります。
実績があって、役に着くのであれば優遇とは言わないでしょうが、単に名誉さんや、会長その他の息子であるからといって特別扱いされれば、それは優遇以外の何物でもないでしょう。

あと、学会幹部は無償ではなく、れっきとした職業なのですから、その地位を親の七光りで手に入れたり、優遇されれば批判の対象になるのは当然でしょう。

以前に出回った『地涌』35号(いわゆる裏地涌)では

「四谷税務署の公示で、創価学会秋谷会長の月収が判明した。月収460万円!副会長クラス200万〜400万円」

納税額では

会 長・秋谷 1842万1000円
副会長・八尋 1761万6000円
理事長・森田 1387万6000円
副会長・上田 1301万4000円
副会長・青木 1024万1000円」

となっています。10年前の古い資料ですが、貰っていたのは事実でしょう。
いまも大差はないわけでしょう。
要するに、こんな高額給与を幹部の子どもであるというだけで、地位と金銭を受けることに問題はないのかということです。

4000億円を毎年、集めて、幹部は高給取り。広宣流布のために財務(供養??)が、幹部の高給のために使われている様を、無批判に受け入れる学会員を、私は心底哀れに思うわけです。

915 名前: 菊水護国 投稿日: 2002/11/03(日) 11:19
セブンさん。
現在は恋愛結婚が多い時代です。
すると、中々結婚にあぶれる(笑)在家は多い。
しかし、僧侶は僧侶一族のお見合いが多いから、結婚率が多いんです。
さて、現今の僧侶の妻帯は、奥使い制度の変形なのです。
もし、妻帯制度をやめるなら、同時に奥使い制度を復活させるしかありません。
奥使いは僧侶が法の執行官であるのに対し、それ以外の寺院の裏仕事を行う召使です。
ところが、現在では人権上問題があります。

さて、問題は妻帯は血類上の閥を生み出す弊害です。
ところが昔は、現在の「一族閥」の代わりに「一門閥」がありました。
一門から僧侶が出ると、その後ろ盾が後見となって、後押しをするのです。
大聖人自体が、高家の後ろ盾で、出家し、その強権の中で布教をしたのは事実でしょう。
日寛上人を譜代大名「酒井家」が後見となったのも事実です。
また、代によっては、皇室の後ろ盾もありました。
現代はこのような、絶対身分的後見制度が無いだけマシだと思います。

予断ですが大聖人は妻帯はしませんでしたが、富木常忍屋敷に滞在のおり、どのような接待を受けていたでしょうか。時代背景を考えると面白いです。

916 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/03(日) 16:33

> 身分的後見制度が無いだけマシ

ほお。菊水護国さんの言葉とも思えません。
まあ、私はこの意見には賛成ですが。

917 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/03(日) 21:30

セブンさん:

問題を整理してもう一度記しますが、私は学会のアクセサリー化した本尊(携帯本尊)の“販売の節度”を論じているのではありません。

それ以前を問題にしているのです。さらりと流されて、答えて貰えませんでしたが、他宗の歴代貫首の漫荼羅を縮小印刷して本尊とするのはおかしいと言っているのです。

学会と石山は無縁の団体です。何故、石山の漫荼羅を使うのか、それはおかしなことではないのかと尋ねているわけです。

むしろ、そんなことをするのであれば、池田さんが書いた漫荼羅を本尊とすべきではないのかと問うているのです。この点の答えをお聞かせください。

918 名前: セブン 投稿日: 2002/11/04(月) 01:31
犀角独歩さん、菊水護国さん

セブンです。今日(正確にはもう昨日ですが)は終日仕事で今帰ってきました。
明日も状況次第でスケジュールが変動しますので、明日か明後日までお待ちください。宜しくお願いします。
どうぞ宜しくお願いします。

犀角独歩さん、一つだけ。
「学会と石山は無縁の団体です。」とありますが、学会は富士門流とは縁もゆかりもないと???

919 名前: セブン 投稿日: 2002/11/04(月) 01:37
打ち合わせ・会議の後に飲み会へ行って思考能力があまりないのをお詫びします。

すみませんが、菊水護国さんへも一つだけ。

>大聖人は妻帯はしませんでしたが、富木常忍屋敷に滞在のおり、どのような接待を受けていたでしょうか。時代背景を考えると面白いです。

についてお教えいただければ幸いです。

920 名前: さかなこ 投稿日: 2002/11/04(月) 04:08
>すると、中々結婚にあぶれる(笑)在家は多い。

めちゃめちゃ余談なのですが、、、大手結婚相談所には創価の会員リストファイルが
あります。。(笑)
以前行ったときに創価なんですけど。。。と相談したら教えてくれました。

高額な会費と強引な勧誘が嫌で結局、相談所に行かないで自分で探しちゃいましたが。。(笑)
結婚こそ幸せとか思わないのですが結婚願望があるのに創価を理由に上手く行かない人が
周囲に多いのでそういう話を聞くと胸が痛いです。私自身、創価であると言う事がネックで
恋愛や結婚に臆病でいたのでそんな人がいると悲しいですね。
心が創価から離れたら自然に、願った以上の彼氏さんが出来てしかもお家が代々日蓮宗の檀家で、、、
学会離れた功徳だと思いました。。(笑)女子部の会合で体験発表ができますね(笑)
ずっと昔に創価系の掲示板でメルトモ募集をしたとき男子部の方で絶対配偶者には
女子部と決めてますなんて人から来て大変だなあ。。なんて思ったこともありました。
変わった方だったのですぐにメール交換フェードアウトしちゃいましたけど。。ね。

>大聖人は妻帯はしませんでしたが、富木常忍屋敷に滞在のおり、どのような接待を受けていたでしょうか。
時代背景を考えると面白いです。

あ、私も気になります。お稚児さんかな。。。汗

921 名前: 顕正居士 投稿日: 2002/11/04(月) 06:08
さかなこさん。はじめまして。

>大手結婚相談所には創価の会員リストファイルがあります。

創価学会員同士のお見合いをプロデュースする会社はありますね。たとえば。
http://www.goseikon.com/

坊さんや神主が世襲になるのは、基本はなりてがないからで、今は議員や
医者もそうですね。創価学会の専従者も同じでしょう。専従者の子女でないと
ちょっとならないでしょう。転職は困難そうですから。

922 名前: さかなこ 投稿日: 2002/11/04(月) 15:06
世襲って考えてみると悲しいですよね。。本人がそれでよければよいのですが。

女子部時代に一緒に活動した仲間の中に公明党の地方議員さんの娘さんがいます。
彼女は創価大学までずっと創価教育で過ごし、卒業後は本部職員をやってます。
一緒に18歳の頃一緒に平の女子部をやってましたが気がつくと彼女は区の幹部
でした(笑)
彼女自身はとてもおもしろくて異彩を放ってたのですが組織の中では組織に従順
なのでそういう意味では外に出て活躍してほしかったです。。

創価の会員に的を絞った企画を出してる相談所もあるのですね。。(笑)
宗教って結婚には重大事項ですしね。。相談所で上手くいけば
それはそれでよいことなのですが外部の人と恋愛や結婚をしてただでさえ
問題ごとの多い恋愛や結婚に(笑)余計な悩みを増やしてしまう人達は本当に大変だと思います。
創価自体は別に配偶者や恋人を入会させるのを全面的に押し出してるわけでも
ないのですが活動家の中では恋人や配偶者を入会させるのはステータスというか
当たり前というか上からもプレッシャーをかけられるし。。でもあるので問題は
なくなることはないでしょうね。

923 名前: さかなこ 投稿日: 2002/11/04(月) 15:08
顕正居士さん>

ご挨拶遅れてすみません。学会3世会員のさかなこです。
ずっと昔からお名前やレスやHPは拝見させて頂いてます。
なのでちょっと緊張です(>_<)(>_<)

924 名前: SGI 投稿日: 2002/11/04(月) 15:54
子女の世襲に関連して、あるデータをご紹介します。ご参考までに。

1)法人税
 創価学会の法人税の申告所得額は、143億2千万円(02年7月、国税庁公示)。
 これは、全国270万法人(会社や病院、団体等)中、第214位の堂々たるランキング。
 ちなみに昨年は326位で、毎年確実に100億円以上の所得を申告している。

 所得とは、益金(収入)−損金(支出)であるが、宗教法人の場合、ご存知のように原則非課税で、限定列挙された収益事業のみ課税対象となる。主な課税収益事業は、物品販売、不動産販売・貸付、駐車場業、出版業など。
 したがって、学会の申告所得額は、出版業と墓石販売が大半を占め、いわゆる財務等による収入は全てカヤの外。もし、毎年4000億円前後といわれる財務等による収入を含めると、トヨタ自動車に次いで全国第2位になる。
 〈参考〉順位  社名    所得   順位  社名     所得  
     1 トヨタ自動車 9372億円  150 中国電力    211億円
     2 NTTドコモ 4100    200 トヨタ車体   159
     3 東京電力   3650    215 大和ハウス   143    
     4 日本生命   3104    217 サントリー   142    
     5 本田技研   2792    220 小田急電鉄   141 
     11 JR東日本  1972    251 オートバックス 121
     16 任天堂    1500    300 新菱冷熱工業  103
     21 日本IBM  1252    350 持田製薬    90
     51 日動火災    584    400 第四銀行    82
     100 住友海上    316    499 キッコーマン  65
 〈参考〉新聞社・出版社関係
     順位  社名    所得   順位  社名     所得
     116 朝日新聞社   268億円  429 新日本法規出版 77億円
     122 読売新聞社   262    475 大阪読売新聞社 68
     128 日本経済新聞社 241    520 小学館     63
     159 ベネッセ    201    616 日経bb    53
     415 中日新聞社   79    685 北海道新聞社  48
  ちなみに宗教法人で、学会に次ぐのは、明治神宮(2215位・15億円)。

925 名前: SGI 投稿日: 2002/11/04(月) 15:55
2)所得税
 上記の法人税でお判りのように、学会は限定課税にもかかわらず上場会社と伍している。
 そこで秋谷会長以下、責任役員や副会長、総務らがそれ相応の報酬を得ることは、常識に従って何らおかしいことではないと捉えており、相当の高額報酬を受け取ることになる。
 例えば、
 (会長)秋谷 栄之助          (副会長)上田 雅一        
  平成5年度 5580万円(納税額1842万円) 平成5年度 4235万円(納税額1304万円) 
    6年度 5500万円(納税額1810万円)   6年度 3587万円(納税額1045万円)
 (理事長)森田 一哉          (副会長)青木 亨
  平成5年度 4442万円(納税額1387万円) 平成6年度 3635万円(納税額1024万円)
    6年度 4850万円(納税額1550万円)
 (副会長)八尋 頼雄
  平成5年度 5377万円(納税額1761万円)
    6年度 3812万円(納税額1135万円)
 
 本部職員も、決して給与は低くない。
 基本的には国家公務員給与に準じ人事院勧告に基づいてベアのアップがされてきた。バブルの頃は、銀行や証券会社の給料より目減りしていたので、職員の中ではぼやきもあったが、今はない。
 このご時世に家族4〜5人で配偶者を専業主婦のまま学会活動に専念できるだけの給料があり、金額的にも、30代半ばで4000万円台の一戸建てを無理なくローンを組め、40代後半で2人の子女を私立大学(創価大)に通わせることができる程度の給与はある。

 高級幹部や公明党議員の子女の学会及び関連会社への就職が目立つ。
 創価大の場合、バックに学会がついているため銀行やゼネコンなど上場会社に、いわゆる創価大枠があり、他大学に比して就職状況は良好だ。就職に強い大学でもある。
 しかしそれでも高級幹部らの子女は、他の学生に遠慮するのか、それとも会社側が嫌煙するのか、上場会社への就職はあまりなく(特に男子の場合)、学会及び関連企業・団体への就職が目立つ。
 うがった見方をすれば、一般企業と違って学会には業績評価は実質的にはないわけで、幹部職員であれば「おいしい生活」は保障される。親の人情としても、学会および関連会社への就職を望むし、また閉鎖的であればあるほど「おいしい生活」を会員に知られずに済む。だから、幹部ポストが高級幹部らの世襲になっていくのは当然であろう。
 
3)固定資産税
 宗教法人は、所有する宗教施設に固定資産税は課せられない。専ら宗教活動に使用するならば、土地建物等は非課税なのだ。そこで今、選挙活動に会館等を使用していることについて、固定資産税の非課税規定の適用をめぐり裁判が行われている。先日、原田稔・副理事長が反対尋問で出廷した。
 この裁判を報じた「週刊実話」によれば、学会が東京都内で有する会館は150会館で、うち75ヶ所が新宿区内にあるという。これら学会の施設に固定資産税が課税されると、なんと
税収は、北海道の法人事業税収入と匹敵するとの試算が出ていた。

926 名前: 顕正居士 投稿日: 2002/11/04(月) 16:53
SGIさん。「コピペ」者が2ちゃんで追放されたからと云って、ましてよそで通用
するわけないよ。

927 名前: やーこ。 投稿日: 2002/11/04(月) 18:43
有益な情報ならばコピペでもいいんじゃないんですか?
ただ、出典は書くべきですけど。
大学でレポート書くときよく言われることですけど。

928 名前: SGI 投稿日: 2002/11/04(月) 21:00
所得・納税額の原資料は、もともと国税の公示情報。
法人ランキングは「日経ビジネス」(02.8.26号)。
学会役員の納税額は、公示情報によるもので、自由の砦HPより。
固定資産税関係は「週刊実話」の記事から。
その他は、すべて私自身の経験等に基づくもの。

929 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/05(火) 18:19

101015 ゲットしました。

930 名前: やーこ。 投稿日: 2002/11/08(金) 06:57
100000踏んだ菊水護国さんに記念品を。

931 名前: 管理者 投稿日: 2002/11/08(金) 07:45

102007 ゲットしました。

>100000踏んだ菊水護国さんに記念品を。

そうします。少し時間下さい。

932 名前: やーこ。 投稿日: 2002/11/08(金) 13:26
今おもしろいのを考えています。

レアアイテムアクセス十万突破記念ポケットティッシュ
今、材料のポケットティッシュを用意して作ろうと思ってます。
次のオフ会のときに披露します。

933 名前: やーこ。 投稿日: 2002/11/09(土) 10:27
こないだ、日テレプラス1の怒りのコーナーで、海老名パーキングエリアで捨てられたマナー違反のゴミの中に、
大石寺の慶祝弁当がテレビに映ってました。
恥ずかしい事です。

934 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/09(土) 15:22

102497 ゲットしました。

935 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/11(月) 19:22

103082 ゲットしました。

936 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/13(水) 16:49

103678 ゲットしました。

937 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/14(木) 17:02

104013 ゲットしました。

938 名前: イタル 投稿日: 2002/11/16(土) 00:24
104440だ。なんかうれしい。では<m(__)m>

939 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/16(土) 08:48

104514 ゲットしました。

940 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/18(月) 12:53

105004 ゲットしました

941 名前: みかん 投稿日: 2002/11/19(火) 11:50
今朝の聖教新聞によれば、昨日、18日付で
創価学会版「妙法蓮華経 並開閉」を発刊したとのこと。
定本は日蓮所持の「註法華経」。原文と訓読が併記されているとのこと。
「註法華」を定本にしている点が売り物であるらしい。
2000円。

942 名前: みかん 投稿日: 2002/11/19(火) 13:50
訂正。
あ。「開結」の間違いですね。言うまでもなく。

943 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/19(火) 14:01

> 941

註法華経を出すのであれば、『就註法華經口傳』を一緒に出せばよいものを、御義口伝が註法華経に就いての口伝であることを隠す、学会らしい編集ですね、これは(笑)

944 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/19(火) 16:17

独歩さん

>註法華経を出すのであれば

註法華経を出したのではないようです。註法華経から、法華経だけを抜き出して、出版したようです。版権の問題とか、色々あって、そういう形を取ったのではないでしょうか。

945 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/19(火) 16:40

問答名人さん:

ご無沙汰していました。

> 註法華経から、法華経だけを抜き出して、出版した

註法華経から法華経を抜け出した?ということは、原文の法華経のみということでしょうか。

一般に流通している法華経と内容が違うとか、そのようなことがあるのでしょうか。
ちょっと意味がわからないですが、もう少しご解説願えますか。

947 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/19(火) 18:14

独歩さん

今日付けの聖教新聞の一面に次のように書かれています。

「同書は、日蓮大聖人が御生涯にわたって所持され、さまざまな注記を書き込まれた法華経、いわゆる『註法華経』として伝わるものを底本としている。鳩摩羅什訳の法華経の写本には、様々な系統・種類があるが、その中から大聖人が実際に使用されたものをもとに編纂・補訂した、歴史的な出版である。」

948 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/19(火) 18:45

問答名人さん:

有り難うございます。
これは意義ある出版といえますね。
就註法華経口伝との対象という点はさておいて、そのように思います、まあ、内容を見てみないとわかりませんが。

949 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/19(火) 19:53

948で、また、打ち間違えていました。

誤)就註法華経口伝との対象
正)就註法華経口伝との対照

950 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/19(火) 21:37

105500 ゲットしました。

951 名前: やーこ。 投稿日: 2002/11/20(水) 06:45
当掲示板とは関係ないレス、息抜きにどうぞ。

電車で寝ていたら、「キャサリンのお尻」と聞こえたので目を覚ますと、池尻大橋でした。
連日の早朝勤務ですごい眠いので当分ロムのみです。今里さん、後日レスします、すみません。

952 名前: みかん 投稿日: 2002/11/20(水) 15:24
またまた訂正
941の私の発言の「定本」は「底本」の誤りですね。お詫びして訂正します。

今日信濃町で、「妙法蓮華経」と「英文仏教辞典」を買いましたが、
まだ内容チェックしてません。聖教の本は安いのが魅力ですね。

953 名前: 歌右衛門 投稿日: 2002/11/20(水) 20:21
皆さんの今までのレスをみて、宗門が根本から間違っているのは、理解できたのですが
日蓮の書式のご本尊であれば、身延等、他の日蓮系で信仰してもいいのでしょうか?

954 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/20(水) 22:44

歌右衛門さん:

はじめまして。
信仰の如何は、各人の人権に基づく信教の自由です。
まあ、法律的な根拠を言ってはずれるかもしれません。
でも、これは本当に各人が選び取っていけばよいことであると私は思います。

ちなみに私はまるで抵抗はありません。
もっと言えば、漫荼羅が直ちに信仰対象であるとも思っていませんが。

955 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/20(水) 23:19

歌右衛門さん 曼陀羅にかなり拘っておられますね。

富士門流は、曼陀羅正意ですが、日蓮聖人は果たしてそうだったのでしょうか。かなり有名な事ですが、観心本尊抄のなかには、曼陀羅という言葉は一度も出てきません。日蓮聖人の示された信仰の対象は、法華経の肝心、妙法蓮華経の五字です。そして、それを妙法曼陀羅と読み替えてしまうのが、富士門、なかんずく大石寺門流でしょう。そんな読み替えはせずに、素直に、妙法蓮華経の五字と読めば、曼陀羅に拘る必要はなくなると思います。如何でしょう。

956 名前: やーこ。 投稿日: 2002/11/21(木) 18:15
高円宮様が意識不明危篤状態につき自粛致します。

957 名前: やーこ。 投稿日: 2002/11/21(木) 23:38
高円宮様が御逝去されました。47歳でした。

半旗をあげましょう。

958 名前: nb 投稿日: 2002/11/23(土) 07:46
久しぶりの書き込みです。

ここの掲示板最近あんまり見てなかったので、これから見るようにします。

それにしても、この掲示板スレッドごとに、新しい書き込みが上に行ったり下にいったりして、よほど落ち着いてみてないと話題の内容がわかりづらいと所がありますが、これから、ちょっと真面目に見ていこうと思います。

ちょくちょくとオフ会も開催されているようですね。私も機会があったら参加してみたいものです。
ここ数年かなり不景気で、なかなか金銭的余裕ができないので、なかなか参加できません。

東京方面にはちょくちょくと行っているのですが、来年あたりは是非とも参加してみたものです。

959 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/11/23(土) 08:37

> nbさん:


お久しぶりです。

たぶん、管理人さんからもご案内があると思いますが、1月5日に名古屋オフが予定されていますよ。
今までの御礼を述べたいこともあります。お会いしたいと思っております。

960 名前: 問答迷人 投稿日: 2002/11/23(土) 21:13

106610 ゲットしました。

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